4話 不穏を食みて、生きどまる2
薄く夕闇の静寂だけが支配していた空間に、橙色電灯の光が満ちた。
硝子張りの本棚と樫材の机が、灯りを受けて仮漆の輝きを照り返す。
家人の気配が感じられない豪奢なだけの殺風景な書斎が、無言の照明に浮き上がった。
――と、
その部屋の主である老齢の男性が額に汗を滲ませながら、乱暴な足音と共に戻ってきた。
論国から取り寄せた格式の高い扉が抗議を軋み上げ、取る物も取り敢えずといった様子で机に駆け寄る。
「くそっ、奇鳳院め!
何故、今更になって儂の排除を決めたっ!?」
尽きない憤懣を口角の泡と飛ばし、万朶鹿之丞は虚飾を満たすためだけに購入した机の引き出しを乱雑にひっくり返した。
「――全くですなぁ。
当方の手抜かりは無かったと存じますが、何処で虎の尾を踏んだか。
……万朶さまに心当たりは御座いますか?」
「心当たりなぞあるか。奴らが拘っていた練兵からは、手を引くことを約したばかりだぞ!
洲議や周辺華族にも、充分に身銭を切った。理屈が通らんだろう」
万朶の本家、それも当主直々より絶縁の急報が舞い込んだのは、玄生確保のために呪符組合との折衝に奔走していた先刻の事である。
理由を訊こうにも、伝手のあった影働きや耳に聡い洲議連中からも距離を置かれてしまい、自身の安全を確保するべく必死に自宅へと戻ってきたのが現在であった。
とは云え、奇鳳院に咎められる危険を冒して身切りの連絡を寄越したのは、寧ろ、万朶定国からの僅かな慈悲でもあったのだろう。
「奇鳳院の傲慢は、今に始まったことでは無いでしょう。
――それで、如何なされるお心算で?」
「……最早、万朶本家に希望を繋げるのは、期待も出来んだろうな」
証券や貯め込んでいた隠し財産を机にばら撒きながら、万朶は辛うじて現実を認めた。
捲土重来を見据えるにも、相応の基盤と云うものが必要となる。
多くの場合はそこに財力が求められるが、万朶自身にそこまでの財貨は残っていない。
寒いだけの懐では、今後を望めるほども無いからだ。
万朶自身が進んでその身を差し出せば、隠居と引き換えの金子は用立ててくれるだろう。
しかし、これまで万朶家のために働いていた後ろ暗さまで明るみに出てしまえば、万朶定国からどんな報復を受けるか分かったものでもない。
畢竟、万朶に残された選択肢は、有りっ丈の金子を掻き集めて逐電する将来しかなかった。
――と、
「……っ」
不意に襲われる耳鳴りに、万朶は勢いよく立ち上がった。
鼓膜を揺らさない静かな音響に、不安を逆撫でられる。
「なんじゃ?」
「隔離の結界に御座いますなぁ。中心は恐らく、この屋敷。
――これは、逃げられませんなぁ」
焦る万朶に、のんびりと声が応じる。
「奇鳳院が!
貴様らの思い通りになって堪るかぁっ!!」
「おや、逃げられるので?」
「当然じゃ! 奇鳳院どもの気紛れに、破滅するまで付き合えんわっ。
――まて」
場違いな程に穏やかな囁きにそう応じて、万朶は違和感にそれまでの動きを止めた。
――儂は今、誰と話している……?
本家からの絶縁を受けてから今の今まで、万朶は独りで行動した記憶しかない。
……では、今も言葉を交わしている相手は、いったい誰だ?
