4話 日々は過ぎて、眠るように謀る1
三日月が見下ろす夜半。鴨津北部の山麓を時ならぬ喧騒が襲っていた。
パチパチと薪が爆ぜる音とともに、穢獣封じの松明から流れる煙が瘴気に粘つく山間を清めながら広がっていく。
―――吼、哮、朋、甫、甫!!
瘴気に腐り果てた夜気を裂いて、猿の猛る咆哮が響いた。
抗う能力の持ちえないものであるならば、生きる気力も根刮ぎ奪われてしまうであろう卑賎しい獣声。
だが、この地に在る者は、抗えぬ者では無い。
大勢の男性たちが履く足半が山道を覆う落ち葉を踏み締めて、荒く息を吐きながら上へ上へと歩を進めていく。
その表情に恐怖は浮かんでいない、そこに見えるのは穢レを狩れる興奮だけである。
遠くに見下ろす山麓の方向から、青の信号弾が打ち上げられる。
狩りの合図、頃合いだ。
「半鐘を鳴らせぇっ」
――かあぁぁぁんん……。
鴨津の守備隊を纏める峯松義方の号声と共に、獣除けの半鐘が幾重にも打ち鳴らされる。
―――吼、哮、吼、哮、吼ッ!?
清めの呪を乗せた煙に、山奥へと散り逃げる選択肢は塞がれている。
僅かに残った煙と煙の隙間に生き残る可能性を賭けて、獣除けの半鐘に追い立てられた猿の一群は先を争うように殺到した。
遠くから近くから、狂奔する猿の戦慄きが山を揺るがす。
肌がひりつかんばかりの瘴気と狂騒の揺らぎが、山麓の一隅にぽかりと広がる平原を圧し潰さんとばかりに迫り来る。
そして、もうすぐの後に溢れるであろう狂気を待ち望んでいた視線が数十、一望できる小高い丘から未だ静寂を守る平原を見下ろしていた。
「……追い立てに成功したわね」
「ああ。
咲の頼み通り、猩々が率いている」
「感謝するわ。これで晶くんを最低限は仕上げることができる」
輪堂咲の呟きを拾い、肩を並べていた久我諒太が肩を竦めた。
「精々は感謝してくれ。
猿どもを釣り出すのもタダじゃないんだ」
「ええ。輪堂家からの補填は考えているわ。
――晶くん、準備は良い?」
時間もないため、諒太との打ち合わせは短く留め、後方に控える晶に目線を移す。
その意図を充分に理解して、硬い表情で晶は首肯だけを返す。
その腰に結わえつけられた落陽柘榴が戦意に応えるかのように、臙脂に濡れたような鞘の鯉口をカタリと鳴らした。
「うん、大丈夫よ。
粗方の猿は私たちが潰すから、事前の打ち合わせ通り、晶くんは猩々とその側近周りに集中して」
晶の緊張に気付き、咲は柔らかく微笑んだ。
己がこれまでも向けられた記憶の無いその笑顔に、諒太の表情に嫉妬が走る。
だが、そんな感情に引きずり回される状況でもない事くらいは自覚している。舌打ち一つに苛立ちを止めて、見下ろす平原に意識を集中させた。
赤黒く脈打つ瘴気の波濤が平原を囲む木々を騒めかせ、大規模な穢獣どもの肉薄するさまを報せる。
大きく一つ、二つ。寄せては引く瘴気の潮騒を数え、頃合いと見て諒太は丘を駆け下り始めた。
「先に行くぜ!」
「くれぐれも範囲技は駄目よ!
特に猩々は巻き込まないで!!」
――なんだよ、咲のやつ。外様モンにばかり気を向けやがって!!
緒戦に赴く背中にかけられた言葉は諒太の身を案じるもので無く、晶の利益を第一に案じるものであった事に云いようのない妬心が湧く。
抑えることのできない感情のままに、機先を制すべく己の精霊器を脇に構える。
それは土行のみならず、全ての精霊技にとっての最初期の精霊技、
月宮流精霊技、初伝――
「――延歴!!」
粗い感情のままに迸る精霊力が応える。
雑木から転び出た猿の赤ら鼻に、捻じれた衝撃の刃が喰い裂かんばかりの勢いで殺到した。
―――吼、哮、朋、哮ォオオオッッ!?
