6話 交わらぬ会談、ベネデッタの真意1
『アリアドネ聖教』が拠点にしている教会は、港湾から続く大通りの一角を大きく占める形で建っていた。
瀟洒主義とはまた違う異国の気風を純粋に取り込んだ赤煉瓦の外壁が、晶の威勢を圧倒するかの如く立ち塞がる。
流石に気圧されたのか、隣に立つ咲も正面の門扉を睨むばかりで進む足も踏み出せずにいるようであった。
見るからに西巴大陸の出自と判る栗毛の男性が、逡巡する2人の後背を追い抜き正面の扉を両開きに引き開ける。
扉の隙間をすり抜ける形でその内側に消える男性の姿に、晶は覚悟を決めて扉の取っ手を掴んだ。
『……聖アリアドネは子らの悩みを受け止めます。
歩む苦難の路に、西方の祝福を――』
意外と重さを感じさせない大扉を引き開けると、異国の言葉が清冽な響きを湛えて晶たちの耳朶を打った。
教会の最奥、内陣中央に置かれた主祭壇に立つベネデッタが、拝跪する青年に向けて朗々と正典の文言を読み上げる。
――すると、
「――――!!!!」
上部に配された採光用の装飾硝子から降りしきる陽光が、一際の輝きを持ってベネデッタたちを包み込んだ。
声を上げなかっただけでも、咲にとっては上出来であったろう。
過程こそは違うものなれど、その輝きは咲にとって馴染みのある光景であった。
加護、恩寵とも呼ばれる輝き。
晶たちの目の前で行われたものは、『氏子籤祇』の輝きによく似ていた。
しかし、『氏子籤祇』は抜けたのでも無い限り、生涯に一度のみ。
晶たちの常識に於いては、抜けたことの無い相手に2度も行われるものでは無いはずのものである。
『祝福を』
『感謝いたします、カザリーニ司祭さま』
『故郷への帰還を、穏やかな風が導きますように』
和やかに交わされるそのやり取りの端々から、それは少なくとも彼女たちにとっては異常な出来事で無い事が窺い知れた。
男性とすれ違い、やや放射状に配された長椅子の間をすり抜けるようにして進む。
「――ようこそ、アリアドネ正教会へ」
「ええ、お招きに与りました。
今からでもお話をしたいのですが、宜しいかしら?」
日時の指定はしていないものの、正面扉が開いた時点で気付いていたのだろう。
内心を窺わせない慈悲の微笑みが、晶たちの来訪を形だけでも歓迎してみせた。
奥の面会室に案内を通されかけるも、咲の希望で正堂での会談となる。
軽く自己紹介だけを経て、内陣を見上げる形で晶たちとベネデッタは対峙を果たした。
「……非公式の会談なので、お互いにとっても他者に聴かれる可能性は排したいと思いましたが」
「いいえ、当方が特に困る事はありません。
――それとも、カザリーニさまに含むところが御有りとでも?」
「いいえ全く。それならば気の回し過ぎですね。
御地の御領主、法理殿と云いましたか。あの方は兎に角、その辺りに厳しいご様子でしたので」
「私は勅旨にて命令を受けただけのものです。
久我の御当主とは上下関係にありませんので」
「成る程。鴨津の領主に意向を通せる相手、それが咲さまの上司なのですね。
――それは好都合です」
「……ええ、その通りです」
不味い、もう抜かれ始めている。咲は内心で歯噛みした。
細かく相手の情報に揺さぶりを掛けて、相手自身を削り出していく。
咲も覚え始めた交渉術であるが、波国の使者をしての側面も併せ持っているベネデッタにやはり一日の長はあるのだろう。
「高天原にも議会制度が導入されているんですよね、洲議会の上位の方でしょうか?
それとも更に上? 洲の執政を司っている方とか」
「さあ、それはどうでしょうか」
議会制が高天原に導入されたのは、文明開化とほぼ同時期に当たる40年ほど前だ。
成立からそれなりの年月を数えてはいるものの、制度としてはほぼ成熟を見せておらず稚拙な権力ごっこが横行している状況でもあった。
流石に議会制度が有名無実化しつつある現状までは掴んでいないのだろう、しかし、咲はその勘違いを敢えてそのままにしておく事に決めた。
「――こちらからも質問を宜しいでしょうか?」
「なんでしょうか?」
「先ほどの輝き、『氏子籤祇』ですよね。
何故、重ねる事が出来るんですか?」
「うじこ……せんぎ、ですか?
