3話 それぞれの思惑、徒然と想う1
「――父上、全ての業務が終わった事、ここに報告します」
「そうか。ご苦労」
夕陽の昏い茜が差す書斎の手前で、諒太は父親である久我法理にそう短く報告だけを入れた。
久我法理も、いつも通り短く応えを返すだけに留める。
「……諒太」
身内に見せる普段の調子がそうであるため、諒太は何も云うことは無く一礼をして書斎に続く襖を閉めようとする。
だが、今日に限っては、珍しく法理が諒太の退室を呼び止めた。
「応」
「咲殿の手応えはどうだった?」
「……問題ねぇよ。御厨師範も口出ししてくれたから、あの平民は引き離せた」
「御厨殿の手助けがあって、成果がそれか。
……不甲斐ないな」
月宮流の師範として招いている御厨至心は、央洲でそれなりに名を鳴らした華族の出である。
実のところ、老いたりと云え華蓮に対してもそれなりの発言力と伝手を持っているため、長谷部領の政治力学上の均衡を保つ駒としても無視はできない。
だが、あの老人は央洲の華族であって、珠門洲の華族ではない。
師範として以外の行動に対して動かすのには、有形無形に関わらず無償ではあり得なかった。
央洲の老人に借りを作るのは本意では無かったが、咲を久我家に取り込むために支払った手間を考えると万一の手抜かりも許せないため、御厨至心に口出しを願ったのが事の次第である。
一応、最低の目標として設定していた教導していた防人との引き離しは成功したが、久我法理としては夕餉を共にするくらいは成果を期待していた。
「仕方ねぇだろ。何でか知らねぇが、あの平民は嗣穂さまに随分と気に入られているんだ。
百鬼夜行の後だって、わざわざ守備隊の屯所に出向いてあいつを庇ったくらいだぜ?
調べてもなんも出てこねぇし、下手に突いて機嫌を損ねるよりかぁマシだ」
「……確かにな」
諒太は口を尖らせた。
だが、その抗弁にも一理はある。唸りながら法理は腕を組んだ。
法理の目的は、諒太を嗣穂の婿とする事だ。
より正確に言及するならば、珠門洲に対する揺るぎない発言力を手中にする事である。
輪堂咲はその為の布石に過ぎず、咲を手中に収めると引き替えに奇鳳院が後見まで引き受けた平民を害して、奇鳳院嗣穂の印象を損なうと云うのは本末転倒でしかない。
諒太の口も回るようになったしな。内心で法理は少しだけ安堵した。
口先分だけかもしれないが、小知恵を回すという事はその分だけ思慮を割く事を覚えた、という事だ。
――帶刀埜乃香が、良い買い物過ぎたな。
咲の見立て通り、法理は埜乃香の優秀さを危惧していた。
無理に無理を重ねて壁樹洲から木行の衛士を側室に望んだのだが、年齢16の小娘が久我の屋敷に逗留して3ヵ月ほどで客人の出迎えを任じられるほどに優秀だったのは予想外であった。
結果が良過ぎたり手応えが無さ過ぎたり、どうにもここまでに振った賽の出目が悪すぎる。
「嗣穂さまからの神託は確かなんだろ?
