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泡沫に神は微睡む  作者: 安田 のら
二章 聖教侵仰篇
62/222

8話 斜陽は沈み、狼よ牙を剝け2

 痛い。


 晶の思考は、その言葉一色に染まっていた

 内腑を直に掻き回される激痛が、気絶する事すら赦さずに晶の意識を現実に繋ぎ止める。


「晶――!!」


 咲の絶叫だけが、この地獄が現実なのだと教えてくれた。

 その事実だけが、現在(いま)の晶にとって救いだったのかもしれない。


「……実に不思議に思うのだがな」

 その口調通りに色濃く疑問を滲ませながら、伏した晶に向けてサルヴァトーレが口を開いた。

「貴様たちにもこれ(・・)は伝わっているはずなのに、どうして軽んじているのだ?」


 その左手に握られた、黒く鈍い鉄の反射。

 短銃。西巴大陸で開発された火薬式の武器が、その口から(くゆ)る一条の煙を吐き出していた。


「地を生きる(平民ども)を導く役目を負うが故に、我ら羊飼い(貴族)は遥か高みに在る精霊を(ともがら)とすることを赦されてはいる。

 ……だが銃の台頭と同時に、西巴大陸で貴族の時代は終焉を告げた」


「は、あ、くぐぅ」


 サルヴァトーレが垂れる能弁を聞き流し、晶は激痛に(さいな)まれる身体を緩慢にずらす。

 少しでも相手の長広舌が踊ることを期待しつつ、身体の下に散らばった呪符に意識を向けた。


「精霊が宿主に与える加護には、どうしても弱点が存在する。

 どんな上位精霊(・・・・)であっても結局のところ、ただ(・・)人に依存しているという事実だ」

 あと少し、あと少し。祈るような時間の中、回生符に伸ばした晶の指先が届く。

「――つまり加護に守られていたとしても、肉体が回避に追いつかなければ攻撃を受けるという現実(・・)そのものに変わりはしないということだ」


 不意に耳元へと届いたサルヴァトーレの声に、呪符に触れていた晶の指先が緊張に凍った。

 直後、晶の身体に無視できない衝撃が加わり、与えられた慣性のままに石畳を舐めて、晶の身体は崩れかけた土塀の向こう側へと大量の粉塵を巻き上げて消える。


「短銃の弾速は常人が反応できる速度ではない。つまり、上位精霊の加護であっても追いつくことは叶わないということだ」


 晶を蹴り上げた足を戻しながら、サルヴァトーレは悠然と(うそぶ)いた。


「がぁっっ!!」


 茫漠と立ち昇る土煙。

 降りしきる土塀の破片に埋もれ行く中、触れていた呪符の感触は晶の指先から空しく消える。


「……高天原(たかまがはら)と接触してから数百年、我ら波国(ヴァンスイール)が何も学ばずに暢々と付き合ってきたとでも?

 呪符と精霊力をぶつける剣技。当然、貴様らの戦い方は研究されつくされているとも。」


サルヴァトーレ(トト)、晶さまを殺しては駄目よ。

 ――それは、」


「……聖下のご意思に背くというのだろう?

 案ずるなベネデッタ(ベティ)、急所は外してある死にはしない」


「そう」


 ほぅ。安堵から息を吐いて、ベネデッタは肩を撫で下ろした。

 そのベネデッタの耳を、咲の悲痛な怒声が貫く。




「晶。逃げて――!」「いけません、咲さま!!」


 猛る精霊力の後押しに弾かれて、埜乃香(ののか)の制止を振り切った咲がサルヴァトーレへと矛先を変えた。

 迫る咲を流し見はするが、余裕を浮かべたままサルヴァトーレは動きもしない。


 悠然と佇むその姿に、咲の怒りに火が点る。


「退、、けぇぇぇっ!!」「――貫け(Penetrare)