何処までも自然な違和感が、自身を逆撫でることなく意識の外へと浚おうとする。
疑問までも薄れそうになる感覚を必死に繋ぎ止めながら、万朶は自身の書斎に置いてある長椅子の方に視線を追った。
電気式の灯明に強く照らし出され、それでも、その一角だけは茫洋とした薄暗がりに沈んでいる。
……何時から居たのか、その奥に座る誰かが万朶の視線を見返した。
「誰じゃ、貴様」
「―――卑。流石に此処まで認識の乖離を赦せば、如何に権能であっても誤魔化しは利かんようになるか」
「儂が問うておるっ! 答えよ、誰じゃあっ!!」
「恐や、怖や。誰じゃと訊かれてものう。
万朶さまも能くご存じであろう」
万朶から飛ぶ激しい誰何にも取り合わず、嘲弄の気配をたっぷりと含ませて何者かは肩を揺らす。
朧に影から滲み出るその姿恰好に、万朶は絶句を隠せなかった。
能く知っていた。当然だ。生まれた時からの付き合いだ。影から生まれたその相貌は、
「儂、じゃと……!??」
「然り、能く出来ておるじゃろう? お主の分には特に手間を掛けたからなぁ。
何しろ、上位精霊を宿しているのに実力はそれなり。現実に至らぬのに、分を弁えるを知らん。ここまで条件が揃った凡愚は、身共の記憶にもそうは居らんからの」
否。影から露わになるそれは、皺の一本まで精巧に彫られた木彫りの面であった。
ぬらりとした質感のそれが、無感動に万朶を見返す。
「些か惜しくはあるが、貴様はもう捨て時じゃ。
充分に遊ばせても貰うたしの。最後の華は、身共が手ずから上げて進ぜようさ」
「愚弄してくれるなよ、化生ォッ!!」
感情すら覆い隠す面の奥から嘲弄が漏れた瞬間、万朶の手から白刃の輝きが迸った。
引き抜かれた精霊器が炎を捲いて、机上の書類が火の粉に呑まれる。
「―――卑、否。無駄に足掻くな。
我が面の権能は三つ。模造、模擬、模倣である。
……故に、」
「ぐぅおっ」
万朶が精霊技を放つよりも速く、蠢く影がその身体を呑み込んだ。
身動きすら赦さない闇の向こうで、万朶の面を被った何者かが立ち上がる。
その手には何時の間にか、ヒト成らざる相貌を模した面が握られていた。
「人間としての用が無くなった貴様の最期には、化生の面こそが相応しかろうさ」
「……………………!!??」
抗弁すら返すことも無く。
闇の向こうから化生の面を押し付けられて、万朶の意識は呆気なく途切れて消えた。
「――さて。こうなると神柱に目を付けられてしまったな。
予定よりも数日早いが、百鬼夜行の予行演習と洒落込もうか」
面を被った何者かは、愉し気に呟きを残す。
主を失った書斎の中で、独白だけが寂しくその最後を彩った。
――――――――――――――――――――
同刻、夕刻から降り始めた小雨の中。万朶が居を構えるその一角を、警邏隊が遠巻きにして囲い込んでいた。
持ち主の虚栄を満たすかのような広い庭園に、数人の警邏が侵入する。
その後ろでは奇鳳院嗣穂が、指揮本陣に合流を果たしていた。
「――状況はどうなっていますか?」
「これは嗣穂さま。今、開始したところです」
その応えに首肯だけを返し、嗣穂は急拵えの天幕を見渡した。
嗣穂の姿を見止めた武藤元高が、席を立って出迎える。
「公安の武藤です。
態々、このような現場まで足を運ばれずとも、確保はお任せいただければ」
「小者一匹捕らえるにしては、嫌な予感がするのよ。
私を寄越すと云うなら、当主も同意見でしょう」
「分かりました。護衛は、」
「不要です。其方たちは、するべき事に集中なさい」
「……せめて、天幕からは出ないでください」
素っ気ない返答に、表情は覗かせないまま武藤は肩を竦めた。
門閥流派の頂点に立つ奇鳳院の次期当主。それが、武藤の眼前に立つ少女の正体である。
確かに、武藤の気遣いは無用の長物であろう。
