4話 日々は過ぎて、眠るように謀る6
再度、一礼を残して未練も見せずに神父が辞去する。その後背が扉の向こうに消えると同時に、ベネデッタはアンブロージオに詰め寄った。
『アンブロージオ卿。あのような約束、大丈夫なのですか!?
今、本国はそれどころでは無いはずですよ!』
加えて、景気よく口約束を交わしていたが、アンブロージオにそこまでの権限は無いはずである。
後の問題となりかねない約束事に、ベネデッタは承服を認められなかった。
『問題ありません。
『導きの聖教』の勢力は把握しています。蜂起が武力制圧されれば、後に禍根を遺さないよう綺麗に掃除される程度しかないはずです。
生き残っていようが、見込みのある極東のサルが1匹2匹程度。
それならば、私の権限でも如何にでもできますし、そもそも波国に着く前に事故に遭う可能性とてあるでしょう』
『真逆、『導きの聖教』に対して何の応援も約束せずに、蜂起を促したのですか!?』
建前上は破門されたといえ、『導きの聖教』は歴とした『アリアドネ聖教』の分派である。
永年、異教の地で細々と布教を続けてきた分派を一作戦の囮程度に使い潰すと吐き捨てられ、ベネデッタの良識が悲鳴を上げた。
『では、危険を冒して彼らを受け入れますか?
本国の現状を別にしても、『アリアドネ聖教』にこれ以上の分派を受け入れるための受け皿が無い事は、聖女殿もご存知のはずですが』
『それはっ…………!!』
アンブロージオが返した止めの反論に、激昂の向ける先を失ったベネデッタは唇を噛んで下に俯いた。
『アリアドネ聖教』は、長年を掛けて西巴大陸を平らげた宗教である。
他の神柱を眷属神とする宗教は、基本的に一度の敗北も受け入れられない。
何故ならば敗北とは、敵対した神柱を認める行為であり、唯一神という定義そのものに矛盾が生じてしまうからだ。
本来、勝利し続ける事は絶対条件となるが、『アリアドネ聖教』は過去に数度、敗退の歴史を刻んだ事がある。
それでも信仰上の矛盾を回避できた所以は、分派をうまく利用できたからである。
教義の解釈を少しずつ歪めて分派を生みだす事で、敗北した際の決定的な破綻を分派に押し付けて回避できるのだ。
――だが、長年に渡る侵略行為の結果、本国ですら把握できないほどの分派が『アリアドネ聖教』の内部に溢れ、そもそもの教義すら曖昧な状態になりつつあるのが聖教の現実であった。
『ご理解いただけたようで結構です。
まぁ、彼らとて真なる『アリアドネ聖教』の礎となれるのです。死して尚、本望というものでしょう』
くつくつ。咽喉の奥底で煮えたぎるような嗤いを漏らしながら、アンブロージオは中央の卓に戻る。
最早、戻ることも出来ない。覚悟を決めて、ベネデッタも後に続いた。
『……それで、狙うのはやはり鴨津の風穴ですか?』
『いいえ。宣教会の連中はあそこが重要地であると思い込んでいましたが、あの風穴は結局のところ支流から噴き上がった風穴です。
本流と直結していない以上、本国と結びつける利益は皆無。
久我と云いましたか。あの領主を充分に焚きつけましたし、ある程度の戦力を削る程度の囮になって貰えれば充分です』
『あそこが支流? では、本流は……』
『潘国が直結させたと説明したでしょう。
つまり大陸に続く風穴の基点は、涅槃教の寺院が抑えているという事です。
――此処ですね、源南寺。此処こそが我々が陥落すべき目標です』
地図上を彷徨った後、アンブロージオの指が鴨津の西側に突き立つ。
地理に疎い彼らは、遂には気付く事も無かった。
神父がいれば、又、話も別であったろうか。
――アンブロージオの指した先は、奇しくも神父が蜂起を宣言した廃村のすぐ間近であった。
『陥落す目標は理解しました。
……ですが、後に続けることが出来なくば、結局のところは同じ穴の狢でしょう。
後続が続かない現状、風穴を維持する事は不可能のはずです』
『維持は不要です。
涅槃教は龍脈に杭を撃ち込んで、途中基点を潘国に直結させていたのです。
幾つかの経路が変わっただけなので最終的な流れ方は変わっていないとのことですが、元々は真国に直結している本流だったとか。
龍脈の流れを正常に戻すだけなのですから、神意に背かぬ行いとも云えます。
――寧ろ、五体投地で感謝を示して欲しいくらいですね』
アンブロージオの指先が、青道港の一点を指す。
アンブロージオがあの港に建つ教会に足しげく訪れていた事を、ベネデッタはようやく思い出した。
そうか。龍脈を遡り、この地の神柱を陥落すための準備をしていたのか。
『全ての準備は終了しています。
龍脈が繋がり次第、この地の龍穴は真国から放たれる神格封印の元に陥落するでしょう。
私も半生を掛けたこの偉業、達成せずに終わらせる心算は毛頭に在りません』
不敵に歪むアンブロージオの口元。