『導きの聖教』が行動を起こすのは来週末。
だったら、咲の件はそれまでに片を付ければいい。
――どうせ行動を起こす前に抑えれば、雑草共は地の下に潜るだけだ。
それならば派手に火を点けて、一切合切を根切りしてやれば後腐れは無くなる」
「――その通りだ」
2週間前に奇鳳院から齎された神託は、『導きの聖教』の蜂起に関するものであった。
久我が長谷部領を統治するより以前に『アリアドネ聖教』から分派した『導きの聖教』は、過去に数度、龍脈の基点となる風穴の管理権を巡って武装蜂起を起こした前科がある。
最終的に『アリアドネ聖教』からの告発と破門に近い交流断絶を受けたため、現在の『導きの聖教』は民間信仰ほどの勢力しか持っていない。
加えて長期間にわたる教義の断絶から、『導きの聖教』は原典となる『アリアドネ聖教』とはかけ離れた教義へと変化したとも聞いている。
『導きの聖教』最大の集団が鴨津郊外の廃村を占拠したという情報は掴んでいたものの、村の維持は頓挫すると思っていたため、神託があったとしても法理はそこまでの問題視はしていなかった。
実のところ諒太が言及した通り、一斉蜂起を誘発させて後顧の憂いを断つ大義名分とする程度にしか考えていなかった。
「――先刻来てた奴らは『アリアドネ聖教』の?」
「そうだ。
いつも通りの布教と改宗の要求。
今日の奴らは一層に強烈だったぞ。何しろ、鴨津中心の風穴上にある神社を取り壊して教会を建てろとまで云ってきたからな。
…………我らに土地神を捨てろ、それが義務であると。
アンブロージオと云ったか? あの司教、したり顔で宣わってきたわ」
鴨津の中心にある風穴は長谷部領最大の風穴、つまるところ久我家に於ける最重要地である。
ここを寄越せという事は、長谷部領に於ける支配権を寄越せという事に他ならない。
常識的に考えて大真面目に提案してくること自体、正気を疑われるほどの行為だ。
断られる事は勿論のこと殺されても文句は云えない発言にも関わらず、後ほどにまた交渉させて頂くと言い切り席を立ったアンブロージオの風貌を思い返して、法理は苦々しく口の端を歪めた。
「……父上。『導きの聖教』を根絶やしにする前に、『アリアドネ聖教』を叩き潰した方が良くないか?
合流されたら厄介だぞ」
「その通りだ。
……だが、難しい。過去に『アリアドネ聖教』は『導きの聖教』を切り捨てる代わりに、政治的な不干渉を手中にしている。
奴らは波国の使者という体裁も取っているからな、少なくとも我らからの干渉は不可能に近い」
当時、頭が痛かったのは『導きの聖教』の暴走で『アリアドネ聖教』としての存在力は皆無に等しかったからだが、現在の状況と併せて考えると厄介な契約を交わしてくれたものだと、法理は嘆息を禁じえなかった。
高天原に対する干渉を物理的にやらかしてくれさえすれば、それを口実に何から何まで斬り捨ててやるのだが、毎年やる事と云えば改宗の要求ぐらいで高天原としても強引に手を出す事は出来なかったからだ。
「……時機が良過ぎるのが気になるが、合流は危惧しなくてもいいだろう。
『アリアドネ聖教』の自由を保証している根拠は、『導きの聖教』とは別組織であるという彼奴目等の証言一つだ。
たかだか廃村一つを占領するために苦労して守ってきた領事権を台無しにするほど、奴らは無能でも短慮でもない」
「判ったよ。
――だけど守備隊に警戒するよう指示はしたぜ。
今夜から護櫻神社に一部隊が常駐するはずだ、戦力は割かれるだろうが無いよりかはマシだろ?」
「いいだろう。とりあえずの判断としては充分だ」
諒太が出した無難な指示に、満足そうに頷いてみせる。
これまでの主張を考えても、『アリアドネ聖教』の第一目標は鴨津中央にある風穴を珠門洲の龍穴を陥落せしめるための橋頭保とする事で間違いはないと、久我法理は確信していた。
使者の体裁を取る以上、波国が送り込める戦力は限られている。
加えて鴨津を攻略するための時間は本国との距離を鑑みても短時間でなくてはならず、戦力を注ぎ込む判断を誤ればその時点で目的の破綻は免れない。
廃村一つを占領するなどと云う寄り道を許せるほどの余裕など、法理は与えるつもりは毛頭なかった。
「……ああ、序でだ。あの平民、警備する守備隊に放り込んでいいか?