見えぬ牙に喰い裂かれるかの如く、先頭を駆ける猿の頭部が半ばから抉られる。
崩れ落ちる猿と入れ替わる格好で、諒太がその場に飛び込んだ。
見た目だけは年相応の諒太である。
突破は易いとみたのか進路も変えずに猿が数匹、何の用意も無く牙を剝き出しにするだけで肉薄する。
目の前に差し出された戦果に、鬱憤の晴らしどころを求めていた諒太の口の端が嗜虐に歪み、
――抜き放った精霊器の刀身、その切っ先から半ばが炎に包まれた。
放つは目の前に炎を落とす中規模範囲の精霊技、
月宮流精霊技、中伝――
「――夏断落としィッ!!」
炎の塊が中央の猿を両断、弾けるように生まれる業火の群れが残りの数匹を呑み込んで灼き尽した。
「久我っ! また指示を無視して!!」
ここまで苦労して猿の群れを誘引してきた、その成果を台無しにしかねない暴挙に咲は歯噛みをする。
中規模とは云え範囲攻撃、それも被害の広がりやすい火行に属する精霊技を行使ったのは偶然ではないだろう。
この独断専行の癖があるからこそ、今一、諒太に信頼を置けないのだ。
月宮流は全ての門閥流派の始まりたる流派である。
取りも直さずそれは、全ての精霊技の基礎が月宮流に存在するという事実を意味している。
これこそが土行の精霊が強力と云わしめる原点、月宮流は他の五行に属する精霊技をある程度まで模倣できるのだ。
「――私が付いて抑えます」
その様子に鋭く埜乃香が進言を放ち、止める間もなく丘を駆け下りる。
「あっ、……もうっ!!
――私も征くわ! 晶くんは、猩々が姿を見せてから行動を開始すること!!」
「はいっ!!」
駆ける、翔ける。ともすれば空中に足を取られてしまいそうな速度で、埜乃香は諒太の元へと疾走った。
己の精霊器である2尺8寸の太刀を大きく掲げ、精霊力を一瞬で練り上げる。
それは現神降ろしの強化倍率を激甚に引き上げる、玻璃院流の真骨頂。
玻璃院流精霊技、初伝――
「――唸り猫柳!!」
玻璃院流は他流に比べて、遠間の敵を倒す精霊技の種類が無い。
だが、身体強化の巧みさと間合いを伸ばして攻撃する中距離の精霊技に関しては、他流のそれを圧して余りある。
更に引き上げられた身体能力に物を云わせて、諒太の頭上高くへと跳ね飛んだ。
殆どのあらゆる生き物にとって、頭上は基本的に死角である。
空中から襲われることは、そもそも選択肢のうちに入っていないのだ。
それは、ただ人でも穢獣でも変わりはしない。
誰もが埜乃香に意識を向けないその隙を狙い、素早く精霊力を己に宿る上位精霊から引き出す。
薄く、だが力強く精霊器に精霊力が注ぎ込まれた。
玻璃院流精霊技、止め技――
「――下野弾み!!」
諒太の眼前に降り立つ格好で、埜乃香は太刀を地面に叩きつけた。
薄緑の精霊力に少女の着物が宙に踊り、波濤を奔らせながら周囲に圧し広がる。
波打つ精霊光は、繁茂する草花の根の如く猿の動きを縛りながら、諒太の広げた炎を消し飛ばした。
土行の精霊技は、他行の精霊技を模倣する事は出来る、しかし、あくまでも土行の精霊力を下地にしている事には変わりはないのだ。
木克土。土行の精霊技が唯一、膝を屈し得る流派。それが玻璃院流であり、帶刀埜乃香が諒太の元に嫁いだ最大の理由であった。
「――諒太さん、猿を釣り出すのもタダでは無いんです。
守備隊の方々の努力を、無駄にするお心算ですか?」
「……け、けどよ、埜乃香」「諒太さん」
諒太が上げようとした無気なしの反駁は、埜乃香の変わらぬ笑顔に押し潰される。
二句を失い口の中で形にならない文句を口籠らせた後に、大きく舌打ち一つ、埜乃香に背を向けて猿の掃討にかかった。
諒太の行動を掣肘した埜乃香は、戦闘中に妙な反駁を見せなかったことに大きく息を吐く。
その時、
埜乃香の放った下野弾みの効力が失われ、軀の自由を取り戻した猿が幾匹か、狂猛な爪を振りかざして埜乃香に殺到した。
「――百舌貫きィッ!!」
その脇腹を、裂帛の気合と共に放たれた火焔の槍が串刺しに貫く。
業火の槍と変じた己が精霊器を突き込んだ咲が、突進の姿勢を維持したまま猿の懐深くに一歩、足を踏み入れた。
心のどこかでエズカ媛が高らかに笑い声を上げる。
己が宿す精霊の上げる喜びの声に押されるがまま、膨大な精霊力が咲の薙刀を菫色に染め上げた。
奇鳳院流精霊技、連技――
「――雙独楽ァッ!!」
咲の戦意が充分に籠められた薙刀の穂先が跳ね上がり、踊るように切っ先と石突が二つ重ねに真円の軌跡を描く。
業火に燃え盛る薙刀の穂先が断末魔に藻掻く猿の上半身を灼き断ち、石突きが放つ衝撃が別の猿の内臓を潰し、
勢いはそれだけに止まらず、大きく身体を捻じり込みながら、更に奥の猿に向けて灼熱の切っ先を大きく伸ばした。
―――咆、甫、哮ォオ!!
