閑話 夏に戦ぐは、火花と散れる百合二輪1
――葉月下旬、央洲、央都天領。
朝も早い頃、夏季休暇の明けた天領学院では、三々五々、各洲から集められた有力な華族の子弟達が学院の正門を潜り始めていた。
時刻は7時。意外に思われるかもしれないが、この時間に正門を潜ってくるのは一般の華族たちである。
武家の子弟たちは、更に日も昇らないうちから朝の練武に励んでいるのだ。
交わす言葉はごきげんようとおはようございます、育ちの良さを競うように元気よく。
央都の古式ゆかしさを存分に示した大通りを歩くのは、仕立ての良い詰襟制服の子弟と水兵服の子女たちの姿。
そんな大通りの一角を奇鳳院の後継たる嗣穂が、側役筆頭たる名張和音と新川奈津を率いて歩いていた。
三人は表面で笑顔を取り繕っていたが、その雰囲気はこれから戦で御座いと云わんばかりの物々しさである。
周囲の学生たちも雰囲気を読んだか、彼女たちを遠巻きにして歩いていた。
「……あの。何故、私が嗣穂さまと肩を並べているのでしょう」
そんな一団の傍らから、気配に呑まれつつも輪堂咲の慨嘆があがる。
家格故に否応なく嗣穂と肩を並べざるを得ないが、嗣穂たちが放つ物々しい雰囲気からは全力で逃げ出したい。
というか、前期の終わりまで顔見知り程度の付き合いでしかなかった面子と肩を並べているのだ。
それだけでも、好奇の視線と場違い感が半端なく咲を苛んだ。
「何故って……、晶さんと鴨津で肩を並べたでしょう? 私だって晶さんの活躍をお聞きしたいわ。
……それに、これからお会いする方にも顔合わせは必要ですよ」
「……………………はい」
しかし、咲が上げた精一杯の反駁は、有無も云わさず言下に封じられた。
そこに返るのは、ただ裏表を覗かせない嗣穂の微笑みのみ。
その無情さに感情の向け処を喪い、我関せずの澄まし顔を決め込んだ後背の側役二人に恨めし気な視線を向ける。
そこから返る応えも、想像通りの微笑ましさ。
笑顔で放り出された孤立無援の戦場に歯噛みをしながら、それでも訊かなければならない事があると気分を持ち直した。
「まぁ、良いです。嗣穂さまにもお尋ねしたい事がありましたから。
――昨日にお聴きした情報、本当なのですね?」
「ええ。奇鳳院の名誉に懸けて」
「嗣穂さまを疑うなど失礼と存じます。ですが、信じられません。
あの家は一体、何を考えているんですか」
「恐らくは、何も。状況証拠だけですが、あれが神代契約を失伝したことは間違いないでしょう。
國天洲の現状を鑑みるに、義王院が事の次第を知ったのも先月のことでしょうし」
精霊無し。神無の御坐を表すならば、その一言に尽きる。
地味な上に、下手をすれば欠陥品と捉えられかねない特徴だ。
だが、その存在の重要さは、特徴とは裏腹に天井知らずに高い。
何しろ、神柱を宿し現世に神意を顕現させ得る人材なぞ、他に替えが利くはずもないからだ。
神代契約の失伝に神無の御坐の放逐。歴史も永く忠誠篤い雨月が犯してしまった失態に、義王院の混乱は言わずもがな想像がつく。
正門を潜ったその先には、左右対称の校舎が広がっていた。
男女七歳にして席を同じゅうせず。を地の倣いと謳う天領学院は、その通り男女の学び舎を二つに分けている。
向こうに広がる鏡合わせの校舎は、男学部の左府舎と女学部の右府舎へときれいに分けられていた。
ごきげんようとおはようございます。繰り返される挨拶と共に詰襟制服と水兵服が二色に分かれて、各々の学び舎へと消えてゆく。
慣れた道程だ。少女たちの流れに倣い、咲たちも右府舎へと足を向けた。
――雄ォオッッ!!
猛る号声が響き、その向こうで少女たちの姦しい声援が飛んだ。
思わず向けた視線の先では、練武館に群がる少女たちの背が見える。
少女たちの声援から察するに練武館では、少年たちが休暇明けの朝練を試合形式で行っているようであった。
呑気な少女たちの姦しい声援を、此方の危機は他人事かと羨まし気に咲は見遣り、
――眦に、引き攣れを僅かに覚えた。
囃す淑女の声援の高さから、その向こうに垣間見える背の持ち主が雨月颯馬のものであると気付いたからだ。
「……あら?