……あぁ、もしかして『洗礼』のことかしら。
神の子であると証し立てる儀式、この認識で間違いありませんか?」
頬に手を添えて思案するが、ベネデッタは直ぐに答えを導き出してみせた。
やはり、類似する儀式は存在しているようである。
首を縦に振る事で、咲は肯定の意思を返す。
土地神との契約である『氏子籤祇』の効果範囲は、どうしても結んだ神柱が支配する土地の制限を受けてしまう。
もし、この霊的な契約の枷を無視する事が出来るのならば、領地は疎か洲の制限すら越える事ができるという事実を意味している。
それは、領家の直系である咲にとっても、無視できない想定であった。
「特に不思議な事実ではありません。
――世界に遍く総ての神柱の始祖たる唯一神、それが聖アリアドネなのですから」
そう告げて、主祭壇に据えられた正典を広げて見せる。
「『神柱は、始まりの言葉で世界を彫り上げる』。
嘗てアリアドネは言葉の鑿を振るい、世界を天と地に別けました。
炎を天の竈に、土を畑に、水を桶に満たし、己が身を吹き渡る風に変えて世界を言葉で満たし、
――己の写し鏡として、アリアドネは最後に人間を編み上げたのです」
アリアドネ聖教に於ける教義の一節を朗々と諳んじると、ベネデッタは晶たちに向き直った。
「人間であるという事は、聖アリアドネの愛し子であるという事。
――仮令、庇護地を離れたとしても、吹き渡る風たるアリアドネはただ人に加護を与えられるのです」
無茶苦茶だ。
咲もだが、晶もそう叫びたかった。
土地に縛られて生活する。それが高天原に於けるただ人の常識だ。
だが『アリアドネ聖教』は、その常識を無視できると云う。
高天原は守勢しか選べないのに、向こうは攻勢を選べるという理不尽な事実。
無論、たかだか人間が創り上げた教義程度に、そこまで出鱈目な結果はあり得ない。
何らかの制約はあるはずだが、それを踏まえても想定以上である事は間違いなかった。
「――さて、こちらも宜しいでしょうか?」
「……ええ、どうぞ」
「我々波国は久我家に対して、鴨津の風穴を返却する事再三の要請をしてきました」
ぴき。音を立てる勢いで、咲とベネデッタの間に渡る雰囲気が張り詰める。
「ふ、ふ。
カザリーニさまは、随分と酔狂な蒙昧事がお好きですのね?」
「全く何らおかしな要請ではありません。
――そもそも、この世界は唯一神たる聖アリアドネの所有です。
遍く総ての神柱は聖アリアドネの眷属神にすぎず、高天原の神柱とて聖アリアドネより生まれい出たものの一柱です。
悩む必要はありません。ただ、我等が親であるという事実を思い出して欲しいだけです」
「真逆、私たちが無知な幼子だとでも思っているの?
神柱の真実がどうあれ、貴方たちが植民地欲しさに戦火を広げている事実は変わりないでしょう。
――神柱を蔑ろにして、辱めているのはどちらの方だとでも?」
一触即発。ベネデッタと対峙して、咲は手にした焼尽雛を握り締めた。
明確な敵対を宣言した以上、穏やかに見えても此処は既に鉄火場だ。
向こうも当然、戦闘が起こる事は覚悟の上だろう。
「それは見解の相違でしょう。聖アリアドネは総てを慈しみ愛で包み込んでくれますので。
ともあれ、拒否されたのは残念です。ここは、私たちが譲ると致しましょう。
――時に晶さま」
「はい?」
ベネデッタの視線が、咲の後背に控える晶を射抜く。
真逆、話題を振られるとは思っていなかった。
返す言葉が一拍遅れる。
「先日お聞きした悩みに、晶さまご自身の結論は得られたでしょうか?
