閑話 天泣に頬は濡れて、戸惑うも遠く1
――國天洲、山中。
「ぐ、、く、っは、、、」
咳き込む度に肺腑が灼けつく痛みを主張して、不破直利は堪らず苦鳴に身体を捩った。
夜露の名残か。濡れた岩肌を搔き毟ると、爪の間に緑苔の残骸が黒々と蟠る。
くそっ。人の気配が失せた周囲に救援は暫く無いだろうと理解し、喉先に迫る悪罵を大きな嘆息に変えた。
……失態。それも特大の。
自身が滑り落ちてきた崖の肌を必死に伝い、岩陰にその身体を転がし落とす。
冷たく濡れる岩肌に否応なく体力を奪われるが、構わず更に奥へと息を潜めた。
その時、
―――呼、呼、涸、虚……。
感情の響かない、硬質く冷酷たい慟哭が、直利の隠れる山間に落ちた。
……足音は無く、慟哭の源もただ人に非ざる高みを縫っている。
全身に走る鈍痛を堪えながらも隠形で幾重にも己の身を縛り、直利は岩陰の隙間からそろりと声の先へと視線を遣った。
―――涸、、、
その先に立つのは、袈裟を身に纏った僧侶の似姿をした異形一つ。
身の丈は2丈に及ぶだろうか。その巨躯に収まる頭部はつるりと凹凸が無く、その向こう側が透けて見えるほどに境目が曖昧だ。
「何処が土転ビだ、日垂ル神だろうが。見間違いで済むような怠慢じゃないぞ!!」
三ヶ岬領での討滅応援を無事に果たして帰る足が、五月雨領の目前まで至った頃。
頻発する瘴気の災禍に巻き込まれた直利の帰還は、当初の予定から遅れに遅れていた。
足留めから長逗留を願っていた領地への合力を目的として、直利はその領地の東に出没する土転ビの討滅手伝いに出てきていた。
土転ビは中位の穢レでも巨きい部類に入るが、その巨躯に見合わず穢レの中でも臆病で弱い。
しかし土行に属する土転ビは國天洲との相性が頗る悪く、守備隊の人数も揃っていない小領の威勢は挫かれていた。
其処に訪れたのが八家直系、それも木行の衛士である。
これ幸いにと機会を逃さず、領主は揉み手で直利を迎え入れたのだ。
軒先を借りた手前もあり、直利は然程、渋ることも無く二つ返事で依頼を承諾した。
何故ならば、木克土。五行に於いて土行に克ち得るのは木行であり、土転ビであれば群れていようが単騎で打破した実績が直利にはあったからだ。
――しかし、討滅に向かう直利たちを、日中、それも日のかなり高いうちに木立の向こう側から来襲したのは、身の丈こそ同じ程度であれど属する五行も脅威も全く違う日垂ル神。
何しろ神と嘯かれるほどにこの妖魔は強く、厄介さは群を抜いている。
その上で属するのは金行だ。
金克木。木行である直利にとって、日垂ル神との相性は最悪であった。
掻き集めた守備隊は予想もしなかった日中の強襲に為す術なく喰い破られ、何とか直撃を避けた直利も衝撃に煽られて崖下へと吹き飛ばされたのだ。
――肋骨が数本、折れては無いのが幸いか……。
響く疼痛に最悪でも罅程度だろうと、直利は努めて冷静に判断を下した。
手を腰に回して留めてあった呪符入れを弄る。しかし衝撃で留め金が外れたのか、回生符を求める指先は撃符が数枚残るだけの底を引っ掻くだけに終わる。
幸運に怪事がついてくれたか。気まで滅入りそうになる疼痛を嘆息と吐き出し、直利は濡るのも構わずに岩陰に背を預けた。
……どうにも晶くんの訃報を聴いてから、身の回りで厄事が続くな。
個々は細々としたものに留まってくれていたが、此処にきてツケを支払うような窮地はどうしたことか。
――土地神の領域から出れば加護が低減するのは当然だが、そうだとしてもこれは……。
まるで恩寵が喪われたと錯覚しそうになるほどに、今の直利には土地神の加護を感じることが出来ない。
加えて、周辺の瘴気が随分と濃くなった気がする。
瘴気溜まりでもないのに中位の穢レが日中を闊歩するなど、一ヶ月前には考えられなかった事態であろう。
「八方塞がりか? ……いや待て」
気弱に繰り言しか漏れない口を閉じてやろうと眉間を押してから、記憶に過ぎる僅かな光明に奔る痛みを忘れて身体を起こした。
焦燥に滑る指先が衿裏に縫われた隠し袋を探り当て、中身を摘まみ出す。
指の間には、拙さの残る手跡で認められた回生符が一つ。それは、晶が作成した回生符であった。