 怒気に焦がされた咲の叫びに、涼やかなベネデッタの詠唱が重なった。

 エズカ(ヒメ)が警告を叫ぶ。直後、焦りに浮ついた咲の視界を、ベネデッタが放つ杭の輝きが埋め尽くす。


「!!」


 舌打ちを残す余裕もない。

 焦尽雛を(ひるがえ)し、飛来する法術の杭の迎撃に移る。


 ――精霊力を練り上げる暇もなかった。


 現神降(あらがみお)ろしで強化された身体と()ねり舞う精霊器が、咲の身体に到達せんとする杭のみを狙って弾く。

 一つ、二つ。精霊光と破砕音が幾重にも重なるが、焦りから崩れた咲の体勢で抗える限界は目に見えていた。


「くぅうっ!」


 間断なく襲い来る輝きに呻きを残し、体勢を取り戻すべく後退に地を蹴る。


 生まれた一瞬の隙は見逃されず、

 ――散り消えようとする精霊光を貫いて、追撃の輝きが一筋、咲へと向かう。


「!」


 躱せない。胴体の真芯を捉えられた一撃に咲は確信を持った。


 奇鳳院流(くほういんりゅう)精霊技(せいれいぎ)は、基本的に防御を苦手としている。

 迎撃するならともかく、純粋に防御に特化した精霊技(せいれいぎ)は存在しないのだ。


 防御を貫かれることは覚悟の上、僅かでも減衰を期待して有りっ丈の精霊力を現神降(あらがみお)ろしに回した。


 迫る杭の切っ先が激突する、その刹那――。


「――私が」「埜乃香(ののか)さん!」


 追いついた埜乃香(ののか)が咲を背中に庇った。


 玻璃院流(はりいんりゅう)精霊技(せいれいぎ)、――。


 輝く杭が埜乃香(ののか)に激突する。鈍く(もろ)い轢音が響くと同時に、爆炎が咲たちを呑み込んで周囲を舐めた。

埜乃香(ののか)ぁっ!!」

 諒太の叫びが、轢音を裂いて交差する。


「……っっ、大丈夫です!」


 応じる声は爆炎の向こう側から、膨れ上がる威風が直後に内側(うち)から吹き散らした。


 仄かに朱の差した精霊光の瞬きが埜乃香(ののか)を薄皮一枚分、隙間なく包み込んでいる。

 埜乃香(ののか)に掴み取られた杭の一つが、その掌の内側(うち)で砕けて呆気なく霧散した。


 僅かな明滅が如何にも儚げと余人の目に映るが、その事実、硬さが群を抜いている事は音にも聴こえている。


 奇鳳院流(くほういんりゅう)とは違い、玻璃院流(はりいんりゅう)は身体強化や中距離での戦闘を得手としている。

 その中でも特に防御に特化した精霊技(せいれいぎ)


 ――五劫(ごこう)七竈(ななかまど)


 この精霊技(せいれいぎ)(まと)うものは、人の(なり)をした塞と心得よ。

 玻璃院流(はりいんりゅう)の中伝、退き知らずを象徴する一角である。


「咲さま、正道に立ち戻りください。

 どうやら奴儕(やつばら)め、晶さまを害するわけにはいかない様子です」


「――ええ、そのようね。

 取り乱してごめんなさい、巻き返しましょう」


「はい」


 大きく呼吸(いき)を一つ、それだけで咲は思考を落ち着かせた。


 身体を呈して庇われたのだ、八家としても指揮権を預かるものとしてもこれ以上の無様を埜乃香(ののか)に晒してしまう訳にはいかない。


 行動不能に追い込んだとしても状況のわからない晶に警戒を残しているのか、サルヴァトーレには積極的に攻勢に移る心算(つもり)が無いようであった。

 咲の迎撃にベネデッタのみが対応したのが、その証左であろう。


 なら、ベネデッタの法術を捌きつつアレッサンドロを抑えれば、当面の形勢は取り戻せるはずである。


 咲の不手際で、アレッサンドロとの距離が再び空いてしまっているのが痛い。


 ――否。アレッサンドロが移動していないその事実、もしかしたら咲たちにとっての好機なのかもしれない。


 相手は象に付随する権能は行使でき(つかえ)ても、最も厄介な神域特性を解放できるわけではないのだ。

 畢竟、アレッサンドロは壊れない盾を持っているだけに等しいと、容易く確信が持てた。


「……埜乃香(ののか)さん、私が前に出て抑えるわ(・・・・)

