7話 神託は霧中にて、平穏に迷う2
「くふ」
忌々しい棘が1本。久方ぶりに己の末端から引き抜かれる感触に、朱華の咽喉が歓喜に鳴った。
約定より手出しできぬとは云え、自身の龍脈に打ち立てられた外神の手に為る棘は気分の良いものでは無い。
在るがままの位置に龍脈が戻る感触は、彼女をしても代え難い解放感を伴ったものであった。
……特にそれを行ったものが、己が愛する神無の御坐であると云う事実。
それこそが、彼女の愉悦をこれ以上ないほどに掻き立ててくれるのだ。
「首尾よく、晶さんが神託の地へと向かいますか?」
「うむ、邪魔者は排除できた。
後は、為るがままに任せれば善い」
万窮大伽藍に掛けられた風鈴が幾重にも細鳴り、虚空を渡るその玲瓏な揺らぎに朱華はゆったりと身体を浸した。
朱盆に浮かぶ水面の向こうで、晶が駆け出す姿が映る。
そのいじらしい後背に、これまで手を掛けた甲斐があったと愛おし気に眺めた。
「乳海を導く棘、ですか。
涅槃教の置き土産が、随分な悪さをしてくれました」
「くふ。何ものかは知らんが、真実に小細工を弄してくれたものじゃの。
水気の龍脈を堰き止めて妾の土地を圧し封じるなど。
手は込んでおるが、あの程度で神託を封じることが出来ると思っていた訳ではあるまい」
神託は止められないだろうが、視え難くはできていた。
それ故に、下手人の姿を掴めなかったのは手痛い。
それは奇鳳院の明確な失点だろう。そう残念に思うだけで、嗣穂は思考を止めた。
行使われたのは細々と生き残っていた『導きの聖教』と、約定で手出しできなかった涅槃教の神器。
目眩し代わりに事態を盛大に荒らして、
……恐らくだが、首謀者は逃げおおせた後であろう。
腹立たしくもあるが、それ以上に収穫も多かった。
――特に大きかったのが、
「これで、晶さんも自信を持てるでしょう」
「そうさの。気遣いに長けるのは美徳であろうが、過ぎたれば悪癖よ。
神々の伴侶と目されるなれば、時に獣の如き益荒男振りで妾の神気を貪ってくれねばのう」
くすくす。悪戯に童女が声を潜めるように、生々しく朱華が微笑む。
しかし、上機嫌の朱華とは裏腹に嗣穂の眼差しが不安に揺れた。
成功体験は確固とした自信の源となり得る。これは嗣穂も認める事実である。
だが、ここまで急激な成功体験に成熟も途上の少年が耐えられるのかと問われれば、嗣穂とて簡単に保証はできない。
――加護とは、守護であり試練である。
古に残る伝承の御代より神無の御坐以外のものが神柱に愛されると、その殆どが過剰な加護に圧し潰されるようにして天寿を前に死を迎えるという。
神無の御坐にしても無事である所以は、神柱より与えられる尽きぬ守護がその身を守っているからでしかない。
加護で身体は護れても、精神までも護ってくれる訳では無い。
過剰な成長が控えめなあの少年を何処に導くのか、嗣穂はそれが心配でならなかった。
それでも、背に腹は代えられない。
――國天洲より繋がる龍脈に、瘴気が濁り始めた。
それはつい先ほど、龍脈読みの陰陽師から受けた報告。
國天洲の大神柱が晶の不在と雨月の失態に気付いたのだろう。そう察せられるに容易い情報であった。
そうであるならば、残された時間が無さ過ぎる。
多少、後に問題を残してでも、晶には精神的な成長をして貰わなければならないのだ。
