9話 少年は泡沫に願い、少女は天廊を舞う2
障壁を支えていた精霊力が、無数の輝きと散っていく。
それと同時に、ベネデッタの深奥と遠く中つ海に広がる紺碧の輝きが確かに繋がった。
龍脈が元に戻り、アンブロージオが願った通り波国と高天原が繋がったのだ。
真国にある教会を中継点として、この瞬間より疑似的にも此処は波国と為る。
――余を望むか。
それは、ベネデッタが何処までも待ち望んでいた瞬間。
この世界で最も尊き海の輝きが、己が信徒の願いに応じて物憂げな双眸を薄く上げる。
「はい、聖下」
迫りくる赤と白金の凶刃に怖じることなく、ベネデッタの唇が弧を描いた。
「――願い給う」
がつ。ベネデッタの喉元をあと少しと迫る焦尽雛の白刃が、褐色の掌に掴み取られた。
生身の掌とは思えない音を響かせて、薙刀ごと咲の身体が強引に捻り上げられる。
「な――っ!?」「はあ!!」
その事実に咲が絶句するより速く、彼女の身体が力任せに宙を舞った。
瞬後、落陽柘榴の斬閃がベネデッタの胴体を捉える。
――噛ツッ!
勝った。勝利の確信は一転、硬質の手応えに晶の双眸が瞠目に開かれた。
落陽柘榴の切っ先は確かに狙い違わずに、しかし、淡く蒼の輝きを帯びた西方の祝福が晶の一撃を阻んだのだ。
総ての神器は不壊の特性を帯びる。
仮令、貫くに容易そうな書物の姿形をしていても、人間が持ちうる手段ではそこに一条の傷跡を刻むことすら不可能なのだ。
その瞬間、夜闇に沈む世界が深い海底を揺蕩う紺碧に染まる。
夜闇よりも深い青の輝きが、際限なく澄み渡って広がった。
透徹な海色の輝きは精霊力とも似ていたが、その重厚さはただ人に宿る精霊の比ではない。
志尊の絶頂、神気。
『北辺の至宝』。雨月颯馬が宿す輝きとして、晶も記憶には在る。
だが颯馬の輝きすらも、この蒼に比肩するならば泥水ほどに濁って見えた。
ただ在るだけで五体投地を伏し願いたくなるほどに、眼前の輝きはいと高きより晶たちの前に降り注いだ。
「ぐ……、くそ!!」
紺碧の輝きと攻勢が阻まれた無念さに、晶の咽喉が呻き鳴る。
沢山の援けに後押しを受けて障壁を超え、咲の檄を受けて一撃を届かせた。
――なのに未だ、晶の覚悟は足りていないと云うのか!
「晶さま、よく頑張りました。
――ですが、これで王手とさせていただきます」
口惜しさに歪む晶の視線を、紺碧に輝く眼差しが優しく受け入れる。
波国に於いて慈愛の聖女とまで謳われた乙女は、戦意の欠片も浮かばない微笑みに唇を綻ばせた。
神域解放――
「万象は此処に、綴られる――」
――聖アリアドネが振るったとされる原典の鑿は、現世に在る総ての事象を己の書物に刻んだという。
つまり自然界に存在しうる如何なる事象も原典に記されているという、逸話へと至る。
――その権能の終結点。それは現在、此の瞬間の事象も原典に刻み得る特性へと結実するのだ。
絶対封印の神域特性。
封じ得る対象は生命を除く総て、その前には神器であっても例外ではない。
変化は音も無く始まった。
西方の祝福に触れている端から、落陽柘榴が頁となって解けていく。
「何だ――!!??」
「相応の神格を有していることは覚悟していましたが、真逆、総ての頁を使用してやっと神格封印に届くとは」
ベネデッタの感嘆と共に、解けた頁が宙を舞った。
大神柱の鍛造した精髄が無数の紙片へと換わり、晶の視界を奪う。
握り締めていた柄までもが頁と移ろい、晶の指が虚空に喘いだ。
だが晶とて、ここまで迫って呆けるなどと愚昧な醜態は晒せない。
掴んだ掌を拳に変えて更に一歩、晶は大きく振りかぶる。
「あああぁぁぁっ!」
「意気は認めます。
――ですが、無駄ですよ」
視界を舞う紙片の向こうから、褐色の掌が晶の拳を受け止めた。
垣間見えるその先で銀の長髪が舞い、海色の輝きがひたと晶を見据える。
拳を受け止めた掌は晶の勢いを殺さずに、ベネデッタは己の元へと少年の身体を引き込み、
巻き取られる勢いに泳ぐ晶の鳩尾に拳が減り込んだ。
――屠ン
「……ぐぶ。
が、はぁ! はっ」
神気に染まった拳に晶の身体は宙を浮き、追撃の蹴りに後方へと二転三転、石畳を舐めた。
立ち上がろうにも神気の衝撃に貫かれた身体は、気力を振り絞ることも容易に叶わない。
身体を癒そうにも、最早、回生符は手元に無く、
――晶に残された手段は、現神降ろしの要領で身体の活性を狙うしかなかった。
「接近戦へ持ち込めば、私に抗う術はないとでも思っていましたか?
