閑話 騒めいて日常は、穏やかに咲けば
――その話題が天領学院を駆け巡ったのは、昼を越えた休み時間のことであった。
早朝の練武疲れに浮つく雰囲気の中、左府舎では男子たちの間には喧騒が飛び交う。
そんな仲間たちを余所に久我諒太は外を眺めていると、にやついた学友の一人が好奇の視線で覗き込んできた。
「聴いたぜ、久我殿。
何時の間に、婚儀を挙げたんだ?」
「……挙げて無ェよ。
誰だ、そんな出任せを広げてんのは」
「そこら中。
――如何にも確かな筋だと」
厄介な。乱雑に肩を叩く手を払い除け、諒太は視線を逸らす。
何処から漏れたか判らないが、随分と積極的に流されたようだ。
面白おかしい話題に飢えた年頃どもの手に掛かれば、燎原に落ちた野火の如く留まるところが見えてこない。
……この分では一日と経たずに、真実は原形すら止めていないだろう。
ともあれ、目の前の友人は疎か、噂を聞きつけたであろう周囲からも好奇の視線が向けられている事に気付いた。
朝から妙に視線が絡むとは思っていたのだが、その内容を知るに諒太の胃腑に苛立ちに似た感情が蟠った。
「婚約だよ、こ、ん、や、く。
華族なら珍しくも無いだろ」
「照れんなよ、相手は帶刀のご令嬢だろ?
壁樹洲では名家の一つだぜ、家格も精霊の位階も釣り合っている。
――何が不満だ?」
「その話題で盛り上がれんのは、右府舎の方だ。
中等部男子が話題にするのは、軟派も良い所だろうが」
嫌そうに口にする諒太に向けて、学友は揶揄いに笑いながら距離を取る。
一頻り、肩を震わせるだけの時間を過ごしてから、気遣いの視線を諒太に向けた。
「それで、どうなんだ?」
「……何が?」
「惚けるなよ。
――輪堂の御息女を射止めるのは諦めたのか、って訊いているんだ」
諒太自身は隠している心算だろうが、実のところ、周囲からすれば当人の態度は非常に分かり易い。
何しろ、他の男子が咲と話そうものなら、端から間に割って入ることなど茶飯事であったからだ。
――だがひと夏を過ぎた現在、その感情を指摘されても尚、諒太の眼差しに過ぎるのは、随分と穏やかな鬱屈でしかないことに学友は気付いた。
「…………さあな。
そんな恋慕も、在ったかもな」
「訳ありかよ。ま、あんまり気負うなよ。
直接、顔を合わせた訳じゃないが、結構な年上美人なんだろ? 許婚もいない俺としちゃあ、羨ましい限りだぜ」
慰めがてらだろうその台詞に、諒太は胸に溜まった空気ごと想いの残滓を吐き捨てた。
視線を明後日の方向に向けたまま壁に背を預けていると、雨月颯馬を筆頭とした國天洲の一団が廊下を通り過ぎていく。
久我諒太など取るにも足らずと見えるその横顔の影に、どうにも苛立ちが募った。
吐き捨てるように視線を逆へと逸らし、学友の思案気な面持ちに意識が向く。
「どうした?」
「いやな。このところ、國天洲の連中が随分と荒れているなと思ってね。
水気の龍脈に瘴気が混じっているって、昵懇の間柄だった壁樹洲と揉めているってさ」
「ああ。そう云えばそんな噂も聴いたな。
このところは落ち着きを見せているから、南部としても一安心だが」
「確かに龍脈はな。
……それでも収まらんのが政治だろ。現在、原因が雨月にあるかもって大騒ぎだ」
「は! 歴史が永いと腰を高くしていたら、足を掬われてたってか。
雨月の御曹司には、冷や水も良い薬だ」
「なに他人面してんだよ、久我の御曹司。お前だって無関係じゃないだろ、のんびり構えている暇なんてあるのか」
「さてね。大人たちの話し合い次第だろ。
……本当に、如何する心算なんだろうな」
諒太の本音は、口の中だけで溶けて消えた。
神無の御坐に関する僅かな知識。咲が晶の教導に入った理由。
諒太自身としても、説明されていることはそれほど多くないのだ。
久我法理は奇鳳院に言上奉ると息巻いていたが、華蓮で何があったのか今一つ話題が下りてこない。
嗣穂に状況を問い質そうにも、ほぼ入れ違いに華蓮へと向かってしまった。
唯一、理解できているのは、諒太の初恋は相手に伝えられる前に終わったという事だけ。
「本当に、どうなるんだろうな……」
誰に向けた訳でもない鬱屈の行方は、諒太の口の中で溶けて消える。
大きく吐かれた嘆息だけが、秋晴れの高天に踊って散った
――――――――――――――――――――
