3話 悪意が嗤い、曇天を呑む3
「そろそろ学院に戻れって、師匠も簡単に云ってくれるよな」
気分転換がてらに華蓮の繫華街へと足を向けた奈切迅は、弓削孤城より告げられた帰還の命に唇を尖らせて独り零した。
――孤城の心配も自覚はしている。
天領学院が本格的に始まるのは長月に入ってから。
授業の進度はそれなりに早く、帰還が遅れれば勉学に付いて行けなくなるからだ。
現在、中等部3年に在籍する奈切迅にとって、この時期の成績は後の進路に大きく影響することも承知の上だ。
それでも、迅の気分はどうしても上に向かなかった。
実のところ、孤城が思っているほどに迅は、『北辺の至宝』にそこまでの隔意を覚えてはいない。
圧倒的な強さというものは、弓削孤城の間近に立てばよく理解できるからだ。
それでも学院への帰還が鈍る理由は、天覧試合への予選に向けて少しでも孤城との模擬戦闘を重ねておきたかったからである。
圧倒的な速度と攻撃圏を誇る陣楼院流は、戦闘に於いてどの流派よりも最速で相手に中てられる。
攻撃圏の広範さは、そのまま戦術的な威力に代わる。つまり距離を維持するという事は、圧倒的な優位性を独占していると同義なのだ。
事実、天覧試合の上位3名に陣楼院流が漏れたことが無いのは、伯道洲出身者がよく口にするお洲自慢の一つでもあった。
『北辺の至宝』が天覧試合の二部を制するとしても、3位以内に着けなければ奈切迅としても恰好がつかない。
弓削孤城は知らないだろうが、孤城個人の弟子として奈切家の期待も天井知らずに上がっているため、迅としては学院の成績を落としてでも万全の姿勢で臨みたかった。
とは云え、迅に赦された華蓮への滞在期間は1週間。孤城と剣を重ねておきたいのだが、当の相手から晶と肩を並べるように命じられていたことが悩みの種であった。
雑多に行き交う人混みの中を、つらつら思考に耽りながら目的も無く歩を進める。
気分も浮ついたままに軒を連ねる店の正面を冷やかすが、呼び込む丁稚も買う気の無い迅に色気を向ける気配は無い。
嘆息を一つ残して、周囲に視線を巡らせた。
伯道洲では、洲都でもお目に掛かれない異国の風潮を汲んだ街並みと、文明開化華やかなりし洒落た服装の人々。
――そして、その狭間を摺り抜けて駆け去る晶の姿。
「お、後輩じゃないか。どうし……」
先だって友誼と結んだ相手に片手を上げるが、余程、急いでいるのか一瞥もくれないままに人混みの中へと消えた。
――と、
「あっちだ!」「御前からの厳命だ、確実に捕らえろっ!!」
唖然と見送るその視線を追うように、数名の男たちが駆け抜ける。
「……何だ、彼奴? 妙なことにでも巻き込まれているのかよ」
目の前で繰り広げられた知人の遁走劇に、迅は眉間を抑えた。
知人の姿も襤褸を被って胡散臭いが、その背中を追う男たちの雰囲気も堅気のそれでは無い。
駆け抜けていった知人に、どうしたものかと悩む事、暫し。
逡巡も僅かに、迅の爪先は去っていった厄介事の方へと迷いを振り切った。
――――――――――――――――――――
逃げる先も思いつかないまま追われ続けて暫く。何時の間にか、工場が軒を連ねる一角に足を踏み入れていることを、晶は気付いた。
――おかしい。
駆ける速度を緩めることなく、思考の片隅に疑問が浮かぶ。
夕刻に差し掛かりかけてはいるが、仕事の上りにはまだ早い時刻のはずだ。
それなのに、周辺を囲む工場や倉庫からは、うそ寒いほどに人の気配が感じられない。
――人除けの結界。それもこんな広範囲に、
誘い込まれた現実を悟り、晶は内心で歯噛みをした。
そこにいた人間の意識を誤認させて、一定の区画から人払いを促す結界術。
陰陽術の中でも特に名の知れた術の一つであるが、ここまで広範囲のものとなると片手間に張れるものでは無い。
晶一人を捕らえるために、これだけの手間を掛けている。追われる理由に事欠かないことを頭で理解していても、いざ、現実として直面した場合、混乱だけが晶の思考を占めていた。
「くそっ」
「餓鬼がっ!!」
苦し紛れに金撃符を放とうと振り被り、
――男たちから放たれた火焔がその脇を奔り抜け、衝撃が撃符を弾き飛ばした。
「――街中なんてお構いなしかよ、こいつらっ!」
悪罵を咽喉に押し込みながら、晶は精霊力を練り上げる。
身体の裡を巡る精霊力が瞬時に熱波に灼けた指先を癒し、制御から溢れたそれが朱金の輝きと散った。
精霊技の体系は、外功と内功の2系統に大きく分かれている。
精霊器は主として外功系に寄与するため、無手であっても内功系の精霊技を行使することに然程の障碍は無い。
――それに、何よりも内功系は周囲に被害を広げる心配が少ない!
