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泡沫に神は微睡む  作者: 安田 のら
二章 聖教侵仰篇
54/222

閑話 小雨に綻びて、黎明に哭く2

「今、何と…………?」


 告げられた言葉に、雨月(うげつ)天山(てんざん)茫然(ぼうぜん)と繰り言に返した。

 目の前の人物が告げた言葉を理解する事を、理性が本能的に拒否をする。


 己が発した言葉すら、自身のものとも理解できない。

 眼前の相手に対して尽くすべき礼すら喪う。恥ずべき醜態を晒している事に思考を至らせることも出来ずに、その問い掛けだけをもう一度、口に繰り返す。


「今、何と仰いましたか…………!?」


 揃えた膝を乱す。これまで見た事も無い天山(てんざん)の惨めな為体(ていたらく)を、上座に座る義王院(ぎおういん)静美(しずみ)の双眸は揺れず冷然と見下ろしていた――――。




 昨夜までの崩れ模様の天候も何処へか、からりと晴れ上がった蒼天が七ツ緒(ななつお)を照らし出す早朝。

 雨月(うげつ)天山(てんざん)颯馬(そうま)は、黎明山(れいめいさん)の中腹にある義王院(ぎおういん)の屋敷に訪れていた。


 胸の内に不安など一欠片も無い。

 意気は高く足取りも確かに、颯馬(そうま)を後背に引き連れた天山(てんざん)義王院(ぎおういん)本邸に続く正門の前に立った。


 ゴ、コン。樫材と鉄の蝶番が軋む重い音と共に、正門が両開きに開かれる。

 開く門の動きが止まるのを見計らい、その隙間をすり抜けるようにして2人は本邸へと足を進めた。


――何だ?


 口に出す事は控えたものの、天山(てんざん)は周囲に(はし)る妙な雰囲気に内心で首を傾げた。

 半年に一度の登殿とは云え、此方も向こうも知らぬ間柄という訳では無い。

 であるのに、まるで敵地に彷徨い込んだかのような、肌のひりつく感触。

 場の雰囲気に流されたのか、初めて訪れる義王院(ぎおういん)邸の前で颯馬(そうま)の表情もやや硬い。


「颯馬よ、浮足立つな」


「……は。申し訳ありません、父上」


 初めての登殿が(つまづ)くのは、颯馬(そうま)にとっても不味い問題だ。

 取り返しがつく内にと短く忠告すると、跳ねるように返事が返った。

 緊張はしているようだが、下手を打つほどでは無いようだと安堵に首肯だけを返してみせた。


 これまでの行動を思い返す。何も遺漏(いろう)は無かったはずだ、先触れも予定の返答も受けている。

 いつも通りの義王院(ぎおういん)邸、いつも通りの登殿。だが、考えてしまえば気になってくるのが、人間の性と云うものだろう。


――そういえば先触れの返答が何時も(つね)よりやや(・・)遅かった、正門の開きが2人分も無かったような(・・・)


 だが、雨月(うげつ)の対応に問題が無い以上、問題はより外か内に起きているのだろうと天山(てんざん)予想(アタリ)をつけた。


――そういえば最近、義王院(ぎおういん)が少しごたついているようですな……。


気休めにもならないが、昨夜に井實(いじつ)が漏らした情報が脳裏に蘇る。

 なるほど、これの事か。

 洲議にも情報が下りていない以上、義王院(ぎおういん)内部でしか動いていない可能性が高い。


 事が始まったのが文月(7月)の初旬だったか。

 何も動いていないのだから要因は雨月(うげつ)とは別にあるはずだと、天山はとりあえずの結論として内心の警戒を慰めた。


――原因が何か判らないが、義王院(ぎおういん)に何かを求められたら全力で応じる覚悟程度は決めておく必要があるだろう。


 周囲のものを捕まえて、あからさまに訊いて回る事もできない。

 先導に立つ女給の背中が何かを語る訳でもなく、静美(しずみ)に呼ばれるまでの暫しの間、颯馬と2人、別室にて悶々としたまま待ち続ける羽目となった。




義王院(ぎおういん)御当主さまにお目通り叶いました由、この雨月(うげつ)天山、お慶び申し上げます」


「ええ。半年ぶりね、天山(・・)


