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泡沫に神は微睡む  作者: 安田 のら
五章 濫海浄罪篇
222/222

閑話 諸々と思惑を、言に奏でる

 ――芳雨省、黎隠山(リーインシャン)


 傾いた陽の差し込む広間で、太源真女(タイユェンジェンニュ)は薄く肩を揺らした。

 ゆらりと開けた視界に、人の気配が去った広間が映る。


 長卓で冷えた燭台を一瞥するままに、少女の容をした神柱は再び眼差しを翳らせた。


「お目覚めですか」

「……偲弘(スーフン)か」


 脇から遠慮がちの声が投げられ、眼差しを滑らせる。

 向けた視線の先から、馴染みの相手となった信顕天教洞主が姿を見せた。


天子(ティエンズ)たちは」

「信顕天教より、助力の感謝を伝えて終りました。

 今頃は、青道(チンタオ)帰りの途上でしょう」

「――そうか」


 手持ち無沙汰に指先を躍らせ、吐息を残す。

 ふわりと梅花の香りが一際に薫り、

 ――直後。卓の燭台に残った蝋燭が、一斉に灯りを点した。


「お見事に御座います」

「手遊びに見え透いたおべっかを吐かれて、朕が慶ぶとでも?」

「在野のものであれば()にあるでしょうが、見るものが視れば先刻の業の高みに絶望しますな」


 鼻を鳴らす太源真女(タイユェンジェンニュ)に、信顕天教の頂点たる洞主は恭しく首を垂れた。


 確かに、蠟燭に火を点ける程度の業は、然程に難しくない。

 偲弘(スーフン)が真に驚嘆したのは、眼前の神柱が見せたその静穏たる所作であった。


 人間であれば当然の事。神気そのものの顕現(けんげん)たる太源真女(タイユェンジェンニュ)の業であれば、精霊の騒めきは免れない。

 だが、偲弘(スーフン)の予想に反し、行使の瞬間に()いて、精霊は勿論の事、広間の空気すら僅かも揺れなかった。


 圧倒的な熱量を以て、僅かな結果を得る。これがどれだけの偉業か。

 ――例えるならば、火事場で蝋燭を点し続けるようなものだ。


 朱華(はねず)でも難しい御業を吐息一つで成し、涼しい顔で思考に翳る。

 やがて――、


「指示した件は?」

太源真女(タイユェンジェンニュ)さまの代理として、一切の借りなく帰途まで用意してやりました」

「それで善い。――芳雨省の被害は?」

論国(ロンダリア)海軍は、沿岸に辿り着く前に高天原(たかまがはら)の勢力によって撃沈。――此方の被害は、省都である暮江鎮(ムージャチン)の全壊ですな」

「朕の予想よりは、随分と軽微であったか。総額にすると、どれだけに上る?」


 連々と並べ立てられる被害に、太源真女(タイユェンジェンニュ)の厳しかった頬が僅かに綻ぶ。

 だが、偲弘(スーフン)は厳しく頭を振った。


「金子にして億は行くでしょう。……逃がした民が戻って来るかも、危ういですな」


 省都には基本、風水と最も適応した土地が選定される。その為、風穴そのものではなくとも、軽々に場所に替えなど見つかりはしない。

 加えて、此処(ここ)にこれまで住んでいた人心の問題も掛かってくるのだ。


 ――先祖から住んでいた街の跡地に、戻ってくることを考える民がどれだけ居るか。

 生活を奪われた民の感情を、そう(・・)するしかない偲弘(スーフン)が推し測るのは難しかった。


「心配するな、戻ってこよう」


 だが、太源真女(タイユェンジェンニュ)から返る応えは、厳しい偲弘(スーフン)の予想に反して軽いものであった。

 気楽なものだと洞主の横目に対しても、神柱の言葉に揺らぎはない。


「河が流れ、豊穣を約束する平地が広がっている。

 仮令(たとえ)、戻ってこなかったとしても、石と漆喰を重ねた余雑が浚われた程度で離れる民なら、これを機に余所の省へ放流(・・)した方が善かろうさ」

「数十年の後、先祖伝来の権益を言い訳()に出戻りでもされれば事ですぞ?」

「朕の土地に間借りしておいて、朕の決定に不満も赦さん」

青道(チンタオ)も、ですか?」

「左様。ただ土地を貸してやっているだけ。10年、100年の後、論国(ロンダリア)が築いた栄華諸共に朕の下へ還ればそれで善い」


 太源真女(タイユェンジェンニュ)の決断に、それでも偲弘(スーフン)の厳しい表情は崩れなかった。


 神柱の判断は恐らく、考え得る限り最も理想的な利益を回す判断だろう。

 だがそれは、神柱の永劫に在るという特権が基軸として敷かれている。現在に生きる戴天(ダイティエン)偲弘(スーフン)を始めとした、ただ(・・)人達に利するものではない。


「……天子(ティエンズ)たちから、指示したものは回収したか?」

()。ラーヴァナの神器たる九法宝典の器は、ランカー領への返還を絶対条件として預かっています」

「良し」


 短く断じた偲弘(スーフン)の言葉に、太源真女(タイユェンジェンニュ)の口元へ薄く嘲笑が刻まれた。

 どれだけの被害が生まれても、絶対に入手すべき神器の銘。東巴大陸に覇を目論むものにとって、九法宝典は鍵となり得る奇貨だ。


偲弘(スーフン)向こう(天子)の反応は?」

「夜劔晶だけが渋っていました。絶対条件も、向こうからの譲歩として、ですな」

「恩着せがましくは口にしていないな?」


 念を押す神柱の視線に、大柄な洞主は頭だけ降って否定を返す。

 やや滑稽とも見えるその姿に、太源真女(タイユェンジェンニュ)も眼差しを翳るだけに戻した。


「疑問ですが、高天原(たかまがはら)の当主は、太源真女(タイユェンジェンニュ)さまの狙いに気付いていたのでしょうか」

何方(どちら)であろうと意味はない。……この地を去ったのなら、干渉しないと云う無言の意思表示であろう」

「やはり。で、ありますか」

何方(どちら)にしても、文句は云えん。天子(ティエンズ)からすれば、借りしかないのだからな」

「ほぼ、言い掛かりですが」

「目眩しが欲しければ、玲瑛を高天原(たかまがはら)に留学させろ。……とは云え」


 得心した天教洞主を置いて、太源真女(タイユェンジェンニュ)はゆらりと席から腰を離した。

 白魚にもやや幼い指先が、卓上の1点から南へと踊るように線を刻む。


「シータとの決戦の際、明白(あからさま)に武仙精鋭の供出を絞っていたからな。

 この後を見越した狙いがある程度なら、気付いてはいただろう」

「此方の権益に食い込もうとしなかったのは?」

「向こうの手勢が10も満たないのではな、何れは食われて終わると判断した辺りだな。

 ……天子(ティエンズ)の引き際の半分でも、魔教洞主にあればな」

「判断だけなら簡単ですが、当の身になれば難しいかと」


 基本的に風穴は人の生活圏から離すものだが、青道(チンタオ)の風穴は都市の内部深くに在るのだ。


 仮令(たとえ)、放棄するのが最善と合理性が訴えても、魔教の頂点としての矜持がそれを赦しはしないだろう。


 同情を求める偲弘(スーフン)の懇請に、まあ良いとだけ太源真女(タイユェンジェンニュ)は鼻を鳴らして終えた。


 ぐるりと卓の縁を回る少女の軌跡を自然と、天教洞主の視線が追う。

 ――やがて、志尊の刻む軌道が、芳雨省の周辺概略地図である事に気付く。


「武仙と剣隊の再編成に、どれだけの時間が掛かる?」

3ヶ月(みつき)。……と云いたい処ですが、2ヶ月(ふたつき)もあれば充分でしょう」

「急げ。此方の戦力は温存したが、論国の(エドウィン)諜報員(・モンタギュー)が無傷のまま離れている。

 あれらの都合を考えたら、向こうが防衛を固めていてもおかしくない」

「まぁ。あれの行動からしても、予測はされていますな。

 ――了承しました。1ヶ月(ひとつき)で何とかいたします」


 これで暫くの間、信顕天教の頂点に立つ洞主として、戴天(ダイティエン)偲弘(スーフン)に眠れない日々が確定した訳だ。

 肩を落として肯う洞主に、太源真女(タイユェンジェンニュ)の華奢な咽喉(のど)がくすりと動く。


「過怠は赦さん」「――は」


 やがて、金色の残光がふわりと橙色の狭間に瞬いた。

 少女の神柱が身動ぎする度に、広間の暗がりを彩りