2話 鴨津にて、向かい風に歩む1
本日、2話目です。
よろしくお願いいたします。
――統紀3999年、文月30日、南部珠門洲、万窮大伽藍にて。
「晶、晶や。
ふ、ふ。よう来た、よう来た」
「晶さん。ようこそ、お出で下さいました。
どうぞ、ごゆるりとお過ごしください」
華やかな灯りに満たされた万窮大伽藍の奥から、都合四度目となる晶の来訪に、朱華が機嫌良さそうに、とつとつと歩み寄ってきた。
朱華の向こうでは、奇鳳院嗣穂がにこやかに歓迎の意を見せる。
「一週間ぶりです。朱華さま、嗣穂さま」
最初と2度目はあの世が幻視えるほどに緊張をしたが、流石に、4度目ともなると慣れる。
対する晶も、二人に倣って穏やかに応じて見せた。
「のう、晶。
もそ、と近うに。一緒に座ってたも」
晶が座る足の間に、朱華が滑り込ませるようにして幼い身体を収めて見せる。
立ち昇る伽羅の香しい幽玄の芳香と共に、幼くも艶やかな微笑みで晶を見上げた。
「のう、のう。
変若水を呑むかや? 嗣穂が蘇を煎じてくれてや、肴にどうじゃ?」
「ええ。良い牛の乳が入手りまして、是非ともご笑味くださいな」
「ありがとうございます。
……いただきます」
それは、何時か晶が望んだ風景。
何処までも心穏やかな、還りたいと願った団欒の笑顔であった。
「『導きの聖教』、ですか?」
乳脂だけが持つ淡い甘味が、さらさらと舌の上で融けていく。
生蘇の独特の口当たりを愉しんでいる最中、話題に上がった聞き慣れない名称に、晶は首をかしげた。
「高天原では、その名前で知られていますね。
――正式な名称は『アリアドネ聖教』、こちらなら聞いたことがあるんじゃないですか?」
「あ、そっちなら、聞いたことがあります。
中学校の世界情勢の授業だったっけ」
答えながら、記憶の片隅をひっくり返す。
「西巴大陸最大の宗教? でしたっけ。
確か、波安素沃って国に総本山があるとか」
「はい。その認識だけで充分です。
波国は、自身が擁する神柱、聖アリアドネを主神とした教義を西巴大陸に広めることで、霊的に西巴大陸を支配してきました」
「くふ。其方も会えば判るがの、まあ、いけ好かん奴らじゃ」
「支配、ですか。
ですが、どうやってそんな事を可能にしているのですか?」
一つの龍穴を支配できるのは、一つの大神柱のみ。
これは晶とて知っている常識だ。
一つの神柱が複数の龍穴を支配することはできないし、その逆もまた、不可能だ。
すなわち、龍穴がもたらす霊気以上の恩寵はどうやっても引き出せないし、一つの国が大陸を霊的に支配することは理屈上、不可能なはずである。
「どのような事柄にも、抜け道は存在するものですよ。
……彼らは自身の教義において、聖アリアドネこそ真にして唯一の神柱であり、それ以外の神柱は眷属神であると定義しています。
他の神柱はアリアドネの下にこそいるべき存在であり、それらを支配し管理してやる事は義務であり権利だと、彼らは本気で考えているのです」
「……………………」
あまりにも傲慢なその思想に、晶はしばし絶句した。
「眷属神と位置付けられた神柱と龍穴は、常に自身が有する恩寵をアリアドネに搾取され、波国以上の繁栄は叶わなくなる。
――この思想の元、波国は西巴大陸を瞬く間に席巻したそうです」
「随分と厄介な連中みたいですね」
月並みだが、改めて聞かされるとそういう感想しか浮かんでこない。
「別に珍しい思想でもありませんよ。晶さんでも身近なものでは、涅槃教も広義ではこれの一つです」
「涅槃教って、お寺のやつですよね?」
「はい。
涅槃教は潘国発祥の宗教ですが、3千年ほど前に海を渡って高天原に根付く事に成功した宗教でもあります。
死後の世界、つまり、ただ人が死んだ後の次の生を説く教義なのですが、これが民衆に広く受け入れられた経緯を持ちます。
元々潘国は、東巴大陸を霊的に支配する目的で涅槃教を布教したのです。高天原に来たのは、その一環ですね」
「……高天原は、潘国に侵略を受けているんですか?」
そこまで数は無いとはいえ、涅槃教は高天原において一般的な宗教だ。
特に、葬儀に関しては、涅槃教が一手に引き受けていると云っても過言ではない。
だが、嗣穂は静かに首を振って、晶の疑問を否定する。
「涅槃教の布教には成功しましたが、東巴大陸の支配に関しては大きく頓挫したため、そうはなっていません。
抜け道は所詮、抜け道。正道にはない危うさがあります」
嗣穂は充分に熱が通った急須に茶葉を落とし、じっくりと湯と馴染ませた。
「唯一神と定義された神柱は、本質的に他の神柱を容認できない性質を持つようになります。
つまり、眷属神以外の神柱を眷属にし続けなければならなくなるのです」
嗣穂から差し出された焙じ茶で少しずつ舌を湿らせながら、晶は嗣穂の授業に聞き入った。