 何があった訳でもない、ただ待つだけの幾許の後、天山と颯馬は静美の待つ中広間へと通された。

 常には柔和な微笑みを崩したことの無い静美の表情から、感情らしい温度が抜けているのが見て取れて、余程の問題を抱えたらしいと天山の警戒が引き上げられた。


 穏やかではない雰囲気の中、2人は膝行で広間の中ほどに進み出て平伏のまま挨拶を交わした。


「どうやら厄介事に悩まれているご様子ですが、内容をお尋ねしても宜しいでしょうか?」


「……不要(・・)です、上半期の報告に移りましょう。

 ですが報告の前に。雨月颯馬、この場は雨月当主(・・)その嫡男のみ(・・・・・・)に座すことを赦しています。

 この場に座る赦しを其方に与えた覚えはありません、中座(下がり)なさい」


「そ……」「はは、これは申し訳ありません。紹介が遅れるとはこの天山、手抜かりは汗顔の至りに御座(ござ)います」


 状況を一顧だにせず退出の命を一下に断じる静美に反駁を覚えたのか、発言を赦されていない颯馬が声を上げかける。

その様子を肌で感じた天山が、颯馬の言に被せるように慌てて言葉を紡いだ。


「何か?」


「この颯馬は先月、人別省にて正式に雨月の継嗣と認められた由、この場にてご報告させていただきます。

 今後は雨月の次期当主、及び義王院の伴侶として末代ともよろしくお願いいたす所存にて御座(ござ)います」


 ぎしり。天山の言が終わる間もない内に黎明山(れいめいさん)哭いた(・・・)

 中広間に座す3人のみならず洲都で息をするすべて(・・・)が、(おお)いなる存在があげた悲痛な慟哭を幻聴()く。


「何だ――」


気にする必要(・・・・・・)はありません(・・・・・・)

――ですが天山、雨月の嫡男たるは晶さま(・・)であったはずです。晶さまは何処に居られますか?」


 問い掛けの形だけを繕った隷属の言霊が、否応なく天山たちを縛り付けた。


 半神半人の末裔たる三宮四院には、ただ(・・)人に対し隷属を強いる権限が与えられている。

 仮令(たとえ)、八家であろうと、その当主であろうと、この権限に対して抗いを見せることはまず不可能であった。命令一下、気にするなと命じられれば、理不尽であろうと意識することすら難しくなるのだ。


 これまでの短い生で、静美はこの権限を行使したことは無かった。

 だが、今回の騒動に及んで尚、雨月家如き(・・)に行使を躊躇う程の悠長さは欠片も持ち合わせていない。


「は。(わたくし)としても残念で御座(ござ)いますが、既に荼毘(だび)に付しております。

 遺品は幾つかを除き、(すべ)て処分を……」


「――天山。(わたくし)は晶さまが何処(・・)如何なって(・・・・・)いるのか、報告して欲しいのですが?」


「申し訳ございません。

 あれ(・・)は生来より虚弱で御座(ござ)いました。

 加えて、当主教育すら(まま)ならぬ無能、義王院さまに目を掛けていただいたご恩に報いさせるべく努力はさせておりましたが、体調を崩し……」


「天山、虚言で舌を躍らせるな」

 (はぐ)らかそうとする天山の言に、静美の感情が僅かにささくれ立つ。

 その感情のまま、隷属の言霊が再び中広間を支配した。

「重ねて問う。

――晶さまは、何処(・・)で、如何なられた(・・・・・・)


