2話 鴨津にて、向かい風に歩む5
「――咲お嬢さま」
「……何?」
斜陽の陰りはまだ見えない未の刻の中頃、久我家の正門に背を向けて、人々の行き交う大通りに続く緩やかな石畳の坂を下る二つの影があった。
――その遠慮がちにかけられた声に、先を行く影が足を止める。
未だ眉間に皺を寄せている咲は、不機嫌を絵に描いたような表情で晶に視線を向けた。
初めて見る咲の怒気に、晶は怯懦を抑えつつ何とか言葉を紡ぐ。
「すみませんでした。
俺、咲お嬢さまにそんな噂が立っているなんて聴いたことも無くて」
「そんな噂?
……あぁ、私が考えているのはそんな事じゃないわ」
「え?」
てっきり、平民の晶との仲を勘繰られた事に対して不機嫌になっていたと思い込んでいた晶は、咲の返した応えに肩透かしを覚えた。
「いい? 晶くんとの関係を勘繰られることは、君が吹聴しない限りまず無いわ。
あれは、御厨翁の偽言よ」
「偽言、ですか?」
「表向き、晶くんの教導役は阿僧祇の叔父さまよ。
実際、大部分の教導は叔父さまが担当しているから、疑問を持つ余地なんてないわ」
咲が第8守備隊に逗留している理由は、守り役であった阿僧祇厳次への信頼からであると説明されている。
それに、神無の御坐に関して話が通っているのは、奇鳳院の一族を除けば、側役2人と輪堂孝三郎、加えて娘の咲しかいない。
神無の御坐の詳細は、晶本人も知らない機密事項だ。
教導に入っている咲であっても、情報漏洩の虞から神無の御坐に関する知識は表層をほんの触り教わる程度に留まっている。
晶や咲に、奇鳳院が知る情報全てを教える事は出来ない。
何しろ想像するだけでも、故郷では抑圧されたものに近い扱いを受けてきたのだ。
この事実全てを知れば、晶は発狂に近い憎悪に支配される可能性がある。
――それこそ、単独で國天洲に攻め入ってもおかしくないほどに。
奇鳳院嗣穂は、晶の激怒を嗜める事はできるだろう。
思い止まるように願う事も可能だ。
……だが強権を用いて現実に止めることは、奇鳳院にとっても越権行為となってしまう。
何故ならば、珠門洲の大神柱が晶の行動全てを許容するからだ。
朱華は晶の暴走すら笑顔で受け入れる。民草と晶を天秤に掛けるなら、躊躇なく晶を選ぶ。
その先に残るのは、統治すら覚束ない破滅しかないとしてもだ。
その結果を容認できない以上、晶が自身に関連する全ての情報を得てなお、自制が利けるだけの精神的な成長を、奇鳳院は促す事しかできないのだ。
「……私が怒っているのはね、私たちを呼び寄せた理由がこんな下らない罠を仕込むためっていう事よ」
そして、その罠にまんまと陥った己自身に、だ。
久我法理の狙いは、咲を側室として久我諒太に娶らせる事で間違いないだろう。
そのためには、教導している晶の存在が邪魔になる。
理由までは突き止められていないだろうが、奇鳳院が晶を気に掛けている事はそれなりに知られている。
そうである以上、晶に直接干渉する事は奇鳳院の不興を買う恐れがあるため、実行は難しい。
だからこそ手始めに、咲と晶を物理的に引き離す手段を取ったのだろう。
到着して直ぐに面会が叶ったのも、これで頷ける。
一度でも同じ宿で夜を過ごす事を赦してしまったら、用意していた言い分が弱くなってしまうからだ。
だから、咲たちがいつ到着しても面会できるように、事前に準備していたのだろう。
憤懣やる方ない感情で吐き捨てる咲を余所に、晶はこの問題をどうしたものかと頭を悩ませた。
この類の話題に無縁であった晶でも、咲の気持ちが諒太に向いていないことは理解しているが、華族の婚姻問題に巻き込まれるのは勘弁して欲しかった。
何しろ、晶は日々を生きるので精一杯だ。
現在、最も関心を向けているのは、宿泊代で随分と軽くなった懐の重さだけである。
正直なところ、奇鳳院や輪堂家の思惑に乗せられるだけの余裕が無いのが実情であった。
「それで、どういたしましょうか?」
「……仕方ないわね。どうせ、久我家も手を回しているんでしょうし、初手は相手に譲りましょう。
私はこの先に有る高宿に泊まるわ。とりあえず、晶くんも宿の場所を確認しておいて。
最悪の場合でも、2人の連携は取れるようにしておきたいし」
「はい。
……それにしても、どうして久我家は咲お嬢さまに拘るんですか?