――同刻。
僅かな暇を慰めるために、咲が詩集に編まれた文字を追っていた時のことであった。
「ねぇねぇ。特ダネよ、特ダネ!!」
「……なに?」
綴られる風情の連なりを断たれ、姦しく割り込んできた学友へと胡乱気に視線を向ける。
目の前の少女の瞳が好奇に輝いているところを見止め、内心で嫌な予感に身構えた。
無類に噂話を好む彼女だが、耳にするその真偽は半々を越えてやや悪い。
――情報源として信頼するのは、無謀な賭けだからだ。
「久我諒太さまがご結婚されていたって!!」
「ああ、それ」
「あれ、驚かないの?」
事の真偽は二の次と言に断じる少女が、窺うように覗き込んだ。
実のところ、久我諒太が咲に対して思慕を寄せていたことは、右府舎でも知らぬは本人ばかりの常識でもある。
しかし、感情に揺れる事の無い咲の双眸に肩透かしを覚えたのか、残念そうに肩を落とした。
「会っているもの。帶刀埜乃香さんでしょ?」
「なぁんだ、残念。
てっきり、小説のような浪漫が聞けると思ったのに」
咲の前にある机に陣取り、つまらなそうに突っ伏した。
教師に見つかれば怒られそうなほどにだらしない格好だが、男女が分かれてしまえば実情はこんなものである。
「――あはは、無理無理。
咲は今、素敵な男性とお付き合いしているから」
「え! 本当に!?」
背中から掛けられた声に、噂好きの少女は瞳を輝かせて喰いつく。
突然に上げられた己の話題に咲が視線を上げると、名瀬の隣領を治める領主の一人娘である浅利澄子が立っていた。
一ヶ月前、武家の娘である澄子も、衛士研修で華蓮へと赴いていたことを思い出す。
大方、情報源はその辺りか。眉間に寄ろうとする皺を抑えるために、咲は額に指を当てた。
「…………澄子。身に覚えのない噂を立てないで」
「え~、今更に隠さなくても良いじゃない。研修の時に噂になっていたよ。
あの輪堂のお嬢さまが、男子相手に手取り足取りって」
「嘘ぉっ!!」
頬を押さえて面白がる学友に、閉じた小説の背を落とす。
痛くも無いだろうに頭を抱えて痛がるフリをする学友を余所目に、咲は抗議の矛先を澄子に向けた。
「防人の教導に入ったのは事実だけれども、二人が期待しているようなことは何もないわよ。浪漫を期待するのは、活動写真の中だけにしといて」
「え、格好いい男性って聞いたけど、
……違うの?」
「それは、…………まあ、別に関係ないじゃない」
反射で否定を抗弁しそうになるが、肩を並べて戦ったその横顔が記憶に過ぎる。
朱金に彩られ踊る刃と晶の決意。意識へと上らない感情に、自然と頬が熱りを帯びた。
辛うじて言葉でのみ誤魔化しに返す咲の様子に、揶揄い半分だった少女2人は視線を交わす。
「あれ、これって……」
「え、本気なの? 咲」
見た目と性格の良さ、加えて八家直系という看板を持つ輪堂咲は、その絶妙の高嶺振りゆえに学院でも最大数の人気を誇っている。
そんな少女に男っ気が生まれた。
話題半分の心算が図星を突いたことを知り、好奇心が友人たちの背中を押す。
「へえぇ、これはこれは」
「咲にも春が訪れたのねぇ。……お母さんは嬉しいよぅ」
「面白そうな話をしているじゃないか。
――僕も混ぜてくれないかな?」
少しでも浪漫の欠片を搾取せんと二人して詰め寄り、
――背中から掛けられた声に、三人揃って硬直した。
振り向く視線の先には、女性としては敬遠されるはずの短い髪と揶揄いに笑む相貌。
学院でも最優の一人と名高い少女が、片手を上げて立っていた。
「友人との語らいに水を差して悪いね」
「いえ。それで、御用は何でしょうか?
……正直、お応えできることは少ないと、ご理解もいただけていると思いますが」
有無も云わさずに人目のない廊下へと連れ出された咲は、今一つ感情の読めない玻璃院誉を前にして言葉短く応えを返した。
何しろ、前期には視線すら交わすことの無かった相手だ。
それ故に、相手が何を探りに来ているのか、予想も容易く立てられる。
既に状況は混雑しているのだ。これ以上、入り込む相手を増やしてしまったら、
――間違いなく、咲の胃が保たない。
だが少女の警戒とは裏腹に、影を覗かせない笑顔を誉は向けてきた。
「あはは、正直だね。じゃあ、率直に。
――嗣穂さまの伴侶が決定したというのは本当かい?