薙刀は絶叫に啼く猿の片腕と脇腹を大きく断ち割り、
――そこで止まった。
本来『雙独楽』は、対象2つを同時に相手取るための精霊技である。
流石に3匹目と色気を出して、完全に威力を保てるものでは無い。
内臓と瘴気を零しながら尚も戦意を失わないのか、猿は牙を剥き出して薙刀を掴んだ。
「――穢獣風情が精霊器を汚すか」
菫色の精霊光を立ち昇らせた少女の目尻が瞋恚に歪み、薙刀を捻じりつつ精霊力を更に注ぎ込む。
奇鳳院流精霊技、連技――
「――鉢冠せ!!」
――撞ゥンッッ!!
薙刀を伝って爆音と衝撃が咲の両腕を突き揺らし、穂先に生まれた爆発が猿の腹部を食い破る。
「吹ぅぅうう」
周囲の猿が及び腰になった頃合いを見て、咲は大きく呼気を吐いた。
「お見事です、咲さま」
「ありがと、久我くんは?」
「――問題は無いでしょう。
また手間に我慢が出来なくなったら、私が抑えます」
油断なく太刀を構えながら声を掛けてきた埜乃香が、ちらりと反対側で狩りに興じる諒太の様子を確認する。
先刻に釘を刺した事が堪えているのか、剣技と精霊技で猿を潰している姿勢に変わりは無い。
埜乃香の断言だ、信頼はできるだろう。咲は肩の力を抜いた。
「埜乃香さん、私たちは猿の掃討に専念しましょう。
一匹も逃さないように。もし雌猿を逃したりしたら、目も当てられないことになる」
「はい、心得ております」
咲の懸念に、埜乃香は迷いなく肯いを以って応じて見せる。
――その時、
チリチリと生命を木枯らす瘴気の風が、暗闇の向こうから木々を騒めかせた。
揺れる瘴気に中てられ見る間に腐り落ちる青葉が、咲たちを挑発するかのように夜闇に舞い散る。
―――刺、屍、死!!
嘲りにも似た独特の叫声が己は此処にいるぞと云わんばかりに猛り、木々を腐り折りながらその主たる存在がゆっくりと闇の奥から姿を現した。
―――刺、屍、……憎シ!脆シッ!!
5尺9寸、それの背丈はそれほどでもない。
だが、白く強靭な体毛が表皮を覆い、濃密な瘴気が更にその周囲を守っている。
見た目は猿よりも人間寄りだろう。黄昏の向こうで手を振られたら、知り合いかと勘違いしそうになるくらいには近い。
それは森の奥に潜む穢れた猿どもの支配者。
白毛大猿の妖魔、猩々である。
「――不味いわね、何人か喰ってる」
「はい」
狙い通りの目標を釣り出せたのにも関わらず、咲の表情に苦みが走った。
猩々は非常に臆病で狡猾な性質をしている。
まず単独では行動しない。猩々同士では群れないが、猿の群れを見つけると親玉と挿げ替わり、群れを乗っ取ることが知られていた。
単体としての脅威は、そこまででは無い。
しかし、猩々の脅威はその知性、その源泉にこそある。
山間に彷徨いこんだ人間の脳髄を啜り、その知恵を簒奪するのだ。
つまりは、喰らった人間の数だけ脅威の度合いが高くなるという事。
濃密な瘴気で猿の群れを穢レに堕とし、その王として君臨する妖魔。
猿どもの偽王。それこそが猩々であった。
「……どうしますか?
私たちで弱らせてから、晶さんに当てる方法もありますが」
目の前の猩々は幾らかの人語を発していた。
それが意味するのは、人語を理解できる程度には人間を喰らっているという事。
――つまり、それだけ脅威という事だ。
それでも、咲は埜乃香の提案に頭を振った。
猩々を釣り出せただけでも快挙なのだ。これ以上を求めればキリが無い。
それに、これは千載一遇の機会なのだ。強ければ強いほど、厄介であれば厄介であるほど好機であるからだ。
最低限、対人戦闘の仕上げに当てるなら丁度いい。が、対人戦闘の仕上げに最高の相手になった、とも云えるのだし。
「いいえ。問題ないわ。
――それに、もう来てる」
そう呟いた咲の背中を、一陣の風が吹き抜けていった。
朱金の神気が夜空に舞って踊り、炎の閃きが一条、虚空を裂いた。
それは奇鳳院流における突きの精霊技、
奇鳳院流精霊技、初伝――
「――雲雀突き!!」
颶風を捲いて地を駆ける。
落陽柘榴を携えた晶が迷いなく、猩々の土手腹に槍の如き炎の突きを叩き込んだ。
この回より、固有名詞等のルビ振りが確実に入るようになります。
気に入って頂けたら嬉しいのですが、よろしくお願いいたします。
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