そこ滲む絶対的な勝利への確信に不安を感じたものの、これ以上の異を口にする事なくベネデッタたちは肯いを返して行動の決意を示した。
――――――――――――――――
「ふう……」
湯浴みから上がった咲が窓際に身体を預けると、微かに開けた障子の隙間から迷い込んだ夜の微風が身体に残る火照りを優しく鎮めた。
障子の隙間から外を覗くと、ぽつりぽつりと立つ街灯が、寂し気に人気の失せた往来を照らし出している。
高宿に移し替えられたが、贅沢に湯を使った風呂が堪能できる点だけは評価できると、無理矢理に自身を納得させた。
「全く……、久我くんも困ったものね」
愚痴る独り言は、日中に何かしらの用件を持って姿をちらつかせていた諒太に対するものであった。
何故ならここ暫く、咲の傍には諒太が張り付いていたからだ。
言い寄る諒太を避けても、今度は埜乃香の姿が離れることは無く、咲の心労はいや増すばかりであった。
加えて、鴨津に来てからの数日は、高宿への護衛という名目で一日に一度しか晶との接触を図れていない。
これでは、嗣穂から直々に頼まれた教導の面目が、現状では立っているとも云い難いだろう。
鴨津の西に在るという廃村の情報も今一つ集まらない状況で、流石に咲の我慢も限界に近づく。
抑圧の反動から増えていく咲の独り言に、少女自身の自覚は今一つ薄かった。
「――それに、波国の使者。ベネデッタ・カザリーニと云ったかしら。
あの女性、こっちに接触を図るなんて何の心算?」
これでも地頭は悪くないと思っているが、まだまだ咲は年齢12歳を数えたばかりの小娘だ。
発言力はそれなりにあると自負していても、職役もない咲の立場では権力の方面ではそこまででも無い。
見た目から咲の立場に対して推測はそれなりに立てているとは思うのだが、それを押してでも彼女が接触を望む理由が判らなかった。
「晶くんの事が知られた?
……無いわよね。神無の御坐は黙っている限りは他の人とそう変わりはしないって、嗣穂さまも仰っていたし。
この忙しい中、波国は何を考えているんだろ」
悶々と頭を抱えて、思考の渦から抜け出そうとする。
正直なところ、上位から横から、更には明後日の方向からも放り投げられてくる厄介事に、咲の感情は煮詰まって爆発寸前になっている。
最悪、波国の要望は無視はできるかもしれないが、相手の狙いも分からないままに会談の放棄も出来ない。
ここまで念入りに接触を企図された以上、流石にそれは悪手だ。
「……そう、放棄ができないだけ。
相手の意図を外す事は可能よね」
ややあってそう結論付けた咲は、満足そうに明日の行動を決めた。
ジジ……。微かに鳴る橙色の電球が照らし出す室内。
寝間着代わりの襦袢を整えた咲は、備え付きの座卓に今日の収穫を広げた。
阿僧祇厳次から融通して貰った晶の回気符、そして今日、峯松に売ったという回生符。
この方面には疎く未熟な咲に、呪符に籠められた霊力の判別など出来はしない。
だが現物が手元にある以上、手跡を見比べられる程度は可能である。
「真言はよく判らないけど、回と符の文字の癖はよく似ている、
……気がするわ。
まぁ、犯罪に加担していないだけ、安心かぁ」
おそらくだが、晶が呪符を卸している先は呪符組合なのだろう。
であるならば、犯罪集団に横流ししていない分、真っ当な副業でもある。
……その代りに呪符組合が回生符を裏取引しているという、醜聞を見つけてしまった訳でもあるが。
呪符組合は元陰陽寮であるため、中央管轄の組織である。
呪符の入手元など使用する分には関係ないのだから、銘押しなどの余程のもので無い限り作成した者の名前など表に出てくる機会は無い。
恐らくはバレないと高を括っているのか、裏取引をしている意識すら無い可能性もあり得る。
だが、事実が咲の予想通りであるならば、嗣穂の望む対処は容易であるはずだ。
ようやくに得られた安心材料に、咲の肩から力が抜けた。
晶が自身の資産に危機感を覚えるように錯覚させる、それが嗣穂や咲が仕掛けた作戦である。
晶から収入の機会を意図的に減らし支出の機会を増やす。
そうして、必然的に臨時の収入に頼るように仕向けていく。
かなり危険な賭けであったが、どうやら、晶が意識しない内に成功したようであった。
奇鳳院や咲にお金の無心をする可能性も有ったが、その方向は低いだろうとも予想はしていた。
晶は、基本的に他人を信用していない。
話に聴く限りでは嗣穂に対してそこまでの隔意は無いし、オ婆と呼ばれていた長屋主に対しては随分と素直に会話もしていたから、性根から来ているものでない事は確かだろう。
だが、傍から見ているとよく判る。
教導に入っている咲との間には、信頼以前に薄い膜を覚えるのも確かなのだ。
その膜が、晶との接触を今一つ、躊躇わせるものでもあった。
「何が切っ掛けなんだろう?