「――さて、そろそろ頃合いかの。
晶と立つ初の舞台、妾も久方ぶりの舞に酔うとしようぞ」
「はい、あかさま。
――御存分に、彼の地に神威を打ち立ててくださいませ」
しゅるり。僅かな衣擦れの音と共に幼い肢体が立ち上がり、稚い掌に握られた金地に朱塗りの扇子が僅かに開かれる。
打てる手段は総て打った。
後は鴨津で抗う少年に全てを託すのみ。
こびりつく不安を押し殺し、ゆるりと舞い始める童女に向けて嗣穂は深く首を垂れた。
「――お嬢さま!」
「どう云うこと、久我くん。神託? この一件、神託が下っているの!?」
咲たちが居る村外れの集会所に息堰切った晶が駆け込むと、集会所の奥で咲が諒太に詰め寄る様子が見えた。
がらんとした集会所の中、咲と諒太の他には埜乃香しかいない。
その埜乃香にしても、焦りに満ちた咲の剣幕に面食らって立ち竦んでいる。
「ああ、そうだ。神託が下ったから、俺たちは『導きの聖教』の蜂起を確信している。
落ち着けよ、咲。仮令、八家だろうと、向かわせただけの手勢に神託の内容を教えられる訳ないじゃないだろ。
――何を取り乱している?」
「最初っから変だとは思ってたのよ。廃村の調査程度に久我家が応援を要請して、奇鳳院が輪堂家を巻き込むなんて。
神託が下りているなら、そもそもの前提が崩れるわ。
――神託の内容は? それによって対応を変える必要まで出てくる!」
「それは、」
神託の内容は、簡単に他者に漏らせるものでは無い。
一応、余人の目は無いとはいえ、吹き曝しに近い集会所の真ん中で口にするものでは無い。
だが、咲の剣幕に観念したのか、渋々と諒太は口を開いた。
「……“鴨津より西に外海の客人の潜む影あり。謀叛の兆し、五供に露わす。”
外海の客人って神託が出たのが、『導きの聖教』が以前に謀反を起こした時なんだ。
この時点で『アリアドネ聖教』じゃなくて、『導きの聖教』が相手になる事が確定していた。
実際に『導きの聖教』が村を占領して独立を謳い始めたし、『アリアドネ聖教』が訪れたのは咲が鴨津に到着した同じ日だ。内容からしても神託には関係が無い。
五供は盆の入り。つまり今日、『導きの聖教』が武力蜂起に打って出るって事だと俺たちは判断した」
成る程。その内容ならば、咲も同じ判断を下すだろう。
だが、現実が違いすぎる。
聖教の教徒とは云え、実際は抵抗すらできない老人や女子供が目立つ一団が居るだけだ。
家屋の数からしても、『導きの聖教』の人数に偽りはない。
何かを決定的に違えている。しかも、間違いなく致命的な何かを。
「……確かなのは、ここで何かが起こっていたという事です」
思考に嵌まりかけた咲の意識を、晶の声が現実へと引き戻した。
「晶くん、村の調査は終わったの?」
「はい。
――神社でこれを見つけました」
手渡されたそれは、隙間なく真言が刻まれた石造りの杭。
奇妙に捻じれた棘にも見えるそれを、矯めつ眇めつその場に居合わせる全員で眺める。
「……これは?」
「水脈を堰き止めていた杭です。
これを操作する事で、神父なる男が奇跡を演じていたのでしょう」
神父。その言葉に咲が瞠目を返した。
――どうして忘れていたのか、この村は神父という男が代表だったはずだ。
断じて、先刻まで会話を交わしていた半助では無い。
急ぎ呼びつけた半助に、神父の行方を問い質した。
「……神父さま、ですか?
