閑話 小雨に綻びて、黎明に哭く1
――葉月中旬前、國天洲、洲都七ツ緒にて。
しとつく小雨に煙る中、義王院の膝元たる七ツ緒にある雨月別邸に雨月天山とその嫡男たる颯馬が腰を落ち着けたのは、夕闇の沈む足音も早さを見せる頃であった。
「――見よ、颯馬」
「はい」
常よりもやや豪華な夕餉を終えた後、周囲を眺望できる中広間に颯馬を呼びつけた天山は、夜闇と雨の帳に霞む黎明山の中腹を誇らしげに指差した。
「何度かこの屋敷に連れては来たから知ってはいるだろうが、あれが黎明山。我ら雨月が忠義を尽くすべき義王院の方々が住まう屋敷だ。
そして、お前が伴侶として尽くさねばならぬ方がお住いの場所でもある。
――厳しい将来だ、覚悟は良いか?」
「はい、確と心得ております!」
溌剌とした颯馬の返事には、その将来に向かう迷いは欠片も見えなかった。
使命に燃える息子の応えに、天山も頼もしさから満足そうに首肯する。
自慢の一人息子だ。
上級小学校の頃からそうであったが、天領学院の中等部に進学した今でも文武の両面に於いて周囲の評価に陰りは一切見えない。
否。陰りどころか、輝きはいや増すばかり。
特に他者を率いる才に於いて、颯馬の技量は同年代のそれと比べて一線を画しているとも聴いている。
中等部の学年首席に2位以下よりも抜きんでた成績で選出されたのも、天山の自信を深める一助となっていた。
「……早苗にも苦労を掛けたな。
領地を完全に空ける訳にはいかん故、廿楽に留まって貰うしかなかったが、この光景を一目でも見せてやりたかった」
「母上にもご理解はいただいております。
出立前にも充分に姿を見て貰いましたし、心残りも無いでしょう」
颯馬からの慰めに、胸熱く幾度か頷きを返す。
出来損ないの穢レ擬きを孕んだ異胎女。陪臣もそうだが、母方の一族からもそんな突き上げと陰口が多くあった事に天山は何よりも心を痛めていた。
あれを産んだ直後は狂乱に近い取り乱しを見せていただけに、颯馬への溺愛ぶりには理解も出来る。
母親からの過剰な期待に潰れるかとも心配はしたが、颯馬は充分に応えてくれた。
周囲への根回しと人別省の認定は、先日にようやく済んだ。
後は、颯馬の雨月嫡男認定と2人の婚姻を正式に義王院に受け入れて貰うだけであり、これはすんなり通るものと天山は考えていた。
何故ならば、嫡男のすげ替えは醜聞の類であるものの、意外とどの華族でも行われている事であったからだ。
生まれてくる長男が優秀であるとは限らない。そうであるならば、優秀な子供以外の芽を摘んでやることは、後世に対する思いやりであり責務である。
だからこそ婚姻の約束を交わす定型文には形式上、個人の名前を入れることは無く、続柄を記入することになっているのだから。
人名が明記されてさえいなければ、意外と本人の真偽は問われないのが華族としての常識であった。
そう考えると、あれがくたばってくれた時期も、限り限りではあるが最善であった。そこだけは評価できると、天山は思考の片隅で晶を褒めてやる。
義王院からの要求に対する誤魔化しももう限界であり、最終的にはあれが隠れ住んでいるであろう山住の民の集落を焼き払ってでも、晶の排除を目論まねばならないところまで天山の心境は追い詰められていたからだ。
「うむ、そうだな。
……静美さまはお優しいお方だ。穢レ擬きを追放した事に理解はしていただけるであろうが、あれの死を悼みもされるであろう。
――颯馬よ。伴侶と受け入れていただいた暁には、静美さまの傷心を篤くお慰め申し上げるのだぞ」
「はい。父上のお言葉を然りと胸に刻んで、義王院家にお仕えする所存にて御座います」
頼もしい息子からの迷いない返事に、天山は目頭の奥に熱が帯びる気配を覚える。
だが、気恥ずかしさからか口を噤んだまま首肯を返して、瞼に帯びた熱を誤魔化した。
「御当主さま。お約束の方々がお着きになられました」
「そうか、直ぐに向かう。皆さま方は応接間にてお待ちいただけ。
――これから会うのは、お前が当主の座に就くために骨を折っていただいた方々だ。
お前の代以降も、雨月家とは永の付き合いとなるであろう。顔を合わせるに丁度良い機会かもしれん、お前も席を共にするが良い」
しばし、颯馬との歓談に興じていた天山は、外廊下の端から手伝いの女性からの報せにそう応える。
内心では颯馬を嫡男と認めていようと、これまで天山は、内々の重要な会談に颯馬を付き合わせることは無かった。
だが、口にせずとも永代に望まれていた義王院伴侶の座を目前に控えた現在、天山は今後の事も考えてこの会談に颯馬を同席させることを決意した。
押しも押されぬ雨月家の当主である父親がここまでの気を遣うとは、これから会う相手は余程の重責を担う者たちなのか。
