3話 悪意が嗤い、曇天を呑む1
華蓮の東端から広がる南葉根山脈は妙覚山と打って変わり、剝き出しの岩塊としがみつくように自生する低木しか存在しない。
ここは華蓮に於ける木行の大龍脈であり、同時に群発する瘴気溜まりを有する魔境でもある。
幾ら慎重に行動しても足りるという事は無い。
かつり。踏み締めた足元で小石が蹴り飛ばされ、弾かれたそれは頼りない音を立てて露出した岩肌を転がり落ちていった。
「ぅわっ……」
小石の先を視線で追った晶は、視界一杯に広がった切り立つ崖に思わず息を呑んだ。
足場を崩して転げ落ちれば、仮令、衛士であろうとも大怪我は免れない。
無意識に縮こまろうとする身体を必死に抑え、足元よりもさらに遠くへと視線を遣る。
そこに広がるのは、2千町に及ぶ街並み。
そこかしこから蒸気と排煙が立ち昇り、人々が生を闊歩する華蓮の繁栄ぶりが、余すところなく広がっていた。
その壮大さに、晶は恐怖よりも感動に我を忘れて魅入ってしまう。
「何だよ、怖いのか」
「……当然だろ。妙覚山なら慣れているけど、南葉根のこんな深くまで浸透するのは初めてなんだ」
背中を追い打つ迅の嘲りに、華蓮の光景に毒気の抜かれた晶は素直に返した。
応酬のし甲斐が失せた迅は、つまらなそうに後方に視線を向ける。
そこには、何事かを話し合う厳次と孤城の姿。
「俺と師匠は、使者として訪れているだけだぜ。
何で、こんな龍脈の上を歩く羽目になってんだよ」
「喧嘩の罰だろ?
他に何があるってんだ」
独り言の心算が、生真面目に返る晶の声に唇を歪める。
「裏があるって云ってるんだ。
そっちの隊長に予定を訊いた途端、詳細も聞かずに探索を決意するなんてどう考えても普通じゃない」
「阿僧祇隊長から説明があっただろ。
数日前に、鎧蜈蚣を妙覚山の麓で討滅したんだ。この辺りにはいないはずの化生だから、何処から迷い出てきたのか調べる必要があるって」
「だからって、こんな所まで登るか普通?」
ちらりと視線を周囲に巡らせる。
一面に見えるのは岩肌と低木のみの、無味乾燥とした光景が広がっていた。
「後、暫く行ったところで、折り返して下山って聞いているから頑張ろうぜ。
野営の準備なんてしていないからな、行動には余裕を持っておきたい」
「当然。瘴気溜まりのど真ん中で一晩過ごすなんて、正気の沙汰じゃ無い」
返る同意に、晶は迅と連れ立って阿僧祇たちの元へと戻る。
斜面を蹴立てて滑り降りる2人に思考は及んでいただろうが、厳次と孤城は情報の摺合せに没頭している様子であった。
「……水気の脈が無いのに鎧蜈蚣が出るのは確かに変だが、そもそも奴は、山脈の高いところに根は張らないだろう」
「それはそうだが、奴に追い立てられて鹿が山から下りてきていた。
あれは、南葉根でも高地に住んでいることが多い。群単位で姿を見せていたから、少なくともこの近辺には姿を見せていたはずだが……」
「やはりあり得るのは、誰かの意図だが……」
会話を聞く限り、どうにも推測が上滑りしているようである。
晶と迅は互いに視線を交わし合って、軽く肩を竦めた。
「阿僧祇隊長。もう少し行けば、折り返しの予定地点ですよね。
――もう昼過ぎですし、下山を考えたいんですが」
「ああ、判っている。繰り返すが、隠形は解くなよ。
無駄な戦闘は、麓に余計な混乱を与えかねん」
このままでは埒が明かないと、会話の脇から口を挟んだ晶に厳次が頷き返す。
しかし眉間に皺を寄せた孤城が、山稜の向こうへと視線を向けた。
「……いや厳次、もう遅い。
化生に勘づかれた」
斥候に出ていた晶たちが帰還すると同時に、化生の襲撃が起きる。
晶たちの明確な失態だが、孤城は軽く首を振って慰めを口にした。
―――ィ、、津、マ、、、、。
「既に化生は此方を捕捉していたよ。襲ってきたのは、隠形で小者と誤認したからだ。
――慎重な奴だな、随分と頭が良い」
「南葉根に根を張っている慎重な化生ときたら、一種類しかいない。
――総員、構えろ。空から襲撃るぞ!」
―――ィィイ津、、真デッ。
重苦しい羽音と嘆きに似た啼き声が、山間を舐めるように迫る。
ばさりばさり。空を叩く羽撃きが、巨きな影と共に飛来した。
鼻が捻じ曲がりそうなほどの腐敗臭が周囲を圧し、鷹に似た翼と羽毛の無い胴体を持った巨大な化生が眼前に降り立つ。
―――以津真天ェッ、ィィイ津真天ェェッッ!!