現神降ろしを行使しつつ、反転。一気呵成に晶は攻勢へと移った。
二足で相手の懐に潜り込み、火撃符二枚を彼我の至近で弾き飛ばす。
迫る晶に怯んだか、仰け反った男の視界に撃符が舞った。
「貴さ……っ」
「させるかァっ!」
窮鼠に噛まれた猫が一匹。だが晶にとって不運なことは、猫が一匹では無かった事か。
もう片方に撃符を励起しようとした腕を掴まれ、晶は背負うように投げ飛ばされた。
晶を覆い隠していた襤褸が引き剥がれ、少年の矮躯が露わになる。
襤褸の向こうから見えた晶の姿に、男たちの表情は呆気に取られた。
「やはり、爺ィじゃないぞ?」
「くそ。組合から出てきたところは確認していたはずだ。
何処で入れ替わった!?」
戸惑う男たちが漏らした悪罵に、晶も眉根を寄せた。
晶と玄生を別人として認識している。
――つまり男たちは、晶ではなく玄生という老人を追っていたという事か。
そうだと仮定すれば、この騒動にも逃げる光明が見出せるというもの。
「迷うな! どの道、こいつが玄生と無関係な訳がないだろう。
捕らえて痛めつければ、小僧一匹、簡単に口を割る」
「――確かにな」
……その辺りは、もう少し悩んで欲しかった。
同意を交わす男たちの短慮に、晶は内心で愚痴を漏らした。
明らかに短絡的すぎる迷いの無さに、付け込む隙も見えるのが救いか。
一縷の望みを賭けて、晶は反論に口を開いた。
「……おいおい、たかが小僧が無関係なのは判ったろ。さっさと本命を探しに行かないと、逃げられちまうぞ?」
「ほざけ。撃符を何枚も持っているたかが小僧など、聴いたことも無い。
それだけの撃符、どうせ玄生から護身用に渡されたものだろう!」
確かに平民であるならば、正規兵であっても任務や有事以外で撃符を持ち歩くのは犯罪に相当する行いとなる。
しかし晶は防人だ。有事に備えるという名目で、撃符の携帯については公的に許可が下りていた。
完全に筋の違う結論だが、明後日の方向から意外と正解を突いているのが腹立たしい。
しかも、この件に対して詳細に突っ込まれたら、分が悪いのも晶である。
何しろ後ろ盾になってくれている奇鳳院も、晶が行っている呪符の取引については一切知らないのだ。
正直、奇鳳院に知られたらどんな対応を取られるのか、恐ろしくて考えたくもない。
現状、晶が行使できる精霊技は、現神降ろしと隼駆けの二つ。
しかも隼駆けに至っては、制御の甘さから閉所での行使に制限が付いてしまっている。
――否、本当にそれだけか?
記憶が疑問を口挟む。幼い頃、教導であった不破直利は何と云っていただろうか。
――陰陽術とは、剣指に始まり剣指に終わるものです。
何故ならば、極言、陰陽術とは区切る技術だからである。
術式を組み、剣指を斬る。
剣指を武器として替えたものこそが、精霊器と云ってもいい。
……ならば、
決意を吐いて、晶は呪符を持たないまま剣指を斬った。
奇鳳院流精霊技、初伝――。
「燕……牙ぁっ!」
少なくない火焔が制御を外れて迸り、少なくない激痛が晶の指を襲う。
それでも、辛うじて精霊技は形を成して、飛翔する斬撃が男たちの間を分断した。
「くそっ。この小僧、華族崩れか!」
「……待て、様子がおかしい」
男たちは晶から距離を取ろうとして、動かない晶へと視線を向けた。
莫大な熱量が晶の指を焼き、暴走しかけた反動が指先から感覚を奪っている。
――それも当然か。最も攻撃性に突出した火行の方向性を得た精霊力を、強引に指先へと通したのだ。
神無の御坐でなければ確実に失敗しているだろう、無謀な真似。
「ははっ、焦らせやがって。
もう抵抗する手段も無いだろう、大人しく捕まれ」
「……抵抗する手段が無い?」
脂汗を垂らしながらも、晶は顔を上げた。そこに浮かぶのは覚悟と、
戦意に溢れた凶悪な笑み。
剣指が精霊器の代わりを果たすことは確信できた。
ならば残る問題は、方向性を得た精霊力の反動を何処に逃がすか。
――朱金の輝きが晶を癒す中、強引に剣指を組んで呪符を引き抜き、
対応の遅れる男たちの間へと、剣指ごと火撃符を上段から振り下ろした。
「――鳩衝!!」
呪符が燃え尽きると同時に解放された精霊力が、剣指の周囲を捲いて炎と変わる。
刹那、膨れ上がる紅蓮に吹き飛ばされ、片方の男が建物の壁に叩きつけられた。
「がっ!」
呪符は精霊力を内包し、術に因る反動を肩代わりする技術である。回符や撃符が燃えて尽きるのは、その反動を総て肩代わりしているが故だ。
つまり、反動を呪符に肩代わりさせれば、呪符の枚数分だけ晶は精霊技を行使できる!
