1話 残響は遠く、燎原に思いを馳せて1
――統紀3999年、文月28日、南部珠門洲、洲都華蓮にて
「はっ、はっ、はっ」
咽喉の奥が、酸素を求めて痛みを訴える。
晶はそれを根性で抑え付けて、さらに一歩と速度を上げた。
妙覚山の麓には、山から下りてきた穢獣が直接、民家を襲わないように、意図的に背の低い雑草しか生えないよう調整した原野が広がっている。
晶の所属する第8守備隊の主な活動内容は、この原野に迷い込んできた穢獣の討滅である。
今もまた、晶は狗の穢獣を追って疾走っている最中であった。
―――苦、婁、屡ゥゥゥッッッ!!
瘴気の異臭を放ちながら狗が数匹、晶と並走するように疾走る。
――やっぱり速度じゃ劣る、か……!!
内心、歯噛みをしながらも狗と自身の差を素直に認めるが、現状の打破には至らない。
分かっていた事だ。
身体強化の精霊技、現神降ろしを習得したと云っても、行使い始めてようやく一月だ。
例えるなら、産まれたばかりの赤ん坊がようやく掴み立ちをし始めたのと、練度の尺度は然程、変わりはしない。
構築力も収束率も、阿僧祇厳次は勿論のこと、久我諒太や輪堂咲にも遠く及んでいない。
ぎり。歯を食い縛って、心の中で啼き叫ぶ仔狼の矜持を無視した。
「――――勘助ッッッ!!」
「応よォッ!」
疾走る先、右手の方に伏せていた勘助率いる楯班が、晶の合図で一斉に立ち上がる。
間を置かずに、楯班の後ろに立つ勢子班の班員たちが、手に持つ半鐘を高く掲げた。
「鳴らせぇぇぇっ!!」
――かあぁぁぁんんん……。
勘助の号声で、一糸乱れぬ動きで獣除けの半鐘が打ち鳴らされる。
半鐘に籠められた獣除けの呪が、半鐘の音に乗って大気を揺らした。
1度、2度。幾重にも畳みかけられる呪の波に、狗の速度がわずかに鈍る。
刹那に生まれた狗の隙。それを見逃さず、晶は手にした刀を脇構えに直し、体内を巡る精霊力を刀身に焚べた。
臙脂よりもなお昏い色を宿した刀身が、その異質さとは裏腹の華やかな朱金の輝きを宿し、唸りを上げる。
勢いを止めずに、晶は刀を水平に斬り抜いた。
放たれるのは、奇鳳院流にて必ず初めに教わる精霊技。
奇鳳院流精霊技、初伝――
「――燕牙ぁっ!!」
やや過剰に注ぎ込まれた精霊力に、収束しきれなかった分が炎の渦となって晶の周囲を焼く。
その渦を斬り飛ばすように放たれた『燕牙』が、炎に出鼻を挫かれて動きを止めた狗2匹を上下の半身に卸した。
――後、2匹。
背後を斬り抜く無理矢理な姿勢を取った事で体勢が崩れるが、構う事なく更に踏み込むようにして半回転。
精霊力を失った刀身に、精霊力を注ぎ込む。
晶を慕うように、再度、身体の周囲で炎が渦を巻いた。
生き残った狗2匹目掛けて、朱金の輝きを宿した刀身が放たれる。
完全に崩れた姿勢にも拘らず、炎の軌跡が綺麗な縦の半月を描いた。
それは、晶がようやく覚えた6つ目の精霊技。
奇鳳院流精霊技、連技――
「――時雨輪鼓!!」
上から下へ。
時雨と云うよりも、最早、滝とでもいうべき勢いで、炎の渦が残った狗を呑み込んだ。
朱金の業火は悲鳴はおろか肉も骨も穢獣が存在した証明を残す事を赦さず、黒く焦げた大地だけをその場に晒して戦闘の終了を告げた。
「――――……っぃでっっ!!」
それまで無茶を重ねた動きのつけは、当然のこと、無かったことにはできない。
完全に崩れた姿勢のまま、晶は顔面から地面へと突っ込んだ。
「晶ァッッ!! もちっとばかし火力抑えろっつっただろうがぁ!!」
「すいませんでしたぁっ!!」
衝撃と激痛に悶える晶に、その上から有り難くも嬉しくない怒声が追い打ちをかける。
鼻血と土でどろどろになった晶は、ここ一月で習慣になってしまった謝罪文句で、声の主である阿僧祇厳次に謝った。
「何度も云ってんだろうがっ。
手前ェのバカ精霊力を自慢してぇなら、余所でやれっ。
炎をブンブン回して、仲間ごと灼こうとすんな!」
「はいっっ!!」
「猿じゃねぇんだ! 覚えただけの精霊技に頼るなっ。
戦闘は終了だが、罰として屯所まで駆け足っ。
勘助っ、班員を纏め付き合ってやれっっ!!」
