終 青は玄に憂い、白は朱を訝しむ1
――東部壁樹洲、洲都鈴八代。
神域、翠几霊窟。
ただ人が立ち入ることのできない深山の渓谷を見下ろす一角に、その四阿は建っていた。
「――ふふ、くろめ。珍しく眠りこけていないと思ったら、癇の虫を患っておるか」
婀娜な声音が、微風の渡る四阿を彩る。
山嵐に吹かれたか季節外れの菖蒲の花弁を指に摘まみ、矯めつ眇めつと眺めながらの独白であった。
「ここに坐しましたか、あおさま」
「翠か。随分と疲れておるな?」
四阿に続く透渡殿から声を掛けられ、菖蒲の花弁を映していた茜の滲む玻璃の瞳が年齢20を数えたであろう女性へと視線が向かう。
揶揄に踊る声色に、翠と呼ばれたその女性は溜息交じりに肯いを返した。
「……ご存知の通り、國天洲から繋がる水気の龍脈が瘴気に侵され始めています。
かなり大きな龍脈ですので、手持ちの陰陽師では浄化に数が及びません。
――早急に陰陽師を呼びたいのですが、発端が國天洲です。
信用が出来ない上に、向こうからの状況も見えてこないとあっては……」
「放っておけ、放っておけ。
神柱と云えど童女であるぞ、晩くに憤っておるだけだ。
――と云ってやりたいが、民草にすればそうも行かんか」
「はい。特に今は大事な時期です、このままでは秋の収穫に致命傷になりかねません」
「ふうむ。それは少々、面白くない。
――陰陽術の練達を願う為に、八家の小倅を雨月の婿に向けたことがあったな」
「……確か、不破の次男でしたか」
「呼び戻せ。このような時のために、家名を返させておらなんだのだから。
序でに、國天洲の内情を訊き出せれば良いが」
己が信奉する神柱の提案を、舌の上で転がしてみる。
判断としては手堅く、悪くない。壁樹洲の頂点に座す玻璃院の当主、玻璃院翠は首肯を返した。
特に最近、雨月の強勢に不満を持つものも多い。
外野が騒ぎ立てる程度には二の足を踏むだろうが、有時に重宝する陰陽師の数を確保する大義名分があれば表立っての反対はされないだろう。
「そうですね。手始めに雨月家の強情さを手落ちと突いて、譲歩案の一つに組み込んでみましょう。
不破の家族は結束が固いことで有名です。壁樹洲の難事が國天洲に端を発っしているならば、当主も否やはないでしょう」
「ふふ、良しなに頼むぞ。
さて、山風と遊ぶのも飽いた。霊窟に戻るか」
四阿に設えられた寝台から、跳ねるようにして少女が飛び起きた。
射干玉に輝く黒髪が、少女の肢体に従ってふわりと宙を躍る。
一見するだけには、有り触れている黒髪。しかし日光に照り返るその色彩は、幾重にも重なる複雑な青の輝きを宿していた。
軽やかに踊るその爪先が、四阿の中央に音も無く降り立つ。
そうして立ち上がるのは、茜差す玻璃の眼差し、陽の加減で青に輝く黒の髪をした人外の美しさを宿した17辺りの少女であった。
「……あおさま、流石に行儀が悪く御座います」
「そう云ってくれるな、翠。狭い神域にしか留まれんこの身、少しは動かさんと身動ぎするのも飽きかねん」
呵々と哄笑を上げながら、翠の脇を通り過ぎる。
……そう云う意味ではない。
信頼も敬愛も捧げている自身の神柱であるが、どうしてこう磊落というか男勝りというか、そんな性格なのだろう。
――それに、
「妹の勘気じゃ、姉である儂が気に掛けんで如、
……うきゃんっ!」
「……………………はぁ」
「ううぅぅ~~っ」
あおと呼ばれた神柱は笑いながら一歩、透渡殿に続く框を盛大に踏み外して強かに腰を打つ。
半泣きで腰を擦る神柱を目に、何時もの事であるが翠は嘆息を堪えることが出来なかった。
――どうしてこう、何というか粗忽なんだろう……。
何時もの事だ。特に転倒を言及するでもなく、1人と一柱は畳の敷かれた霊窟の大広間に戻る。
上座に腰を下ろしたあおは、青とも黒ともとれる己の髪を一房、手にして思慮に眼差しを眇めた。
「まぁ、これまで癇の虫を患わん妹であったしなぁ、永い年月に在ればそんな事もあろう。
気になるのはしろの方だな。あの占い狂いがこれ幸いにと食指を伸ばす前に、頭の一つも撫でてやらんと」
「……以前から不思議に思っていましたが、どうしてくろさまの事を妹と?
伝承に聞けば、四柱の方々とも同じ刻に生まれ出たとありますが」
「そんなもの当然じゃ。儂の方がくろより頭二つ分高いし、ほれ、胸もある」
「…………見た目の話ですか」
確かに膨らみはあるが、年齢相応よりも可愛らしいそれを自慢げに見せつけられても。
昨年に母親となった翠は、そのあまりの下らなさに眩暈を覚えた。
出産を覚えれば、その類の魅力に対する欲求は激減するからだ。
残っているのは、外見を取り繕うための気遣い程度、化粧もそれに準じるように自然と向かう。
「ふ。強ち莫迦にできるものでない、これは意外と重要だぞ?
――何しろ儂たちは、見た目が変わらぬしな。
如何しても、希求する性格は見た目に引き摺られる」
「そのようなものですか」
眼前の神柱には悪いが同調が難しい。生返事しか返せない翠に対し、青の輝きを宿した少女は慈愛に微笑んだ。
「うむ。じゃがまぁ先ずは、くろめの癇癪を慰めてやろうか。
高御座の媛さまに迷惑をかけるのは心苦しいが、陰陽省に派遣を願え。
それで少しは時間も取り繕うことが叶うだろう」
「央洲に借りを作るのは気が進みませんが、選択肢はありませんか。
……天領学院の夏季休暇がもう直ぐに明けます、妹に静美さまとの接触を命じておきましょう」
「そうさな。まぁ欲を掻けば、余所の水脈がどうなっているか程度は探っておきたいが」
「過怠なく」
「良しなに頼むぞ」
肯いを返す翠を前に、あおは闊達と笑う。
その笑みは春風駘蕩に揺らぐ花の如く、優しくも生命に満ち溢れて力強い。
彼女こそは東部壁樹洲を遍く知ろ示す木行の大神柱、
――青蘭であった。
「…………そういえば、見た目が重要と仰られていましたが」
「うむ?」
「その理屈でいけば、長姉はしろさまとなってしまいますが」
「…………………………………………」
西部の大神柱は青蘭よりもやや背が高く、見た分の年齢相応程度に胸がある。
翠の的確な指摘に、青蘭はさっと視線を横に逸らした。
「あおさま?」
「あの腹黒は姉と認めん。
精々が云って、……同いよ」
……それでは逆に、関係が近しくなってしまうのではなかろうか。
疑問が思考を擽るが、賢明にも翠はその事実を舌に乗せなかった。
壁樹洲の不破家が産んだ神無の御坐が400年前に起きた内乱の発端であった事は、三宮四院八家にのみ伝えることを許された秘匿事項である。
内乱の爪痕は深く、歴史に名を刻むほどに後を曳いた。
爾来、西部伯道洲の大神柱とは兎に角、折り合いが悪い。
不満気に饅頭を齧る青蘭を横目に嘆息を喉元で堪えて、北部國天洲の方向に視線を遣った。
瘴気が滲み始めたと云っても、未だ僅か。
天候の濁りも無く、晴天の蒼は長閑さを保っている。
――何事も無く、杞憂で済めばいいけど。
そう穏やかには行ってくれないだろう。
それは予感ではなく、確信であった。
神柱の血脈を受け継ぐ巫たる四院は、ただ人よりも直感に優れている。
それは、天啓とも呼べる確度を誇るほどだ。
その直感が告げてくる。
――この暗雲は如何にも根が深く思えてしまう、と。
――――――――――――――――
――北部國天洲、洲都七ツ緒
神域、黒曜殿
晶たちが決戦に挑んでいる頃、玄麗は暗く沈む神域の只中でその顔を突として上げた。
「……………………晶?」
黒曜殿に佇むのは彼女独り、その呟きに返る応えは静寂のみ。
しかし、遥か遠くで幽かに揺らいだその呼び声は、玄麗をして信じるに及べずとも塞ぎ込んだ彼女の感情に細波を起てた。
「晶? ……………………晶ぁっ!!」
叫ぶ名前も虚しく、黒曜殿に広がる水面へ沈む己の四肢から、幾重にも波紋が広がり消えるだけ。
それでも僅かに生まれた希望に、玄麗は必死に縋った。
自身が支配する水気の龍脈を辿り、これまで認識し得なかったほどの細い水気の龍脈にすら必死に神気を通して晶の痕跡を探る。
常人にすれば自身の体内を直に見渡すと同様の所業に、黒曜殿に満ちる水気が苦鳴にうねった。
「……これは、、くろさま!? お止め下さいっ、くろさま!!」
鳴動する黒曜殿の異変に気付いた静美が、玄麗の取り乱しようを目の当たりに必死で制止を願う。
僅かに落ち着きを取り戻したのか、ややあって玄麗は水面から立ち上がった。
「――静美、どうなっておる?」
「…………何がでしょうか?」
「晶が、、…………生きておる」
「!?」
神柱ですら困惑を隠せない事象を前にして、告げられたその言葉の意味を咀嚼するのに静美は数拍の間を必要とした。
「………………申し訳ありません、くろさま。光明に縋りたくなるお気持ちは察しますが、晶さまは」「そのような事、判っておるわ!!」
下手な慰めは毒と敢えて否定を口にするが、それ以上の苛烈さが凍てつく鋭さを孕んで静美へと返る。
神柱の惑いを反映してか、暫くぶりに静寂を取り戻した水面が、黒曜殿の壁際に寄せては返る穏やかな濤声を響かせた。
「じゃが、吾の神名が破られた。
吾が直々に別けた神名じゃぞ、違う事なぞ万に一つもあるものか!」
神柱にとって、名前とは己自身でもある。
ただの言葉ではない。極論すれば、象を別けた神器と同じ扱いになるのだ。
過去に玄麗が神名を別けた事例はただの一つ、晶に雅号を授けた際の回生符しかありえない。
だが、と静美は必死に希望を否定した。仮令、神名を別けたとても、所詮は呪符だ。
「晶さまの持っていた呪符ですね。
誰かがあれを行使ったということは」
「有り得ぬ。
――そも、あれは晶にしか行使できぬ。
呪符の励起には、晶に宿る吾の神気と呼応する必要が………待ちや」
静美への反駁から漏れた己の呟きに、玄麗は身体を揺する事さえ忘れる。
「何故、行使できる? 晶から吾の神気は喪われておるのじゃぞ。
喪われていない……封じた? 吾の神気を、誰ぞが封じた?」
玄麗の呟くその感情に、静美はぞくりと背筋を舐められるほどの凍える幻痛を覚えた。
感情が削がれゆく童女の顔が、静美の目の辺りで虚無の如き能面に彩られる。
「あかか、しろか、あおか、
……ははさまか。
誰ぞかが吾の神気を、晶の奥底に封じて隠してくれたな!」
荒唐無稽過ぎて可能性から排除していた事実が、漸く玄麗の思考に浮かび上がった。
晶から玄麗の神気が突如に追えなくするには、神気を封印するか晶が死ぬかの2択しかない。
晶に満たされている神気を己の神気に染め変えるためには、先ず、神柱の神気を圧し流す必要があるからだ。
神気を圧し流すならば、その行為は即座にくろの知るところになる。
晶が生きて、玄生の呪符を行使した。
この事実は、くろにとって晶が他の神柱に抵抗している証と映った。
「待ちやれ、晶。
吾が救ってやる! 静美、晶の居場所を探してたもれ。四洲の何れかに晶は隠されておる!」
「くろさま、雨月にも兵を用意している途中です。
何れおいても、晶さんの居場所を掴まないことには指針も立てられません」
「雨月如き、穢レ共に啄ませておけ!
それよりも晶じゃ。
……かなり遠くで刹那に燃えた、南方としか掴めなんだが。
せめて、水気の龍脈に立ってくれておったら良かったものを」
「判りました。……南方ですね、手のものを差し向けます。
――さ、くろさま、応えが返るまでゆるりと身体をお休みくださいませ」
激情を必死に宥める静美に対し、玄麗は傲然と令を下した。
「急げよ、静美。
――確実に居場所を掴むのじゃ」
「御意のままに」
「――と、申されましても」
困惑のままに、千々石楓と同行そのみは視線を交わす。
やれ雨月討伐だ戦支度だと駆けずり回っていた矢先に静美から下された一報は、状況の根底を覆すほどの衝撃を伴っていた。
「…………気持ちは分かるわ。でも、幸いなことに戦支度も流通制限を掛ける前だし、金子の流用先が晶さんの探索に代わるだけよ。
問題は、晶さんの居場所が何処か、という点ね」
「はい。その、南方だけですと、どの洲にも可能性があるとしか……」
楓の指摘は、静美をして当然のものと頷くしかない。
何しろ、國天洲は北限の地だ。己の洲を除いたとしても、狭い島国の国土とはいえ7・8割に及べば相当な広さが残っている。
「この際、七ツ緒の南方直線と範囲を決めましょう。
その場所に晶さんがいたとして、どこが最も可能性を持っているのか、ね」
「……単純な直線で有力な華族と考えますと、先ず央都天領。次に伯道洲の八家第三位、弓削家が所領の奈切。
最後に珠門洲の八家第二位、久我家所領の長谷部が浮かびますわ」
「珠門洲は候補から外しても、問題ないかと具申いたします。
晶さまが無一文で出奔したのは、雨月から抜いた情報からも明らかです。
――精々が年齢10の子供が、金子の当ても無く南限の地に辿り着けたとは到底思えません」
そのみの指摘も頷ける。
――しかし、
「……いえ、長谷部領も候補に入れておいて。
珠門洲の洲都を含んでいないのは、何故?」
「直線距離からはやや西にズレています。入れますか?」
「ええ。それと、伯道洲の洲都も入れて頂戴。どの道、晶さまを隠すなら神柱の干渉は間違いなくあるもの」
静美は首を横に振って、候補を重ねた。
そう。神柱がこの誘拐に関与しているならば、有り得ない可能性は有り得ない。
神柱の決定はその神柱が支配する洲に於いて、総ての事象がその結果に繋がるように流れていくからだ。
どれだけ細い可能性であっても、神無の御坐以外にその決定から逃れる術は与えられていない。
「でしたら、壁樹洲の洲都を入れないのは何故ですか?
晶さまと関係があった八家は不破家です。壁樹洲こそ疑わしいのでは」
「――不要でしょう」
そのみの指摘を、静美の背後から届く声が切って捨てた。
奥の暗がりから足音も無く、質素ながら上質の仕立てで織られた紺の着物を着た女性が進みでる。
襟元に小さく揺れるは、亀甲紋に九重結び。
義王院の前当主、義王院伊都であった。
「壁樹洲の神柱は、400年前の内乱で神無の御坐を喪いかけるまでに相当の被害を出しています。
加えて、彼の神柱は実直を重んじます。他洲の神無の御坐に色香を向けるほど、反省していないとも思えない」
「お母上さま……」
「話は聞きました。
――取り敢えず、可能性のある場所で最も近いのは天領ね。
幸い、夏季休暇も直ぐに明けるでしょう。静美、貴女は学院に戻りなさい。
護衛と称して幾人かを伴えば、央都でも蠢動は容易いはずです」
「はい。
……あの、お母上さまは」
「雨月が抜けるとあっては、華族たちの整理が必要でしょう。特に洲議のものたちは権力ごっこに遊ばせすぎました。
……國天洲に議会制度は早かったみたいね」
確かに議会制度を組み込んでから、利権を貪る華族たちの醜態は度々に問題視されている。
これを機に整理をするのは、静美としても納得のできる判断であった。
「取り上げますか?」
「そこまではしないわ。
――貴女は気にしないで。それよりも、学院には玻璃院と奇鳳院が在学しているのでしょう?
彼女たちの出方程度は窺っておきなさい。不要と云ったけど、晶さんが決定すれば玻璃院だって受け入れるわ。
――幸い、くろさまの神気を封じただけならば、顕神降ろしの行使にまでは至っていないはず。奪還の可能性は残っています」
「はい、何とか晶さんと対面が叶うように動きます。
……お母上さま、晶さんは赦してくれるでしょうか?」
「分からないわ」
娘から漏れる気弱に応えられる言葉は、伊都も持っていない。
――ただ、どうであれ、
「真摯に、言葉を重ねるしかないでしょうね。
雨月を信用し過ぎて放置したのは、義王院の失態と認めねばなりません」
「はい。
申し訳ありません、お母上さまにもご無理を押し付けました」
「私如き、気にしてはいけませんよ。義王院の悲願。いえ、娘の倖せ、願わぬ親が何処にいますか」
混迷を極める日々が続き、それでも漸くに与えられた光明。
伊都からの言葉に安らぎを覚えて、静美は不覚にも涙を零した。
「成し遂げなさい。
晶さんの決定一つに、くろさまが安んじられるのですから」
「はい、お母上さま」
――混迷の果て。漸くに得た光明を辿り、義王院が真実へと足を進めた。
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