序 涼風が一陣、華蓮に来る
夢を見た。
忘れかけて忘れられない、何時かの幻想。
――のう、晶や。
幼い囁きが、愛らしく晶の耳朶を擽った。
黒染めの単衣から伸びる手弱女の指が、昼下がりに微睡む晶の頬をそっとなぞる。
幼心に憤る晶へと、寝物語の替わりと少女が言葉を紡いだ。
――憶えておおき。玄とはの……、
薄らと開く視界の奥。純黒の輝きを宿した少女は、嬉し気に晶の魂魄へと己の記憶を刻み付ける。
しゅるり。衣擦れの音と共に涼を宿した少女の両腕が絡みつき、暮れの残暑に熱る晶へと寄り添った。
何処か儚げで、何処か脆く。
……そして、何処までも強情に。
――、――――、……………………。
……久しぶりに夢を見た。甘い甘い、ただ只管に優しいだけの、懐かしい記憶
――――――――――――――――
――キィィ、、ギィギ、ギ、、
重苦しく鋼鉄が軋み哭き、蒸気機関車が華蓮中央駅の一角で休息を得るべく、黒鉄の巨躯を停留させた。
汽笛と共に吐き出される煤混じりの蒸気が、急ぎ足に行き交う靴を薄暗く舐める。
待ち侘びた乗客たちの喧騒の間を縫って駅員が走り回り、車両の扉が順次、開かれていった。
狭い空間に鬱屈していたのだろう。扉の側で待ち兼ねていた乗客が足早に駅舎へと降りて、入れ替わりに急ぐ足元が地に蟠る蒸気を踏み散らしていく。
そんな雑多の日常に、駅舎に降り立つ二人の影が新たに差した。
「――漸く華蓮に着きましたね、師匠」
「そうだな。
予定通りなら、もう少し早くに足を下ろせていたのだが」
守備隊の隊服の上から羽織を纏った怜悧な顔立ちをした年齢１４、５歳ほどの少年が、長旅の退屈を晴らすかのように大きく伸びをする。
少年の前に立つ男性が少年に短く応えて、周囲を軽く見渡した。
二人の前を過ぎる人々の表情に、不安一色で染まったものは見当たらない。
地勢的に最も離れていると云うのもあるのだろうが、國天洲から流れてくる瘴気の災禍に対して、奇鳳院が上手く手綱を曳いている様子が伺い知れる。
駅舎の片隅を陣取るその二人の影に、後ろから歩いてきた男性が迷惑そうに視線を上げ、
――目の前で揺れる家紋を見止めて、我関せずの表情に変えて壁際へと足を向けた。
それが華族の家紋と気付いただけか、
――それとも西部伯道洲に属する八家、弓削家の家紋と気付いたか。
重ね花形車に撫子。その家紋を背負う事を赦された３０前後の男性となれば、指し示す相手は一人しかいない。
陣楼院の比翼と知られる、弓削孤城その人である。
「猿共如きに師匠の手を煩わせるなど、随分と恥ずかしい。
……あの程度ならば、自領の陪臣だけでも充分に対処可能だったでしょうに」
「そう云ってやるな、迅。暫く領内に目を配れなかった、ツケが回ってきたと思えばいい。
……南部には、まだ瘴気の影響が少ないと見えるな」
「はい、羨ましい限りです。
――先方からは出迎えが来ると、電報で聴いていましたが」
弓削孤城の弟子である奈切迅は、肯いを返して手荷物が入った風呂敷を持ち上げた。
改札を通り抜けた二人は周囲に視線を巡らせるが、それらしき人物は見当たらない。
それよりも、と迅は、初めて降り立つ華蓮の発展ぶりに改めて目を奪われた。
最新鋭と思しき小型蒸気機関を搭載した自動車が、軽快な駆動音を響かせて二人の視界を過ぎる。
その向こうに見える停留所では、洗練された外観の路面電車に乗り込む乗客が列を為していた。
張り巡らされた電線と五階層以上はある高層建築が否応なしに少年を圧倒し、行き交う人間の多さが何よりも雄弁に高天原随一の繁華ぶりを主張してくる。
南部珠門洲は、海外諸国との交易が許された唯一の洲である。
海外から押し寄せる文明開化の恩恵を一等に早く与るこの街は、良くも悪くも明確な説得力を以って迅の視界を魅了した。
「――やぁやぁ。お待たせいたしました！
弓削さまに御座いますでしょうか？」
「ああ、見ての通りだ。
貴君が電報にあった出迎えかな？」
……周囲に目を奪われていると何時の間にか、二人の横に灰色の洋装に狩猟帽を着こなした伊達男が立っていた。
丸眼鏡を鼻に掛けたその男は、にこやかでありながら欠片も感情を窺わせない。
能面のような笑顔に警戒したのか、孤城と伊達男の間に迅が立つ。
「弓削ご当主の御前だぞ、何者か！」
「華蓮警邏隊で警部補を拝命しております、武藤元高です。
……あぁ、申し訳ありません。名刺は持っていませんので、挨拶だけでご勘弁願います」
迅の放った鋭い誰何に動揺も窺わせず、狩猟帽の縁に指を掛けて武藤と名乗った男は軽く会釈を返した。