「――判りましたぁっっ!!」
流石に山狩りほどでは無いとはいえ、疲労しきった身体を鞭打つその指示に、引き攣った表情の勘助からやけくその返事が返ってくる。
その横で、よろよろと晶は立ち上って、手にした臙脂の刀身をした精霊器を脇に結わえた丹塗りの鞘に納刀めた。
晶の付き合いで駆け足が決定してしまった班員たちが、晶の様子を恨めし気に視線だけで追う。
それでも恨みから揉めることなく誰が声を出すでもなく、よたついた足取りで少年たちは走りだした。
――百鬼夜行より一ヶ月を数えようとする頃、
この一層、厳しくなった日常が、晶と練兵たちの日常となりつつあった。
「…………阿僧祇の叔父さま」
這う這うの体で走り出す少年たちを見送って殿に付いた厳次の背後から、少女の声が遠慮がちに掛けられた。
「咲お嬢、そちらは大丈夫ですかい?」
明り取りも無い暗がりから、当初の予定を完全に外れて第8守備隊に居着く形になってしまった輪堂咲が姿を現した。
厳次が晶の精霊技を教導する役目に白羽の矢が立ったため、咲が周辺の穢獣を狩って晶の方へ余分な穢獣が行かないように調整をしていたのだ。
「うん。狗を8匹ほど仕留めたよ。
精霊技も現神降ろししか行使っていないから、妙覚山は余分に刺激していないはず」
「成果は上々ですな、討滅跡の清めは昼連中にやらせるとしましょう」
あまり理解はされない事であるが、生来の獣は当然のこと、瘴気に染まった穢獣も自然の一部なのではある。
何故ならば、霊力やそれが流れる龍脈がある以上、瘴気はどこにだって発生し得るし、山脈の上から降りてくる穢獣が絶えることは無いからだ。
山狩りを成功させて穢獣が減ったとはいえ、麓近くで徒に精霊力を行使して山を刺激などすれば、隠れていた穢獣を誘発しかねない。
大体において守備隊の日常は、人を寄せ付けない山野から迷い出てきた小さな穢獣を夜間に討滅し、穢獣が動きにくい昼に場所の清めを行うという作業分担で成り立っていた。
「うん、分かった。
――晶くんは?」
「今頃、屯所に向かって駆け足の最中でしょうな。
走り込みは、今の晶には必須でしょう。
練兵としちゃあ身体の出来は文句は無いですが、防人を基準にするなら未熟も良いところですから」
予想はしていたものの、厳次の評価はかなりの辛口であった。
咲の眉間に皺が寄り、即断を旨とする彼女に珍しく思考に沈む。
練兵と防人の身体能力差を評価している基準は単純で、身体強化の精霊技を修得しているか否か、それに尽きる。
生来の身体能力を跳ね上げる『現神降ろし』だが、その生来の身体能力を鍛えていないと身体強化の倍率が激減するためである。
端的にどれだけ鍛錬が足りてないのかというと、見た目には華奢な女性の身体つきをしている咲だが、現時点の晶と力比べをしても強引に勝利をもぎ取る事が可能なほどに、互いの身体能力に差が存在していた。
「……やっぱり、時間が足りませんか」
「鍛錬の時間が生む差です、こればっかりは如何ともし難いですな」
だが、逆を云うならば、時間が解決する問題でもある。
その現実を理解している為、そんな問題に直面しても二人の会話に渋りはあっても焦りは無かった。
「それで、叔父さまの評価はどうですか?」
重ねて問われた同じ問い掛けに、厳次は思わず咲の方を横目で見る。
その視線は何とも云い難いもので、まるで昔からよく知る少女が別の存在になったような、そんな視線であった。
だが、問い掛けの内容は充分に理解していたため、それについて言及することなく屯所に向かって歩き始めた。
「……まぁ、空恐ろしい才能ですな。
剣術に関しては、基礎は教えてましたんで予想通りでしたが、精霊技の修得速度が頭4つは図抜けてます。
『現神降ろし』は鍛錬初日に修得して、『燕牙』はその翌日に修得。
一ヶ月も立たんうちに、奇鳳院流の初伝を4つ、連技を2つ修得して見せるときた。さらに云うなら――――」
異才、鬼才とは、あのようなものの事を指すのだろうな、と、先ほどの怒鳴り声とは裏腹の薄気味悪さを滲ませた声音で、厳次は晶の事をそう評価した。