残念ながら、この身は拳闘術に精通しています。
自慢ではありませんが、この分野で地を舐めた経験はありません」
「はあ、は……。
――その、姿、、」
……間違いなく、後衛に慣れた女性の繰り出す威力ではない。
言葉の真偽は兎も角、無敗と断じられても納得の苦痛が晶の痛覚を波と浚う。
それでも精霊力の活性に任せて、苦鳴の内に晶は身体を引き起こし、
――眼前に立つ少女の姿に驚嘆した。
晶を蹴り飛ばした脚を悠然と戻すその姿は、先刻までのよく知った姿ではない。
褐色の肌は皓月の明りに洗われてなお深く、長髪は白銀に煌めいている。
――そして、何処までも澄んだ海色の輝きを湛えた双眸が、漸くに立ち上がった晶を見下ろした。
「……カザリーニ家は嘗て、聖アリアドネより血脈を分けられた半神半人の王家。
奇鳳院。この地を治めている主と同じく、神柱の血筋を受け継ぐ証しとして精霊に依らず立つための玉体を有しています」
「?!!」
「………………精霊に依らない、ですって」
晶の後背で立ち上がった咲が、ベネデッタの台詞に絶句を漏らした。
「巫、いえ、神子の家系!?
波国は正気なの!? 貴女が死んだら、神柱と繋がる手段が喪われるのよ!」
神無の御坐に関連する情報の一つとして、三宮四院の特性を咲は知識が与えられている。
その一つが、神域に関連する知識であった。
神域に到達できるのは、本来、神無の御坐のみとされている。
だがそれでは、民草と神柱の信仰は生まれない。
神柱有っての繁栄、民草有っての信仰なのだ。
故に、滅多に生まれる事のない神無の御坐に代わって神域と繋がるために、疑似的な神無の御坐を生み出す必要があった。
……それこそが三宮四院の始まり。
神無の御坐と同じく精霊に縛られない自由を、恣意的に与えられた奇跡の玉体。
しかしそれは、莫大な権利と引き換えに神域に縛られる宿命を背負った、誰よりも自由のない存在であることも意味していた。
神柱と交感するための代えの利かない存在でもあり、彼女たちが神気を振るうのは龍穴に攻め込まれた最後の手段であることが常識以前の前提である。
その前提を無視した波国の判断が、咲には狂気の沙汰と映ったのだ。
「西巴大陸を覆いつつある鉄の時代に抗うため、仕方の無いことです。
――ここまで神代に近い神域を保っているのは高天原くらいなものですよ? ……東巴大陸ですら神域の衰退に抗い切れていないというのに」
「当然でしょう。
龍穴だって無尽じゃないのよ。そんなただ人の都合で神柱を動かす行為、幾ら温厚な神柱であっても愛想を尽かしかねないわ――」
高天原は神柱と共に時代を歩んできた。その在りようは、元来、理想とされてきた神柱と民草の在り方に沿っている。
だが、他の神柱を従属せんとする西巴大陸の姿勢では、本来、神柱が持つはずであった神性すら歪めて貶めかねない。
――幾ら栄華を極めたとしても、それは龍穴の許容を超えて何時かは破綻の瞬間を迎えてしまう。
ベネデッタの応えに咲はそう吐き捨て、茫然と繰り言に返す晶の様子に漸く意識が向いた。
「…………精霊に依らない?」
「晶くん、それは――」
「――それは、精霊を宿していないって事か? 精霊が宿っていないのは、穢レに堕ちるって事じゃないのかよ!?」
「……誰の勘違いか知りませんが、全く違います」
晶の叫びに応える言葉を持てない咲に代わり、ベネデッタが口を開いた。
「そもそも本来、世界に満ちる精霊力の前に、生命が持つ矮小な器は耐えられるほどの強度を持っていません。
この現実に抗う為に、生命は精霊を宿すのです」
「……………………」
神柱の血脈を受け継いだ半神半人は、その身体に精霊を宿すことは無い。
……神柱の器とは一つの世界と斉しく、その必要が無いからだ。
滔々と語るベネデッタを前にして、晶は無防備に双眸を伏せた。
その言葉は耳鳴りの如く晶の思考に木霊して、理解に染み渡ることは無い。
だがそれでも、僅かなりとも理解できたことはあった。
何故、奇鳳院が晶如きを気に掛けるのか。
何故、輪堂咲は晶の教導に就いたのか。
――そして、朱華は何者であるのか。
「始原に於いて神柱と結ばれた恩寵の御子、その末裔たる神子こそが私なのです」
ベネデッタの声音が響くごとに、潮騒のさざめきが世界を輝く海色へと誘う。
夜闇に沈んでいた寺院の石畳は此処に無く、何時の間にか虫の囀りも風鳴も静寂に塗り潰されていった。
装飾硝子から零れ落ちる紺碧の輝きが、聖堂の床までも海底の色彩に染め上げる。
其処に広がるのは遠く異国の王宮。波国の神柱が坐す青月の間。
――事を成し得たか。
……此処はもう、神域であった。
「はい、聖下。
この地は既に高天原の手を離れて久しく、御身と龍脈を繋いだ現在、この風穴は神域と斉しく在れるでしょう」
遠く異国の地からの問いに、ベネデッタは肯いを返した。
青月の間の奥に在る玉座に座る年齢10を数えたばかりであろう少女が、中つ海の輝きを宿す瞳を薄く開く。
褐色の肌に銀の髪。色彩の妙もあってか、目の前に立つベネデッタと並べば姉妹と云っても納得できる儚げな少女は、無限遠すらも見通す瞳を興味深げに晶へと向けた。
――……久しくに見たな、恩寵の御子。余が、民草の母たるアリアドネである。
「くぅっ」
アリアドネの声音と共に神威が吹き荒れ、咲と起き上がりかけていた諒太を打ち据えた。
堪らずに膝をつく二人を余所に、晶はアリアドネと対峙する。
「俺を識っているのか」
――然り。
「……何で?」
――余の象は人の容故に。
異邦の神柱は端的に、晶の疑問に応えを返した。
――恩寵の御子と云えど、人であることに変わりは無い。世界の記述を彫り刻む余の神託は、其方の存在であろうとある程度は見通せる。
アリアドネは緩やかに掌を差し伸べる。
――余の元へ忠誠を誓うが良い。其方の血は、余と余の神子を託せるに能う。
「………………………………………………………………断る」
暫しの沈黙が両者の間に吹き渡った後、然して懊悩の残り香も見せることなく晶はアリアドネの誘いを撥ねて除けた。
「晶さま。それは……」
「確かにさ、雨月の連中には嫌な思い出ばかりだ。
良い記憶なんて、数えるほどもない」
それを捨てられるかと訊かれれば、迷うことなく晶は首を縦に振れただろう。
だが、これは違う。
珠門洲に来てオ婆に助けて貰い、勘助や阿僧祇に受け入れて貰った。
芙蓉御前と別れて、朱華に逢った。
嗣穂に好くしてもらい、
――そして、咲に導いて貰った。
その総てを嘘に貶めることは、他の誰が求めようとも晶自身が赦せることはもう無い。
「……3年前に来れば良かったな、波国の神柱さま。あの時なら迷わずに、貴女の手を取っただろうさ」
晶は四肢に力を籠めた。
炎が舐めるかの如く、晶の身体が自由を取り戻していく。
与えられた加護が晶の願うままに活力と漲り、胃腑を灼く熱が呼気に混じって朱金と散った。
「悪いが、この身体は先着順なんだ。
もう神柱さまは此処にいて、俺の魂魄が理解するまで待っていてくれた」
……そう、理解だ。結局はそこなのだ。
――認識を出発するところが間違っておる。
彼女の言葉が、今になって蘇った。
言葉では駄目だ。それでは上っ面を理解した気になれても、骨身に染みることは無い。
朱華は総てを与えてくれていて、それは最初から目の前に在った。
……ただ、晶が見ようと思わなかっただけだ。
漸く、晶は己を理解する入り口に立てた。
考えよう。
晶は神無の御坐だと、彼女は云った。
それは、巫や神子と同じ称号だと。
精霊を宿していないことがその条件だと云うならば、晶は何を宿すための器なのか。
単純な話だ。答えは最初から、称号の中に刻まれていた。
晶が怖がって目も向けようとしなかった其処にこそ、晶の意味があったのだ。
「神柱無き玉座だから、神無の御坐、か。
……酷い話だ」
本当に酷い話だ。
この願いを理解するのに、今の今まで掛かってしまった。
だから今、果たすべきことは、これから希う少女に一言だけ謝罪を伝える事だけだ。
薄らと開く晶の双眸は、それまでの黒瞳とは異なっている。
何処までも澄んだ焔の青が朱金に淡く彩られ、畏れも見せずにアリアドネを見返した。
その輝きに警戒心が否応なく逆撫でられ、迷うことなくベネデッタはアリアドネの神気を全力で防御へと回す。
――それは南天の守護鳥。日輪を遊弋する絢爛なる図南。
――瑞雲に坐す、万窮の主。
祝詞は一息に、晶の唇を衝いた。
「願い奉るは、奉天芳繻大権現」
神柱を希う詩と共に、アリアドネの神域に朱金の精霊力が舞い踊る。
朱はより透徹に黄金はより絢爛に、遥か高みを泳ぐ鳳の如く輝きは昇華を続け、
「――泡沫に舞い給え、鳳翼夏穏朱華媛!」
自身に、そして世界に応える神気の輝きに、晶は陶然と身を委ねた。
「くふ」
誰もが一言も呼吸を吐けない静寂の中、幼い笑い声が晶の耳朶を打ち、
しゅるり。白磁の肌をした童女の両腕が、晶の首に絡みついた。
そっと、晶は胸元を這う手の甲に指を添える。
呟く声音は嬉しそうに、それでも真摯な感情で満たす。
「……ごめん。
気付くのに、今の今まで掛かってしまった」
「善い。それも又、縁の妙というもの。
――漸く、妾の神名を呼んでくれたの、晶」
悪戯に微笑う朱華の笑顔が、久方ぶりに晶の双眸を見つめ返した。
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