 鋭さを増す静美の舌鋒に、義王院の本気が窺えた。

最早これまで。平伏を崩さぬ天山の(こうべ)が、一際、低く沈んだ。


――可能であるならば、雨月の汚点は義王院に知られる事なく流していただければ、結果としては最上であったのだが。


 内心で呟きながら、天山は3年前の追放と、恐らくは州境の山稜辺りでくたばったのだろうという、己の予測を述べ連ねた。


「――申し訳御座(ござ)いません。

 でき得る事なれば、義王院の御方々には知られる事なく処理しておきたかったのです。

……晶と云う名であったあれ(・・)は、義王院の伴侶に向かわせる訳にはいかない無能であったのです。

――雨月歴代始まって以来の汚点。あれを排除せぬことには、今後、義王院に顔向けできぬほどであったのです」


「……無能、と?」


 やはり、中核となる部分を訊かれた。

 汚点を(つまび)らかとする事には躊躇いがある。だが、雨月の忠義を疑われることと引き替えにする訳にはいかない。

 一拍の逡巡の後、天山は思い切って言葉を紡いだ。


「は。(わたくし)共もあれが産まれてしばらくの後に知ったのですが、あれ(・・)穢レ擬き(もどき)であったのです」


「……穢レ擬き(もどき)?」


「左様にて。

我々の醜聞に、御尊顔を背けないでいただきたいのですが、

――あれ(・・)には精霊が宿っていなかったのです!」


 これまでの逡巡が嘘のように、天山は晶の欠陥を滔々と静美に説いた。


 文武の両面に()いて実弟の颯馬(そうま)に劣り、精霊すら宿せぬ身故に呪符も作成できない。

 氏子にすらなれなかった人間以下の生き物擬き。(ケガ)レに堕ちるしかない生にしがみつくだけの愚物。


 長年の鬱憤(うっぷん)が罵倒に替わり、天山は静美の前で吐き捨てるように愚痴混じりに説くと、次第に肩から重荷が消えたかのように軽くなっていった。


 ああ。義王院(ぎおういん)に対しての隠し事、その苦痛が消えたのか。胸中に吹く晴々とした涼風に、天山は感慨深ささえも錯覚する。


 中広間に、渡る暫しの沈黙。

 てっきり称賛されるか、逆に静美からの激昂が下されるかとも身構えていたが、肩透かしに時間だけが過ぎるだけであった。


「――――――――それが?」


「……は」


 ぽつりと、静美の唇が震える。

 転び出た呟きは、心底からの疑問に満ちていた。


 実際にはそれほど経っていないのだろうが、天山にとって永劫にすら思える涯の一言は自身が望んだものでも予想したものでも無く、戸惑いしか残らなかった。


「精霊を宿していない。それが何か問題ですか?」


「御当主さま、それは……」


もう(・・)良い。雨月颯馬が嫡男と、人別省に正式に認められたと云っていましたね。

 それには、晶さまの魂石が雨月家に戻される事が条件のはずです。

――晶さまの魂石は、何処(いずこ)にありますか?」


 ここまで静美が晶に心を許しているという事実こそが、天山にとっての誤算であった。

 やはりもっと早くに晶の本性を義王院に打ち明けて、晶の排除に義王院の協力を取り付けるべきであったかと、(かつ)て下した己の判断に内心で歯噛みもする。


 これ以上、義王院の不興を買う訳にはいかない。

 そこらに放り捨てようとも考えていたが、これは持ってきて正解であったか。


 袖の内を(まさぐ)り、晶の魂石であったものを抓み出す。

 壁際に控えていたそのみ(・・・)手伝(てづた)いに(わた)った白いだけの小石に見える魂石の表面を、静美はどこまでも優しく()(さす)った。


「あのような出来損ないにここまでの御温情、あれも草葉の陰で感謝している事でしょう。

……雨月としても、ようやく義王院に面目が立つというもの。

 ここに控えております颯馬は雨月歴代をみても傑物とも云える稀代の器、恥ずかしながら、義王院御当主さまのご期待を裏切る事は決して無きものと自負しております。

 どうか、義王院の伴侶とし…………」


雨月(・・)

 感情の色が抜け落ちた平坦な声音が、天山(てんざん)の長広舌を否応なく遮る。

「此度の登殿、大義でありました。

――退出を許可します」


「は?

