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泡沫に神は微睡む  作者: 安田 のら
一章 華都奏乱篇
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2話 焼塵に舞うは、竜胆一輪3

「さて、と」


 咲は、攻撃地点から助走(・・)のための10歩分の距離を取った。

 その手に持つ丹塗りの薙刀を、舞うように手の中で2、3回転、踊らせる。

 先端が弧を描くその度に、刀身に籠めた咲の精霊力が菫色の燐光を舞い散らし、余剰の力が炎に換わって真円を描いた。


 南部珠門洲に君臨する神柱(みはしら)は、炎を(つかさど)る神性だ。当然、その神の庇護を受ける者たちに宿る精霊は、火に属する者が多い。

 咲の宿す精霊が炎の属性を持っているのも、必然の流れなのだろう。


()くよ。力を貸してエズカ(ヒメ)

 己の魂に寄り添う存在(上位精霊)が心の何処かで微笑むのを感じた瞬間、莫大な霊力が昇華され精霊力となって渦を巻いた。

 自身の身体から噴き上がる菫色の精霊光が、渦巻きながら自身の精霊器である焼尽雛(しょうじんびな)に収束する。

 燐光が弾けるのと同時に炎となって、咲の周囲を灼いた。


 焼尽雛(しょうじんびな)を構えて、僅かに腰を落とす。

 その時、夜闇の奥から追い立てられてきた猪の群れが、晶たちとぶつかり合った。

 がりがりと音を立てて迫る猪に負けじと、晶たちが1歩力強く猪を押し込む。

――同時に、咲が宙を滑るような歩法で10歩分の間合いを瞬時に詰めた。


 奇鳳院流(くほういんりゅう)精霊技、初伝――


 左の軸足で力強く地を踏みしめ、助走で得られた慣性を取り零さぬよう刀身にまで伝える。

 全身の回転を加えながら、未だ攻撃圏内の外にいるはずの猪目掛けて、掬い上げるように斬り上げる斬撃を放った。


「――燕牙(えんが)


 薙刀の刀身が焔を纏いながら緋色の真円を描き、そのまま炎の斬撃が地を翔ける燕の如く猪と楯の間を(はし)り抜けた。

 しかし、燕牙(えんが)は斬撃を飛ばすだけの、本当に初歩の精霊技だ。猪の進路を変えるほどの持続性(・・・)は持っていない。

 故に本命は次に繋げる技となる。

 燕牙(えんが)を放った勢いを一切止めず、いまだ焔を纏う刀身で二度目の真円を描く。

 それは、二連続での攻撃を前提にした精霊技。


 奇鳳院流(くほういんりゅう)精霊技、連技(つらねわざ)――


「――緋襲(ひがさね)!」


 先に奔る燕牙(えんが)の後を追うように、火閃をなぞって(ほとばし)る炎の奔流が晶たちと猪を更に分けた。

 身体の右半分を焼かれて、苦鳴(くめい)すら上げずに倒れ伏す猪の傍らで、炎を(いと)って啼く猪たちが理想の位置まで進路を変えた。


「――流石…」


 思わず、感嘆の声が晶の喉から漏れた。未だ燃え盛る炎の壁が、晶たちと猪を完全に隔てている。

 厳次たちがいるから、精霊技そのものを見るのは初めてではない。

 しかし、咲の放った精霊技は、威力の次元が違った。

 初伝の技が、中伝の威力に匹敵している。晶たちが踏み出した1歩の先は、炎が舐める灼熱の世界だ。

 この中で生きられる穢レはいない。そう思ったのか、隊員たちの気が少し緩んだ。


 その時、大きく炎が膨れ上がる。

 そして、濃密な瘴気に護られて、異形の猪が炎の奔流に逆らいながら姿を現した。


 晶は勿論(もちろん)のこと、咲も勘違いをしていたが、(ヌシ)は突然に発生するものではない。瘴気が(こご)って変異するのが(ヌシ)である以上、当然、成りかけと云える状態の穢獣(けもの)も存在する。

