5話 媛は朱金に舞いて、君よ因果を断て1
朱金の輝きが雨天に踊った。
青の炎に染まった眼光が、迫りくる鎧蜈蚣を見据え、桜色の唇が戦意を口遊む。
奇鳳院流精霊技、中伝――。
「――余熱烏!」
その瞬間、嗣穂の神気が炎と換わり、少女の身体を炎が舐めた。
鎧蜈蚣を迎え撃つ間合い総てが炎に染まり、焦熱の檻が蜈蚣をその内部に閉じ込める。
―――疑疫アァッッ
同じ火行である筈なのに、無視できない熱波に灼かれて鎧蜈蚣が絶叫を上げた。
鎧蜈蚣は知らなかった。否、原料となった万朶の知識が乏しかったことが、その敗因となったのか。
本来、火行とは陽気の極致に相当する。
その本質は、浄化。
如何なる汚濁も赦さない絶対の浄滅。それこそが、火行の在り様だ。
だが、鎧蜈蚣も然るものか。暴走する自身の精霊から漏れる火焔を盾に、多肢を動かして檻をこじ開けようと足掻いた。
浄化の炎と瘴気が喰い合い、毒液に濡れた牙を振り翳す蜈蚣の頭部が嗣穂へ迫る。
―――疑、戲、戲ィィッ。
後少し、後一歩。抜け出そうと藻掻くその鼻先に、ひたりと嗣穂は掌を圧し当てる。
顕神降ろしに染まる蒼炎の眼光が蜈蚣を射抜き、僅かばかりの呼気が少女の口から漏れた。
「ふ!」
――屠ッ。
然程に力も込められない体勢なのに、少女の掌に従って鎧蜈蚣の頭部が地面に減り込む。
見た目とは裏腹に威力は確かか、蜈蚣の頭部を起点に生じた衝撃の余剰が蜈蚣の巨躯を大きく波打たたせた。
――轟!
神気に煽られたか、黄金に染まった嗣穂の髪が華奢なだけの背中で踊る。
たった一合。それだけの後に、少女と蜈蚣は決着を迎えた。
「―――卑、非。お見事に御座います。
流石は奇鳳院。顕神降ろしも、能く練磨しているとみました。
――神柱までは、降ろす心算も御座いませんようで?」
「……あかさまが居られずとも、奇鳳院の神技は充分に其方を浄滅できますので!」
万朶の面が嗤う。顕神降ろしを知っている、聞き逃せないその響きに嗣穂は地面を蹴った。
踊るように宙を舞い、懐から取り出した匕首の精霊器を抜き放つ。
対する相手は微動だにせず、精霊器の切っ先は真っ直ぐに万朶面の額へと吸い込まれた。
――ガギ。
「!?」「不遜、ですなぁ」
鈍く衝撃が嗣穂の腕に返る。傷一つもつけられないままに吃驚を漏らし、振り薙ぐ男の腕に弾かれて、嗣穂は距離を取った。
腕に残る痺れを確かめ、相手の面に注視する。
充分に神気は籠めた。たかが木彫りの面如き、強化された精霊器なら貫くにも容易いはず。
現神降ろしの効果はただの身体強化に留まるが、原点となる顕神降ろしの効果は身体強化などではない。
本来ならば、自殺行為でしかない無手での精霊技行使。明白な質量差を覆して敵を地面に叩き落し、反動すら無為と帰す。
――顕神降ろしの本質とは、行使者の内面を神域とする技術だ。
個たる正者の内面は、一個の宇宙に等しいとされている。
その領域に於いてのみ、世界の法則は主たる者に絶対の優先権を与えるのだ。
ただ人としての内面を神域に昇華させて、一個人を神柱の領域まで至らせる。神柱を受け入れるほどの器を持っていないと、行使にすら耐えられない荒技である。
先刻の一撃を無傷で防ぐ。嗣穂の神域に耐えるだけの神域を、面が持っているという証左に他ならない。
それこそは、不壊の特性の原理。
――それを有するという事は、つまり、
「……神器。其方、何者か」
眦を眇めての問いかけ。男は面越しに、口元を三日月に刻んだ。
「俗世と斉しく名を捨てたため、名乗りはご容赦いただきたい。
――そうですなぁ、敢えて呼ばうならば……」
「……嗣穂さま、お下がりください!!」
何処か記憶に障るその台詞。思い出そうとする嗣穂は、脇から躍り出た武藤に思考が遮られた。
「武藤! 退きなさい!!」
「そうは参りません。
――陰陽師! 有りっ丈の水界符を用意しろ!!」
武藤の指示に、陰陽師たちが立ち上がる。
水干から伸びる指が複雑に印を組み、強靭な糸の結界を素早く編み上げた。
武藤が放つ苦無が、鎧蜈蚣と男を囲う。苦無から続く細い紐が黒い輝きを放ち、強靭な水気の檻が十重二十重と降り頻った。
「遠距離から結界を投擲する。
本来、至近で構築せねばならない結界を投げるとは、随分と器用に乱暴な真似をする。
……ですが少々、」
結界の構築は、簡易であっても一個の家を建てるようなものである。
それを投げるという事は、建てた家を土台ごとぶつけると同義。
確かに有効ではあろうが、家をぶつけるくらいならば建築資材をぶつけた方が早いし無駄がない。
呆れと称賛が入り混じり、男は抵抗も僅かなままに結界へと囚われた。
念入りに九字結界で覆い尽くされ、充分に安全を確保できたとみたか、陰陽師たちが周囲から間合いを詰める。
「ご無事ですか、嗣穂さま」「武藤、――」
後背から駆け寄る武藤に視線を向けず、前だけを見据えながら嗣穂は全力で退避の姿勢を取った。
体勢を充分に取ることもせず、少女の身体が武藤と入れ替わりに後方へと移る。
「退避しなさいっ!」「遅ぅございましたなぁっ!!」
呆気に取られる武藤の前後で、警告と嘲笑が交差した。
面で演じるが、本質はそのまま。それは、蜈蚣へと堕ちた万朶も男も変わらない。
万朶は火行だが、男は火行では無いのだ。
万朶面に覆い隠されていた瘴気が、結界内を蹂躙する。
結界の耐久限度を超えた瘴気が水気で編まれた結界を蝕み、容易く熔けて崩れる。
爆発するように瘴気が撒き散らされ、その奥から鎧蜈蚣の多肢が周囲の陰陽師たちを撥ね飛ばした。
「ぐうぅぅぅっ!?」
赤黒い瘴気に耐えながら前方を見据える武藤の視界に、自由を取り戻した鎧蜈蚣と男が悠然と歩み出る。
「結構、結構。いやはや、煽った甲斐が御座いました」
「貴っっ様ぁっ!!」
吼える武藤を一顧だにせず、男は蜈蚣と共に屋敷の屋根へと飛び移る。
降り頻る雨粒が視界を濡らす中、傲然と嗣穂たちを睥睨した。
「やはり、予定が少し早かった。身共はこれにて、失礼仕ります
追って来られるならば、急がれるが宜しいと進言させていただきましょう」
―――否、卑、卑ィィ。
耳に障る哄笑を残し、男は嗣穂へと慇懃に礼をする。
そのまま屋敷の向こうへと姿を隠した。
「追え!」
「止めなさい、先ずは部隊の再編制。
――動けるものは?」
「……誘い込まれた際に吹き飛ばされて、大半が瘴気に中てられています。
防人も、最初の交戦で同様に」
見た限りでは死者は出ていない。それが唯一の幸運か。
「衛士は?」
「華蓮の衛士は、大抵が守備隊の所属です。
警邏隊は……」
武藤の返答に、嗣穂は奥歯を噛み締めた。
警邏隊は市中の治安維持が主な任務である。当然、穢レと相対するよりかは遥かに安全であり、対穢レ戦の経験など皆無に等しい。
守備隊の総隊長を捕らえるのだ。情報の漏洩を危惧して、守備隊の応援を呼ばなかったことが裏目に出た。
「武藤は部隊の再編成に専念なさい。
気になる事があります」
あの男は、予定よりも少し早いと口にしていたのだ。
つまり、こうなる事は予定通りで、何かが予定では無かったという事。
朱華を降ろさなかったことは、早いか否かと関係はない。
ならば、相手が望んで、こちらに間に合わなかったものがあるはずだ。
「――武藤。準備に間に合わなかったものはある?」
「いえ、不備なく揃えましたが。
……ああ、守備隊の信用が確保できなかったので、応援を控えたくらいですか」
嗣穂の脳裏に、晶の姿が思い浮かぶ。
他愛ない。意味すら無いかもしれない直感だ。
だが半神半人たる彼女の直感は、予知とも云うべき鋭さを誇っている。
「それね」確信を以って、呟く。
「一足先に、私は守備隊の総本部へと向かいます。恐らく、奴の目標は守備隊よ」
そう言葉に残し、嗣穂は顕神降ろしの姿を維持したまま、総本部のある方向へと向けて住宅の屋根に飛び乗った。
蒸気自動車はあるが、道路は迂回する必要がある。一直線に目的地まで向かうなら、屋根の上を疾走った方が速いからだ。
「嗣穂さま!?」
「武藤は再編を終えた後に、守備隊本部へと向かうように。
あれは普通じゃない。正面からは勝ち目が無いわ!」
残した言葉は短く。追い縋ろうとする声も聞く事無く、少女は速さを増す雨足の中へと身体を躍らせた。
――――――――――――――――――――
守備隊本部の1階受付は、奇鳳院の通達を受けたことで驚天動地の混乱を迎えていた。
誰も彼もが少しでも詳細な情報を求めて、右往左往と行き交う。