異才の発揮どころは、修得速度にのみ留まらないからだ。
「今のところ教えた精霊技は、全て、呪歌無しで修得している。
……こう云っちゃ何だが、まるで、精霊が晶の代わりに精霊技を行使しているかのようだ」
ぼやくような厳次の評価に、思わず咲の表情が強張った。
無意識なのだろうが、厳次の感想は真実のかなり近いところを言い当てていたからだ。
だが幸いにして、先を行く厳次に咲の内心が悟られることは無かった。
「……晶くんは、回気符を作れたんですよね。
呪符の基礎が分かっているなら、呪歌無しでも精霊技の構築に馴れていたのかも」
厳次の思考をその事実から逸らそうと、わざと的外れな意見を口にする。
それでも一定の説得力があるためか、唸りながらも厳次は直ぐには否定をしなかった。
呪歌とは、精霊技の補助として詠う詩歌の一種だ。
それ自体には呪術としての意味は無いが、詩歌の随所に精霊技の構築補助の術式が配置されているため、精霊技と併せて詠うことでより確実に精霊技を行使可能になる技術である。
反面、威力が画一的になりがちになるため、主に、精霊技を覚えたての新人が使うものでもある。
もっとも単純な構成の『現神降ろし』と『燕牙』を覚えるのに呪歌を必要としなかった、と云うならばまだ、常識の範疇で優秀と評せただろう。
だが、それを除いても、初伝を2つと構成難度が跳ね上がる連技を2つ、短期間で修得するなど優秀を通り越して異常でしかない。
「かもしれんが、奴の『燕牙』を見たか?
収束の粗い一撃のくせに、狗を2匹まとめて斬り飛ばしやがった。
精霊力の質も量も、下手すると八家以上かもしれん」
「……優秀に越したことはないわ」
「ここまで優秀だと、通り越して胡散臭いでしょう。
はっきり云って、奇鳳院の姫さまが後見じゃなかったら、万朶総隊長殿の意見通り他洲の間諜を疑って、投獄くらいはこちらでも考えます」
守備隊総隊長の万朶は、百鬼夜行の際の布陣について恣意を挟んだ責任を問われ、非常に難しい立場に立たされている最中である。
責任逃れの生贄として白羽の矢がたったのが、夜行の主である沓名ヶ原の怪異を倒して除けた晶であった。
間諜疑いで憲兵を引き連れて晶を捕縛しようとした万朶を退けたのが、奇鳳院の次期当主、嗣穂の一声である。
洲の最上位に立つ少女の雷声で一旦は騒動も収まったが、さらに立場を悪くして退くに退けない結果となった万朶は、晶の処分を求めて奇鳳院に奏上し続けているのは有名な話だ。
「大丈夫ですよ。嗣穂さまが後見になるのは、それだけ晶くんを信頼しているからです。
間諜疑いは、もう晴れたんでしょ?」
「無理やり、だがな」
建前上はそうだが、納得はしていない。厳次は言外にそう告げた。
その心情を表すかのように、厳次の歩みが僅かに早くなる。
尻切れ蜻蛉に口が開閉するが、結局、咲は厳次を諫める気は起きなかった。
そう。厳次の疑義に応えている咲自身も、状況を完全に把握しきれている訳では無かったからだ。
晶の教導役を任じられた都合上、神無の御坐という言葉に纏わる幾ばくかの事項に触れることが許されているから、周囲の押さえに回れているに過ぎない。
はあ。
生温い嘆息を吐いて、歩みを止めない厳次の後ろを追うようにそぞろ歩く。
あれからもう一ヶ月は経とうとしているが、厳次を始め、晶の周囲は落ち着く様子を見せていない。
――仕方がない、か。
諦め混じりに、そう内心で零す。
如何に晶に問題が無かったとしても、晶の後ろ盾に奇鳳院が座っていても、それで、はい終わり。と簡単に方向転換できるほど人間は器用ではない。
むしろ、表面上は問題なく過ごしているように見せかけられている事こそ、称賛されてしかるべきかもしれない。
そもそも、百鬼夜行の収束からして問題だらけの終わりだったのだ。
咲は、一ヶ月前の百鬼夜行の瞬間を、ふ、と脳裏に思い浮かべた。
あれから、もう一ヶ月。
――そして、まだ一ヶ月しか経っていない。
読んでいただきありがとうございます。
よろしければ、ブックマークと評価もお願いします。