――残る撃符は二枚。
「貴っ、 、様ぁっっ!!」
飛び退って衝撃を避けた男が、撃符を放って反撃に移る。
確認できるその全てが水撃符。晶が火行と判断しての選択か、流石にこの辺りの対応は速い。
水克火。行使するのが火行であるならば、最善の選択だろうが……。
痛みの引いた晶の指先が踊り、引き抜かれた撃符が剣指の先で燃え尽きた。
消える刹那、露わとなった撃符の種類は木撃符。
水生木。木気はその場にある水気を全て喰らい尽くし、撃符に宿る以上の精霊力を晶に与えた。
――既に、その精霊技は数度視た。これだけの精霊力があるならば、術理を充分に支えてくれる。
埜乃香と直利。その精霊技を振るう二人の姿が記憶に過ぎり、
身体に染み付いた玻璃院流の基礎の残り香だけが、晶の無茶を補佐してくれた。
玻璃院流精霊技、中伝――。
「五劫七竈!!」
塞と成った晶が、残る男との間合いを詰める。
苦し紛れに相手から放たれた呪符も、薄く明滅する巌の護りはその全てを防いで除けた。
「ぐ、く、このぉっ!!」
「終わりだ!」
相手の抵抗も無為として、晶は男の眼前に立つ。
逃げる事も赦さない。
最後の一枚を引き抜いて、金撃符を相手に押し付けた。
剛風が吹き荒れ、急激な気圧の増加が生む轟音が両者を打ち据える。
直後に解放された風圧が、男の意識を体躯諸共に弾き飛ばした。
「……はあぁぁぁっ」
戦闘が終わり、最後に立つことが赦された晶は独り、大きく息を吐いた。
得たものは少なく、唯一の収穫は男たちの目的が玄生であって晶ではない事実のみか。
――玄生として金子を得るのも、暫くはお預けかなぁ。
防人としての収入も充分に回り始めている。実のところ、玄生の収入に頼りすぎるのも難しいと考え始めた矢先の出来事だ。
丁度いい切っ掛けかもしれないと踵を返し、晶の爪先が凍った。
その先の曲がり角に男の影が一人分。敵の同輩であることは明白であった。
思わず身構えるも、晶の手元に呪符は残っていない。
これまでかと、最終手段に訴えるべく虚空に掌を差し伸べ、
――その前に、白目を剥いて男は無言のままに崩れ落ちた。
「……………………はい?」
「――やれやれ、結界を探すのに手間が掛かっちまった。
だがまぁ、ここ大一番には間に合ったようだな」
呆気に取られる晶の視界に、ぼやきながら奈切迅が姿を見せる。
敵ではない。害意の見えないその佇まいに、晶は地面にへたり込んだ。
「気を抜きすぎだろ、後輩。
俺が敵だったら、如何する心算だ?」
「敵対するにも助けるにも、姿を見せるには遅すぎだろ。
……だけど助かった。感謝するよ、先輩」
「応、存分にな。
……で、此奴等、誰?」
迅から差し伸べられた手を取って立ち上がった晶は、そう問われて首を傾げた。
「さあ?」
「さあ? ってお前……」
「知らねぇもんは、仕方ないだろ。
どうやら人違いみたいだけど、詳しいことを訊く前に伸しちまった」
惚けた晶から返る応えに、迅は思わず吹き出す。
「ははっ、つまり何だ? 此奴等、人違いでお前を襲って、総出で返り討ちに会ったってか」
「……そうなるな。
そういえば、弓削さまはどうしたんだよ?」
手練れ3人に人除けの結界。ここまでの費用をかけて人違いの一言で終了するとなれば、確かに間抜けな話である。
真実は別にして、憮然と晶は肯った。
「お前んところで活動するために、守備隊本部で交渉中。
……ってか、如何する? この状況」
晶が見渡すだけでも、周囲一面は鳩衝の余波で灼けている。
加えて轟音に、倒れ伏した男たち。
結界があろうが人の戻りは避けられないし、余人の目に晒されて厄介になるのは晶も同じである。
――然程に悩むことなく、晶は答えを出した。
「放置する。どうせ俺には関係のない話だし、悶着を起こして奇鳳院さまに迷惑をかける訳にはいかないだろ」