今、何と…………?」

 あまりに唐突な退出の許可に、天山の膝が乱れる。

「今、何と仰いましたか…………!?」


 盛夏に猛る日差しが中広間を対照的な昏い影で満たす中、表情から感情が全て抜け落ちた静美の唇が、もう一度だけ言葉を紡ぐ。


「下がってよい。そう申し渡しました」「お、お待ちくださいっ!!」


 言葉の終わりも待てず、語尾に被せるように天山は叫んだ。


 晶の追放を行ったことに対してある程度の不興を買うであろうことは、天山とても覚悟はしていた。

だが、雨月家始まって以来とも云えるほどの雑な扱いを受けることに、耐えられないほどの激憤が天山の矜持を揺るがした。


「義王院御当主さまが雨月の行いを不愉快に見られる事は、この天山、覚悟しておりました!

 ですが、これも総て義王院の面目を汚さぬため!

 國天洲(こくてんしゅう)を治める伴侶として、颯馬は最良の器であります!

 ご不興はさて置き、國天洲(こくてんしゅう)華族を統べる義王院当主としての判断を理性的に下していただきたい!!」


「……理性的(・・・)

 ならば応えましょう。大方、其方が下した判断の根拠は、婚約の条文が雨月(うげつ)嫡男であった事に起因しているのでしょう? ですが、あれは慣例に過ぎません。

義王院(ぎおういん)は晶さまを伴侶に望んだのであって、そこのもの(・・・・・)を望んだ訳ではありません」


「それはっっ」「話は以上です」


 弁明に明け暮れようとする天山の口上を切り捨てて、静美は雨月を一顧だにせず背を向ける。

……が、


「……ああ、そうね」

 そのまま中広間を後にする前に、壁際に控えた側役に視線を遣った。

そのみ(・・・)、後は任せます。雨月の報告を受けておいてちょうだい」


「下命、承りました」


「なっ!!」


 そのあまりの扱いに、天山の顔色が絶望にも似た表情に染まった。


 基本的な華族の報告は、家格がより上位のものに直接(・・)奏上する事が慣例上の礼儀とされている。


 雨月家は八家第一位(雨月家)。これより上位の家格は、この場には義王院静美しか存在しない。

 同じ八家とは云え、同行(どうぎょう)そのみ(・・・)雨月(うげつ)より家格で遥かに劣る八家第七位。


 それは理解しているはずなのに、公の場で明白(あからさま)に命じたという事は、静美は言外で雨月家は同行家よりも劣っていると公言したに等しいのだ。


 どう誤魔化そうとも、口さがない宮廷雀共はうわさを聴きつける。

 明日の昼下がりには、雨月の凋落が洲都に居る華族の食卓に上る事は、確定したも同然。

 余りにも屈辱的な扱いに、雨月天山は血が垂れんばかりに両の拳を握り締めた。


 これ以上、取り合う事は無いと中広間に背中を向けるも、外廊下に踏み出したところで、静美は最後に一度だけ足を止めた。


「雨月。

――神無(かんな)御坐(みくら)を、其方は知っていますか?」


「は、そ……」「もうよい。充分です」


決して期待していた訳では無い。だが、呆けた表情しか浮かべなかった天山に、静美の感情が遂には零下にまで凍てつく。


 完全に興味の失せた八家第一位(雨月家)に背を向けて、静美は一切躊躇うことなくその場を去った。




「…………姫さま。

 御心中、お察しいたします」


「慰めはいいわ。

くろ(・・)さまの元に向かいます、清めた白衣(しらぎ)の準備を。

 御山が哭いたから、くろ(・・)さまも聴いていたはず」


 自身の部屋に戻り、迷うことなく着替えを始める。


 晶の死が確定となった今、玄麗(げんれい)の激怒を止める事は出来ない。

 そうである以上、せめて被害を五月雨領(さみだれりょう)の周辺程度に抑える事が静美(しずみ)に課せられた急務であった。


「雨月天山、このまま帰らせて良かったのですか?」


「郎党を磨り潰すために、天山(あれ)は最期まで当主でいて貰わないと。

 周辺に下郎共が散らばると、禍根しか残さないわ。

――それよりも、晶さまの追放に関わったものの調査は終わった?」


 静美(しずみ)の着替えを手伝いながら、千々石(ちぢわ)(かえで)は僅かに視線を伏せた。

 流石に昨日の今日で時間が足りないが、情報が得られなかった訳では無い。


「……天山(てんざん)七ツ緒(ななつお)に逗留する度に交流を深めていた華族は、幾つか判明しました。

 別けても関係の深く有力な華族は2家。状況を知っているかどうかはさておきますが、雨月(うげつ)家の対応からしても無関係という訳ではありません」


 井實(いじつ)重範(しげのり)御厨(みくりや)弘忠(ひろただ)。挙げられた2つの名前に静美(しずみ)は眉根を寄せた。

 正直に云って印象に残っていない華族の名前、思い出すのに数拍を要した。


「確か井實(いじつ)は洲議のものよね? 妙に細かい嘆願を奏上してきたものに記憶があるわ」


「その嘆願を持ってくる時機ですが、晶さまの登殿と妙に符合します。

推測ですが、恐らくは……」


そういう事(時間稼ぎ)、ね。

――御厨家(みくりやけ)央洲(おうしゅう)華族よね、なんで七ツ緒(ななつお)にまで出張っているの?」


「はい。御厨(みくりや)弘忠(ひろただ)はそこの当主です。

 調べたところ、天山(てんざん)の妻、雨月(うげつ)早苗(さなえ)の係累だと」


 厄介な。苛立ちも露わに、静美(しずみ)は歯噛みをする。


 問題が國天洲(こくてんしゅう)の内部だけであるなら、義王院(ぎおういん)がどう鉈を振っても最終的に文句は云われない。

 だが他洲に籍を置く華族を処断するのであるのならば、央洲(おうしゅう)華族を統括する月宮(つきのみや)か、法の裁定を司る藤森宮(ふじのもりみや)の判断を仰がなければならない。