とは云え、珠門洲における最重要人物の一人でもある。苦渋を浮かべる武藤に応諾を返し、厳しい視線を屋敷に向けた。
嗣穂の見える範囲に、家人の気配は一切が窺えない。
不気味に静まり返る屋敷へと向かう警邏隊の隊員が、庭から屋敷の外廊下へと足を踏み込み……、
「「うわぁぁっ!?」」
魂消る悲鳴と共に、その身体が宙に舞った。
泥濘だした地面で呻く隊員たちを余所に、大柄な足が屋敷の奥から地面に降りる。
「万朶……?」
「あれが?」
数日前に会った相手の姿をそこに認め、呆然とした声が嗣穂と武藤の口から漏れた。
筋肉の上から筋が張った異常な肉体に、蟲を模したものか随分と精巧に造られた木彫りの面。
明らかに正気を失っているだろうその所作に、嗣穂は疑いの声を上げた。
「薄黒いとは知っていたけれど、随分と酔狂なものを肚の裡に飼っていたようね。納得だわ」
「どう見ても、そういった範疇では収まりそうもありませんが」
「――これは、これは。嗣穂さまに御座いませんか」
戸惑いながらも言葉を交わす嗣穂たちを余所目に、屋敷の奥から更にもう一人が現れる。
その姿に、嗣穂と武藤は警戒を最大にまで引き上げた。
地面に素足を降ろすその姿は、記憶にないほど特徴が無い。
しかし、首から上だけは記憶に残る万朶の面相。
ともすれば体格を見失いそうになる違和感から、その場に居合わせた全員が万朶の頭部だけ浮遊しているような錯覚に陥った。
「何者か!」
「おや、嗣穂さま。先月もお目通りしたばかりではありませんか。
……もう、お忘れですか」
先に立った異形と比べるならば、後に降りたものの方が万朶本人に見える。
だが、その事実を理解して尚、嗣穂の視線は鋭さを増した。
「ええ、確かに万朶とは会いましたね。
ですが、それはお前では無い。お前と比べるならば、隣に立つものの方が余程に人がましい」
「―――卑、卑ィ。
これはしたり。やはり、三宮四院の目は欺けんか」
嗣穂の断言を受けて、目の前に立つそれは嘲弄に肩を揺らす。
俯いて一頻り笑いに耽った後、顔を上げたそこに万朶の姿は存在しなかった。
代わりに居たのは、精巧な人面を嵌めたもの。
「総員、警戒態勢! 防人以上は抜刀許可」
「人に見えるが、相手は穢レだ! 油断はするなぁっ」
剣林が連なり、切っ先が揃って万朶たちへと牙を剥く。
後方に控えていた陰陽師たちが一斉に九字を切り、格子に立ち上がる結界が隔離結界を補強した。
懐から苦無を引き抜いて、武藤が声を張り上げる。
「何者であろうと、この場の封鎖は万全に敷いてある。
逃げられんぞ、大人しく浄滅必定を受け入れろ!」
「大人しく浄滅とは、随分と無理難題を口にする。
衛士に成れなかった己を後目に、出来ぬことを要求するものでは無いぞ。
……陰陽師」
相手の返事を受けて、武藤の表情が歪んだ。
確かに武藤の精霊は、宿主に神使の位を授けた。
衛士としては長じる事のできない武藤が求めた方向性は、戦闘にも立てる陰陽師という立場。
だが、その事実を知る相手は限られている。
特に、公安という組織に身を置いたため、個人の情報は厳しく管理されているのだ。
目の前の相手は、事も無げにその事実を看破して除けた。
――つまり、
「気を付けろ。此奴め、記憶を覗くぞ!」
武藤の警戒に、全員の緊張が高まった。
だが、生まれてしまったその隙に、万朶の面をした男は蟲の面を嵌めた万朶の影に隠れる。
「――此れなるは、龍脈侵攻の折りに持ち込んだ鎧蜈蚣から彫り上げた面じゃ。
我が権能の妙技、とくとご覧じよ」
「ぐ、ふ、ぎ、疑散ッ!」
その宣言と同時に、百足の面から瘴気が噴き上がった。
万朶の身体を這い回る瘴気がその隅々までを侵蝕し、人間の身体が歪に泡立つ。
「真逆――!?」
「素晴らしい。鈍らに燻っていたとはいえ、やはり元は上位精霊よ。
上質の素体を選んでおいた甲斐があった!」
―――疑、戲邪ハハハハハッッ!!
瞠目する嗣穂の呟きと面の男の哄笑が交差。
渦巻く瘴気の狭間から黒く艶めく胴体が躍り出て、迷わず嗣穂へと迫った。
嗣穂との距離は刹那に溶けて、
――脇から躍り出た武藤の九字結界が、その一撃を防いで除ける。
拮抗は一瞬で崩れ、砕け散る結界。それでも最後の意地とばかりに、黒く蠢くその胴体を上方へと跳ね上げた。
衝撃で瘴気が散り去る。そこに現れたのは一匹の巨大な鎧蜈蚣であった。
「お下がりください、嗣穂さま!」
「気遣いは不要です。
……人間を穢レに変生させるなんて」
嗣穂の記憶にも無い、異質の能力。あれが市中で猛威を振るえば、都市機能が簡単に麻痺してしまう。
唯一の救いは、鍵となるのがあの面らしいという事だけか。
どれだけ面があるのかは判然としないが、物質に因る以上、枚数に限界があることは間違いが無い。
周囲も眺めるだけに過ごしていた訳ではない。
刃を閃かせて各々が交戦に入るが、振り撒かれる瘴気と振り翳される黄色の多肢に撥ね飛ばされた。
「鎧蜈蚣よりも強い!?」
「奴の言が真実ならば、元が上位精霊だからでしょうね。
油断は禁物ですが、面が原因である以上、恐らくは演じるもの以上の能力は基本的に発揮できないはずです」
鎧蜈蚣とは違う厄介さはあるが、上限も又、存在する。そう嗣穂は判断を下した。
「……鎧蜈蚣は水行でしたね」
疑う理由も無い。首肯を返す武藤は、懐から界符を引き抜く。
苦無の切っ先に界符を刺して、迷うことなく鎧蜈蚣との間合いを詰め、
暴れる化生の背中に飛び移り、振り上げた苦無を界符ごと突き立てた。
「火界符!」
叫ぶ界符の種類に、陰陽師たちが即座に印を組む。
立ち昇る木気が幾重にも鎧蜈蚣を覆い隠し、弾き飛ばされるように距離を取った武藤の剣指が火界符を励起させた。
――轟ォオッ。
木気を喰らい、火界符が撃符以上の火力を生む。
水克火の関係上、水気の鎧蜈蚣は火気に対して優位に立てるが、木気を喰らい威勢を得た火気ならば相克関係を越えて尚、蜈蚣を打破するに余りあるはずだ。
陰陽師に指示を出し、木界符を全て費やし木気の檻で鎧蜈蚣を封じ込める。
これで、鎧蜈蚣は身動きも取れなくなるはずだ。
「卑。連携は見事。
――しかし、忘れてはおらんか? 抑々、面とは演じるための道具であるぞ」
焦躁を欠片も滲ませない口調に、その場に居合わせた全員が硬直する。
その瞬間、炎を捲いた鎧蜈蚣の胴体が、木気を全て喰らって膨張した。
「……火行の鎧蜈蚣!」
「然り。判断を誤ったの、奇鳳院!!」
―――疑散ッ! 戲血ッ!
その身体を更に巨きく膨れ上げた蟲の胴体が、炎ごと結界を砕いて雨の中を立ち上がる。
遥か高所から見下ろす鎧蜈蚣の眼球が、嗣穂の視線と絡み合った。
――自分を貶めた、憎き奇鳳院。
自身がやらかした顛末を忘却の彼方に放り投げ、僅かな記憶が搔き立てる憎悪に従って赤黒い蜈蚣の頭部が牙を剥いた。
―――戲邪アァハハハハハッッ!!
憎悪と本能だけが残った万朶の牙が、嗣穂目掛けて一直線に迫り墜ちる。
表情の窺えない嗣穂へと抵抗も無く蜈蚣の牙は迫り、
「――願い給う」
金色に染まる長髪と戦意に燃える蒼い瞳が、墜ちてくる暴力に真っ向から迎え撃った。
轟音と共に炎が立ち昇る。
裕福な華族が居住する高級住宅地の一画で、瘴気に凝る悪意と朱金に輝く神気が、互いを喰らい尽くさんとばかりに削り合った。
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