相手の正体は気になるところであるが、探るだけの余裕も晶にはない。
さっさとこの場所から離れようと口を開きかけ、厳しい視線を晶の後方に向ける迅に気が付いた。
振り向く晶の視界に、壁に叩き付けられて気絶していた男が立ち上がる姿。
「手前ぇっ!!」
「……弓削? という事は、玄生は伯道洲の手のものか。
これは、御前に報せねばな」
「待て。
何か、妙な勘違いをしてないか?」
誤解を訂正しようと口を開いた迅を無視して、男は撃符を地面に叩きつけた。
励起された衝撃が膨れ上がり、轟音と土煙を蹴立てて周囲を覆い尽くす。
眼を眇めて巻き上がる砂を2人は遣り過ごし、風が浚ったそこに男の姿は無かった。
「逃げやがった」
「……どうすんだよ。彼奴、絶対に妙な勘違いをしているぞ」
「だよな、済まん。巻き込んじまった」
「まぁ、根も葉もないから良いがよ。
……いや、これも好機か?」
「何が?」
この問題を解決するために動けば、華蓮滞在の期間を延ばす理由になる。
そのせこい本音を裏に隠して、迅は晶の肩を抱いて囁いた。
「つまり、だ。奴らの正体はどうあれ、誰かと伯道洲の繋がりを勘違いして逃げてった訳だ」
「まぁ、そうだよな。
……おい、真逆」
「その真逆に決まっているだろ。 相手の人数からしても、公的な組織とは関係ない影働き連中だ。
――間違いなく俺に直接、接触してくるだろうさ。誰が主導か、正体を掴む良い機会だろ」
「そんなに上手くいくものかよ」
「行かなくてもいいさ。どうせ、俺たちには関係は無い。
痛くない肚を探られる程度、どうってこと無いだろ」
「……まぁ、そりゃそうだが」
決まりだ。そう笑いながら、迅は拳を突き出した。
その拳の先に悩みはしたが、晶とて現状がこのままと云うのも宜しくはない。
……玄生としての活動も、もう暫くは続けておきたいのも本音である。
――結局、晶は拳を合わせて、その場を折れて見せた。
――――――――――――――――――――
くふ。幼く細い咽喉が、猫のように啼く。
秋風が不穏に騒めく中、虚空に揺蕩う童女の口元が会心の笑みを浮かべた。
「妾のものに手を出してくれたな? 不届きものめ。
晶に傷をつけて、逃げ果せられると思うてか」
秋の残照が迫る夜闇の足音を早める中、白魚の如き嫋やかな指先が宙を躍る。
その先に掴めるものは何もない。否。蒼炎が宿るその瞳には、朱金に彩られた絹糸が映っていた。
朱華と共に織られた、宿命の機織り糸。
本来、これへの干渉はしろの領分であるのだが、朱華に紐付けられた宿業ならばその限りではない。
慎重に絹糸へと指を伸ばす。届くだけの未来に、垣間見えた不届きものの姿を探す。
……応えは直ぐに訪れた。
「視たぞ、観えたぞ。
――ほほぅ、随分と懐かしい相貌よの」
そこに外海より流れ着いた客人神の姿を見止め、少女はその相手に双眸を眇めた。
僅かに手を出されただけでは、朱華の神域に引き摺りだすことは叶わない。
だが、意図せずとも直接、晶に食指を伸ばしてくれたのだ。
「間抜けな肚を曝してくれたな、瓢箪鯰。
とは云え、このまま妾が手を下すだけでは少々、勿体無い」
未だ己の失態に気付いていない相手をこれ幸いに、朱華は慎重に手にした絹糸を引き繰った。
これでどう足掻いても、遠くない未来に縁は繋がる。
――この好機。存分に活かしてやらねば、女性が廃るというもの。
それは晶の活躍を願う、傲慢なまでの神柱の善意。
横目に広がる華蓮の街並みを見下ろして、童女の姿をした火行の大神柱は愉し気に脇息へとしな垂れかかった。
「踊りゃ、滑瓢。
心行くまで、晶の糧と供されるが善い」
婀娜な艶を含んだ幼い笑い声が微風に彩りを加え、
――何処までも神柱らしく、少女は最早、姿も追えぬ相手を嘲笑った。
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