終 朱の歓喜、玄の慟哭1
「――――あはははははは!!!」
明け透けな笑い声が、伽藍の中に響き渡った。
笑い声に呼応するかのように架けられた風鈴がさざ鳴り、伽藍を華やかな音で満たす。
声の主である朱華は、欄干から外に大きく身を乗り出して食い入るように晶を見つめ、熱に浮かされたように哄笑し続けた。
「見やれ。見やれ、嗣穂。
御坐ぞ! まごう事無く神無の御坐ぞ!」
視線の先に広がる光景は、煌々と天を灼く炎の塔。
そして、剣を振り上げた姿勢のままの晶。
欄干から外へ半分以上身を乗り出し、そこに居ない晶を掻き抱くように嫋やかな繊手を宙に彷徨わす。
「……おめでとうございます」
――真実に、神無の御坐だったのね。
嗣穂は、朱華に気付かれないように拳を握りしめながら、それでも努めて平静を装って、漸くそれだけを口にした。
己が奉じる神柱の断言を受けても、実際に自身の目で確認したわけでもないため半信半疑であったが、ここまで現実を見せつけられたら受け入れざるを得ない。
百年に一度、ただ人の頂きたる八家の間にのみ生まれるという、正者の奇跡。
精霊を宿さずに生まれるというその者は、神無の御坐と呼ばれる。
精霊を宿さないという事実が意味するものは、精霊に依らず己の意思だけで世界に立つことが許されるほどの強靭な器であるという事。
その身命は、一個の世界と等しく。
――そう。つまりは、神柱を宿すことが可能なほどの器であるという事だ。
「嗚呼、400年ぶりの神無の御坐じゃ!
妾だけの御坐ぞ! 妾だけの晶ぞ!
――誰にも渡さぬ。あおにも、しろにも、ましてやくろなどにはのう!」
「あかさま!」
高天原を二分しかねない危険な発言に、嗣穂の顔色が色を無くした。
その言葉通りに事を進めてしまったら、間違いなく義王院が敵に回る。
その先は、400年前の大陸の干渉を受けてまで荒れに荒れた内乱の再現だ。
それだけは、嗣穂が絶対に避けるべき最悪の未来予想図であった。
「……何じゃ、興が削がれるのう」
高揚した気分に水を差されてか、可愛らしく唇を尖らせる朱華に、嗣穂は慎重に言葉を選びながら説得にかかった。
「あかさまの願い通りに事を進めると、くろさまの不興を買うのは確実です。
高天原を千々に乱すのは、あかさまとて望むものでは無いかと」
「じゃが、それではくろに晶を取られてしまうではないか」
「……ですから、くろさまと、晶さんの所有に関して期限を設けるよう交渉しましょう。
こちらには、晶さんの長期滞在と、華蓮で空の位に至ったという事実が手札としてあります。
くろさまとて、気付かなかったとは云え、晶さんを手放してしまった手落ちを突かれては強硬に声を上げることは難しいはずです。
充分に交渉の余地はあるかと」
「むぅ、片時とて手放すのは惜しいのう」
一理あると見たのか、執着を見せつつも即断に切って落とすのではなく悩む様子を見せる。
元来、神無の御坐の処遇は、その者が産まれた洲に属するのが習わしだ。
その習わしに従うならば、晶の所在は國天洲であり、くろにのみ、その所有が認められていることになる。
だが、雨月のしでかしたことが推測通りであるならば、晶の身上は雨月から追放されているはずで、ただ人の規範に則れば珠門洲が晶の所在となる。
晶は義王院と婚約関係にあったが、同時に雨月にその身柄を置いていた。
八家管轄の領地内はある程度の自治が認められている以上、その処遇を決定する権限を持っているのは最終的に雨月になる。
詰まる所、晶の所在を宣言する権利は、國天洲と珠門洲両方が混在して持っているというのが現状だ。
雨月の暴走と失態。
これを許してしまった以上、晶との関係に対する原状への完全な回復はおそらくはほぼ不可能に近い。
理性が残っているのなら、義王院も交渉の卓に着く提案を無碍にはできないはずであった。
それに、義王院が強く申し出られない理由がもう一つある。
「いくら習わしを前面に出して義王院がゴネてきても、最終的な意思決定は神無の御坐である晶さんに委ねられています。
神無の御坐の心を縛るは、神柱の在りように非ず。
晶さんを繋ぎ留められなかったのは、義王院の、延いてはくろさまの失態です。
交渉の卓を無視して月宮に裁下を願い出ても、立場が揺らぐのはくろさまでしょう。
――あかさまと晶さんの関係が良好である以上、くろさまも晶さんの心象を悪化させるような手段は控えるはずかと」
神無の御坐という称号がもたらす最大の恩恵は、自身の依って立つ地を自由に選べるという一点だろう。
良くも悪くも、精霊に、そしてその土地に縛られて生きるただ人の中で、自在に洲を跨ぐことが許されているのは神無の御坐と呼ばれる存在だけだった。
だからこそ、神柱は晶の気を惹こうと必死になるのだ。
真実、それ以外の手段では晶を留めておけないから、半狂乱になって自身が持つものを与えて晶を満たすのだ。
それを怠ったくろに、反論を赦す余地はほとんど無い。
義王院との関係性は悪化するが、直接の対立は避けられるだろう。
滔々と語る嗣穂を感情の読めない眼差しで見つめながら、朱華は聞き終わると同時に、くふ、と喉を鳴らして微笑った。
「ま、良かろ。
必死になって神柱を説得する其方の成長に免じて、くろとの交渉を認めよう」
朱華の許しが出たことで、嗣穂は思わず安堵の息を吐いた。
これで、義王院との交渉に少しは希望が見えたのだ。
僅かながら最悪の事態に陥る可能性が遠のいたことを、嗣穂は素直に喜んだ。
「――じゃが、晶の気持ちをこちらに傾ける努力は良かろう?