失礼ながら、輪堂家との関係を悪化させてまで望むほどの理由はないと思いますが」
「――傍目からは、ね。
私が期待されているのは、久我くんの抑え役よ」
晶の言及通り、久我家が咲を望む理由は殆ど無い。
三女とは云え、同じ八家の姫を側室に望むなど傲慢に過ぎる考え方であるし、これで輪堂家と争う羽目になったら目も当てられない事態になりかねない。
だが、それでも望みたくなるほどに、久我法理は焦っているのだろう。
久我法理の最終目的は久我諒太を奇鳳院嗣穂の伴侶にする事だろうから、残りは側室として迎えるしかない。
――久我家は、伴侶選考が行われなくなった事をまだ知らない。
神無の御坐が奇鳳院嗣穂の伴侶として内定している事実は、機密事項故に探れていないからだ。
実際、神無の御坐が居なかった場合の選考結果は、同年代では諒太にほぼ決定していた。
家格、文武における実力は、久我家が自信を持って送り出せる程度には満たしていたからだ。
それでも話題上で難航していた理由が、性格や思慮の問題が最大の懸念点として取り沙汰されていたからだ。
久我諒太は、格下と認識したものに対する興味を無くす欠点がある。加えて、賢くはあるが思慮深くは無かった。
四院の伴侶としては、致命ともいえる欠点を有しているのだ。
……特に、義王院静美の伴侶として公表されている雨月颯馬と比較すれば、2つも3つも格落ち感が否定できない程度には、明確な痘痕と云えた。
「……八家で顔馴染みだから、私の言葉は比較的に聞いてくれるの。
それに、埜乃香さんを側室に迎えたって事は、火行の衛士を側室にする必要があるわ」
「五行相生、ですね」
五行運行において、基礎という概念を司る土行は非常に強力だが、五行の一角に過ぎない以上、強力であっても最強ではありえない。
木克土。即ち、土行に克ち得るのは木行なのだ。
加えて木生火、木から火は生じるため、木行の精霊遣いは火行との相性が飛び抜けて良い。
木行の衛士を加えることは、珠門洲において土行の精霊遣いを制御する上での最適解と云えた。
つまり、帶刀埜乃香と火行の衛士が組めば、久我諒太が暴走したとしても力尽くで抑え込むことが可能となるのだ。
「うん。上位華族である埜乃香さんの実力は、かなり高いはずよ。
久我家に来て半年も経っていないはずなのに、もう久我の内部を取り纏めている。
御当主さまの刀自がやらなきゃならない出迎えを代わりにやってたから、内政の手腕も軽んじられないわ」
帶刀埜乃香の優秀さ。それこそが、久我法理の抱えてしまったもう一つの誤算だったのだろう。
埜乃香は壁樹洲の華族だ。このまま久我の内政を任せれば、壁樹洲の華族が珠門洲の八家に対して無視できない発言力を持つ可能性がある。
加えて、正室に奇鳳院嗣穂を望んでいる以上、もう後一人、珠門洲出の側室を迎える事で埜乃香の政治力を牽制しつつ、久我家を取り纏めさせるしかない。
そのために必要な側室の最低条件は、帶刀と同格以上の家格を持ち、婚姻先の決まっていない妙齢で未婚の火行の衛士、という事になる。
最低でもこれだけの条件を揃えたものを、珠門洲に属する華族の中から選出しなければならないのだ。
ここまで来れば、候補など殆どいなくなる。
強引にでも咲を取り込もうとしていたのは、その辺りが理由だろうと咲は推測した。
「ともかく、こんな開けた場所でする会話じゃないし、もう行きましょうか。
――晶くんも最低限の自衛はしておいて。奇鳳院の後ろ盾が守ってくれるはずだけど、害意だけが相手を陥れる手段じゃないから」
「…………はい」
見渡す視界に人の影は見当たらないが、雑音の中で咲の小声を抜いて見せた埜乃香という例がある。
此処で気を抜いて会話に興じるのは、流石に怠慢に過ぎるだろう。
周囲に気を配りながら踵を返す咲に、晶は短く首肯を返すに留めて、その後を追った。
「――――あれ?」
久我の屋敷に続く坂を下る最中、視界の下から数人が登る光景に晶は思わず声を上げた。
それ自体は不思議でもない。太陽はまだ高いし、晶たちとの面会だけが久我家の用事では無いだろう。
だがその一団は、晶の記憶にあるどの衣服よりも奇妙な格好をしていた。
この真夏の炎天下で黒の長衣に身を包んだ痩身長躯の男を筆頭に、やや簡素な青の服を着こなす二人の男性。3人に囲まれているのは、純白の長衣に身を包んだ年齢18ほどの少女。
衣服も見慣れないが、晶にとって衝撃だったのは彼らの髪の色であった。
高天原の人間では見たことのない、淡い色彩の髪。
亜麻色、赤色、
――そして中央の少女が持つ、輝かんばかりの金色の髪。
「どうしたの?