――あぁ、あの方でしたら先だってに旅に出ると」
詳しく訊けば昨年の折、山住に混じって生活をしていた半助たちの前に、神父はふらりと現れたと云う。
天啓を得て『導きの聖教』を安寧の地へと誘う役目を負ったと説かれ、その説得に乗った半助たちが案内の果てにこの廃村へと辿り着いた。
「しばらくの間、領地や納税などの交渉諸々も引き受けてくれていたのだけど、神父はここでの役目を終えたからと、再び旅に出たという事ね」
――逃げられた。
概要を纏めた咲の言葉に、悔しさから諒太が天を仰ぐ。
『アリアドネ聖教』の動向、そして久我家の判断を計算に入れた上で行動を起こしているのだ。
姿を見せないまま両者を翻弄し囮に使い捨て、影すら踏ませぬままに逃げの一手に転じる。その手管に、敵ながら感嘆すら覚える。
「手遅れか」
「……いえ」
悔しさに諒太が零すが、晶の呟きに顔を上げた。
同じく悔しさに染まっているも、晶に諦めの感情は見えない。
「“刻限は今夜”、それが土地神からの警告です。
裏を返せば、今夜一杯は猶予があるって事でしょう」
「何で土地神と会話できてんだ、って疑問は棚上げにしといてやる。
――事実なんだな?」
肯定を返す晶の瞳を見返して、諒太は埜乃香に視線を向けた。
「埜乃香、鴨津に戻るぞ。練兵班を編成し直せ」
「……帰還編成には、最低でも半刻は猶予をくださいな。
鴨津の決戦に間に合ったとしても練兵たちは使い物にならないですし、彼等はここに残していく方が上策かと」
「駄目だ」足手纏いは充分に理解しても、諒太は埜乃香の提案を蹴り除けた。
「『導きの聖教』が無害って保証は何処にも無ぇんだ。練兵たちで心許ないなら連れて戻ってやるしかない」
「――はい。少々お待ちくださいませ」
その返答は予想の内だったのか、特に反論を見せずに埜乃香は準備に入る。
「――本当に、鴨津が目的なんでしょうか?」
「晶くん、どう云う事?」
咲も諒太の方針に異論はない。
肯いを返して埜乃香の後に続こうとするが、晶の呟きに足を止めた。
「神託が出たのは事実です。
神託で事が起きるのは鴨津の西、鴨津じゃない」
「それがこの杭だろ?
お前が抜いて終わりだ」
「違います」晶は、諒太の指摘を否定した。
「神託は必ず起きることが下される。
――つまり今夜、この村以外の鴨津の西で何かが起きるのは確実でしょう」
「だが『導きの聖教』だろうが『アリアドネ聖教』だろうが、最終的な目標にしていたのが鴨津の風穴だ。
あそこを陥落さないと、奴らも次に移れないだろ」
「ここまでくれば、その前提が間違っている可能性を考えるべきでしょう」
不敬と理解しても吐き捨てるように応え、脳裏に鴨津周辺の地理を思い描いた。
詳細な地図があれば良かったが、望めない現状では暗算で結果を求めるしかない。
「奇妙だとは思っていたんです。確かに鴨津の風穴はかなり大きいですが、流れる先が無い。
間違いなくあの風穴は、大きいだけの支流です」
最重要となる風穴は、龍脈の基点となる風穴が選ばれる。
出力が大きいだけの支流では、攻防ともに戦略上の価値は生まれないからだ。
「――鴨津の風穴とこの村の龍脈を考えれば、本流に近いのはこの村の龍脈です。
村の近辺、鴨津側に由緒ある神社がどこかにあるはず」
「神社?