妾とて久方ぶりの神無の御坐じゃ。存分に逢瀬を愉しみたい」
「はい、そちらの方はごゆっくりと」
深々と頭を下げて、朱華の意を受け入れる。
嗣穂にとっても、晶と朱華の距離がある程度縮まるのは喜ばしいことであった。
何しろ、この問題の根深さはともあれ、解決の糸口は晶の気持ちにこそあるのだ。
義王院との交渉を優位に進めるためにも、晶の気持ちを奇鳳院に傾けるよう努力するのは当然の策であった。
「それでは、事後処理がありますので、今宵はこれで御前を失礼させていただきます」
「うむ。
……そうじゃ、時に嗣穂よ。
其方の伴侶選考は、何時であったかの?」
「……神無月の神嘗祭を越えた後に予定しておりました」
「左様か。
分かっておるとは思うが、それは取り止めじゃ。
其方の伴侶は、晶に決定とする」
「承知いたしました」
さらりと告げられた朱華からの勅令を、嗣穂は異を唱える事もせずに首肯して受け入れた。
神無の御坐の表向きの婚姻相手となるのは、三宮四院の血統に課せられた義務だからだ。
それは、神代と現代を繋ぐ契約の一端として、古に神柱と三宮四院八家の間に交わされた約定の一つ。
神代の終わりより四千年、それは神柱の分木である三宮四院としても余りにも永い年月である。
三宮四院の血は半神半人を受け継ぐものであり、人の世と神柱を繋ぐ楔であるが、どれだけ強固な繋がりであろうともこの年月の前には劣化は避けられない。
劣化する神の血縁を現世に繋ぎ直す方法はただの一つ、神無の御坐の血を、己の血筋の一滴に加えることだけだからだ。
神柱とただ人が血を交え、半神半人たる三宮四院を生み出せたのは高天原勃興の一度のみ。
伝承に曰く、それを成したのは高天原央洲を司る神柱と、空の位に至ったという神無の御坐であったと云う。
晶は、歴史上で二人目となる、空の位に至った神無の御坐。
それこそ、神柱は何が何でも晶を取り込もうとするだろう。
「できれば義王院との交渉に入るまで、晶さんが國天洲に居られないという事実を悟られないでいたいものですが」
「無理じゃな。
昨日までは判らんが、間違いなく今はくろの奴は気づいておる」
「理由をお訊きしても?」
「簡単じゃ。
晶が寂炎雅燿を振るうにあたって、晶を満たしておったくろの神気が邪魔になる。
故に、晶が寂炎雅燿を抜いた瞬間に、くろの神気を封じるよう細工を施しておいた。
加えて、昨夜には魂石の繋ぎを新たなものに継ぎ変えている。
――どう足掻いても、一両日中にくろが荒れるじゃろうな」
「…………では、急がねばなりませんね。
表立っての行動ができない以上、義王院への接触は夏季休暇後になりますが」
「うむ。よしなにの」
現在、12歳の嗣穂は、央洲の天領学院中等部に在学している。
13歳となる義王院静美も同様に、同校の中等部に籍を置いていた。
家格が同じで年齢も近いため、二人の交流はそれなりにあった方だ。
よほどの下手を打たない限り、学院での内密の接触はそう難しいものではないだろう。
今はその幸運が、嗣穂にとって何よりも有り難いものであった。
一礼して、伽藍から去る嗣穂を後ろに、朱華は再び遠く華蓮の向こうにいる晶に視線を戻す。
炎の尖塔が天を灼く姿はすでに薄く朧に消えかけていた。
一帯を覆っていた朱金の輝きは、靄のように川の周囲に漂うだけ。
全力を絞り尽くしたのか、尖塔を生み出した晶は塔があった場所で剣を振り上げた姿勢で固まっていた。
その何処までも愛おしい晶の姿に、朱華は大きく両の腕を広げる。
「嗚呼、晶や。
――妾は、其方を祝福しよう。
――見やれ、精霊の慶びを。
――聴きやれ、珠門洲の寿ぎを」
狂おしいほどの想いのままに、珠門洲を司る火行の大神柱たる朱華が晶への祝福を叫んだ。
「――故に、妾を愛してたもれ。
神無の御坐たる其方の愛は、妾を満たすがゆえに!!」
大神柱の神気さえもその身に宿す事が赦された神無の御坐は、それが担う役目故に呼び名もまた数多い。
神代の担い人。
杭の打ち手。
そして、
――神々の伴侶。
その呼び名に相応しくあれと、ただただひたすらに朱華は愛おしさを叫んで笑った。
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