 外見はただの穢獣(けもの)だが、(うち)に秘めた瘴気の濃度は桁が違う。


 運悪く、晶たちはその成りかけに遭遇したのだ。


 猪は晶たちに目もくれず、炎を放っている咲に赤黒く染まった眼球を向けた。

 そのまま、己を灼く業火を物ともせずに、咲目掛けて狂奔を始めた。


 精霊技を維持している咲は、その猪への対応が僅かに遅れる。

――このままでは、咲は踏み潰される。

 そう思ったとき、晶の身体は無意識のうちに動いていた。


 炎の奔流に逆らっているとはいえ、強大な成りかけ(・・・・)穢獣(けもの)が叩き出す爆発的な瞬発力を一時的に超え、精霊技を強引に破られたことで固まっている咲の元に一足(・・)で到達する。


――考えている暇は無かった。

 咲の襟首を掴み、猪の進路の外側に強引に振り投げる。

 結果、咲と晶の位置が入れ替わるような形で、晶は真正面から猪の突進を受ける羽目になった。


――ごぉん!!!

 辛うじて構える事の出来た楯越しに、猪がぶつかる。

 岩か何かがぶつかったかのような音とともに、晶の身体に今まで感じた事の無いような激甚な衝撃が走った。


――― ()イイィィィッッッ!!!


「ぐぅぅぅおぉぉぉっっ」


 継続して走る衝撃と痛みに、晶の喉から苦鳴が漏れる。

 本来、楯班の役割は、穢レの側面を楯で押し込んで進路を変えるものだ。

 いかに鍛えて頑丈とはいえ、真正面から穢レを受け止める事なぞ想定すらされていない。


――そして、それは晶の持つ楯も同じであった。


 堅牢な樫材製の楯が、びきびきと不吉な音を立てる。

 無理もない。猪の突進に加えて、濃密な瘴気に()てられているのだ。

 拮抗できたのは一呼吸分も無く、一瞬で楯が内側まで腐食して裂け割れ始めた。


 楯の上端が大きく割れて、隙間越しに狂乱に燃える(あか)凶眼(マガツメ)と晶の視線が交差する。明確な呪詛が混じった瘴気が、呼吸とともに僅かに肺へと侵入(はい)り、肺腑を侵される激痛に意識が飛びかけた。


 迷う暇は無かった。全身で猪の勢いに抗いながら、腰に結わえた私物のポーチに手を伸ばす。

 親指で留め具を弾いて、中から呪符を一枚、人差し指と中指に抓んで引き出し、楯が壊れるのと同時に猪の眼前に投げつける。

 投げてから戻る指で剣指を作り、流れるような一挙動で霊糸を斬って呪符を発動させた。


――その瞬間、晶の視界全てが凍てついた。


 晶が使用したのは、自身がコツコツと貯めた金子で手に入れた水界符だった。

 界符(結界系統)は、回生符に次いで高価な呪符だ。使用されるのも恒久結界の補強補助のために使用されるもので、こんな一時凌(いちじしの)ぎの結界を張るためだけの贅沢な利用は考えられていないものだ。


 晶にとっても虎の子の界符は値段相応の威力はあったようで、割れた楯を中心に成りかけ(・・・・)や倒れた猪がまとめて氷漬けになっていた。


「…っすげぇ」


 未だ瘴気で痛む喉を押さえながら、初めて使用した界符の威力に思わず感嘆の息を漏らした。

 強大な成りかけ(・・・・)穢獣(けもの)が完全に氷に覆われている。

 とりあえずの危機は去ったかと安堵したその時、氷越しに猪の凶眼がじろりと晶を睨みつけた。


 思わず1歩後退る。

 ただでさえ(おお)きな猪の(からだ)が、氷の向こう側で更に膨れ上がった。


――ばきり。氷の表面に大きく罅が入る。

 同時に氷の表面に貼り付いていた界符が、音も無く焼き切れた。

 この光景に嫌でも現実を認めざるを得なかった。結界で封じた穢獣(けもの)が、その内側から強引に結界を破ったのだと。

 罅の隙間から、猛烈な勢いで瘴気が吹き付けてくる。

 それを、正面から浴びてしまった。


 身体が竦んだことで、致命的に反応が遅れたからだ。

 濃密の瘴気を再度吸い込み、晶はその場に倒れ伏しかけた。


―――()イイィィィッッ悪悪(ヲア)ァァァ!!!