緊張に気を引き締める颯馬を背中に、天山は中広間を後にした。
「小雨が続きますな」
「ここしばらく、七ツ緒の天気は崩れやすく……」
応接間は、基本的に親しいものとの歓談に使用される部屋である。
そこに近づくにつれ、緊張とは裏腹の和気藹々とした穏やかな語調が交わされている事に颯馬は気付いた。
「お待たせして申し訳ない、井實殿、御厨殿」
「なんのこちらこそ。
大願を目前にした親子の会話、遮ってしまったようで気が引けますな。
もう宜しいのですか?」
「はは、今生の別れでもありません。機会は幾らでも」
がらり。天山が応接間に続く板張りの引き戸を開けると、柔らかな橙色の灯りと壮年を越えた男が2人、会話の手を止めて天山に視線を向けた。
夏の小雨特有の蒸れた水気が漂う室内で、天山たちと男二人は各々、卓を挟んで向かい合う。
「さて、お忙しいお二人の時間を割いてしまいましたな。
顔を合わせるのは初めてでしょう、嫡男の颯馬となります。
――颯馬。こちらは洲議であらせられる井實業兼殿。そして、其方の母、早苗の兄に当たる央洲華族の御厨弘忠殿だ」
「先日、人別省に雨月家嫡男と正式に認めていただいた、雨月颯馬と申します。
井實さま、御厨さま、よろしくお願いいたします」
「おお。君のお父上に幾度なく面会を頼んでいたんだがね、ようやく応じてくれたか。
――その年齢にして立派な口上、雨月殿も一安心で御座いましょう」
「妹が偶に寄越す手紙は君の自慢話しか載せていないものでね。正直、私は初めて会った気がしないな。
だが、この若武者ぶり。颯馬君の成長には妹も満足だろう」
「お恥ずかしい限りです」
褒め上げられた照れからか頬に紅が差す颯馬を、頼もしくも微笑ましく天山たち三人が視線を向けた。
天山と2人の付き合いは、それこそかなりの年月を遡る。
御厨弘忠は天山の代よりさらに先代からの付き合いであり、洲議としての地盤固めの奔走していた井實業兼は御厨を挟む経緯で天山と縁を結んだ。
互いに狙いは有るものの、概ね目的が被る事が無かったのも、結果としては良かったのだろう。
決定的な破綻を迎えることなく、これまでの3人は穏やかに関係を育んできた。
「井實殿はもうすぐ洲議の代表選挙に打って出るとか、対抗馬は何方ですかな?」
「力山、西科……。あの辺りが出張ってくる気配を見せてますな。
実力は団栗の背比べですが、長年、議会を支えてきた重鎮です。
油断はできんでしょう」
「ご助力が必要となる際はお声掛けを。
あれが生まれ落ちた際に折っていただいた労苦の一端、ここで返させていただきたい」
「助かりますな。その時が来れば是非とも」
「はは。抜け駆けとは、雨月殿も狡いですな。
井實殿。この御厨弘忠も、貴殿の後背に控えている事をお忘れなきよう」
「無論、無論。
感謝しておりますぞ、御厨殿」
ははは。和やかに交わされる談笑の合間にも相手が何を望むか推し計り、都度、合いの手を差し挟む。
雨月家と2人の関係が推察できているか。ちらりと視線を向けるも、颯馬の表情に戸惑いが見えない事に天山は安堵した。
精霊無しの忌み子が選りにも選って雨月家に産まれたという汚点は、義王院には勿論の事、周囲にも決して漏らせぬ秘匿事項であった。
だが、人別省に登録した上、義王院が望みまでしてしまった一個人を抹消す事など、幾ら八家とはいえ一華族が権力を及ばせるもので無い事は天山とても理解はしている。
その為、天山が外部の協力者として手助けを願った相手が、井實と御厨の両名であった。
雨月の看板に泥が付く事は、関係を深めていた井實や縁組をした御厨にとっても致命傷になり得る可能性がある。
それ故に、義王院に晶の本質が知られる事もそうだが、周囲から晶の存在が無かったように陰に日向に手助けを向けていたのだ。
時に義王院の対応が遅れるように、時に義王院と晶の接触が最低限に落ち着くように。
他家との交流で晶が表に出ないように振る舞い、積極的に颯馬が目立つように喧伝する。
お陰でここまで来れた。
天山は感慨深く、腰を落ち着けている安楽椅子の背もたれに背中を預けた。
洲議としての伝手が広い井實業兼や、凋落しかけているとはいえ央洲華族としての権勢を未だ保っている御厨弘忠の助力無しでここまでの無茶ができるかと訊かれれば、天山とても否と答えるしかない。
2人としても、この協力にはかなりの散財をする破目になったはずだ。
雨月家が負う借りも、相当量に上っている。
だが、過去の自身が下した判断には間違いは無かった。
天山は談笑をしながらも、そう確信した。
「颯馬君を伴っての登殿は明日でしたな。
……雨月殿のご苦労が報われる瞬間だ」
「はは。皆さまのご助力あればこそ、私の労苦は然程でもありますまい。
……そういえば、至心殿は現在、何処に?