伴侶選考が始まったという情報が欠片も入ってこなくてさ、何時、決定したのか訊きたくてね」
「……何のことか、判りかねますが」
神嘗祭まで内密にする予定であった情報を突かれ、咲は動揺を押し殺すことに注力する。
努力は実ったか、然程に不自然な間を残すことなく応えを返せた。
――が、
「隠さなくてもいいよ。嗣穂さまの婚約に関しては確信を持っている。
今後の事もあるしね、僕としては早めに知っておきたいだけさ」
「……少し前に聴いたことがあります。
何でも、壁樹洲には盗み聞きの手妻があるとか?」
朗らかな断言に、咲の双眸が眇められる。
嗣穂が伴侶選考の話題を口にしたのは、静美との会談が唯一。
嘗て帶刀埜乃香が行使ってみせた術であれば、あの状況でも情報を抜くことは可能である。
「天耳通を手妻とは、また僕の好きな表現だが。
……もしかして、埜乃香くんに会ったかな?」
「一ヶ月前に、鴨津でお会いしました」
「やっぱり! 優秀だろう、彼女。僕の側役にならないかと粉を掛けたが、本家からの都合とやらで袖にされてね。残念だったよ。
――さておき、知っているなら話は早い。先日、嗣穂さまから抜けたのは伴侶が決定したという事だけでね。実際はどうなのか、確信が欲しい」
……嗣穂から盗み聞いたのは、婚約の情報のみが確定。
玻璃院の末席に座る誉の断言だ。嘘を吐く事のできない相手からの保証に、咲の警戒が僅かに緩んだ。
「申し訳ございません。私にはお応えする権限が赦されていません」
「つまり、決定は事実だね?
――それが、聞きたかったんだ」
「………………………」
深まる誉の笑みに、咲は敗北を悟らざるを得なかった。
ベネデッタの時もそうだ。咲には、圧倒的に交渉の才能が足りなすぎる。
簡単に言質を盗られる現実に、割と自身に嫌気が差した。
「気にしなくても、珠門洲が公表するまで、咲くんから聞いた内容を口外する心算は無いよ。
――何だったら、僕の名前で誓いもするけど?」
「……お願いします」
「咲くんに迷惑を掛ける心算も無いし、これくらいはお安い御用だ。
お相手の名前も訊きたいところだけど、
……それは難しそうだね」
咲の表情に覚悟を認めたか、軽く肩を竦めて誉は前言を翻した。
軽く肩を叩いて、終わりとばかりに距離を取る。
「お尋ねしたいことは以上ですか?」
「うん。手間を取らせて悪かったね。
とは云え、これで終わりも味気ない。
会話を愉しみたいのなら、咲くんの想い人でも話の肴にしようかな」
「――っっ結構です!」
先刻の軽口も、しっかりと聴かれていたらしい。
分かり易く頬に朱を浮かべて、咲は爪先を反対の方向へと向けた。
「……地頭は良いのだろうけれど、如何せん交渉の経験が少ないね、彼女」
足早に去っていく咲の後背を見送り、誉は意地悪そうに呟いた。
周囲に聞き耳を立てる輩がいないことを確認して、自身も教室へと戻るべく身体を翻す。
咲から得た情報を漏らさないことを、確かに彼女は誓った。
……だからこそ、咲から相手の名前を訊き出す訳にはいかなかった。
殊更に咲の警戒を煽ったのは、その事実に境界線を引くため。
その上で誉は、半神半人たる自身の特性を強調したのだ。
人間には、警戒できる対象に上限が存在する。
問題の処理に対する緊張と弛緩の連続は、自身でも意識しないうちに相当な負担を思考に強いるためだ。
僅かとはいえ落ちる思考処理を経験で埋める事は可能だが、咲にはその経験が皆無であった。
足りない経験を誤魔化すために、人間がとる行動は退避の一択である。
――故に咲は、明白な危険と見せつけられた情報から距離を取ることを選択したのだ。
「踏み止まって相手の名前を教えれば、情報の価値がなくなるまで僕の口を塞げたって云うのに。
残念だったね」
半神半人たる三宮四院は、間違いなく嘘が吐けない。
だが、相手の思考を誘導するために必要なのは、真実だけでも可能なのだ。
誉は、嗣穂や咲から盗み聞いた情報を口外しないことを約した。
――しかし、静美から盗み聞いた情報を口外しないとは、一切、口の端に上げていない。
だから、
「さてさて、誰なのかな?
――あきらって男性は」
愉しそうに、何処までも快活に、玻璃院誉は人気のない廊下で独り呟いた。
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