 時機は合わせるから、行使って(・・・・)


「畏まりました。

 ――ご武運を」


 埜乃香(ののか)にしても手詰まりは実感していたのだろう、然程に間を置かずに応(だく)が返される。

 焦尽雛を脇構えに、一呼吸(いき)をその場に残して咲は石畳を蹴った。


「攻勢が限られる私の方が組し易いと見たかね?

 ――だが、その意気や良し。受けて立とうではないか!」


「疾ィィィィッッ!!」


 咲の矛先が戻ったことに、アレッサンドロの口元が挑発に煽る。


 伏せる葦(ENKI)は、見た目通りに攻撃には向かない神器である。

 だが、面積の広い盾の形状に加えて、神器である以上不壊の特性を併せ持っているのだ。

 完全に防御特化の神器。神域特性が行使できなくとも、護衛として立つアレッサンドロが持てば難攻不落の要塞と化す。


 隼駆(はやぶさが)けの速度を保ったまま、咲は八相の構え(木の構え)から素早く半身を(ねじ)り上げた。

 流れるように重心が前傾に移り、刀身に籠められた精霊力が叩き落す一撃に撃滅の威力を宿す。


 繰り出されるのは、万人が想像する精霊技(せいれいぎ)ではなく剣術としての側面に要訣を置いた連技(つらねわざ)


 奇鳳院流(くほういんりゅう)精霊技(せいれいぎ)連技(つらねわざ)――金鉈(かんなた)墜とし。


 激突。アレッサンドロの盾を両断する勢いで、焦尽雛の切っ先がその表面をなぞり落ちた。

 異国の神柱が見せる不壊の奇跡に、突破する意思が火花と散らして軌跡を刻む。


 ――無傷。


「意気や良し。

 だが、その程度で超えられると思われては心外だがね!」


「――まだまだぁっ!!」


 当然のこと、その程度で超えられるなど露とも思っていない。

 歯噛みに痺れる奥歯をさらに食い縛り、呼吸(いき)の続く限りはと重ねて一歩を踏み出した。


 奇鳳院流(くほういんりゅう)精霊技(せいれいぎ)連技(つらねわざ)――追儺扇(ついなおうぎ)

 広がる扇に似た軌跡が盾の表面に残火の衝撃を続けて打ち込むが、不動の権能も行使しているアレッサンドロの足元に、後退りの気配は小動(こゆるぎ)と見えもしない。


 咲にとっての幸運は、アレッサンドロの装備が堅守のみを見据えているという事実であろう。

 ほぼ全身を護る鎧に盾、取り回しを重視した戦槌は攻撃ではなく反撃を想定したそれ。

 小回りの利かないアレッサンドロに対して、咲は機動性に一日の長がある。


 それは、常に先手を取れる事実を意味しているのだ。

 その優位性を絶対に奪われるわけにはいかない。決意を胸に、咲は精霊力を一層に猛らせる。


 さらに斬撃を重ねて、アレッサンドロの護りを中心に誘導。

 相手の姿勢を堅守に集中させてから、咲は焔の渦巻く切っ先を盾の中心(・・・・)へと向けた。


 奇鳳院流(くほういんりゅう)精霊技(せいれいぎ)、止め技――。


「――炮烙鶫(ほうろくつぐみ)