それも結構な奴となると、ここ以外じゃ思い当たるのは無ぇぞ」
小粒な道祖神なら山ほどあるが、神域を有するほどのものなど鴨津周辺に土地勘のある諒太の記憶にも無い。
――だが、
「……あの、在ります」
意外な指摘は、戸口を見張っていた陸斗から上げられた。
「神社じゃありませんが、源南寺という涅槃教の寺院が一つ。
――潘国にある聖地との繋がりが深く、御神体が納められているとかで」
本当かよ。諒太の口から呆然と呟きが漏れた。
確かにそう云われれば、由緒正しい寺院の存在が記憶に浮かぶ。
高天原に於いて、寺は支流となる風穴に建てられるものと相場が決まっていた。
なぜならば涅槃教とは潘国の教義であり、高天原のものでは無いからだ。
来世浄土を生きる涅槃の教義に人々は安息を求めたが、所詮その思想は現実に寄り添ってくれる神々のものでは無い。
高天原に永く息衝く事を赦されたものの、龍脈の重要地に与えられることは無いはずだ。
その常識を覆す寺院が、久我家の膝元である長谷部領に存在している事実こそに諒太は瞠目を隠せなかった。
「恐らくはそこでしょう。
嘗て涅槃教は『アリアドネ聖教』と同じく、侵略を仕掛けてきた宗教だったとか。
――つまり、その寺院は領事権なんです」
晶の脳裏で情報が繋がっていく。
領事権とは、許可が与えられた土地のみに対して自国の事情を優先して適用できる権利だ。
そして、涅槃教の寺院には御神体が在る。それが意味するにその寺院だけは、涅槃教の都合が優先されるのだ。
その事実は、珠門洲に於いて唯一、大神柱の神託が及びきれない領域である事を示唆していた。
「外様モン、それは手前ぇの想像だろ。
――証拠は?」
「証拠はその杭ですね。
杭の筋に沿って書かれている文字は真言です。
それは潘国の神字が基礎になっている、と聞いたことがあります」
晶を教導してくれた直利の言葉が蘇る。
他洲の八家から婿入りした直利は、晶の境遇を憐れむも忌避することなく付き合い続けてくれた稀有な一人であった。
どんな手段か、かなり無理をして祖母が雨月家に招聘したその青年は、惜しみなく晶に様々な知識を与えてくれたのだ。
特に呪符関係の知識は雨月であっても認めるほどに群を抜いており、その英才教育を直に受けた晶の知識は呪符関連に限られていてもかなり深かった。
「それに今から鴨津に取って返すよりも、その途上にある寺院に向かう方が選択肢としては現実的かと」
「……まぁ、確かにそりゃそうだ。
いいだろう。鴨津は父上に任せて、俺たちは涅槃教の寺院を叩くぞ」
晶の指摘通り、寺院に向かう方が間に合う公算が高い。
否定することなく、諒太はあっさりと決断を下した。
「……ねぇ、その寺院に黒幕がいると思ってる?」
「……いえ、そっちは既に逐電した後でしょう。
寺院にいるのは、『アリアドネ聖教』かと」
「あ、やっぱり」
踵を返して小屋から出ていく諒太を見送りながら、咲の囁きにそう応える。
予想はしていたのか驚く様子も見せずに、咲は肩を竦めてみせた。
「ここまで味方を使い捨てる奴が、最終局面だからって前に出るような下手は打たないでしょ。
だったら相手が用意できる戦力は、『アリアドネ聖教』しか残ってないわ」
「はい。
加えてベネデッタは、鴨津の風穴を常に要求していました。
あれが嘘でないのなら、若すぎるお嬢さまに提案する意味がありません。
つまりあの会談は、破綻する事が前提の時間稼ぎが目的かと。
なら内容そのものに意味は無いか、」
「――内容を囮にしているか、ね」
晶の推察に飛躍はあるものの、論理の破綻は見られない。
納得に、咲は頷きを返した。
それに何より、晶には神柱から加護が与えられている事を、咲は知っている。
加護とは、守護と試練。
理屈や常識では無い。晶の成長と活躍を、神柱が望んでいるのだ。
無二の戦士として、勲を謳えと。
――だからこれは必然だ、
晶は疑いなく決戦の地へと辿り着き、
――間違いなく勝利するのだろう。
――――――――――――――――――
「………………やぁれ、やれ。どうやら気付かれてしまったのう」
何処かの山中で、のっぺりと蠢く闇が残念そうに嘯く。