病を運ぶ呪詛の鷹たる以津真天が、晶たちに向けて威嚇を放った。
「「! ……、 、――――!!」」
腐れた嘆きが晶たちを襲う。
咄嗟に耳を塞いだ4人は、そのまま後方へと地を蹴った。
――直後、
晶たちの居た空間を、瘴気の纏った羽撃きが薙ぎ払う。
「燕牙!!」
羽撃きの影に交差して紅蓮の斬撃が以津真天を狙うが、その瞬間には既に遅く、巨大な鳥の影は遥か天の高みへと消えた。
「巨きいからと油断するな、奴は素早いぞ!
――孤城、地面に落とせるか?」
「以津真天は木行だったね? ……なら可能だ。
全員、鼓膜を破りたくなかったら耳を塞ぎなさい」
厳次の要請に応えた孤城が腰に佩いた脇差を抜刀いた瞬間、急激な気圧変化に因る耳鳴りが晶を襲う。
堪らず地面に伏せて、晶は孤城に視線を向けた。
唸る大気が一際強く。刹那の後、静寂に落ちる。
陣楼院流精霊技、中伝――、
「地嵐」
瞬間。突風が渦を成し、以津真天を巻き込んで地面に落ちた。
精霊技は多彩だが、奇鳳院流が得意とする攻撃圏は、主に近接から中距離である。
対する陣楼院流は明らかに、奇鳳院流の射程範囲外から精霊技を撃ち込んでいた。
他の門閥流派の攻撃圏外からも精霊技を撃ち込める、最速と遠距離を身上とする門閥流派。
その流派は、前に相手へ必中てるが故に。
――前中ての陣楼院流。そう呼ばれる真骨頂である。
地面に圧しつけられ藻掻く巨躯と、騒ぎに誘われたか鹿の穢獣が群れて角を振り翳す。
いまだ制御に難を残す晶が群れを散らすよりはと、厳次は己の脇差を抜いて鹿の群れと相対した。
「鹿どもは俺が狩る。以津真天は、落ちれば巨きいだけの的に過ぎん。
――晶、迅。仕留めろ」
「「押忍!!」」
厳次の号声に、二人肩を並べて地面を駆ける。
足場の悪い斜面であっても、地を蹴るだけの感覚は晶に久方振りの高揚感を与えてくれた。
目立つ神器の代わりに、奇鳳院から下賜された精霊器を抜刀する。
柄尻に結ばれた胡桃の透かし彫りが宙を躍り、白刃が陽光を反射して煌めいた。
「……随分な業物だな。輪堂家の期待が伺える」
「そりゃどうも。
何方が先手を取る?」
晶の持つ太刀に奔る波紋を見てか、並走する迅がそう零す。
余り突かれたくない内容に口調を濁し、晶は話題を変えた。
「陣楼院流が先手で順当だろう。
――止めは譲ってやるよ、後輩」
「感謝はしないぞ、先輩」
明白な挑発にも、一晩経てば随分に慣れる。
素っ気ない晶の返しに唇を曲げて、迅は深く腰を落として居合に構えた。
親指で鯉口を切り、捻るように白刃が鞘を奔る。
陣楼院流精霊技、初伝――、
「鎌鼬」
煌めく白刃が不可視の斬閃を重ねる。同時に、地面で暴れる以津真天に少なくない裂傷が生まれた。
―――ヒィィィイ以ッッ!!
巨大な鳥の化生が立てる魂消る悲鳴も意に介さずに、晶は以津真天の懐へと潜り込んだ。
炎が渦巻く斬撃を袈裟斬りに落とし、垂直に斬り上げる。
奇鳳院流精霊技、初伝――。
「帰り雀鷹」
振り上がる脇を締めつつ、更に前へ。
奇鳳院流精霊技、連技――。
「乱れ三毬打!!」
三つ立て続けに膨れ上がる衝撃が、以津真天の顎をかち上げた。
―――以ッッ、、津ツ!!