「端的に云うなれば、唯一神は敗けを赦されません。
敗北すると云う事は、他の神柱を認めると云う事。
唯一神が唯一神でなくなる。信仰上の矛盾が回避できなくなり、最悪、内部から崩壊してしまいます。
アリアドネ聖教は、西巴大陸の神柱を食い尽くしている分、反動もそれなりにあるでしょうね」
「……アリアドネ聖教は敗けの赦されない戦いを勝ち抜いて、西巴大陸を支配したってことですね。
そんなに強い神さまなんですか?」
「強ぅはないのう。じゃが、殊更に厄介ではある。
……彼奴めの象はの、人間の容じゃ」
背と頭を晶に預けながら、朱華は機嫌良さそうに応えた。
象とは、生まれながらの神柱が司るという概念そのもののことである。
例えば、高天原に座す神々は、世界の仕組みたる五行を各々が司っているように、世界の神柱はそれぞれに別の概念を司っているのだ。
アリアドネの象は人間の容であるという。
それは、つまり……。
「彼の神柱の信徒は、人間が存在する空間であるなら別の神柱が支配する領域であっても、一定以上の干渉が可能なのです。
アリアドネの特性は、宗教という名の侵略を行うに特化していると云えるでしょう」
信仰と侵攻。
なるほど、世界には様々な神様がいるんだな。
薄ぼんやりと、そう暢気な思考を巡らせながら、晶は生蘇の欠片を焙じ茶で流し込んだ。
「…………それで、その『導きの聖教』がどうしましたか?」
知識のない晶のために、随分と本題に入るのが遅れてしまった。
申し訳なさから、嗣穂に話の続きを願う。
「華蓮の南方に、長谷部領という領地があります。
その領都、鴨津の近郊にある廃村に、近年、『導きの聖教』の信徒が住み着いたとか。
事の裏に波国の意向が絡んでいるならば、その活動を止めねばなりません。
――丁度いい機会ですから、咲さんに調査を命じることにしました。晶さんは、咲さんの随伴として付いて行って欲しいのです」
「判りました。俺にどこまでお手伝いできるか分かりませんが、咲さまの邪魔にならないよう、精一杯、務めさせていただきます」
大恩ある嗣穂の願いだ。晶とて断る理由も無く、素直に肯いを返した。
「ええ、よろしくお願いしますね。
ですが、気を張らなくとも結構ですよ。
実際のところ、調査はただのおまけです」
「おまけ、ですか?」
「はい。
本来、この類の調査は、現地の領主が解決しなければならない領分です。
今回の場合、長谷部領の領主が、ですね。
ただ、当の領主がゴリ押しで解決を願ってきたので、奇鳳院としても人員を派遣しなければならなくなっただけなのです。
派遣する人材は咲さんを名指ししていたので、調査は口実で意図は丸見えですね」
「咲さまを名指し、八家のお嬢さまをですか!?」
くすくすと笑いながら告げられた内容に、晶は瞠目をした。
咲の家格は、目の前の少女を除けば、大概の華族に比肩を許さないほどの高位の家柄だ。
晶自身も元は八家の出であるが、こちらは特殊な環境のため除外するとしても、八家の直系縁者を名指しで呼びつけるのは失礼を通り越して暴挙に近い。
だが、嗣穂は微笑みながら首を振った。
「多分に失礼ではありますが、問題はありません。
長谷部領の領主は、久我法理といいます。
晶さんも面識はあると思いますが、久我諒太さんの実父ですね」
「……ああ」
久我。その名に思わず納得の息が漏れた。
輪堂咲を名指したものは、同じく八家の、それも当主ということか。
確か、久我家の序列は八家第二位、五位の輪堂家を目下と見ていてもおかしくはない。
だとするならば、何くれと理由をつけて呼びつけるくらいはしかねない。
「『導きの聖教』に関しては、波国との距離が離れすぎている為、そこまで緊急性が高い問題ではないはずです。
それよりも、久我法理としては、それを口実に咲さんを呼び寄せたかったのでしょう。
……現在、咲さんは晶さんの教導に入られていますが、その直前まで当主たちの意向で諒太さんと組んでいましたから」
「俺のせい、なんですか?」
「……いいえ。晶さんに関わらず、遠からずこの問題は起きていました。
奇鳳院の意図で、多少、便利に輪堂を動かしたため、両当主の決定にズレが生じたのです。
結果的に輪堂の決定に不満を持った久我が横やりを差し挟んだ、それがこの招聘の根元です」
「問題の解決を含めるならば、しばらく晶とは別離れねばならんのう。
寂しいが、仕方もあるまい」
嗣穂とは反対に、少し不満そうに朱華が唇を尖らせる。
そうか、別の領地に赴くとなったら、少なくとも数日は華蓮を留守にしなければならないだろう。
週の終わりに朱華の元を訪れる約束を果たすことが難しくなる。
「――申し訳ありません」
「善い。其方は、其方の成すべきを成せ」