このベネデッタ・カザリーニ。晶さまが懊悩された涯に得たものを、是非とも共に見とう御座います」
「……いいえ、未だです」
「そうですか。
――未だ迷いを胸に抱えていると仰るのであるならば、晶さま、波国に来られませんか?」
「は?」
唐突な勧誘に、晶の思考が停止する。
だが晶の困惑をどこ吹く風と、ベネデッタは構う事無く言葉を続けた。
「先日にお話を交わした折り、晶さまはついこの間まで平民であったと。
最下のものが上位に取り立てられるお伽話は良く聴きますが、現実となると色々とご苦労も多いことでしょう。
その点で『アリアドネ聖教』に於ける教会騎士は、貴族も平民も一律に同じ階級と見做されます。
――波国であれば、御身を平民出よと見咎めるものは居ないでしょう」
「ぁ…………」「――何の世迷言を!」
返事に困る晶が何かを紡ごうとする前に、その言葉を被せるよう咲が怒鳴り返した。
晶が自分より前に踏み出さないよう、右腕で庇うようにして立ち塞がる。
「晶くんは奇鳳院家預かりの防人、波国への鞍替えなど認められる訳もないでしょう!!」
「おや。
平民上がりの防人程度を国外に放出する事も赦さぬほど、高天原とは狭量の国なのでしょうか?」
「黙れっ!!」
悪手と思いつつも、咲はそう怒鳴らずにはいられなかった。
これ以上、この女に口を開かせる訳にはいかない。
その理由に思考が至る前に、第六感が最大音量で警報を掻き鳴らす。
果たして、その警戒は間違っていたのか。
――否。
「……あぁ。晶さまに何も伝えていなかったのですね。
――御身に宿る、世界を歪ませるほどの加護の事を」
未だ、伝えるには早い。そうやって伝える時機を躊躇っていたお陰で、最悪の相手に晶の事を口にされてしまった。
「加護、ですか?」
「はい。
元来、加護は民草を守護する神柱の恩寵ですが、遥か高みを目指すものは太陽に灼かれ急落に死ぬが如く、加護もまた多ければ良いというものではありません。
波国の英雄譚の一つに、神柱に愛され過ぎた英雄がいます。
その勲に謳われる神柱の加護は様々な悪意や戦場から英雄を護り抜き、
――遂には、加護の重さで英雄自身が死に至ったのです」
「加護の重さで死ぬ、ですか?」
「少なくとも、寿命で死ぬことは望めない程度に」
ベネデッタは、主祭壇脇の机にある杯を掲げて見せた。
ちゃぷ。僅かに揺らめく光が透けて見え、杯には中ほどまで水が湛えられている事が見て取れる。
「この杯をただ人の容であると仮定いたします。
そうしますと、中に湛えられている水は精霊に当たるでしょう。
ここに、ただ人自身が持つ霊力を加えると、杯には9割方は水が入っている状態になります
私たちが認識する加護は、ここに更なる水量を注ぎ込む行為と云えますね。
――つまり、自身の上限を無視して加護を与えられるという事は、上限を超えた重みで杯が潰れる行為なのです」
「何を根拠にそんな出鱈目を!」
「根拠ならありますわ。
我々が『祝福』、加護の積み増しができる事は、先刻にお二方が見られた通りです。
加護の限界については、一家言があると自負しております」
「それはっっ」「――どうでしょう晶さま。御身が聖アリアドネの栄光と謳うのであるならば、取り返しのつかなくなる前に加護の減衰を行いますが」
「折角のお誘いですが、お断りします」
懊悩に焦る咲と甘く言葉で誘うベネデッタ。
対照的な2人を前にして晶が導いた結論は、ひどく緊張感の薄れた乾いた響きを伴っていた。
ベネデッタの誘いは、晶にとって興味を惹くものでは無かったからだ。
オ婆、朱華、嗣穂、勘助、厳次の顔が順繰りに脳裏を過ぎる。
もう直ぐに死ぬかもしれないと脅されたところで、華蓮で晶を迎えてくれた人たちを裏切る事は晶の矜持が赦すはずもない。
「……理由をお訊きしても?」
「簡単ですよ。
加護で死ぬか死なないかは俺が決める、それだけです。
――それに、」
「?」
「高天原を攻めるってんだ、防人の俺が護国に起たなきゃ甲斐もないだろ」
「そうですか、
……残念です」
悲しそうにベネデッタは双眸を伏せる。
それは、晶とベネデッタ、延いては高天原と波国の間に決定的な亀裂が入った瞬間であった。
「……随分と遠回しに私を誘ってきた意図が読めなかったけど、私越しに晶くんを説得する事が本当の目的だったのね」
「いいえ。どの交渉も必要ゆえに行っています。
とは云え咲さま、忠告に一つ。
――交渉の基本とは、相手の意図を外すものですよ」
明言を避けてはいるが、その一言で咲の疑いは確信に変わった。
晶を穏やかに成長させるために情報を制限してきたが、ベネデッタの茶々入れでご破算になりかけている事実は容認をし難い。
「晶くん、行こう」
会談は以上、とばかりに咲は踵を返す。その後背に続こうと晶は踵を返しかけ、
「――咲っ!!」
その細い腰に腕を回し、現神降ろしも拙いままに全力で床を蹴った。
強化の足りないままに、2人揃って宙を踊る。
――轟音。
逃れる寸前まで2人がいた場所が、木っ端微塵に床や椅子であった木片を撒き散らして粉塵を巻き上げた。
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