 爆炎が幾重にも沸き立つ奔流となって、盾ごとアレッサンドロをその向こうへと覆い隠す。


 ――なるほど。ただ硬いだけの盾なら、私ごと焙り上げればいいと考えた訳か。


 視界を覆いつくす熱波の只中で咲の思惑を推し量り、アレッサンドロが口元を笑みに歪めた。

 狙いは悪くない。取り敢えずはそう賞賛してやろう。

 ――我々の思惑通りであるという事実、それを除けばの話だが。


 神器の能力は大きく分けて、高出力の精霊器と神域特性に分けられる。

 咲の推察通り、該当の神柱を信奉していないアレッサンドロに神域特性の行使こそ望めない。

 ――だが、莫大な精霊力を注ぎ込むことで神器に至る逸話の再現程度であるならば可能となるのだ。


 地に伏せる葦(ENKI)の神柱は、大地より無制限に精霊力を吸い上げる葦の蛮神として『アリアドネ聖教』に聖伐された経緯をもつ。

 その逸話通り、この盾は所有者の精霊力を対価として、敵の攻撃を喰い潰す(・・・・)事を可能とするのだ。


 いかなる衝撃であろうと業火の熱波であろうと、アレッサンドロが後退を知る理由にはなりえない。


素晴ら(Sorpren)しい(dente)

 惜しむらくは、盾では(ろく)に攻撃できないと楽観視したところか」


「……く、っうぅ」


 吹き荒れる火焔を踏み躙ったアレッサンドロと迎え撃つ咲の双眸が、盾一枚を超えて鋭く交差した。


「経験の浅さが如実に出たな。

 ――盾にはこういった使い方もあるのだと、知っておくべきだったなっ!!」


 ――(バツ)ッッ!!


 アレッサンドロの巨躯が僅かに沈むと同時に、盾から放射された衝撃波が咲の身体を容易く撥ね飛ばす。


「ぅあっ!!」


「これで詰みだ――!?」


 駄目押しの追撃に踏み出そうと前傾に構えたアレッサンドロは、宙を躍る咲の視線が未だ敗色に彩られていない事に気づいた。

 児戯とばかりに容易く(あしら)われて尚、戦意に猛る少女の眼光に、アレッサンドロの警戒が最大限に鳴り響く。


 己の直感を信じて、攻勢に移りかけていた体躯を守勢へと完全に引き戻し、


 ――その判断を待っていた。


埜乃香(ののか)さん!!」


「承知!」


 撥ねられた勢いそのままに虚空を舞う咲の陰から弾かれるようにして、埜乃香(ののか)の身体がアレッサンドロへと向かった。


 (ケガ)レの中には、精霊技(せいれいぎ)を徹さないほどの防御を誇る(ケガ)レが存在している。

 その対抗策として、相手の防御が強固であればあるほどに威力を跳ね上げる精霊技(せいれいぎ)が、門閥流派には存在しているのだ。

 これは咲たちが識る中でも、最も特異なその一つ。


「――()きて咲き、哭いて虚しき、花の色」


 埜乃香(ののか)の唇が震えて、呪歌を紡ぐ。

 その精霊技(せいれいぎ)は滅多に行使されることがない。奧伝に至った埜乃香(ののか)でさえ、実戦での行使はこれが初めての経験である。


 薄緑の精霊力が半ば物質化を見せるほどに(こご)り、

 下段の構え(土の構え)のさらに変形、地面を()るほどに刀身を下げた最下段(黄泉の構え)のまま、アレッサンドロの懐へと埜乃香(ののか)の身体は潜り込んだ。


「ぬうっ!!」


 完全に守勢に押し込まれた巨躯が仇となり、小柄な埜乃香(ののか)の体躯を盾の陰に見失ったアレッサンドロから苦鳴が漏れる。


 相手の選択肢を奪った埜乃香(ののか)は、その勢いのままに精霊力の乗せた太刀を下から上へと跳ね上げた。


 その切っ先が狙う先は、

 ――咲と同じアレッサンドロが持つ盾の中心。


玻璃院流(はりいんりゅう)精霊技(せいれいぎ)、中伝――。


「――杜鵑草(ほととぎす)


 膨大な量の精霊力が植物と云わんばかりに石畳に根を張り巡らせ、成長に伸びる先が盾に激突した。


 ――哦噛(ガガ)ッ!


 神器の盾と精霊力で構成された樹の穂先が、ガリガリと音を立てて互いに相食み合う。


「……ふ、ふ。驚いたよ、確かに強力な精霊技(せいれいぎ)ではあるな。

 とは云え、神器を陥落すほどではないみたいだが」


「ええ」

 返事を期待していなかったアレッサンドロの独白に、それでも埜乃香(ののか)の応えが返る。

「未だ、これからで御座(ござ)いますので」


「な、」


 その言葉を契機に、埜乃香(ののか)の精霊力が目に見えて猛り上がる。

 間違いなくこの後のことを考えていないその勢いに、アレッサンドロの双眸が瞠目に見開かれた。


「にぃぃぃっっ!?」


 盾の防御に拮抗する薄緑の精霊力がその表面を回り込み、内側(うち)まで侵入してから枝葉の如く這い回る。

 根に支えられた強靭な幹がじわりと素早くアレッサンドロの巨躯を持ち上げて、盾ごと虚空へと縫い留めた。


「トロヴァート卿!」


「問題ない! この規模の精霊力、どうせ直ぐにも力尽き――!?」


 半ば物質化するほどの、植物を模した精霊技(せいれいぎ)だ。

 アレッサンドロを中空に拘束する。確かに強力な技ではあるが、殺傷能力が皆無である上に効率が悪すぎる。

 精霊力の枯渇からか、既に喘鳴の兆候すら見せ始めている眼下の少女(埜乃香)を確認して、ベネデッタの気遣いにそう返し、


「――(かえ)って来ぬと、(かえ)らずの仔に」


 (すみれ)色の精霊力に膨大な焔が染め上げられる様に、アレッサンドロの視界総てが奪われる。


 埜乃香(ののか)が生み出した樹の根元に薙刀を疾走らせながら、焦尽雛と舞う咲が呪歌を口遊む。

 その咲の姿に、アレッサンドロは己の敗北を直感的に悟った。


 奇鳳院流(くほういんりゅう)精霊技(せいれいぎ)相生技(あいうむわざ)――。


「――不如帰(ほととぎす)!!」


 猛る業火が精霊技(せいれいぎ)の表面を舐めて昇る。

 否。物質化するほどに高められた木行の精霊力を喰らい尽くしながら、(すみれ)色の精霊力が撃滅の意思を以ってアレッサンドロに迫った。


 表面を渦巻く火焔の渦は、目に見えるだけのただの余波なのだ。


 精霊力総てを灼熱の意思に換えた(すみれ)色の輝きが、枝先に灯り蕾と膨らむ。

 盾の内側(うち)まで侵食してアレッサンドロに巻き付いたものも含めると、その総数は10数余にも及び、蕾は灼熱の花弁へと綻ぶ。


「見事、、!!」


 アレッサンドロが一呼吸(いき)に遺せた言葉はそれだけであった。


 ――()ォンッッ!!


 爆炎の花弁が、大輪の華として幾重にも同時に咲き誇る。

 夜天の虚空に渦巻く灼熱が、アレッサンドロを残さずに呑み尽くした。




「ぐ、うぅぅ。ふ、ふふっ」


 大量の漆喰と土の破片に埋もれて、晶は身動きも取れずに苦鳴を漏らした。

 腹に穿たれた小さな弾痕からじわりと熱が抜けていく感触が、酷く空虚な心地よさとなって全身に広がっていく。


 ……その感覚すら、泡沫(うたかた)幻影(まぼろし)であったならば良かったのに、等と詩人めいた思考が脳の片隅を(よぎ)った。


 敗けた。敗北の対価は死である。練兵であった頃からそれは当然の真理であり、其処に否やを唱える心算(つもり)は欠片とて無い。


 だが、死に臨んだ今際の際、それでも晶は生き汚くも足掻くことに固執した。


 僅かに動く右腕を必死に動かして腰の辺りを弄るが、目当ての呪符は蹴られた際に何処ぞに散らばったらしく指先は空虚に空振るばかり。


 常備しておいた自作の回生符に望みを繋げようとするが、数日前にすべて売り払った事実を思い出して、そもそもの警戒を怠った自身の間抜けぶりにも嘆息が漏れた。


 ――これは、詰んだか?