「ぐぅうっ!」


 ばきん。氷が割れ飛び、自由になった猪の頭部が、嚇怒(かくど)呪詛(じゅそ)が混じった叫びを啼き上げた。

 悪意に塗れた意思の波濤(なみ)が、ただでさえ動けない晶を打ち据える。

 辛うじて顔を上げた晶の視界に、自身を踏み潰さんと自由になった前脚を大きく振り上げた猪の姿が映った。


「――退きなさいっ!!」


 咲の怒声と共に襟首をむんずと掴まれ、先に晶がしたように猪の攻撃圏外へと放り投げられる。

 間一髪で前脚が振り下ろされ、地響きと砂埃(すなぼこり)がその威力を伝えた。


 巻き上がる砂埃を吹き散らしながら、晶と咲が別々の方向へと飛び出る。

 激痛に意識の飛びかけた晶は、受け身を取ることもできずに地面を転がった。

 氷の結界に封じられかけたのがよほど矜持(プライド)に障ったのか、猪の視線は、寸前まで目を向けていた咲に寸毫も目をくれず晶のみを睨み付けていた。


――その隙を見逃すほど、咲は愚かではない。


 腰を据えて、焼尽雛(しょうじんびな)を構える。


「威ィィアァァァッッ!!」


 裂帛の気合と共に吶喊。

 隙だらけの脇腹に向けて放つのは、(ヌシ)の防御を()いて致命を(もたら)す一撃。


 奇鳳院流(くほういんりゅう)精霊技、中伝――


「――啄木鳥徹(きつつきとお)しっ」


 その一撃が叩き込まれた瞬間、幾重にも重なる爆発が猪の強靭な体表の一点を襲った。

 無数の爆発が猪の防御を強引に喰い破り、焼尽雛(しょうじんびな)の刀身がその体内に完全に埋もれる。


―――()ィッ!


 流石にその苦痛は無視できなかったか、猪の鳴き声に明らかな苦鳴が混じった。

 しかし、それだけで攻撃を終える訳にはいかない。咲は、焼尽雛(しょうじんびな)の刀身に精霊力を集中させる。

 ()じりこむようにさらに刀身を押し込み、内腑に切っ先を届かせた。


 それは、防御出来ない内臓を、直接攻撃する連技。


 奇鳳院流(くほういんりゅう)精霊技、連技(つらねわざ)――


「――鉢冠(はちかぶ)せ!」


 どぉん。くぐもった爆発音の後に猪が棒立ちとなり、ゆっくりと地響きを立てて倒れ伏していった。


 その首元から、肩周りに至る周囲が黒く焦げて変色している。

 黒く穿たれた孔の内側は、完全に炭と化していた。

 強靭な防御が(あだ)となり、鉢冠(はちかぶ)せの爆発は猪の体内に余すところなく広がったのだ。


 穢獣(けもの)の身体構造は、元となった生き物と()したる変わりはない。であるならば、刀身の先には心臓がある筈だ。

 心臓が消し飛べば、如何に強大な成りかけ(・・・・)穢獣(けもの)といえど、生きてる道理は存在しない。

 この群れの中核を、確実に焼き殺した。その確かな手ごたえに、咲は残心を解いて大きく息を()いた。


 ちらりと後方に投げ飛ばした晶に目を遣る。

 未だ濃密な瘴気に(まと)わりつかれた晶の姿は朧気(おぼろげ)にしか確認できず、意識なく地に倒れ伏している事しかわからなかった。


――()ゥオオオォォンッッッ!!!

