閑話 密談は踊り、されど昏迷しか残らず
――どこか雨月颯馬に似た、でも印象に残らない凡庸な少年。
咲にとって、晶の印象はそんな程度のものであった。
初対面での山狩りで幾度か言葉を交わし、主に迫られたときの間一髪を救われた経験があったとしても、晶の名前を覚えるには至らない。
人別省への早期登録に口添えしたのも、命の借りがあるし、袖すり合うも多生の縁と思ったから。
どうせ一週間で終わる仲間関係だし、何かの偶然で再会したとしても、思い出すのに幾ばくかの時間を必要とするような、
――そんな程度。
晶を初めて見止めたのは、大鬼と対峙していた時であった。
大鬼の気を惹いて、全速力で疾走る晶の背中、それを呆けた感情で見送ってしまった時。
それが、晶という個人を視界に収めた、初めての瞬間だった。
日が落ち始める中、1区に向けて走る車内の空間は、晶という異分子が消えたとしても非常に居心地が悪い。
晶に続いて降りる機会を逃した咲は、引き続いて腰の落ち着かない感覚を味わっていた。
奇鳳院嗣穂、新川奈津、そして晶と入れ替わりに車内に乗り込んできた名張和音。その三人にちらりと視線を巡らせる。
輪堂咲は、八家直系の生まれだ。
嗣穂は例外としても、側役の二人よりは家格では上位となる。
故に、地位としては相手に怖じる必要は無いのだが、奈津と和音は職役を担っていることが、咲にとっては問題であった。
側役は、嗣穂の傍に交代で侍り公私にわたって補佐を担う、云わば秘書だ。
その地位は、次期当主である嗣穂に次いで高く、場合によっては当主の代行として発言する権利すら持っている。
対する咲は、八家の生まれであっても対外的には無役に過ぎず、同年代の二人ではあるが、職役の面では天と地ほどの差があった。
当然、言葉を掛けるのも畏れ多く、咲はどう口を挟むか苦慮していた。
「咲さん」
そんな居心地の悪さは、それでも唐突に嗣穂が口を開いたことで終わりを告げた。
「何か、訊きたい事があるんじゃないですか? そんな表情、してますよ」
「あ……いえ」
嗣穂は、穏やかな微笑みを浮かべてそう指摘した。
警戒心を抱かせない笑顔に勢い込んで口を開くも、疑問をまとめきれずに咲は口元をもごつかせるに止まった。
特に、相手は奇鳳院の次期当主である。
春の雪解けを思わせる笑みをしていても、本心では何を計算しているか推し量ることすら難しい。
三宮四院で次代を担うと目されている者たちのなかにあっても、西部伯道洲の陣楼院神楽に次いで年齢が若いが、公正な規範に対して苛烈な姿勢で臨む性格は、天領学院の中でもつとに有名であった。
咲とても、領家の子女だ。世の中には知っていい情報と知らない方が幸せな情報があることくらいは理解している。
問題は、咲がこれから訊こうとする内容は、知って良いのかどうか、だ。
自身が持つ疑問の内容を充分に吟味したうえで、咲は嗣穂と視線を合わせた。
「…………畏れながら、嗣穂さまにお尋ねしたいことがあります。
何故、寂炎雅燿を、晶く、、いえ、平民の彼に貸し与えたのですか?