――あぁ」
思考に沈んでいた咲も、晶の反応からその一団に気付いた。
「西巴大陸の人たちね。華蓮ではまだ見かけることが少ないだろうけど、鴨津だったら、たまに見かけるわ」
咲にとってみれば、珍しくはあるが驚く必要がない程度には見慣れた相手である。
視線を合わせないように晶に注意しつつ、歩調を乱さないことに注力する。
――結局、互いに視線を合わせることなく歩調を変えることなく、何事もなくすれ違う。
「……っはあぁぁぁ!」
一団が視界から消えると同時に、晶は安堵から大きく息を吐いた。
「そんなに緊張すること?
見た目に慣れないのは分かるけど、結局のところ、同じ人間よ」
「初めて見ましたので。
お嬢さまは慣れておられるのですか?」
「珍しくはあるけど初めてって訳でもないし、緊張するほどじゃないかな」
努めて何でもない風に、咲から応えが返る。
凄いなぁ、と場違いな感心を抱きつつ、先刻の一団を思い返した。
「……華蓮で流行っていた洋装とは、随分と別なものでしたね。
向こうの流行って、あ~ゆ~の何でしょうか?」
「流行とは関係ないんじゃない?
――あれって確か、『アリアドネ聖教』の司教服だったはず」
「え!?」
さらりと告げられた内容に、晶は思わず声を漏らした。
嗣穂から聞いた、『導きの聖教』の母体宗教。
随分と重要な情報の気もするが、咲が警戒を見せていない事に、咲と晶のどちらが間違っているのか不安になる。
「え、あの、『アリアドネ聖教』、なんですよね?」
「? うん」
「だ、大丈夫なんですか?」
「大丈夫なんじゃない?
波国が、宣教会とやらの使者を送り込んでくるのって毎年の事だし」
何て事の無い風に返された言葉に、晶も気にしすぎかと緊張を解いた。
そうだ、嗣穂も云っていたでは無いか。
荒事になる可能性は低い、と。
咲の口調に落ち着きを取り戻して、晶は歩みを再開する。
――だが、一度口にした不安は、澱のように何時までも心の中に残っていた。
――――――――――――――――
――……あの2人。
ベネデッタは、肩越しにちらりと視線を後方へと遣った。
無意識に探したのは、先刻にすれ違った年齢の若い男女2人の姿。
しかし、真夏の陽炎に遮られて、既に2人の背中を見つけることは叶わなかった。
『ベネデッタ、どうかしたかい?』
幼い頃からの知己であり、その縁からこの極東まで付き合わせてしまった友人のサルヴァトーレ・トルリアーニが、ベネデッタの仕草を見咎めて声を掛けてきた。
『……先刻の2人だけど、どういう関係かなって』
少女の方は異郷故に見慣れなかったが仕立ての良い衣服を着て、少年は諭国に影響を受けたと見られる軍服に似た服装。
すれ違った時、少年は一歩引いた立ち位置で、少女の歩みを邪魔しないように立てていた。
――単純に考えるなら、良家のお嬢さまと従者の立ち位置なんだけど。
『お嬢さまと従者じゃないか?
……騎士と評してやるには、可哀想なくらい貧相に過ぎる』
偉丈夫で知られるサルヴァトーレの評価に、ベネデッタは思わず噴き出した。
少年には悪いと思ったが、ベネデッタの騎士を自任するサルヴァトーレと比べれば成長期であっても細すぎる。
『貴方と比べたら、それはね。
――そうじゃなくて、お嬢さまの方が従者を気に掛けているように感じたから、少しだけ関係が気になったのよ』
立ち位置や歩き方をみれば、貴族と従者の関係であるとは思う。
だが少年に対する少女の仕草が、どうにも上位の存在に対する敬意に似た香りを放っていたように感じた。
『主従の立場をわざと入れ替えたんじゃないか?