嘗て晶が作成した回生符はほぼ全て晶の金子になるように手配したが、最初に完成させたこの呪符だけは売るにも忍びなくお守り代わりとして直利が預かっていたものだ。
晶が作成した以上、精霊力の無い空の器であるが、幸いにも直利の精霊力はほぼ損耗も無く残存している。
応急で精霊力を籠めれば、子供の拙い呪符と云えど肋骨の罅程度は完治が望めるはずだ。
日垂ル神に察知されないよう、慎重に精霊力を練り上げる。
疼痛の細波に意識を浚われそうになるも、直利は回生符に精霊力を向けた。
――ぱち。
「……馬鹿な」
小さく爆ぜる音に、直利の双眸が瞠目に開かれる。
精霊力が回生符の精霊力と干渉し、抵抗の証が火花と散ったのだ。
そんなはずはない。その思いから現実を否定しつつ、直利は回生符の霊糸を斬った。
果たして、
――煌。
解放された呪符から黒い精霊力が燃立ち、転後、癒しの熾火が直利を包む。
精霊を宿さない晶では精霊力を籠めることは叶わない。それは直利のみならず、雨月に籍を置く者たちの共通認識であった。
――何よりも直利は、晶が回生符を書く、その一部始終を見続けている。
晶が呪符に精霊力を籠めることが出来ていた。
その事実は、直利の思考から更なる問題を引き摺りだした。
「……落ち落ち死んでもいられんな」
直利を舐める癒しの炎が疼痛を幻と消し去り、自由を取り戻した身体を岩肌から離す。
――腰に佩いた己の太刀を抜刀いて気息を整え、直利は身を潜めていた岩陰から跳び出した。
跳ねる身体が宙を舞い、煽られた羽織が風と踊る。
直利を察知したのか崖下を彷徨う日垂ル神が、押取り刀で此方にその巨躯を向けようと身体を捻った。
遅い。
先手の速度は、直利に一歩を長じる事を赦してしまう。
渦巻く精霊力が刃に宿り、飛斬の意思と迸った。
玻璃院流精霊技、初伝――鳶尾。
―――虚!
「くぅっ!!」
奇襲。それも頭上を取った理想的なそれ。
にも関わらず、日垂ル神の咆声が衝波と形を変えて、精霊技諸共に直利は後方へと弾き飛ばされた。
玻璃院流は、近距離に於ける攻撃手段で随一を誇る。
しかしそれは、裏を返せば攻撃圏外に対応する手段が乏しいことを意味していた。
……数少ない遠距離攻撃の一つ。鳶尾で日垂ル神の懐に潜り込むまでの間繋ぎを狙うものの、相手の呪術に精霊技ごと身体を引き離されたのも痛かった。
――これが怪異に迫ると謳われる妖魔、日垂ル神の厄介さか!
懐に入り込めなかった以上、直利に勝利の目が向く可能性はかなり薄い。
――それでも退くは衛士の恥晒し。精霊器を平正眼に構え、僅かに落とした腰から捻じるようにして地面を蹴った。
―――涸、呼、……虚ッッッ!!
「疾ィィィイイッッ!!」
衝撃を練り上げた無形の飛礫が、日垂ル神から幾重にも放たれる。
過剰に籠めた精霊力で衝撃を去なしながら、直利は地面擦れ擦れまで身体を落とした。
疾走るその背中を、紙一重で衝撃が過ぎていく。
日垂ル神の巨躯が仇となったか、射線が下へと取り辛いのだ。
―――呼、、涸ッッ!
直利の刃が届くまで残り数歩と迫った時、日垂ル神の咆声がその感情を変えた。
其処に含まれているのは、明瞭な苛立ち――!
「ぐ、、!!」
瞬後、砲弾と化していた瘴気が波濤と移ろい、直利の頭上から圧し掛かった。
莫大な瘴気の質量に、駆ける脚速が鈍る。
それでも此処まで詰めた間合いを、無為に帰する訳にはいかない。
玻璃院流精霊技、初伝――。
「唸り猫柳!!」
重ねられた身体強化の精霊技が圧し潰さんとする瘴気の重さを撥ね退け、
――最後の一歩。
―――虚!
相性の有利、そして格下である筈の小兵。侮っていた直利から放たれる気迫に圧されたか、日垂ル神の足元が迫る直利に一歩を譲る。
「――退いたな? 日垂ル神」
日垂ル神を追い打つ鋭い挑発。
「それは詰み手と教えてやる!」
八家直系。その看板に相応しい精霊力が、猛りながら直利の身体を取り巻いた。
潜り込んだ懐から日垂ル神を逃さじと、直利の太刀がその鳩尾に突き刺さる。
退き知らずの玻璃院流。
此処までの接近を赦したのなら、相性の良し悪しが有ろうとも玻璃院流に退くの一言は在り得ない。
玻璃院流精霊技、中伝――。
「仰ぎ水仙!」
半ばまで食い込んだ刃が、迸る精霊力で日垂ル神を逆裂きに卸さんと牙を剥く!