あれも、落陽柘榴も、珠門洲の至宝、神器ではありませんか!!」
神器とは、神柱が支配する領域を鍛造した器物の総称である。
神柱の分け御霊、半身たる神域を物質化したそれら。
総じて強力な武具であるが、高天原の南方を守護する大神柱の神器ともなると、土地神が鍛造したものよりも威力も価値も数倍は変わってくる。
珠門洲の神器は4つ。
輪堂当主の所有する八塩折之延金と、久我の当主が所有する奇床之尾羽張。
――そして、奇鳳院が所有する寂炎雅燿と落陽柘榴。
八家に下賜されている二つの神器はそれなりに知られているものの、洲の宝物でもある寂炎雅燿と落陽柘榴にいたっては、存在は有名であるものの実物は咲ですら見たことが無かった。
「その件ですか。
あれは正当な権限の元、晶さんに譲渡されています。
――既に契約もなされていますし、私の一存ではどうにもならないわ」
「……それでも、落陽柘榴まで下賜するのはやりすぎでしょう。
寂炎雅燿も完全には制御できていなかったようですし」
思わず漏れた咲の抗議は、そう的外れなものではない。
神器とは、神柱の象徴であると同時に洲の象徴でもある。
そんなものを勝手に貸与したら、洲の議会が騒ぎたてるに決まっている。
議会にとって神器とは、洲の象徴、看板に収まっているだけの絵であって欲しいからだ。
それに、先刻に見た寂炎雅燿の威力も問題だろう。
伝承では、寂炎雅燿の一振りで見渡す限りの戦場を焦土にしたとあるが、あの威力では納得できる。
それと同格の落陽柘榴を、自覚も無しに平民が振り回す。
正直、咲にとっては悪夢としか思えなかった。
「だから、ですよ。
寂炎雅燿と違い、落陽柘榴にはかなり癖があります。
正式な契約もさせてませんし、あの状態なら、壊れる心配のない精霊器の代わりが精々といったところです」
本当だろうか。疑わし気な咲の視線だったが、嗣穂の微笑みを貫くことは出来なかった。
「……もう幾つか、お訊きしたい事があります」
「どうぞ?」
「隠世の精霊の事です。
――何故、嘘を吐いたのですか?」
鋭さを増す咲の視線を真っ向から受けながら、嗣穂は手の甲で口元を隠して笑った。
「嘘なんて吐いてませんよ。
――私が嘘を吐けない事くらい、咲さんもご存知でしょう?」
半神半人の末裔たる三宮四院には、神柱の血を継ぐゆえの権能が与えられている。
種の上位者として、ただ人に隷従を強いる絶対の発言力。
途轍もない権能だ。
特に権力者であれば、これ以上ない武器と言える。
だがその反面、この強制力が三宮四院自身にも適用されるが故の欠点もあった。
嘘が吐けないのだ。
結果的にならともかく、意図的に吐いた場合には少なくない代償を払う覚悟が必要なほどには。
「誤魔化さないでください! 私も隠世の精霊のことは幾ばくかは知識にあります。
あれは現世より姿を消したから、隠世と呼ばれるのではありませんか。
ただ人に宿るなんてこと、あり得ないはずです!」
晶の手前、揉める訳にはいかないため言及を避けたが、隠世の精霊はそれなりに知られている存在だ。
精霊は、昇華を続けた果てに神気を宿して神霊となる。
それは終わりではなく、さらに昇華を続けると神柱の頂に上り土地神となる。
神霊と土地神の中間、神柱への羽化を待つ状態を『隠世の精霊』と呼ぶのだ。
当然にして強大な精霊力、神気を有しているのだろうが、そんな存在が現世に顕れる訳も無い。
「本当に嘘ではありませんよ。
――私は、隠世の精霊について説明しただけですもの。
それをどう受け取るかは、本人次第です」
「それは……、では、何でそんな事を………………」
嘘ではない。では、何を誤魔化したのだろうか。
嗣穂に理由がないのなら、晶に理由があると考えるべきだろう。
そこまで考えて、天啓のように晶の漏らした呟きが蘇った。
――だって、俺は精霊が居ないはずで、
「まさか」
咲の知識にあっても、精霊を宿していないただ人など聞いたことも無い。
そして間違いなく、これ以上は聞いてはいけない情報だ。
「天領学院の時にも思っていましたが、咲さんは本当に思慮に長けてますね。
貴女が晶さんと逢っていたのが、この件における最大の僥倖でしょう」
嗣穂に浮かぶ微笑みは先ほどに見たそのままのはずなのに、何処か得体のしれないもののよう。
この時点で逃れようのない深みに足を踏み込んだことを、自覚せざるを得なかった。
「咲さんは、今、衛士の研修だったわね?
他に何か、用事はあるかしら?」
「は、はい」
だから、余計な仕事は受けられない。言外にそう云いながら咲は頷いた。
実際に、輪堂と久我の当主より直々に久我諒太の抑え役を命じられているので、これ以上の用件を兼ね合うことができないのだ。
「内容を訊いても、…………あぁ、そっか。久我くんの抑え役ね」
咲が答える前に、思考を巡らせて正解を云い当ててしまった。
この分なら、その原因が諒太の性格の矯正である事も、今後に控えている嗣穂の伴侶選考を見越しての指示である事も看破されているのだろう。
「なら、問題は無いわ。伴侶選考は中止になったのですし」
「……………………え?」
とんでもない爆弾発言が何でもない素振りで投げ込まれ、咲の思考が完全に停止した。
「ど、どうするんですか!?