「思い出したわ。央洲(おうしゅう)へ流れる水脈の采配権を欲しがって、旧家の一党が七ツ緒(ななつお)に滞在していると」


「はい。昨今の御厨家(みくりやけ)は凋落が(いちじる)しく、水利権を握る事で失点を取り戻す狙いがあると見えます。

……御厨家(みくりやけ)先代当主は、雨月颯馬こそ己が直孫と公言して(はばか)らず。最低でも弘忠(ひろただ)と先代当主の処断を求める必要があるかと」


「問題ありません。

 旧家と云えどたかだか(・・・・)零落(おちぶ)れた華族一つ、月宮(つきのみや)に伺いを立てましょう」


「承りました」


 手間がかかるだけで不可能ではない。静美は躊躇うことなく御厨家(みくりやけ)を潰す判断を下した。


「――――お母さまは?」


「御先代は、所領を退いてこちらに向かっていると連絡がありました。

 今日中にもお屋敷に着かれます」


「そう、なら大丈夫ね。

――鎮めの儀の準備を。くろ(・・)さまがお怒りになられたら、直ぐにでも取り掛かってちょうだい」


「……畏まりました」


 静美の言葉に楓は緊張を隠せなかった。

 大神柱の激怒。その象徴たる荒神堕ちは、高天原(たかまがはら)の歴史でも2度しか記録に残っていない。

 そのどちらにおいても、土地に残る爪痕をみれば尋常でない被害が出た事は窺える。


 加えて玄麗(げんれい)は水行の大神柱である。

 玄麗(げんれい)が荒神堕ちをした場合、高天原(たかまがはら)全土の水源に影響が出る事は間違い無かった。


 ただ(・・)人は飢えには強いが渇きには弱い。もし水源が止まりでもすれば、尋常ではない被害が高天原(たかまがはら)を襲うのは想像に難くなかった。


(わたくし)が神域から戻ってこなかった場合、躊躇うことなくお母さまを義王院当主として指示を仰ぎなさい。

 そうすれば、最悪は防げるはずよ」


「――はい」


 逡巡を見せるも、ややあってから(かえで)は決然と頷いた。

 怒り狂う神威が吹き(すさ)ぶ神域に向かうのだ。半神半人たる静美であっても無事でいられる保証はない。

 清めた白衣に緋の袴。できる限りの瘴気除け(・・・・)を身に(まと)ってから、静美(しずみ)は覚悟を胸に立ち上がった。




 玄麗(げんれい)の神域、黒曜殿(こくようでん)を満たす水は凍える程に熱く、沸き上がるほどに冷たい。

 静美(しずみ)の身体を(さいな)む矛盾した玄麗(げんれい)の激情は、それでも荒神堕ちをすんでの処で耐えているようであった。


「――――晶は?」


「……くろ(・・)さま」


 塗り潰さんばかりの闇に在って尚、漆黒の輝きを放つ童女の姿をした大神柱は、ぽつりと桜色の唇を震わせた。

 中広間での天山の放言は聴いていたはずだ。

 それでも問い返したのは、最後の最後まで信じたくはなかったからだろう。


 静美とても、玄麗(げんれい)の呟きに応える言葉を持つことはできない。


「晶は、何処(いずこ)ぞ」


「天山の繰り言、その裏を取っています。

 追放が3年前であるなら、徒歩で至れる限界の周辺に居られたはずです。

 無一文で五月雨領(さみだれりょう)を出た上で生活を維持しながら移動したと考えれば、(くに)境の辺りかと……」


「そのような事を訊いているのではない!」

 ぅわん(・・・)玄麗(げんれい)の叫びが黒曜殿(こくようでん)を揺らす。

 さざ波が幾重にも波紋を生み、神柱の激情が静美(しずみ)の身体を更に(さいな)んだ。

「晶は何処ぞ!! きっと泣いておる!! 今すぐにも迎えに行ってたもれ!!」


「それは……」


 玄麗(げんれい)の気持ちは、痛いほどに理解できた。

 晶は幼い頃から顔を合わせている少年である。

 産まれた時から婚約関係が結ばれていた少年の偶に逢う控えめな微笑みは、静美(しずみ)をしても心を安んじる間柄であった。


 世間一般の云う恋愛とは違ったものであったろうが、これからの人生を共に歩むならば最善に近い相手であったのは間違い無いだろう。


「そも! (あれ)の加護を与えておるのじゃぞ!? 