てっきり今日こそは、七ツ緒に足を運ばれると思っておりましたが」
御厨弘忠からの労いに笑顔で返すも、ふと疑問が浮かんだ。
御厨家の先代当主であり天山の義父でもある御厨至心は、央洲に於ける御厨家の復権に苛烈な野心を燃やしている人物だ。
未だ、央洲議会に強い発言力を維持しているも、往年の権勢と比較すれば御厨家の凋落も明らかであり、一度沈めば浮き上がるためには相当の運気と努力が必要となる。
御厨家再起のためかなりの無理を押して雨月家に実の娘を送り込んだが、その第一子が精霊無しの晶であったため、当時の至心の落胆と嚇怒は相当なものであった。
穢レ擬き、異胎女。悪しざまに吐き捨てると共に、一時は早苗の処罰も雨月に求めるほどであったが、颯馬の評判に至心も心を安んじられただろう。
颯馬こそは己が直孫よ。央洲でもそう声を高らかに喧伝していると聞いてはいたので、少なくとも不満には思っていないはずである。
ここまで推す以上、晴れの舞台を控えたこの日くらいは顔を合わせてくれるだろうと、期待していた天山は肩透かしの戸惑いを隠せなかった。
「ここ数年、父上は珠門洲に招かれていましてな。
逗留している他家の手前、私用で洲を越える訳にはいかなかったのです。
この日に足を向けたかったと、手紙では随分に残念がっていましたが」
「それは残念だ。
にしても至心殿を招くとは、先方は随分と剛毅ですな。
用件を訊いてみても?」
「……ええ。長谷部領の久我家に、月宮流の師範として招かれております。
久我家の嫡男が土行の精霊を宿していたので、父上が教導に手を挙げた経緯があります」
「ほう」
どう返したものか少し迷ったのだろう。僅かに口籠るが御厨弘忠からの応えに、天山は深い得心を抱いた。
「義父上が教導をされたか。
成る程、技量のほどは確からしい」
久我の神童。八家第二位如きが持ち上げる若き俊英。天領学院で粋がって颯馬に突っかかった事は耳に挟んでいたものの、この場所でその名前が挙がるとは。
ちらりと颯馬に確認の視線を向けると、確かに視線を下げて肯定の意思を返す。
「久我君とは三ヵ月前に手合わせをいたしました。
神気と精霊力の差から辛勝を得ましたが、手強い相手でした。
……成る程、お祖父さまのご教導の賜物でしたか」
「そう云っていただけると有り難い」
実際は、ほぼ刹那の内に危なげない勝利を得たと聞いている。
多分に世辞を含ませた颯馬の返答に、御厨弘忠の表情も明らかに安堵したものとなった。
如才なく返す颯馬のやり取りに天山の表情も和らぐ。
文武に長けた方が良い事は間違いないが、こういった人心を掴む話術には、また別種の才を要するのだ。
あれもこれも。多才は成長の妨げにもなるが、颯馬の力量には如何なく応えられる範疇にあった。
「そういえば最近、義王院が少しごたついているようですな」
「何か懸念事でも?」
歓談も幾許の後、就寝のために一足早く颯馬が辞去した応接間で、明日を控えて義王院の近況が話題に上っていた。
「さて? 洲議会に情報が少しも入ってきませんので、議長でない私には及ぶ権限がありません。
――ただ、文月の上旬には情報統制の影響が出始めていましたから、決定はその辺りで行われたはずです」
井實から寄せられた情報も、首を傾げるしかない曖昧なもの。
天山は腕を組み直し、周辺の事柄から情報を埋めるべく思考に沈んだ。
他洲からちょっかいを掛けられたとしても、収穫前の夏盛りに時機が合わない。
逆に出すためでも、義王院に意味は無い。
――そう云えば、
ふと天啓のように、脳裏にその文言が浮かぶ。
だが、有り得ないその答えに、頭を振って思考を散らした。
「何か心当たりでも?」
「いや、気の所為だろう。
御厨殿は、何か心当たりがお有りか?」
「……いえ。
その頃は央洲への水利権の話し合いもしておりませんので、義王院に嫌厭される理由もないはずです。
――他洲に影響を受けたとかは? 父上経由で聞きましたが、確か百鬼夜行が珠門洲の洲都を襲ったとか。
理由としては弱いですが、時機は合います」
「……かもしれませんな。
まぁ、明日の登殿に際して、余裕があるようなら訊いておきましょう」
「助かります」
所詮、天山には直接関係の無い話であろう。
少し気になる情報であったものの、特に深く考える事無く鷹揚に受け答えを交わす。
やがて、夜も更ける歓談の終わり、天山は就寝の床に就く前に、井實の言葉に思考の隅で思い浮かんだ言葉を再度、思い返した。
――そう云えば、穢レ擬きがくたばったのも、その頃であったな。
読んでいただきありがとうございます。
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