巨大な闇だ。絶えず波打つその闇は、放り捨てたとはいえ多少残っていた興味のままに廃村の様子を覗き見ていた。
この策を仕込むのに数百年余、西巴大陸に渡って20年を掛けている。
その趨勢を見極めずにこの地を離れるのは、闇の主であっても心残りが過ぎたのだ。
その上で、鴨津の防人が見せた動向。
好き勝手に弄るため雑であったというものの、籠めた神気ごと涅槃教の神器を引き抜く輩が混じっていたのは闇の主にしても予想外であった。
『アリアドネ聖教』に与えた作戦は、掛ける時間が勝敗に直結している。
晶たちの速度では聖教の不利が変わることなく、一方的に押し切られてしまうだろう。
……それは困る。娯楽としてもつまらない。
―――否、卑。
闇がぬうるりと嗤った。
「それは、退屈じゃのう。
良いじゃろう、人欲に溺れた枢機委員会の走狗。
能く踊ってくれた貴様の道化振りに、敬意を示してやろう」
―――否、卑卑。
村の周辺に潜ませておいた道術由来の術式を、躊躇うことなく総て起動させる。
その瞬間、ただ人の聴覚の外に在る音が村の周囲に響き渡った。
それは、穢獣が好む瘴気呼びの笛の音。道術の中でも邪法と呼ばれる一つである。
「ほぅれ、義理は果たしたぞ。
存分に踊れ、アンブロージオ」
―――否否ィ。
嘯く闇が大きく波打ち、その奥でにたりと嗤う。
これ以上、手を出す事はしない。高みの見物を決め込んだ闇が愉し気に震える様は、
――何処か瓢箪とも、鯰とも見えた。
――――――――――――――――――
晶たちの元にその報告が届いたのは、丁度、出立の準備も終わった頃であった。
「穢獣が!?」
「はい、村の周囲を取り巻いています!」
「畜生が! 下郎の仕業か?」
「うん。
時機も良過ぎるし、久我くんの予想に賛成するわ」
狗や猫又。小物の群れが幾つか、村の出入りを封じているらしい。
明白な封じ込めに苛立ち歯軋りに吐き捨てる諒太の心中を、咲の同意が幾許か宥めた。
「――それよりも、如何いたしましょう?
私たちだけなら兎も角、練兵たちを連れて穢獣の群れを突破するのは時間が掛かりすぎます」
埜乃香の指摘に、全員が考え込む。
この程度、晶たちだけなら難なく突破も叶うが、練兵班の少年たち込みでは脱出も叶わない程度に速度が落ちる。
諒太は戦力を比較して、晶に視線を向けた。
「おい、外様モン。
お前、練兵に付いて村から出ろ」
「わか――」「駄目よ」
肯いを返そうとする晶の台詞に、咲の制止が鋭く刺さる。
「晶くんの戦力は、向こうの戦力に対して絶対に必要になるわ。
ここまでやれる相手が万全で待ち構えてるのよ、無駄にできる余裕なんて無いでしょ?」
「ち。じゃあ、どうすんだよ?
練兵どもだけで穢獣の群れを突破は出来無ぇぞ」
実のところ、これを機に晶と咲を引き離す事も企んでいた。
正論に返された事が図星を指されたようで、諒太が顔を背けて反論する。
「――久我様。
練兵班は、村に立てこもって穢獣を凌ぎます。
集会所に隠れて削り続ければ、小物の群れならば練兵でも充分に勝機はあります」
その時、陸斗が手を上げてそう提案した。
方針が膠着しかけた雰囲気にとって、彼の提案はありがたい。
――だが、
「御井班長、大丈夫なのか?」
敵は穢獣だけでは無い。信用の置けない『導きの聖教』も、同様に敵となる可能性があるのだ。
気遣いからくる晶の確認に、陸斗は強張る笑顔を向けて頷いた。
「問題ありません。
自分は軍人になると決めた身であります。
護国の前に自分の故郷を守れるならば、自分の判断に悔いはありません」
「……そうか」
ならば、もう云うことは無い。
「決して無理をするな、無事を祈ってる」
「――は。防人殿もご武運を」
――――――――――――――――――
予感がした。
源南寺の山門に続く石階段を上る足を止めて、ベネデッタは金髪を躍らせて後方に視線を巡らせた。
無論、その視界に映るものは何もなく、月明かりが照らし出す長谷部領の平地一帯が眺望できるだけであったが。
『どうした、ベネデッタ?』
『ううん、何でもないわ』
『…………そうか』