 仮令(たとえ)、他洲に(わた)っておったとしても、晶の身に害が及ぶ訳は無かろう!!」


「…………」


 そこが、静美(しずみ)たちをしても首を傾げる点であった。

 晶に与えられている加護は、『氏子籤祇』でただ(・・)人に与えられるそれとは格が違う。


 確かに國天洲(こくてんしゅう)の外に足を踏み出せば格段に効力が落ちるのは間違いないが、玄麗(げんれい)の神気が残る限り並大抵の災禍は晶を避けて通る。


 仮に神気を残らず喪った場合、居場所を含めて即座に玄麗(げんれい)の知るところになったであろう。

 今回の一件は、神気と加護を同時に喪失か封印(・・)でもしない限り、起き得ない事態であるはずであった。


 だが、既に起きてしまった以上、どうして起きたかは重要ではなくなってしまっている。

 その結果、如何なったかが重要なのだ。


 意を決した静美(しずみ)が震える指先で、晶の魂石であったものを玄麗(げんれい)に差し出した。


「……どうぞ、くろ(・・)さま」


「――これは、何ぞ?」


「晶さんの魂石です」


 ひぅ。玄麗(げんれい)咽喉(のど)が怖気を呑み込んだ。

 僅かに震える掌に乗せられたその表面を、玄麗(げんれい)の指先が優しく(なぞ)る。


 魂石と晶の繋がりが断たれて一ヶ月(ひとつき)。随分と晶の気配は薄れたが、それでも完全に抜けた訳では無い。

 それが誰の魂石であったものか、玄麗(げんれい)であれば即座の看破も容易かった。

 それでも尚、慎重に、念入りに魂石に残留する気配を探り、

――その都度に、玄麗(げんれい)は底知れない絶望に沈んでいった。


 黒曜殿(こくようでん)に静寂が落ちる。

 誰も何も、感情すらも凍てついた時間が流れる。

 ただ、大海から押し寄せる津波の前触れが如く、刹那の平穏が黒曜殿(こくようでん)を支配した。


「――――晶は、(あれ)御坐(みくら)、ぞ」


 ぽつり、玄麗(げんれい)の唇から絶望が漏れる。


(あれ)の、初めて(・・・)神無(かんな)御坐(みくら)、ぞ」


 その呟きが蟻の穴となり、(せき)を切る勢いで感情が崩壊を始め、

 玄麗(げんれい)の唇から呪詛が紡がれるままに、水面(みなも)が激しさを増して逆巻いた。


「――――(あれ)妹背(いもせ)の君。(あれ)の、初めての、良人(おっと)だったのじゃぞ!!」


「!!!?? くろ(・・)さま、どうかお気を確かに!! どうかお鎮まりください!!」


 うあぁぁあぁぁぁん! 玄麗(げんれい)の激情に黎明山(れいめいさん)が哭き喚いた。


 黒曜殿(こくようでん)を満たす水面(みなも)から、赤黒い(・・・)輝きが立ち昇る。

 水気に瘴気が滲み始めているのだ。

 荒神堕ちの前兆。決死に叫ぶ静美の努力も虚しく、身に着けた瘴気除けの護符が幾つか燃えて尽きる。