中等部卒業までにはお披露目のはずですよ? 今から伴侶選考をやらないと、間に合わなくなります!」
慌てて云い募る咲だが、それも当然だ。
三宮四院の伴侶選考は、難航するのが常である。
開始から決定までに要する時間は様々だが、一年を切ることは無いと聞いている。
嗣穂は、今年で咲と同じ12歳。残り2年の猶予で決まるかはギリギリと云ったところだ。
「その通りです。ですけど、問題は無いのですよ。
輪堂の当主に話を通しても、同様の決断をしてくれるでしょう」
「……本当ですか?」
輪堂孝三郎はあれでも八家の当主だ。
一度下した決断を翻意することは、仮令奇鳳院の勅旨であっても難しい。
「ええ、勿論。
そうそう、明日は輪堂の当主が登殿される予定だったわね。
丁度、良かったわ。咲さんも一緒にお出で下さいな」
ふ、と咲は、滑らかな話の繋ぎ方に違和感を覚えた。
まるで予定調和の台本を読み上げているような自然な会話に、それでも隠しきれないほどの強引さ。
「嗣穂さま。晶くんが今日出した被害、ワザとですね?」
それは、ただの勘だ。
だが、そう仮定しないと、筋が通らない。
「あら。
どうしてそう思いましたの?」
「岩を前にしたとき、嗣穂さまは呟かれました」
――この大きさが対象ならば、霊気の爆散もそれなりに吸収してくれるはずですので。
あの言葉を単純に捉えたなら、あの大きさの岩だからこそ被害を抑えられたと読める。
加えて、嗣穂は嘘をつけないという事実が、その第一印象を後押しする。
だが、嗣穂は主語を、誰の視点かを云わなかった。
そして、霊気の爆散を吸収した結果、どうなるかに言及しなかった。
「……本当に、咲さんは思慮に長けていますね。
えぇ、その通りです。晶さんには出来るだけ早い段階で、失敗経験を、それも寂炎雅燿を握った場合の惨状を、実体験込みで安全に理解して貰いたかったのです」
「何故……」
「寂炎雅燿を抜刀くことを止めることは、晶さんの権利である以上本質的にはできません。
ですがこれで、晶さんは寂炎雅燿を軽々に抜刀くことはできないでしょう。
……これは、咲さんのためでもあります。
今後ですが、咲さんには晶さんの教導役に就いていただきます」
「教導役!?
お待ちください、教導役には奇鳳院流の段位が最低でも皆伝が必要だったはずです。
私はいまだ中伝の身、それに教導役に相応しいものは幾らでもいるでしょう!」
「言い方は悪いですが、そちらの教導には期待していません。
そちらは、阿僧祇厳次に命じています。
咲さんに期待しているのは、華族としての在り様、心構え全般です。
――論国の言葉で、導き手って云うんですって。素敵ですね」
揺るがぬ嗣穂の微笑みが、暗にこれが決定事項であることを告げてきた。
……逃げ道はない。
事、ここに至って、咲は一歩、深みに足を踏み入れる覚悟を決めた。
「随分と、晶くんを厚遇するんですね。
理由を訊いても良いですか?」
「ふふっ。必死に計算を働かせているみたいですが、そこまで難しい話ではありません。
――神無の御坐、という言葉を知っていますか?」
「……いいえ。無知で申し訳ありません」
「無知ではないですよ。
これは、八家当主以上の者たちのみが、口伝として教わる条項です。
詳細は輪堂の当主に訊いてください。奇鳳院嗣穂が、咲さんに対して口伝の開示を許したと伝えれば、当主も否やとは云わないでしょう」
「……はい。
最後に、お訊きしても良いでしょうか」
「ええ」
「何故、私なんです?」
至極、真っ直ぐに問われたその言葉に、嗣穂は喉を鳴らして笑った。
ころころと、雑味のない品のいい笑い声だ。
「ふ、ふふ。良いでしょう、理由は単純です。
一つに、咲さんは八家の出だからです。
通常の華族と八家では、考え方に違いがあります。
晶さんに必要なのは、八家という華族の考え方だと判断したからにすぎません。
二つに、咲さんは輪堂の出身だからです。
久我法理の縁者であったなら、私も対応を変えていました。
正直、あの者は野心が過ぎます。晶さんの教導には向かないでしょう」
一つ、二つと指を立てて説明を続ける。
そして、三つ目を立てながら、嗣穂は最大の理由を口にした。
「最後に、咲さんは女であるからです」
艶然と、年端も行かぬはずの少女が嗤う。
それは、あどけなさを拭い落とした、紛う事なく支配者の顔であった。
「基本、教導役には男性の方が就くと思っていましたが」
「剣技を伝えるに必要だから、です。
真に教導足り得るのは、女性を於いて他なりません。
――男性を立てて、一歩下がり、寵愛を利用し、閨で情熱をもって囁いてやりなさい。
次代の栄華を望むなら、適切に男性の手綱を取ってやるのです。
咲さんには、晶さんの警戒を解して信頼を繋ぐことを期待しています」
要は、教導役と間諜を兼ねろと云っているのか。
「……何か、晶くんに懸念でも?」
「万朶や阿僧祇の手前ああ云いましたが、怪しさが無い訳ではありません。
特に収入に関して、矛盾が幾つか見られます」
「収入?」
「気付きませんでしたか?