子供たちは、よくそんな悪戯をするだろう。
……昔、何処かのお転婆姫が東部の避暑地に足を運んだ際に、騎士の友人と立場を無理矢理入れ替えて、海岸に遊びに行ったのは懐かしい思い出だ』
『サルヴァトーレ!!
……もう、何歳の話をしているの? 10年以上前の若気の至りじゃない』
幼い頃、自身がしでかした悪戯の顛末をバラされて、ベネデッタの頬にさっと朱が差す。
その様子にサルヴァトーレと肩を並べて歩くアレッサンドロ・トロヴァートが、快闊に笑いながら会話に口を挟んできた。
『はは。カザリーニ嬢のお転婆振りか。
そういえば、トルリアーニ卿は聖女殿の幼馴染であったな。
貴公は、その類の噂話が多そうだ』
『正しく!
彼女のやらかしは、大体、私が巻き込まれていますからね。
――語り尽くすには、一晩じゃあ足りないくらいだ』
『ほほう。
……では、貴公の口を軽くするために、一晩、酒に付き合ってもらおうか』
『トロヴァート卿!!』
『おおっと、聖女殿のお怒りに触れてしまったかな?』
流石に、自身のしでかした悪戯の数々を酒の肴にされては堪らない。
ベネデッタは柳眉を逆立てて、笑いながら肩を竦め合う2人の聖堂騎士を睨めつける。
――その時、
『――お三方、そこまでにしておいてください』
前方を歩く司教のヴィンチェンツォ・アンブロージオが、厳しい口調で釘を刺した。
『母国語を使っておられるから、極東の猿どもに盗み聞かれる恐れは少ないでしょうが、無闇に情報をくれてやる道理も無いでしょう。
こんな準備不足で謁見に臨まねばならないのは、流石に私でも予想外なのです、不安要素は少しでも削っておきたい』
『…………えぇ、申し訳ありません、アンブロージオ卿』
会話の中身は、他愛のない個人の過去話だ。
盗まれたところで苦笑するしか使い道の無い話題の一つ。抜かれたところでそこまで固執するものもいないだろう。
そこまで目くじらを立てる事もあるまいと僅かに反駁を覚えたが、結局は口にする事も無く、ベネデッタはアンブロージオに首肯のみを返した。
アンブロージオの危惧も理解できるからだ。
ヴァンスイールは世界のほぼ反対側に位置している。距離が隔絶しているが故に高天原はそこまで警戒をしていないだろうが、ベネデッタたちは高天原に侵略を仕掛けに来たのだ。
もし意図が露見したのなら、この場で密殺される可能性も充分にあり得る。
確かに、気は引き締めておくべきだろう。
『――しかし、領主に面会の依頼を出した途端に叶うとは、少し予想外でした。
こちらから出した要望故に、拒否も出来ませんでしたし』
ベネデッタたちは当初、上陸に一日、面会に一日の猶予があると踏んでいた。
だが、外洋を隔てる大潮を越えた瞬間から、比較的に穏やかな海流と風に恵まれて昼には上陸が叶ったのだ。
加えて、鴨津の領主の反応を見るため、無理矢理に当日の面会予約を入れたのだが、こちらも意外なほどにアンブロージオの意思が通る。
難癖をつけるための無理強いであったが、通って逆に慌てたのはアンブロージオの方であった。
『……未来を読めぬ以上、我らが何を行いに来たのかは知られていないはずです。
島国の、それも一領主。どうせ、都合よく暇を持て余していたのでしょう。
とりあえず、この地の教会に1ヶ月の逗留が叶えば、こちらの最低条件は適ったも同然です。
後は、ここの領主からどれだけの譲歩を引き出せるか、ですね』
『…………はい』
何処かに落とし穴があるような見えぬ不安にベネデッタは駆られるが、アンブロージオの言葉に異論がある訳ではない。
ベネデッタたちの来訪を確認していたのだろう。
石造りのそれと比べたら堅牢とは程遠い木造の門が、それでも重い音を立てて開かれる。
その向こう側で、ベネデッタと同じ年頃の少女が深々と頭を下げて、来訪を歓迎する姿が見えた。
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