完全に死に体になりながらも、巨鳥の眼は死んではいない。
以津真天の見据える先は、晶の頭上。
その嘴の端から、どろりと濃密な瘴気が溢れ、
――呪詛を存分に練り込んだ瘴気を吐きつけようとしたその寸前、迅の放った斬閃が以津真天の咽喉を掻き切った。
「――感謝は要らんぞ、後輩」
「……必要無いからな」
軽く交わされる応酬の最中に、晶の白刃が十字に軌跡を刻む。
奇鳳院流精霊技、中伝――。
「十字野擦」
――交差して十字を刻む火線が下から上へ、以津真天の胴体を四等分に割き分けた。
晶たちが地に伏した巨鳥を浄化するその傍らで、厳次たちが周囲を検分していた。
脅威は去ったというのに、厳次の表情が優れていない。
「以津真天の住処は、南葉根の更に高地だ。
防人に手出しすることも無い此奴が中腹まで下りてくること自体、異常としか思えん」
「確かに鎧蜈蚣の一件も疑問は残るが、厳次には別の懸念がありそうだ。
――訊かせてもらっても?」
「……葉月の終わりに、木立の間を泳ぐ鯰を見たと狩人の爺さんから陳情が寄せられてな。
随分な年齢だから見間違いだと一笑に附してやりたいが、俺の故郷で聞いた噂を思い出してなぁ。
――あの時は確か、嗤う鯰が山に向かって泳いでいたと」
「それは……」
「その噂が立った直後に、俺の故郷は北から下りてきた百鬼夜行に踏み潰された。
今じゃ、瘴気溜まりの奥底で誰も住めん土地だ。
……それがどうにも気にかかる」
孤城をして聴いたことも無い噂話一つ。それでも、その直後に起きた出来事を関連付けるのならば、厳次が危惧することも判らないではない。
だが、不確かな情報だけで右往左往するというのも、一部隊を預かるものとしては不適切な判断だ。
結局、厳次が出来る事と云えば、こうやって確かに迷い出てきた化生を話のタネにして、異常の粗捜しをするのが精々であった。
眼下に広がる華蓮の街並みを一望する。
厳次の目に映るそれは日々と同じ人々の営みで、一介の衛士が抱える悩みなど我知らずと云わんばかりであった。
―――――――――――――――――――
ちり、 、 、りりぃん。吹き渡る秋の風に、随分と季節外れの様相を見せ始めた風鈴が寂しげに細々鳴った。
苦みの薄い茶葉を厳選した抹茶を点てながら、当代当主たる奇鳳院紫苑は伽藍の衣替えを思考の片隅に浮かべる。
その視線の先に座る童女は、つまらなそうに伽藍の吹き抜けから華蓮の街並みを一望していた。
「……ふん。どうやら痴れものが、妾の支配地に潜り込んだようじゃな」
「人でしょうか?」
「判別らぬ。……が、どうやら其奴め、神託を掻い潜る抜け道を見つけたらしい。
妾の体内で蠢いているのは理解るが、薄皮一枚で詳細が読めん。
妾の領分に手出ししてくれたのであるならば、明るみに引き摺りだしてやろうものを」
永い年月に在って神託が機能不全に陥ることなど、嘗てなかった経験である。
万窮大伽藍に差し込む秋の夕陽に目を眇め、珠門洲を遍く知ろ示す大神柱は忌々しそうに口の端を歪めた。
「神嘗祭を目前にした大事な時期に、領地を喰い荒らされるのは避けたいですが」
「同意はするが、目論見通りには行ってくれぬであろうな。
……くろが、晶の所在を知ったみたいであるし」
「何らかの干渉が?」
「水気の龍脈を通して、神気を必死に伸ばして来よる。
――無茶な真似を、今更に知ったとて何になる訳でもあるまい」
勧められた抹茶を舐めるように一口。豊かな香りと共に広がる複雑な苦みに、朱華は舌を出した。
朱華の見た目は10を過ぎた辺り。嗜好も容姿に引き摺られるのか、彼女の苦手も見た目通りのものである。
「数日の後には、嗣穂も華蓮に戻ると連絡がありました。
正式に、晶さんを婿に迎えるための準備を進めるとしましょう」
「うむ! 良しなに頼むぞ。
神嘗祭で、存分に晶を披露してやるのじゃ!」
「準備は過怠なく。
……ですが、晶さんの所在が問題になりますね」
「うん?」
「晶さんと咲さんが繋ぐ血統は、間違いなく八家でも上位に君臨する筈です。
加えて雨月は、どの道にしても途絶えます」
本来、晶は雨月の嫡男であり、雨月本流を継ぐことが決定づけられていた。
これは、雨月の一存でどうなるというものでもない。
神代契約に於いて決定された、八家の血統序列がそうなっているのだ。
神無の御坐を生み出し、神代契約を維持するための機構。