 晶の元に駆け寄ろうとつま先を向けるその時、咲の後方に広がる木立の向こう側から地鳴りを伴った轟音が響いてきた。

 強大な精霊力の揺らぎが咲に届く。その感触は、天領学院でよく感じた諒太の放つ揺らぎであった。

 彼が群れを二つに割った音だと、直感的に確信する。

 もう既に、二つに割れた群れは、厳次たちが囲い込んでいるはずだ。

 なら、咲がこの場所で足踏みをする余裕なぞ残ってはいない。


「総員、傾聴!」

 迷う事は無かった。

 晶に向けたつま先を轟音のした方に向け直し、班長がいなくなって浮足立つ練兵たちに指示を挙げた。

「班を二つに分けなさい! 一つはまだ息のある猪を班全員で囲んで確実に止めを刺す。残りは周辺の警戒と安全確保!」


「「「は、はいっ!!」」」


 基礎の指導は行き届いていたのか、慌ただしくも的確に動き始めた練兵たちに、決して無理をするなと云い置いて、咲は自身の役割を果たすべく音のした方へと駆けだした。


 丹田(たんでん)に精霊力を集中させて、全身の霊脈の流れを加速させる。

 それは、奇鳳院(くほういん)に限らず、上位精霊を宿す者が必ず最初に習い覚える身体強化の精霊技。


 奇鳳院流(くほういんりゅう)精霊技、初伝――


「――現神降(あらがみお)ろし」


 地を蹴る咲の足元で、爆発したように木の葉が舞う。

 その現実を置き去りにする速度で、咲が加速を始めた。

 迫る木立を難なく(かわ)し、その間を踊るように抜けていく。


 2度目の轟音が、急ぐ咲の耳にも届いてきた。

――諒太が、自身に割り当てられた群れを殲滅(せんめつ)したのだろう。

 あまり好ましく思えない人物だが、諒太の実力は折り紙付きだ。

 学院で叩きのめされた経験から暫くは大人しかったが、成功体験が再び彼をどういう方向に向けるのか、経験の浅い咲には判らなかった。

 それに、久我のご当主から直々に頼まれている手前、増長されるような弱みはあまり見せたくは無い。


 猪たちが駆け抜けた跡を見つけて、その跡に沿って更に駆けた。

 予定の場所まであと少し。焼尽雛(しょうじんびな)を後ろに構えて精霊力をさらに高める。

 諒太が精霊技を行使したのだろう、黒く焦げてぽかりと空いた空間に出る。

 その10間(約18メートル)先には、切り立った崖の端が見えた。


 逡巡せず、その崖に向けて全力疾走する。

 走りながら、弛まず精霊力を高めていく。

 高める。高める。

――いつか、その果てが神気に届かんと願いながら。


『――地啼け、裂け割れ、電々太鼓、諸人(もろびと)呑みて、灼け踊れ』


 成功率を上げるために、自己暗示の呪歌を詠う。

 掌握しきれなかった精霊力が、菫色の燐光を放つ火の粉に換わっていった。

 その膨大な火の粉を纏いながら、咲は更に駆ける足を速める。

 10間をほぼ3足で詰めて、咲は迷わず崖の先に広がる宙空へと高く飛び上がった。


 崖下(がいか)には新倉たちと陣地班、そして、彼らに押し込まれて暴れまわる猪の群れ。


 焼尽雛(しょうじんびな)を夜空に向けて高く掲げ、高めた精霊力を一気に集束させる。

 それは、咲が放つ事の出来る最大火力。


 奇鳳院流(くほういんりゅう)精霊技、(とど)(わざ)――


「――石割鳶(いしわりとんび)!!」


 振り上げた刀身が、菫の燐光と炎を纏いながら振り下ろされる。

 それは、さながら獲物目掛けて急落する鳶のように、猪の群れのど真ん中に突き立った。

 どごん。諒太の放つ轟音に比べれば、地味さに勝る音が響く。

 だが、その効果は非常に高かった。


 猪たちの足元が一瞬持ち上がり、崩れるように地割れを起こしながら沈み、逃げようとする猪の足を絡め獲りながら、落ちていく地盤が群れを一気に呑み込んでいく。

 その地割れの隙間から紅蓮の炎が噴き上がり、逃げ場を失った猪たちを余さず焼き殺していった。


「腕を上げたな、お嬢」

 まだ息のある猪に練兵たちが止めを刺している中、一足先に群れを殲滅した厳次が豪快に笑いながら咲に近づいてきた。

「その歳で石割鳶(いしわりとんび)を使う奴はそうそう居ない。ご当主も鼻が高かろうさ」


「そうでもないです。兄さまや姉さまは、もっと早くに使えたって云ってましたから。

……それよりも叔父様!」食い気味に台詞を被せてきた咲に、厳次は目を丸くした。「何だ? お嬢が取り乱すたぁ珍しい」