気遣うサルヴァトーレに、虚勢の微笑みだけを返す。
これでも長い付き合いだ。ベネデッタの微笑みに硬さがある事は気付いたろうが、指摘せずに引き下がる。
その気遣いが、ベネデッタにとって何よりも嬉しいものであった。
『さて、源南寺といったか。
目的地には到着した訳だが、我々の装備は届いているのであろうな?』
『――問題なく、トロヴァート卿』
返事を期待してのものでは無かったアレッサンドロの呟きに、アンブロージオの応えが出迎える。
『これを見越して一足早く、バティスタ船長に動いて貰ったのです。
教会騎士の装備は総て問題なく、寺内に運び込んでおります』
『助かります、アンブロージオ卿。
トルリアーニ卿、トロヴァート卿。騎士装備の確認をお願いします』
ベネデッタの指示に肯いのみを返し、無言で教会騎士の2人が動き出す。
状況がどうであれ、応戦の準備を固めておくのは悪い事では無い。
『私の依頼通り、久我の領主を焚きつけてくれたのでは?』
『そちらは充分に。久我の領主は、鴨津を動けないでしょう。
しかし、鴨津の戦力がこちらに気付くのは時間の問題です、迎え撃つ準備を整えておくのに越したことは無いかと』
『良いでしょう。
――こちらへ』
先を歩くアンブロージオの案内で、ベネデッタは石畳が敷かれた寺内を進む。
本来はここまで入り込む者はいないのだろう。
打ち壊された木の柵を踏み越えて本殿の中ほどを進むと、その中央に石造りの杭が突き立つ威容が見えてきた。
見た分には何の変哲もない石の杭が無造作に突き刺さっているだけに見えるが、その実、眼を凝らせば莫大な神気と精緻な術式が杭を構成していることが判る。
『潘国の神器、パーリジャータとかいう銘だそうです。
これを引き抜けば、真国の教会に龍脈の本流が帰属します。
後は、向こうで準備しておいた神格封印を珠門洲の神柱に打ち込んで、首輪をつけてやればいい。
五柱の一角が陥落れば、残り総ても自然と陥落せざるを得なくなるでしょう』
『……そう上手く事が進むでしょうか?
源南寺を陥落したは良いですが、アンブロージオ卿は後の維持を考えておられないように見受けますし』
『考えていませんからね。
龍脈を大規模に操作する技術は、高天原に存在しません。
これを引き抜いた後は、沖合に待機している『カタリナ号』に帰還して高天原が陥落するのを待つだけです。
とは云え、流石は嘗ての大国が遺した技術ですね。充溢している神気が、この杭に対する干渉を総て弾いている。
――これを引き抜くには、少々お時間を戴かなければなりません』
『具体的には?』
『余裕を見て、5時間は』
アンブロージオの返答に、忌々しそうにベネデッタの眼差しが歪む。
時間が掛かりすぎている。
土地勘のない場所。しかも支援が無い状態で5時間を耐えろとは、簡単に吠えてくれる。
だが、ここまで来たら選択肢も無い。
『分かりました。
――直ぐにでも取り掛かってください』
踵を返して、アンブロージオに背中を向けた。
最初に感じた予感は消える事なく、時間を経るごとに強くなっている。
間違いなく、誰かが『アリアドネ聖教』の思惑に気付いたのだ。
そしてその誰かが晶である事も、ベネデッタは確信の内に気付いていた。
幾許も時を置かずに、珠門洲の大神柱が最も信の置く戦力が源南寺に到着する。
その結果がどうなるかは誰にも分からない。
――ただベネデッタは、己の本分を遂行するだけだ。
四肢に力を入れて、大きく踏み出す。
その先には、本来の装備を取り戻した友人2人の姿が見えた。
TIPS:乳海を導く棘。
潘国の神器。28本から成る杭の神器で、本来の仕様は流れの操作。
より正確に言及するなら、流れの始点と終点を強引に決定する特性を持つ。
武器としての特性は知られていない。
自分の都合の良いように龍脈を弄る事で、相手の領域を侵食するような使われ方をしている。
周辺国家の侵略を企んだのも、この神器が存在していた事に起因している。
読んでいただきありがとうございます。
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