 護符の燃え滓が波間に攫われて溶けて消える間も与えずに、玄麗(げんれい)の呪詛が瘴気の禍々しい色に照り返される黒曜殿(こくようでん)を揺るがした。


「赦さん! 赦さんぞ雨月!!

 ようも、ようも(あれ)良人(おっと)(はずかし)めてくれようたな!!

 応能を気取った積もりかぁっ!!

 嗚呼、そうとも。

 愚物らの(たばか)りに来迎を赦すなど、(あれ)は決して認めぬ!!

 死して尚、黄泉路を這いずり回る筒虫の末路がお似合いじゃあ!!」


くろ(・・)さま! お鎮まりくださいませ!!

 斯様(かよう)に荒ぶると、晶さんの魂石が崩れてしまいます!!」


「!!!!」


 一時なりともの落ち着きを願う静美(しずみ)が放ったその一言に、玄麗(げんれい)(すさ)ぶ神威が劇的に治まった。

 繋がりの輝きを宿す魂石は、仮令(たとえ)、神柱であれ干渉に難しい存在となるが、輝きを喪ったそれは、白く(もろ)い石ころと変わりはしない。


 掌に遺された晶の魂石であったものを大事に胸元に包み込み、魂石が(すさ)ぶる自身の神威に曝されないように玄麗(げんれい)は必死に護った。


 激情が間断なく吹き(すさ)び、それでも格段に勢いの落ち着いた暴威のただ中。

 ややあって、玄麗(げんれい)がぽつりと零す。


「……雨月は赦さぬ」


「勿論で御座(ござ)います」


「晶を辱めたものに、それ以上の絶望をくれてやる」


「はい、御気の済むままに」


「静美。

――(あれ)は、晶を悼む。暫し、声をかけてくりゃるな」


「側に控えております故、ごゆるりと。晶さんを休ませて差し上げましょう」


「う…………うぁぁあああああんん~~~~!!」


 悲痛な悼みのまま、玄麗(げんれい)は揺れる水面(みなも)に涙を零す。

 感情の()が切れた童女の慟哭が、いつまでも黒曜殿(こくようでん)の闇を揺らし続けていた。




 その日を境に國天洲(こくてんしゅう)を巡る水脈に澱みが生じ、大規模な瘴気溜まりが五月雨領(さみだれりょう)を中心とする一帯総てを災禍の渦に(おとし)めた。

 荒神堕ち。それがその前兆となる現象である事は、未だ、そこに住む者たちも知り得るものでは無かった。


……難産でした。

文章も整え直さないといけませんね。


読んでいただきありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
閑話と本筋が逆になってる
[良い点] ざまあ!くろも静美も雨月もざまあ! 素晴らしいコンテンツを心からありがとうございます。大変楽しく読み進めています。 [気になる点] 読み終えてしまうのが怖いです。。。
[一言] これこれ、これが読みたかったの! イキナリ第三勢力の話に移ったから、なんだかなぁ と、思っていたけど 良かったやっと読めた 作者様ありがとうございます
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