(きよ)(みず)、在るだけください!」


 (きよ)(みず)とは、神社の清水(しみず)を精製した瘴気(はら)いの水だ。

 呪符に使われる閼伽水よりも宿す霊格は低いものの安価であるため、気軽に使える瘴気(はら)いの道具として庶民に人気があった。

 それは守備隊でも同じで、瘴気を真面に浴びたものに対する対処として、常に持ち歩くように指示が出ていた。


「お、応」珍しい咲の剣幕に面食らいながら、腰に結わえた竹筒を投げて寄越す。「どうしたお嬢。何があった?」


 受け取った竹筒を持って駆け出そうとした咲は、肩越しに厳次の問いかけに応えた。


「班長の子、私を庇って(ヌシ)の体当たりを受けたんです!」

 厳次の反応を待たずに、身体強化(現神降ろし)を行使した少女の身体は、重力の縛りを感じさせない軽さで崖を駆け上がっていった。


 崖から突き出た岩や木の根を上手く使い、崖を一気に駆け上がってさらに加速する。

 咲の顔には、焦りしかなかった。

 瘴気を吸い込んだものが助かる確率は、瘴気を祓う時間に直結する。

 咲の掌中にある(きよ)(みず)がどれだけの瘴気を祓えるかは疑問だが、内臓の瘴気さえ祓えれば時間は稼げるだろう。

……咲が実戦を経験するのも人死にを経験するのも、これが初めてではない。だが、自身を庇って命の危険を冒した者を見るのは初めてだった。

 それは、晶を死なせるという事実が、咲が死に至らしめたという事実と重なることを意味していた。


 やや急な勾配を物ともせずに、まるで平地を行くがごとく咲は楯班の場所へと駆ける。

 さして時間もかからずに彼らがいる場所へと戻ると、瘴気を纏わりつかせながらも、丁度、晶が立ち上がるところだった。


「――君!」


「はい?」

 濃密な瘴気があるにも拘らず、普段じみた返答が晶から返ってきた。


「瘴気を吸ったでしょ!? 立ち上がっちゃ駄目!」


 駆け足で晶に近づいて、(きよ)(みず)を強引に口に押し当てる。

 いきなりの行為に(むせ)る晶に構わず、(きよ)(みず)を流し込む。


「ごほっ。い、いきなり何を!?」


「――これで内臓の腐食は止められたはずだけど、身体の外側はまだね。

……誰か、(きよ)(みず)は持って無い?」


「……あります。ですが、班長は…」「ありがと!」

 戸惑いながら(きよ)(みず)を渡してくる班員の台詞を聞かずに、竹筒から直接、(きよ)(みず)を振りかけようとする。


「ちょっと待ってください!」


 慌てた制止が晶からでて、咲の動きが寸前で止まった。

「…何?」


「大丈夫ですんで、ちょっと待ってください」


 そこまで瘴気に蝕まれているのに、何が大丈夫なのか。そう考えてから気が付いた。

 本来なら(ただ)れて崩れかけているはずの肌が、変化一つ見せていない。

 そもそも、こうまで平然と受け答えが出来ているのが異常過ぎた。


 有り得ないものを直視して呆然となった咲の目の前で、晶がまるで埃を(はた)くような仕草で瘴気が濃い部分を叩いて見せる。

 その手が服に落ちた瞬間、その部分の瘴気がごそりと削られる。

 自身の常識の斜め上の現実を突きつけられ、今度こそ咲の瞳が大きく見開かれた。


「………え?」


 戸惑う咲を余所に、何の気の無い手の動きがどんどんと瘴気を削っていく。


「え? えぇ!?」


 祓っていくと表現するのが正しいのだが、緊張感の無い手の動きが瘴気を削っていく様は、ありがたみもへったくれも感じられなかった。

 やがて、身体に纏わりついた瘴気を全て(はた)き落とした晶が、呆然と見るだけの置物と化した咲の方に向いて軽く肩を竦めた。


「……少し気合を入れて叩くと、瘴気って祓えるらしくって」


「…んな訳ないわよ」

 実際に可能であることを目の当たりにしても咲の思考は現実を受け入れられず、言葉少なくようやっとの反論を返した。

 しかし、この点に関しては現実はともあれ、咲の認識のほうが正しい。

 瘴気は一見、赤黒い(もや)のようにみえるが、その実態は気体ではなく(むし)ろ精霊力に近い。

 陰陽の、特に陽気に属する生命の持つ霊力を(むしば)む常世の毒、それが瘴気と称される存在なのだ。生命そのものにへばりついた瘴気を、少し気合を込めて(はた)いただけで散らせるなら誰も苦労はしていない。