その混乱を壁際で眺めていた弓削孤城は、脇から差し出された湯呑みを受け取り目線だけで礼を返した。
……所詮、他洲の出来事である。本音はと云えば、目の前にある湯呑みの中身の方が孤城の興味を掻き立ててくれる。
「――本部はあまり寄りたくないが、新物の煎茶を味わえることだけが魅力だな」
「第8守備隊では、千振の味が振る舞えるだろう?」
「……言い訳はさせてもらうが、あれを味わったことがあるのは屯所の連中だけだぞ。客に振る舞ったことは殆ど無い」
孤城と肩を並べて壁に背を預けた阿僧祇厳次は、相手からの指摘を決まり悪そうに誤魔化した。
殆ど無いと云うことは、数度は有ると云うことだろう。
味わっていないのは、その前に逃げ出したか叩き出されたか。
――何方にしても、碌な用件では無かったのだろう。
顰め面の厳次に苦笑だけを渡し、孤城は受付の混乱を一瞥した。
伯道洲の使者が眼前で暇に飽いているというのに、周囲は気にかける様子も無い。
否。余裕が欠片も残っていないのだろう。
怒号が飛び交っていないだけ、未だ状況は落ち着いている方なのかもしれない。
「随分な小物と思っていたが、万朶どのは随分と人望があったのだな」
「? ……ああ。いや、違う」
的外れな感心を浮かべた孤城に対し、口調も軽く厳次が手を振って返した。
「人望じゃ無くて、証拠を漁っている最中だ。
……万朶どのの後釜を狙って、派閥争いが表面化しているところさ」
「厳次は参加しないのか?
君は随分と人望があるようだったが」
自業自得だな。そう笑う厳次に、孤城は呆れたように視線を寄越した。
だが、呑気に笑う厳次は、軽く首を横に振る。
「派閥を作れ、と? ……第8の小僧共を預かっているだけで、俺は一杯一杯なんだ。
遠慮しておくよ」
「……その計算が出来ているならば、私は何も云わないでおくよ」
出世争いに興味を示さない厳次を羨ましそうに眇め見て、孤城は軽く肩を竦めた。
生まれたときから弓削の当主と定められており、陣楼院の伴侶として権力争いを眺めてきた己としても、思うところがあったのだ。
蚊帳の外の傍観者を気取った二人が、仲良く煎茶を口にする。
――と、
「……孤城どの」「うむ。瘴気だね」
打てば返す響きに、厳次は己の勘違いでは無いことを否応なく悟った。
足元から忍び寄るように、ゆっくりと瘴気がちらつき始めている。
常に携帯している陰陽計に視線を走らせると、気のせいでは片付かない段階まで瘴気濃度が上昇している事実に気がついた。
それも、上昇の仕方が急激すぎる。
明らかに誰かの意図が含まれていることに、厳次は気付いた。
だが周囲の混乱を見る限り、この異常に気付いたものはいない様子だ。
つまり、当てになるのも、厳次たちを於いて他に存在しないことになる。
「……全く。これが終わったら、本部の連中は鍛え直しだな」
「こちらからも進言させてもらうよ。
幾ら何でも、鈍りすぎだ」
「耳に痛いな。
……来るか」
肩身が狭くなる同意を受けて、厳次は精霊器にゆっくりと手を掛けた。
その刹那、何処からともなく穢獣の咆哮が耳に届き、電気式の照明が一気に落ちる。
一瞬で静まりかえった暗闇に、雨の音だけが忍ぶように残った。
――爆発。
噴き上がる瘴気の波濤が、職員たちの足元を浚う。
その隙を縫い赫怒に狂った鼠が走り込み、狗の群れが摺り抜けた。
思い出したかのように、それまでとは別種の喧噪が満ちて混乱が生まれる。
へたり込みかけた女性職員を目掛けて、大柄な狗がその喉笛を狙った。
「き、きゃあぁぁぁっ!!」
悲鳴を上げられただけでも大した物か。
牙が女性に届く寸前、精霊力を宿した太刀が狗の胴体を両断した。
「防人、刀を取って戦え!
前を護ると決めた本分、ここで果たすと示して見せろぉっ!!」
精霊力を炎と猛らせ、狗の血糊を振るい飛ばした厳次が大きく活を入れた。
響き渡る大音声に、書類を持っていた防人たちが我に返る。
漸くに刀を振るい始めた彼らを一瞥して、厳次も己の脇差を構え直す。
ここが分水嶺。混迷を極める状況は、未だ始まったばかりであった。
読んでいただきありがとうございます。
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