性別、時間、……違うよね。
私をよく知らないから、とか?
いやいや、日中の鍛錬でずっと付き合っていたじゃない。あれだけ時間掛けて信頼されていないって、結構、傷つくなぁ」
うんうんと、悶々と、唸りながら頭を抱えるが、未だ人生経験の浅い咲に晶の思考を読み取れる訳もなかった。
確かに晶は、咲との間に完全な信頼関係を築けている訳では無い。
咲は生粋の八家である。教導である以上は、と勢い込んだ咲は八家としての自身を見せすぎていた。
咲は八家、紛う事なき上位華族であり、信頼関係よりも利害で思考するように教育を受けている。
対する晶も、咲には個人以前に華族としての見本を見る目しか向けていない。
――有り体に云ってしまうと、晶は教師に向けるそれと近い感情を咲に向けているのだ。
その温度差こそが、咲との間に在る膜の正体である。
無私の善意。
利害でしか信頼関係を築けないと思っている咲にとって、文字通り、それは未知の思考であった。
「ううん。よし、決めた。
明日は……」
自己完結に幾度か頷き、呪符を大切に仕舞う。
彼女を襲う眠気に、思考の鈍りを自覚したのもある。
――パチリと電球の灯りが途切れると、ややも間を置かずに穏やかな寝息だけが夜風の騒めきに溶けて消えた。
――――――――――――――――
……夜を照らし出す灯りも長い鴨津に住まう者であっても、床に就く時間は意外に他の街と変わりはしない。
草木も眠る丑三つ時とまでいかなくとも、亥の刻半ばともなれば起きている者の方が珍しくなる。
こんな時間に起きているものは、それこそ夜鷹かお天道様に顔向けできない手習いの者くらいだろう。
ただ人が眠りに沈み、街灯の灯りだけが道行きを照らし出す中、
―――ひた、ひた。
灯りを避けてか、暮明に紛れて足音だけが往来に響いた。
ずうるり、ずる。灯りの届かぬ闇が生き物の如くうねり、足音の主に憑いて回る。
―――ひた、ひた、……卑詫、否唾。
「やぁれ、やれ。
……随分と手間を掛けたのだがねぇ」
なんてことは無い語調で、随分と残念そうに闇が嘯いた。
事実、闇に潜む主が掛けた手間は、余人が想像するに気が遠くなるほどだ。
「しかし、まあ。
――潮時だねぇ」
―――卑詫、否唾。
街灯の灯りが闇に呑まれ、また生まれる。
じりじりと啼き上げる夏虫の騒めきも闇に掻き消え、また生まれる。
何か変化がある訳でもなく、ただその繰り返し。
うねり波打つ闇だけが、鴨津の外に向かって歩みを止めないその異常。
「……期待したのに、肝心のところではあの程度。
潮目を見失う輩にゃあ、為りたくないのう」
―――否、卑。
耳障りなほどに穏やかな嗤い声が、うねる闇をさざめかせる。
その間中、かぱりと闇が罅割れて、赤黒い三日月が僅かに垣間見えた。
―――否、卑、卑ィ。
三日月がのっぺりと嗤いに歪み、聴くモノの精神を逆撫で哄笑する。
その歩みは依然止まる事はなく、闇から闇へ鴨津の外へと消えてゆく。
ずうるり、ずる。後に残るのは静寂のみ、何も知らぬとばかりに穏やかな眠りに落ちるただ人の街だけであった。
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