八家が他家と区別されるのは、その絶対的な価値を保持しているが故だ。
本来であるならば晶は義王院へと婿に入り、側室筆頭となる女性との嫡子が雨月を継ぐ形になるのだが……。
「そんなもの、……ああ、そうよな。國天洲の八家が一つになってしまうか」
「はい。
陰陽五行の均衡を保つためにも、晶さんの血統を國天洲に戻すのは譲歩せねばなりません」
「うぅ~~!! 咲の血程度なら幾らでもくれてやるのじゃが、晶の居場所もくろに盗られるのは業腹じゃぞ」
「咲さんの意向次第かもしれません。取り敢えずは、晶さんの家名を此方で決定しましょう。
そうすれば、珠門洲の威光を受けた八家という形で、向こうに貸しが出来ます」
現在の晶には、華族としての家名が存在しない。
雨月を名乗れるのであるならば話は早いのだが、それは晶が納得しないだろう。
そうであるならば、新しく華族を興す必要が生まれてしまう。
八家の知識を補完する程度で間に合うならば未だしも、現実に生まれてしまう矛盾まではどうしようもない。
例えば、晶が行使した彼岸鵺もその一つだ。
本来、奥許しを受けた者だけが行使を許可されるはずの奧伝を、初伝にも到達していない晶が行使した。
公の記録にも残ってしまったこの事実は、当然にして門閥流派を率いる師範たちの間で大問題となった。
古来ならば降格に加えて防人の任を解くという、破門すれすれの重罰が科されるはずである。
しかし本流本家たる奇鳳院の強引な執り成しの下、晶は初伝でありながら精霊技を制限なく行使する許可を与えられたのだ。
――師範たちの矜持を大いに傷つけた明白な依怙贔屓。無駄に注目を集めたくも無い奇鳳院としても、晶が関わった事柄にこれ以上の手出しが難しくなった理由であった。
「歯痒いのう。晶の覚悟も定まったと云うに、神無月を前にして心の晴れぬ問題ばかりじゃ」
「――そろそろ頃合いかとも思いますので、華蓮の膿を潰すとしましょうか。
確か万朶とかいう小物が囀っていましたので、見せしめになってもらいましょう」
晶に続きかねない懸念の代表格として立っていた万朶も、充分に私財を喰い潰して餌代わりになってくれた。
沈む身体を浮き上がらせようと足掻く老害一匹、放置して集められるだけの魚にも紐をつけられている。
……充分に良い夢は見れただろう。万朶の血統だけは面倒だが、目立ち過ぎた末端程度なら潰されたところで文句も挟まないはずだ。
「くふ。随分と大掛かりな掃除になりそうじゃ、の?」
「はい。伯道洲の弓削孤城ですが、一応、公安の同道は宣言しています。
晶さんと接触したことは懸念材料ですが、晶さんの意向も確認した現在、下手に突くのは藪蛇でしょう」
弓削孤城と阿僧祇厳次に個人的な親交があった事は予想外であったが、晶にも神無の御坐としての自覚は既に生まれている。
神無の御坐としての情報は隠すだろうし、神器二振りの目晦まし代わりとして、そこそこに質の良い精霊器も宛がっている。
「――侮るで無いぞ。
孤城と云うたか。その男の背には、しろが控えておる。
何らの策を与えていても、不思議ではない」
「奇貨居くべし、ですか。
……釘刺し程度に弓削孤城を動かすにも、珠門洲では本来の効果は期待できないと思いますが」
如何に高天原最強とはいえ、神無の御坐と云う奇貨を見通せるとは思えない。
杞憂とも思うが、伯道洲の大神柱は智謀を以って鳴らす相手である。
駄目押しの意味も含めて、紫苑は弓削孤城の監視を強化する事を決めた。
「ふん。どうせこの類の手法は、しろめの十八番よな。
のう、紫苑。どうせなら、晶を伽藍に留まらせるのはどうじゃ?」
「……あかさま。弓削孤城が華蓮に逗留している間は、晶さんと奇鳳院の繋がりは最低限まで細くするべきでしょう。
常道外しの目的は相手の動揺を誘う為。であれば私たちは、正道を以って相対するが勝機かと」
「ふふ。云うてみただけじゃ。
――訪いを告げられるのを待ち侘びるのも女性の冥利とは云うが、歯痒さはあるのう」
「ただ人の世に在れば、それこそが常で御座います」
紫苑の判断に、朱華の微笑みは花と綻んだ。
苦味の残る舌を甘味で誤魔化して、残る抹茶をぐいと干す。
幼子の舌は複雑な苦みの奥に眠る旨味を拾ってくれることなく、苦味は座興と云わんばかりに朱華は咽喉から抹茶を嚥下した。
読んでいただきありがとうございます。
よろしければ、ブックマークと評価もお願いいたします。