あの貧弱さだ。鍛える場所の提供って事なら、咲も否とは云わねえと思うが」
「そうだな、守備隊の防人に鍛えてやれと伝えろ。どうせなら、実戦に出ないように細工してやるのもいい」
奇鳳院が晶を送り込んできた理由が、法理にはいまいち掴めなかった。
嗣穂が目を掛けている以上、地力は悪くないと思うがどうにも覇気が足りなく感じられたからだ。
百鬼夜行で怪異を浄滅せしめる大功を納めてみせたとは聴いているが、本人を直に見ても首を傾げる程度の意気しか見えてこない。
まさかの誤報を疑いもしたが、それでは奇鳳院が目をかけている理屈が通らなくなる。
久我家の意向が極端に奇鳳院の内部で横行する事を嫌った、奇鳳院現当主の釘刺しと云うのが一番らしい理由だが、さて。
疑問が疑問のまま、法理の脳裏が晴れることは無い。
晶と咲の距離感に危惧を抱く前に、晶自身をもう少し調べるべきであったか。
神託が絡む一件に捻じ込んできた意図は実戦を経験させるためだろうが、取り立てられて一ヶ月の平民崩れなど足手纏いの看板を背負っているようにも見えてしまう。
尽きぬ悩みが眉間に皺を刻む。思考に沈む法理に、諒太が言葉を重ねた。
「咲と引き離す一環としても使わせてもらうぜ。
――ああ、咲と云えば」
「ふむ」
「妙な事を頼まれた。
近くの山から猩々を釣り出して欲しい、と。
難しければ最悪、猿でも構わないとよ」
「……何?」
常には無い咲からの頼み事に、暗い部屋の中で法理は軽く目を瞬かせた。
――――――――――――――――
ばさり。晶が今まで触ったことのない上質の寝具の上に、やや重い音とともに持ち込んだ呪符が広がる。
「はぁ。……やっぱりかぁ」
何度見ても変わらない現実を目の前にして、同じ数だけ繰り返した嘆息が晶の口からまた漏れる。
その手にはいままで爪に火を点すような思いで貯めこんできた全財産、今では随分と軽くなった巾着袋が握られていた。
咲の指摘もあり洋式旅籠の個室に泊まらざるを得なかった事は納得しているが、最安値の部屋で有っても一泊に50銭が晶の現実を直撃していた。
どの道、後で補填は約束されているものの、現在、身銭を派手に切っている現実もまた事実である。
晶は今、早急に金策に走らざるを得ない状況に陥っていた。
最悪、咲か久我家に借金を願う必要があるとは覚悟していたが、巾着袋に埃しか残らない可能性が目前に迫るとあれば、流石に晶の心中にもクるものがある。
「…………『玄生』として売っていた回生符もあるだけ持ってきたけど、捌くのは難しいよな」
何かあった時のために準備していた回生符は残り20。一枚50銭で卸していたから華蓮と同じ値段であれば10円は余裕がある事になる。
だが、『玄生』の変装道具は華蓮に置いてきた上に、呪符の流通は組合が一手に管理している為、ぽっと出に晶が行って組合が応じてくれるかは疑問であった。
ため息とともに呪符を入れていた袋を持ち上げると、その奥からするりと一つの呪符が滑り落ちた。
今の晶から見ればやや拙い手跡の真言と、その上の墨痕鮮やかな『玄生』の二文字。
幼い頃に書き上げた初めての回生符、その最後に残った一枚であった。
暫く複雑な視線で眺めてから袋の中に戻す。
呪符に認められた『玄生』の文字は、三年前にくろが直に筆を取ってくれたものである。
晶が玄生であるという、最後の証明。
こればかりはどれだけ困窮しようとも、晶に手放す意思は無かった。
「咲お嬢さまに回気符を渡して当座の資金を捻出。
……回気符ってそこまで要らないよな」
自身の霊力を癒す回気符は、防人にとっての必需品である。
だが最も簡単な呪符でもあるため、組合にとってもダブつきやすい在庫である事も晶は知っていた。
加えて、書くための道具はあれど、現物は手元にない。
一番簡単な回気符であるが、任務の片手間に作成できるものでも無い事は晶も骨身に染みていた。
「……まあ、何とか回生符を捌く伝手を見つけるしかないか。
状況が煮詰まれば、回気符を担保にして咲お嬢さまに借金すればいいし」
結局は借金という結論にがくりと肩を落とす。
一つ違いといえ年下の女性に金子を強請る己の姿に、絶望に似た落胆を覚えたのだ。
久我諒太に知られれば、生き恥を晒すほどには嘲られるのは間違いないだろう。
その時の事を想像すれば暗澹とした気持ちになるが、懊悩に一応の決着がついたからかきゅるりと腹が鳴いて空腹である事を主張し始めた。
「……飯、食いに行くかな」
こんな時でも空腹を忘れない自分に情けなさを覚えつつ、寂しさの目立つ巾着袋を懐に仕舞い込む。
一日くらいなら抜いても構わないだろうが、食事は晶にとって数少ない楽しみの時間だ。
少ない予算と空腹を天秤に掛けつつ、晶は電気の灯りが満ち始めた夜の街へと足を向けた。
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