胡乱な返しに迅が熱り立つが、裏腹に孤城は軽く肩を竦めるに止める。
「――問題ない。
どの道、我々も名刺など持ち合わせていないのでね」
「ご配慮くださりありがとうございます。
ささ、此方にどうぞ。車を用意しております」
孤城が自身の発言の意図を正確に理解している事に気付いて、武藤は安堵に笑って見せた。
海外の礼儀として入ってきた名刺交換は、高天原で爆発的な流行を見せた習慣だ。
――猫も杓子も、会えば名刺と交換し合い、獣と物にもくれてやる。
そんな笑い話が生まれるほどに、浸透している海外文化の一つである。
当然のこと、孤城も幾つかは準備しているのだが、それを噯にも出さずに元高へと配慮をみせたのだ。
名刺を持っていないという事は、立ち位置が明確に出来ないという事。
つまり、少なくとも警部補などではなく、警邏隊というのも怪しい立場という事だ。
……公安か、その類。
守備隊や警邏隊を取り締まることを主に見据えた、各洲でも漸く配備され始めた対防人専門の組織。
その性質上、華族には嫌厭される組織であるため、秘匿性の高い構造で組織されているとも聞いているが。
武藤が自身の身分を言外に仄めかしたのは、弓削孤城への最低限の配慮の一つか。
――それにしても、随分と警戒されているな。
案内された先に停められていた蒸気自動車に乗り込みながら、その事実だけを孤城は胸中で疑問に浮かべた。
――――――――――――――――
「お久しぶりね、孤城どの。
滸さまはお元気かしら」
「……は。西部も恙なく。
紫苑さまもご健勝の様子、何よりで御座います」
書斎机を挟んだ向こう側から奇鳳院紫苑が寄越す意図の読めない微笑みに警戒しつつも、孤城は言葉少なく応えを返した。
「そうね。北の天気が荒れ模様になっている以外は、こちらも日々は変わりないですね。
――陣楼院からの書状をいただいても？」
「ええ。……此方です」
机越しに手渡された書状を広げて、ざっと紫苑は目を走らせた。
内容はひどく簡素に。時候の挨拶に始まり、孤城を使者として逗留させる旨が数行に渡って記されているのみ。
……國天洲への対応に、思惑の探り合いか牽制を入れてくると思ったのだけれど。
想定からはかなり的を外している穏やかな内容に、紫苑は困惑を抑えることが出来なかった。
そもそもからして、弓削孤城が出張るなら先ず、國天洲だろうと踏んでいたのだ。
本来は打つべき定石を一手目から外されては、相手の思惑を読むことが出来ない。
……釘刺し程度の使者なら、それこそ誰でも良かろうに。
裏で手を曳いているのは陣楼院滸か……？ 否。ここまでの定石外しを好むなら、伯道洲の大神柱か。
「――孤城どのが暫く逗留するとか。……期限の予定は立っておりますか？」
「滸さまより、２週間を目途に戻るよう仰せつかっています。
……手元を無沙汰に遊ばせる意図はありません、守備隊でこの身を使ってくれて結構です」
「まぁ。高天原最強と名高い孤城どのの武名。暫くとはいえ、平鈍な華蓮の守備隊で揮っていただけるなら是非にもお願いしたいわ」
慢性的に人手不足に陥りがちな守備隊である。僅かとはいえ、弓削孤城の戦力を追加できるのは確かに有り難い。
……更に本音を云えば、華蓮に逗留する間は、奇鳳院が用意した宿に大人しく籠ってくれるのが最上なのだが。
「私はそれで構いません。……迅の奴は数日で戻そうと思っていますが」
「迅とは、何方でしょうか？」
「表で待たせている私の弟子です。
未だ学生の身でもありまして、天領学院が始まる前には戻してやらないと」
「……良いでしょう。先刻に顔を合わせた者に話を通していただければ、華蓮から離れる許可を直ぐに出せるようにしておきます。
権限の異なる守備隊では何かと勝手が悪いでしょう？ ある程度は自由裁量を許可しますので、存分に動いていただいて結構ですわ」
「感謝いたします」
大切な時期だ、紫苑としても余計な刺激は欲しくない。
片方だけとはいえ、使者が珠門洲を離れてくれるなら有り難い限りか。
それに、守備隊で防人たちの鍛錬をするなり周囲で穢レを討滅するなり、９月一杯は守備隊本部で遊んでくれるなら奇鳳院の本邸にも近づかないだろう。
本邸で晶と鉢合わせする事態さえ避けることが叶えば、想定を超えた行動は取られないはずだ。
然程、悩むことなく、紫苑は首肯を返した。
断られるとも思っていなかったが、快く許可が下りたことに孤城の表情が和らぐ。
「要件は以上かしら。
……神楽さまは、どうですか？ 健やかに過ごされているとは聞いていますが」
「頭を撫でたら、１０になったのにと怒られましたな。