雨月内部も大変でしょうに、恥知らずにも学院に顔を出す余裕が残っていたのかしら?
――それとも、義王院は状況に追いつけなかった?」
まぁ、それは無いわね。咲が向ける視線の先に気付いた、嗣穂の辛辣な独白が誰に向けられるでもなく虚空に散る。
國天洲から続く水気の龍脈に、明確な瘴気が混じり始めたのはついこの間のことだ。状況は好転の兆しを見せることなく悪化の一途を辿っていることは、陰陽師伝いに噂として流れ始めている。
「嗣穂さま。その、彼はどうなるんですか?」
「さぁ? 興味も無いわ。
八家の本分も忘れた愚物の残り滓、処分するのは私の管轄でもないし。
……あぁ。静美さまも、私と同じ意見の御様子ですよ」
「…………え?」
感情すら乗らない嗣穂の応えが、咲の心配を鰾膠も無く斬り落とした。
視線を上げると、右府舎の窓際から見下ろす義王院静美の無情な視線が視界に入る。
――天領学院の女学部には、侵すことの赦されない花が二輪咲いている。
奇鳳院の後継たる嗣穂と義王院の後継たる静美の2名。
その一葉と咲く静美は笑顔を絶やしたことのない、蕾が綻ぶ儚い鉄砲百合の美しさと謳われていた。
しかし窓の硝子越しに見える彼女は、その微笑みすら凍てつく視線しか覗かせていない。
その視線が映す先が練武館の歓声である事に気付き、咲は暗澹たる未来に憂いを覚えた。
もう片方の百合と謳われる嗣穂は、思案から頤に指を当てる。
「接触は昼の方が良いわね。
奈津。午後は所用にて欠席との旨を連絡しておいて。
咲さんも、午後は欠席扱いにしておくわ。
――間違いなく、長引くでしょうし」
「あ、あの。私は……」
「先刻も云いましたけど、顔合わせはしておきなさい。
向こうからすれば、私たちは晶さんを掠め盗った泥棒猫よ。
特に咲さんは教導として晶さんとの付き合いは随一に長い、義王院の矛先は免れないわ」
「………………………………はい」
教導は奇鳳院からの勅旨と云えど、此処まで堂々と巻き込まれれば文句の行き端も無くしてしまう。
それに嗣穂にも静美にも、晶の扱いに関して一言は云いたくあった。
公のものでは無いが、咲は晶の教導を任じられた身である。
その眼から見ても婚約関係とあったにも関わらず、両名とも晶との接触を相当に控えていると見えたからだ。
そればかりか、どうにも意図的に晶との接触を避けている節すらある。
晶を厚遇するために咲を出しにするなど、どうにも政治に近い力関係がそこに働いているように見えるのだ。
――仕方がない、か。
不満の持って行き先を強引に奪われて、嘆息一つ、咲は思考を切り替えた。
訊きたいことは他にもあるのだ、こればかりに意識を注げるほどの余裕はない。
「もう一つ、お尋ねしたいことがあります。
――これは何時、涅槃教に返却されるのでしょうか?」
困惑を浮かべたまま、咲は己の鞄へと視線を走らせた。
其処には、結わえられた白く捻れた杭。
涅槃教の神器の姿があった。
鴨津の一件で回収されたパーリジャータは二本。源南寺に収められていたものは奇鳳院の保管と相成ったのだが、もう片方は何故か咲の手元に戻されたのだ。
咲は涅槃教の信者ではない。粗雑に扱う心算は毛頭無いが、行使えもしない他国の神器を持ち歩くのは正直手間に過ぎる。
「咲さんには申し訳ないと思いますけど、それは返却できるものでは無いのです。
潘国と交わした約定の要となっているパーリジャータは、源南寺に収められていたもののみ。つまり咲さんが所有している方は、近年に持ち込まれたものとなります。
高天原にパーリジャータがもう一つ存在していると知れば、此方の関与が無くとも潘国は黙っていることは無いでしょう」
「……………………策謀したものは、そこまで意図していたのでしょうか?」
咲の記憶に蘇るのは、此方に姿を現さずに逃げおおせた神父の存在。
この神器を放置しても高天原には手出しができないと履んでいたのか、そう考えていたのならば随分と周到に用意された小道具である。
「いいえ。恐らくは回収する余裕が無かったのでしょう。
守備隊が出払い、『導きの聖教』の信徒たちが立て籠もる。手薄になったその隙に、神社からパーリジャータを奪取する。
報告を見る限り、それが相手の思惑だったはずです」
「そう推察された理由をお訊きしても?」
「波国の協力を使い捨てにできても、神器の替えは効かないからです。