「って云うか、なんで瘴気の影響を受けてないの? 傷一つないじゃない」


「影響は受けてますよ。瘴気を吸い込んだ時、気絶するくらいには痛いですから」


「うん。その程度で(・・・・・)済んでる(・・・・・)なら、影響はないってことでしょ」

 普通なら内臓が腐って溶けている。痛いで済んでいるなら、確かに影響がないと云っても差し支えはないだろう。


「そこは仲間にも不思議がられてますが、どうにも自分は瘴気を受け付けにくい体質のようで」


「…そんな人間、初めて聞いたわ。

――でも、現実に目の前にいるものね、認めなきゃいけないか。

 納得したわ。君が倒れていた時、誰も君の心配をしていなかった。皆、君の体質を知っていたのね」


「はい。吹聴するようなことでもありませんので、隊員たち以外は知りませんが」


 はぁ。漸くに実感がわいたのか、額に指をあてつつ吐息を一つ。

 瘴気の影響を受けない人間がいる。頷いてとりあえず現実を飲み込んだ。

 思考を放棄して、手に持っていた残りの清め水を晶の胸元に押し付けた。


「残り少しだけど、清め水を飲んでおきなさい。瘴気の影響を受けないといっても、絶対にかどうか判らないんでしょ? 瘴気が毒なのは事実なんだから、用心するに越したことはないわ」


「……ありがとうございます」


 戸惑いながらも、押し付けられた竹筒を受け取る。

 ずいぶんと軽いそれは、軽く揺らすとちゃぷりと鳴り、清め水がまだ残っていることを伝えてきた。

 それは、晶が貰った数少ない純粋な善意だ。

 己の身を心配して渡されたその竹筒を、相手が因縁の八家だからと言って押し退けられるほど、晶の情は冷めていなかった。


 気付けば東の空が薄く白み始めている。

 妙覚山の瘴気は、随分と薄くなっていた。

 瘴気が騒めくのは、基本的に陰気の満ちる夜半である。今日はこれ以上の戦闘はないだろう。咲はそう判断した。

 竹筒を傾け、清め水を嚥下する晶の傍ら、咲は、ん、と一つ大きく伸び(・・)をする。


「今日はこれで終わりね、お疲れさま」


「はい。お嬢様もお疲れ様です」


 四角四面の応えを返す晶に、仕方がないなぁと苦笑する。

 咲はそこまで鈍くはない。晶から感じる隔意に気付いていたものの、それを指摘するのは躊躇いを覚えたのだ。


 守備隊に入隊(はい)る練兵のほぼ全員が、大なり小なりの因縁を過去に抱えていることを、常識として咲は知っていた。

 その因縁は、故郷や華族に何らかの遺恨を抱かせるには十分なものであることも含めて、だ。

 因縁の内容は人により様々だが、本人に責のない冤罪や追放であることが多く、それは年齢(とし)若くして入隊するものほど顕著になる傾向があった。


 八家である咲は、何かしら恨みを買いやすいことは知っていたし、幼くして厳次の影響を受けたためか、”人間は思想だけでも自由であるべき”の信条を持っていた。

 だからこそ、隔意を感じただけで神経質に咎め立てることはしなかった。


 薄く白み始める木立の闇の向こうで、あるだけの清め水を持ってきたであろう人の気配がした。

 彼らに場所を知らせるために、咲は右手を挙げて大きく息を吸い込んだ。

TIPS:流派について。

 高天原には、大きく分けて5つの門閥流派が存在する。

 奇鳳院流(くほういんりゅう)義王院流(ぎおういんりゅう)玻璃院流(はりいんりゅう)陣楼院流(じんろういんりゅう)月宮流(つきのみやりゅう)、以上の5流派である。

 これは、どれが強い弱いの違いではなく、洲の神柱がどの属性を有しているかによって変化する。

 例えば、珠門洲の神柱は火行を司るため、奇鳳院流は火の属性を効率よく(ふる)えるように構成されている。


 ちなみに、珠門洲に産まれていても水の属性を持って生まれた場合は、水行を揮うことに特化した義王院流を学ぶ必要がある。


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― 新着の感想 ―
[一言] 他の二宮は流派を持っていないんですね。月宮が武闘派なのかな
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