どうにも初めての子供故に、付き合い加減が判りません」
「仕方が無いですよ。その年齢の女の子は、兎に角、背伸びを覚えたがるものです。
花の命は短けれど。とはよく云いますが、蕾が綻ぶ刹那こそ一瞬です。
――大切にしてあげてください」
何処か嬉しそうな響きを含んだ孤城のぼやきは、かつて紫苑も経験のある感情である。
高天原最強の看板を与る男性の語る年齢相応の悩みを耳に、紫苑は仕事を余所に暫しの歓談を愉しんだ。
「――会談は終わりましたか？」
「あぁ、待たせたな」
奇鳳院の正門前に出ると、奈切迅が駆け寄ってきた。
こちらも武藤との会話で時間を潰していたのか、待ち惚けに疲れた様子は無い。
空を仰ぐと日天も未だ高く、投宿へと腰を落ち着けるにはやや早く感じられた。
「今日のご予定は以上でしたな。
……宜しければ、宿にご案内いたしますが」
「……いや、その前に守備隊本部へ。
華蓮に逗留する間、此方に合力することを約束したのでね。顔を出しておきたい」
「それは心強い。昨今は防人と名ばかりで、政治好みの雑多が増えていると聴きました。性根を叩き直していただけるなら、こちらとしても願ったりですな。
――まぁ、一番の雑多が総隊長どのなのですがね」
「ほう。此方でも政治絡みが多いですか」
「議会制度が成立した辺りから、雲行きは怪しかったですな。
金儲けばかりが得意な輩の多くなること、嘆かわしいです」
こちらは内密にお願いします。笑いながら告げられた他者への皮肉に、孤城は承諾の意図を込めて首肯するに止める。
そうしてから、会おうと思っていた友人の顔を脳裏に浮かべた。
「そういえば、友人が華蓮に腰を落ち着けたと手紙に書いていたな。
明日にでもそちらに顔を見せておきたいのですが」
「住まいはご存じで？」
「一応は。……ですが奴の事だ、どうせ余り帰っていないだろうさ。
守備隊の隊長に任じられたと聞いているから、そちらを屋根代わりにしているんじゃないか」
「ははぁ、奇特な御仁のようだ。
……お名前を伺っても？」
思い出し笑いに肩を揺らす孤城の様子に、武藤は肩を竦めて肯いを返す。
――守備隊の隊長ならば相貌と隊舎の位置は把握している。守備隊本部での話し合いが済めば、今日中には寄れる余裕もあるかもしれない。
そう算段をつけている内に告げられたその名前は、意外であっても納得できる相手のものであった。
「――阿僧祇厳次。前回の天覧試合で、私と競り合いにまで持ち込んだ奴だよ」
三年に一度、三宮四院が見下ろす中で行われる防人たちの祭典。初の出場から三度に渡って優勝を守り続けている男は、懐かしそうにその名前を口にした。
――――――――――――――――
「…………………………ん」
揺れる瞼が、細波に浚う晶の意思を現実へと呼び戻した。
身動ぎを大きく一つ、拍子に文机がかたりと鳴る。
机の端に転がっていた筆が落ちて、擦り切れた茣蓙の上に墨の跡を描いて踊った。
……呪符を書き終わった安堵からか、何時の間にか転寝に耽っていたらしい。
涙の残り香に呆けた目を擦りながら文机に預けた上半身を起こすと、無理な姿勢で居眠りしていたツケに身体の節々が不満を漏らした。
「ふ、、あぁぁぁ～……」
一仕事を終えた達成感を欠伸と吐き出し、晶は自室の土間へと降りる。
水甕から柄杓で水を呑み干して、何を思う事も無く長屋の表へと足を向けた。
香ばしいもち米が焼ける匂い。長屋の表で煎餅を商っているオ婆が、足音に気付いたのか盲た眼差しを晶に向ける。
「おや、晶坊。……寝ていたね」
「何で分かった？」
「何年の付き合いさね。
起き抜けの足音くらい、聞き分けられるよ」
笑いながら返る応えに、敵わないなぁとぼやきながら晶は頭を掻いた。
その時、
黄金に色付きはじめた水田の垂穂が揺れて、細鳴りと共に涼風が一陣、晶たちを浚った。
穏やかな疾風の音に誘われたのか、黄金の狭間から秋茜が一斉に飛び立つ。
「秋だねぇ」
「……あぁ。秋、だよなぁ」
感慨深そうなオ婆の独白に、言葉短くそれでも応えと返した。
生を急く蜩の鳴き声が夏の終わりを報せ、秋茜が入れ替わりに生を謳歌する。
それは、晶が長屋に流れ着いた季節が、再び巡ってきた報せだった。
晶が住まう部屋の壁で、与えられたばかりの真新しい防人の羽織が、ふわりと微風に踊る。
統紀３９９９年、長月を前日に控えた葉月末日。
波濤の音を立てて足早に秋が迫る中、晶は華蓮に流れ着いて４年目を数えようとしていた。
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