――早々にあれを放棄することは、相手側にとっても誤算だったはずですよ」
その割りには、村の水脈を弄る程度の粗雑な扱いであったが。
嗣穂の口振りから別の確信が見えてとれたことで、疑問は尽きなくとも咲は矛先を収めた。
口にしないという事は、咲が知らなくてもいいという事だ。
それは詰まるところ、咲が知れば厄介なことになる可能性があるという事でもある。
此処まで、四院の都合に随分と振り回されているのだ。
これ以上、殿上人の思惑に関わる心算を、咲は持ち合わせていない。
だが、
「……それは、私がパーリジャータを持たされている理由にはなりませんが?」
気付いていましたか。右府舎に向けた歩みを止めずに、嗣穂は悪戯っぽく微笑んだ。
パーリジャータの返上が咲の意図であることは、気付いてはいた。
晶の経験を鑑みるに、教える事は容易だがそれは咲のためにもならない。
今後のことを考えるに、咲は自身で気付かなければならないだろう。
朱華の行いが。何よりも、嗣穂の直感がそうせよと囁くのだ。
……だが、気付くためのとば口くらいは良いだろう。
「咲さんに所持を命じた理由は内緒です。
――が、そうですね……。涅槃教の奉じる大神柱、シータが司る象をご存知ですか?」
「……いいえ」
高天原に根付いたとはいえ、涅槃教は潘国の宗教である。その詳細など、華族の咲には縁の薄い教えであった。
云い淀む咲の姿を微笑ましく見遣り、嗣穂は咲のみに届く呟きを紡いだ。
「シータが司る象は、救世。現たる世の救済です。
パーリジャータは、28本から為る世界最多の神器。
――忘れなきよう。神器とは、神柱の象を別けたものでありますが、神柱そのものではないと云う事を」
燦々と降り注ぐ陽光の元、嗣穂の呟きは咲の思考に長く残ることになった。
高天原の各地から次代を牽引すると目される子弟が集まる天領学院は、当然、帰還にかかる日数も区々だ。
その為か本格的な授業の開始には大幅な余裕を取られており、嗣穂たちが天領学院に戻ったのも正規の授業が始まる一週間前のことであった。
「静美さまは中央棟に赴かれたと?」
「はい。姿も目撃されていますし、間違いは無いかと」
「……人目を引きたくない会談だし、都合が良いのはそうだけれど」
人通りの少ない校舎の廊下。怪訝そうな嗣穂の問いかけに、後方に控えた和美の応えが迷いなく返る。
前期の復習を主軸に置いた午前の授業を恙なく終えた昼下がり。嗣穂と咲は静美との会談を持つべく、天領学院の中央棟へと赴いていた。
生徒自治を主眼に置いた部活棟に隣接するそこは、男女共有となるためか男性の利用は多くとも四院の一角となる女性には余り縁がないはずの場所である。
「…………くが行きません。
一体何が問題だと仰りたいのですか?」
「――それが判っていないからだと、未だ理解に及ばぬか」
階段の向こうから響く喧騒に、嗣穂の眉が顰められた。
片方は静美。であるならば、もう片方は直ぐにも予想はつく。
「……雨月颯馬、厄介を引き摺ってくれているようね」
「颯馬くんを引き離しますか?」
堪りかねた咲の提案を、嗣穂は首を振って却下した。
下手な第三者が明確に入り込めば、余計に状況が拗れる可能性があるからだ。
溜息一つ。嗣穂は意を決して、二人の間へと足を向けた。
第三者であっても嗣穂の家格であるならば、颯馬を退かせることも可能と踏んだからだ。
階段を上がり切った先には、予想通り静美と颯馬の姿。
殺気だった静美の側役二人が乱入してきた一団を排除せんとばかりに視線を向けるが、奇鳳院の姿を見止めて顔を伏せた。
「――お話し中、失礼いたします。
お久しぶりです、静美さま。少し御用がありますが、宜しいでしょうか」
「……ええ、問題ありません。
話は以上です、雨月颯馬。下がりなさい」
「いいえ、下がる訳には行きません。
此度の雨月に対する冷遇、義王院であってもかなりの強権と批判されているのはご存知のはずです。
國天洲の現状に加えて神嘗祭も間近、このままでは人心が義王院から離れかねません」
自身の領地が追い詰められているからだろう。必死に食い下がる颯馬だが、素気無い静美の視線を揺らすことは叶わない。
咲の記憶にある限り常に冷静な微笑みを浮かべていた颯馬の表情が、焦りに歪んでいるのが透けて見えた。
「賦役に就かぬ身で、静美さまに言上とは。