晶さんは、第8守備隊に卸している回気符を主な収入源として頼っていると」
沓名ヶ原への道中での、嗣穂と晶の何気ない会話を思い出す。
頻りに晶の日常を気にしていたが、ただ、下々の生活が珍しかったのかとばかりしか考えていなかった。
「回気符の卸値は、10枚束で1円です。
それを週に一度卸しているのですから、月に4円」
「……かなりの大金ですね」
「いいえ、全く。
符を書く和紙や墨、特に霊力を限界まで込めた閼伽水は値が張ります。
それらを加味すれば、純利益は月に3円が良いところのはず。
そこから長屋の木戸賃と食費を引けば、何とかとんとん回るといったところですね」
「……とんとんとはいえ、回っているんですよね?」
「更に、尋常中学校に通われていると。
華蓮の生まれなら無料ですが、洲外の晶さんは学費を支払っているはずです。
ここまでくれば、回気符の収支だけでは完全に足が出ますね。
――なのに晶さんは、ギリギリでもまだ生活を見渡す余裕があった」
つまり、別口で何らかの収入の伝手があるという事だ。
「私に、それを訊き出せと?」
「合法なら問題ありません。が、違法ならば、晶さんに気付かれないように外科手術が必要でしょう。
何でしたら、事業を譲ってもらうのも良い。
要は晶さんの身辺を綺麗にしておきたいのです。収入なら、私で用意できますし」
――キ、キキッ。
嗣穂の言葉が終わるのを待っていたように、蒸気自動車が甲高いブレーキ音を立てて停止する。
――何時の間にか、1区にある輪堂の玄関口がライトで照らされていた。
「――着いたようですね。
それでは咲さん。明日、鳳山でお待ちしていますね」
「…………はい」
これ以上は話す気はない。その意思を感じ取る。
まだ心残りはあるが、無理矢理に呑み込んで咲は頷いた。
照らし出されたライトの向こう側に、咲の姿が消えていく。
それを見送ってから、ようやく嗣穂は帰途に就いた。
「……よろしかったのですか?」
車内の沈黙を破り、和音が短く問いかける。
「構わないわ。
命令では無く、自然にそうなってくれるのが理想だから。
咲さんも晶さんを憎からず思っているみたいだし、今は、教導役として疑似的な相棒を意識させるだけで充分」
咲には伝えなかったが、咲に期待されている役目はもう一つある。
神無の御坐が伴侶と決定したとしても、洲外からの横やりが無くなる訳ではない。
洲に留まるのは、神無の御坐の意思一つだからだ。
万に一でも、神無の御坐の来訪が叶うのであるならば、5洲のいずれも血眼になるだろう。
だからこそ、神無の御坐を繋ぎ止める最大の鎖として、女性を利用する。
そこにしかいない女性と云うのは、男性にとって無意識に受け入れやすい魅力となり得るからだ。
――輪堂咲はその先鋒、側室候補の筆頭に目されていた。
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血相を変えた輪堂孝三郎が娘の咲を伴って鳳山の敷居を跨いだのは、登殿はおろか開門にもやや早い、翌日の早朝の事であった。
TIPS:隠世の精霊について
精霊は時間やその他の要因で成長する。これを昇華と云う。
その、精霊が昇華する大まかな段階に人間が名称を付けたものの一つ。
下位精霊での発生から始まり中位精霊、上位精霊、神霊、土地神と変化するが、神霊と土地神の間には空白期間が存在し、この期間を隠世の精霊と呼ぶ。
蝶に例えるならば羽化を待つ蛹の感覚に近いが、実際のところは不明。
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