がつ。しかし僅かに進んだところで、日垂ル神の掌に阻まれた。
日垂ル神の抗いに瘴気が応じ、直利の刃から精霊力を削り落とす。
―――涸!! 「ふ!」
夏の戦ぎに去る蠟燭の灯にも似たその儚さに、擬神と直利の呼吸が交差した。
莫大な瘴気の渦に太刀の鎬が悲鳴を上げ、直利の羽織を蝕み散らす。
そこまで追い込まれても更に一歩と踏み込むが、日垂ル神の巨躯に対して直利が刻み得た刃の痕は軽傷に過ぎない。
死に及ばぬ刀傷。瘴気に曝され、死に体と追い込まれる直利の姿。
明白な隙を勝機と見たか、眼前の妖魔は2丈の巨躯に任せて圧し潰さんと直利に迫った。
「云ったはずだ」
―――涸虚ッッ!!??
だが勢い込む妖魔に返るは、冷酷なその宣言。
精霊器を掴む妖魔の両腕が、その直後に半ばから断ち切られた。
「それは、詰みだと――!!」
精霊器から手を離した直利が代わりに掴むのは、腰に佩いたもう一つの太刀。
精霊器ではないが、鍛え上げられた業物の一振り。
そして、ただの刃金を精霊器とする玻璃院流の奧伝。
――泥黎扶桑。
精霊力が鍛鉄を崩壊させながら翻り、直利の身体が日垂ル神の懐深くに潜り込む。
旋風と舞う直利の斬り断つ意思が刃金に宿り、然して抵抗も赦さずに日垂ル神の膝を両断した。
―――虚ォォォオオ!?
両手足を失い地に伏せる日垂ル神を避けた直利は、太刀を振り捨てて地に落ちた精霊器を再び掴む。
玻璃院流精霊技、止め技――。
「重ね栴檀、」
堪らずに横転する妖魔が晒すは、無防備な頚部。有無も云わさず、そこに直利の刃が喰い込んだ。
落とされる斬断の一撃が瘴気の護りを吹き散らし、
「刈り椿――!!」
同時に打ち込まれた二撃目が、日垂ル神の頚部を見事に断ち割った。
「吹ウゥゥゥウ――」
残心からの納刀。
刀の峰が伸びたか、納刀の手応えに僅かな抵抗を覚える。
これでは精霊器を打ち直す必要があるなと、直利は自身の未熟さに自嘲した。
懐を弄ると、幸いにも生き残った清め水が指先に当たる。
死体と云えど日垂ル神は瘴気の塊だ。流れ出る瘴気に土地が穢される前に、清め水を死体に振り掛けた。
――芒。
清め水に充てられたか、死体が青白く燃えて塵と崩れていく。
その様を眺めながら、直利は気鬱を呼ぶも承知で嘆息混じりに独白を漏らした。
脳裏を過ぎるのは、先刻に行使した回生符の燃え散る光景。
――癒しの炎。
「晶くんが回生符を作成れていたとは。
……彼は、このことを気付いていたのか?」
そう口にしてから、愚問と己を嗤ってやる。
聡い子であった。少なくとも、放逐されてからそう間もないうちには理解に及べていたはずだ。
3年。碌に処世も知らない年齢10の少年が生き残るには、余程の幸運か金子を必要とする。しかし、回生符が作成れていたのならば、その疑問も氷解する。
そして、ここからが問題だ。
――直利が行使した回生符は、回気符以外で晶が完成させた最初の呪符だ。
呪符の作成には、何よりも精密な霊脈の制動が必要となる。
この為に敢えて霊脈を疲労させて、その脈動を自覚させる修練法があるほどだ。
回気符で霊脈の脈動を自覚できなかったため意識はしていなかったが、今後の事を考えて、回生符の作成を100枚ほど晶に指示していた。
そして、その一部始終を直利は見届けている。
ぞくり。己の思い違いに、悪寒が直利の背筋を舐めた。
精霊力を計る単位は存在しないが、中位精霊を宿す陰陽師が回生符に精霊力を籠めても一日に5枚が限度だ。
それを100枚。しかも作成に際して、霊脈に無理を重ねた様子も無かった。
あれら総てが完成していたというならば、単純計算でも陰陽師20人分の精霊力を晶は有していることになる。
「……急ぎ、廿楽に戻らねばいかんな」
難敵であった日垂ル神を討滅した快挙に興奮は薄く、直利は踵を返した。
その胸中に在るのは、多少無理をしてでも領境を超える覚悟。
守備隊の生き残りだろうか。複数の人間が騒めく気配が、直利が向けた足の先に届いた。
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