優秀と聞いてはいたが、随分と思い上がっているようね」
「先輩といえ、同行に口挟まれるほどではないかと」
「へぇ。雨月が吠えてくれるじゃない。
身の程を教えてあげてもいいのよ」
せせら笑うそのみの挑発を受けて、颯馬の応酬が返る。
嗣穂の乱入を受けて尚、ひりつく雰囲気は膠着の様相を崩すことは無かった。
その時、
「――やぁ、お取込み中だったかな?」
「誉さま!?」
三者三様。話の進まない状況に如何したものかと思案に暮れていると、その背中から快活な女性の声が掛かる。
予想もしなかった乱入者に視線を向けると、其処には意外な人物が笑みを浮かべて立っていた。
高天原では想像もつかない程に短い髪をした女性の姿。この髪形をした女学生は天領学院には一人しか在籍していない。
玻璃院誉、天領学院の最終学年に在籍する玻璃院当代の妹。
その髪と言葉遣いこそ教職員に顔を顰められるが、それ以外は優秀であり、颯馬が破るまでの歴代最優秀を守ってきた女傑である。
「……何か御用でしょうか?」
「うん、颯馬くんにね。
不破家から連絡が入っていると思うけど、玻璃院当主も話を聞いておけって。……母親になってから、随分と口煩くなってくれた。
僕にまで飛び火させなくても良かろうに、ねぇ?」
「ちょ、一寸、待ってくださ……!」
いいかい? 言外にそう口にしながら、颯馬の背を押して強引に席を外させる。
抵抗の様子を見せるが、誉の揺るがない視線を受けて渋々と颯馬は口を閉じた。
階段下へと去る間際、嗣穂たちへと振り返る。
邪気の感じさせない笑顔が、茶目っ気たっぷりに片目を閉じてみせて視界から消えた。
台風一過。拗れた状況が原因ごと鮮やかに持って行かれて、残された義王院と奇鳳院の両名は視線の遣る先を彷徨わせる。
「……とりあえず、助かりました。
このお礼は後ほど」
「……いいえ、お気になさらずに。
……ですが、宜しかったのですか? 神嘗祭を目前にしてあそこまで拗れると、婚約関係に後を引きますが」
「そうですね。雨月との婚姻関係も見直さなければなりませんね」
気まずい雰囲気を流すように、静美が口火を切った。
返る嗣穂の応えも、当たり障りを見せることは無い。
「あら、そこまでではないでしょう。
学院では学生の身分を越える事はありませんし、優秀とはいえ私たちと同年の若輩。
長い目で見ることも必要ですよ」
「それは義王院が決定することです。
――では」
気まずい雰囲気を呑み込み、話は終わりとばかりに静美は嗣穂とすれ違う。
――そして、
その背に投げ掛けられた言葉に、その歩みは数歩で終わりを告げた。
「そうそう。私も婚約が決まりました。
今日は、静美さまにその一報を届けたくて」
「それは、
……おめでとうございます」
「ありがとうございます。
実は平民出身の方なのですが、奇鳳院から是非にと願いまして」
「平民出? 選考が随分と揉めたのでは」
「いいえ、選考もしていません。
何しろ、あかさまが大層に御気に入られたので」
どの位階の精霊を宿すかは、血統によりほぼ決定されるのは常識だ。
ごく稀に平民が中位精霊を宿すこともあるが、大抵の場合に於いて次代に代わると下位精霊に落ち着くことは常識として知られている。
だが、大神柱が推したとあれば話も変わる。それは神柱が、英雄の器であると認めたという事だ。
その場合、人の社会が通す道理は総て無視される。
そして、記憶に浮かび上がる。晶を隠していると目した、候補地の一つ。
疑念は、
「どうにも3年前に華蓮へと来られた方ですが、國天洲の生まれだそうですよ。
――そう、廿楽で放逐の憂き目を見たとか」
――確信に変わった。
音も無く、表情も無く。鉄砲百合と謳われた少女が一葉、感情の抜け落ちた視線を高砂百合と謳われた少女へ向けた。
「……晶さんは、
健やかに過ごされておいででしょうか?」
「――話は長くなりそうですね。
時間はよろしいでしょうか?」
神気すら滲む視線の圧を微笑みと受け流し、嗣穂はそう話をはぐらかす。
夏の微風が、我関せずの穏やかさで廊下を渡る。より一層の不穏さを孕んだ二輪の百合は制服だけ微風に戦ぐのを任せ、その視線を銃火に変えて火花と散らした。
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