やや不満さは残っているものの、意外と聞き分けよく朱華は首肯した。
しゅるり。衣擦れの音を立てるままに身体をよじり、晶の首筋に繊手を絡める。
「朱華さま?」
驚く晶の耳元で、朱華が艶を含んだ声音で囁いた。
「忘れりゃな、晶。
妾は其方に全てを与えた。其方の意思は須らく妾の決定と知らしめよ」
「――は、ありがとうございます。朱華さま」
幽玄に立ち昇る伽羅の芳香に思考をくらつかせながらも、晶は言葉少なくそうとだけ答えた。
「――晶さんが防人になられて一ヵ月が経ちますが、何かご不便はありませんか?」
「……いえ。俸給こそ未だですが、待遇は充分によくしていただいております。
嗣穂さまが後見に入っていただいたおかげで、不便はありません。ただ……」
「何か気になることでも?」
朱華の強請るままに共に貝合わせに興じていた晶は、嗣穂からのその問いかけに僅かに考え込んだ。
「鍛錬に関して、です」
「……咲さんからの報告は受け取っています。
現時点で初伝を4つ、連技を2つ、修得されたとか。
充分に、私の要求には応えて頂いておりますよ?」
「ありがとうございます。
――ですが、阿僧祇隊長に聞いたところ、身体の鍛錬が足りていない、と。
事実、咲さまと腕相撲をしたら、『現神降ろし』を行使していない素の腕力でねじ伏せられました」
その際に阿僧祇厳次から告げられた回答が、咲と晶では純粋な鍛錬に差があると云う事だった。
現神降ろしが身体強化における倍率である以上、人間として持っている素の身体能力が基礎にして絶対値となる。
そうであるなら、阿僧祇厳次の指摘の通り、身体の鍛錬が絶対の急務であることは理解している。
そして、一ヶ月程度の鍛錬で急激に身体能力が上がる訳が無いことも、晶は充分に理解はしていた。
――だが、もどかしい。
早く、もっと早く、強くなりたい。
その欲求と裏腹の遅々として進まない鍛錬の成果に、晶は焦れていた。
「……それは、阿僧祇や咲とやらの認識が間違っておるのう」
「え?」
誰に答えを期待したわけでもない悩みの吐露に、朱華は何ともなしにそう答えた。
まさか、返ってくるとは思ってもみなかった言葉に、晶の反応が少しばかり遅れる。
「そうさの、認識が間違っておると云うか……、認識を出発するところが間違っておる」
「そうですね、あかさまのお言葉の通りです。
晶さんはその手にした盃を持ち上げるのに、筋肉を動かしている事は分かりますね?」
晶は手持ち無沙汰に、掌で遊ばせていた盃を見下ろした。
「はい」
「当然、筋肉量が多ければ多いほど、腕力を始めとした身体能力は高くなります」
嗣穂は、自身の湯呑から焙じ茶を一口、啜る。
「では、よく思い出してみてください。
――咲さんの腕は、晶さんよりも太いですか?」
「――いいえ。
ですが、現神降ろしを行使していなかったとも思いますが」
思い出すまでも無かった。
健康的ではあるが、女らしさしか感じない華奢な腕。
晶よりも細いことは、考えずとも断言できた。
だが、『現神降ろし』を行使した形跡が感じられなかったのも間違いない。
「ええ。咲さんが、『現神降ろし』を行使していなかったことは間違いないでしょう。
……ですから、認識の出発点が間違っているのです」
「嗣穂や、そこまでじゃ」
更に説明を云い加えようとした嗣穂を、朱華が右手を上げて制止した。
「其方に教えてやりたいのも山々じゃがの、この手の知識は頭で理解すると反って会得が遠のくものじゃ。
会得には、骨身の髄で理解せなばならん。
なに、気負う必要は無い。
――何れ、近く、其方は識ることになるであろう。妾の言葉を信じ、ただ、待つが良い」
複雑な色彩に揺れる蒼の双眸が、得意気に晶の視線を射抜いた。
その掌には貝合わせの一対、裏に塗られた真朱色を晶に見せながら、朱華は立ち上がる。
「疑うが良い、晶。
疑問とは、問う事を疑うと書く。
――それこそが理解の階なれば」
しゃら、しゃら。夏の微風が風鈴の音を掻きたてる中、朱華は上座に戻る。
上座に座った紅蓮の炎を想起させる幼子は、嬉しそうに捉えどころのない予言を告げた。
「恐れりゃな、晶。
其方が其方自身を信じる事を。
忘れりゃな、晶。
己を理解した時、其方は妾を呼ぶであろう。
其方はただ、その時を待つが良い。妾もその時を楽しみに待つとしよう」
TIPS:蘇について
牛乳をコトコト煮込んで作る、和製チーズの走り。
手間もそうだが、牛乳を大量に使用するため非常に贅沢な食べ物。
基本、神饌つまり神柱のお供え物として扱われる。
味は癖が少ないチーズ。
閑話が続いて申し訳ありませんでした。
3週間ほど水曜日と土曜日の20時に更新を行います。
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