 追い込まれた自身の窮状に、万策尽きたと自嘲に口元を歪める。

 その時、激痛に霞みかけた視界の端に、回生符の輪郭が仄かに黒く(・・)縁を浮かび上がらせた。


 回生符! 必死に手を伸ばして、一欠片の降って湧いた希望を掴む。

 その確かな感触に思わず笑みを零し、表を返して頬が強張った。


 回生符に浮かび上がる玄生の文字。

 くろ(・・)と静美がくれた、晶であった(・・・・・)最後の証だ。


 これだけは行使(つか)うまいと心に決めていた回生符を手に、己の窮状を忘れて逡巡に動きを止めた。


 ――晶や、(あれ)の名ぞ。そして其方の一部でも(・・・・・・・)ある事(・・・)、忘れりゃな。


 何時かに夢見た優しい少女に咲き誇る大輪の笑顔が、かつての逡巡()を忘却へと追いやる。

 記憶に残る少女の残滓を振り払い、決意を胸に晶は回生符をその手に掴んだ。


 ぷつ。音もなく手ごたえも僅かに、晶がしがみ付いていた郷愁の欠片は赤い霊糸と共に千切れ飛ぶ。


 回生符に(しる)された墨痕鮮やかな玄生の文字が、漆黒に輝く神気の炎に呑まれて呆気無く消えた。


 死ねない。死ねるものか。

 くろ(・・)に、静美に。もう一度だけでも逢って謝るまでは、この身が果てることを晶は良しと出来はしない。


 直後に怪我を慰撫し始める癒しの炎に、決意も新たに晶は拳を握った。

 心地よい熱に、意識が刹那の休息を覚える。


 ――――……晶?


 (かつ)て聴いた懐かしく愛おしい幻聴(こえ)が、晶の意識を遠く確かに(くすぐ)った。


 その響きが誰のものであったか。意識を巡らせるよりも早く、活力を取り戻した晶の身体が大きく身動ぎに震えた。

TIPS:杜鵑草(ほととぎす)/不如帰(ほととぎす)について。

相生関係にある玻璃院流と奇鳳院流。その相性の良さを利用して創られた精霊技。

相生技(あいうむわざ)と呼ばれるそれは、技として中伝程度の難度しかないのにも関わらず奧伝並みの威力と厄介さを併せ持っている。


強い。


だが、それ以上に恐ろしいのが、基本的に仲の悪い門閥流派同士が力を合わせなければいけないと云う、精神的な相性の悪さを完全に無視しているという事実であろうか。


これを修得した時点で、防人たちは一生、行使することはねーだろ確信しているとか。


因みに、開発した当事者たちは、これで少なくとも余所の3流派は敵じゃなくなるとほくそ笑んだ。

その後、実際に行使してみて、余りの不評に泣いたとか。何とか。


読んでいただきありがとうございます。

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[良い点] 宮めぐりの中で希ったもう一度逢いたいという願い
[一言] …(; ・`д・´)ナントここで昔の神柱(おんな)登場!(マテ 両手に華って聞いたことあるけどさぁ\(^o^)/
[一言] 前回の終わりに回生符のことは予想できてしまって 頭の中で 「罠カード発動、玄生の名入り回生符!!」 ってフレーズを勝手に作って内心笑ってました ただ、自動発動じゃなかったので、罠より魔法って…
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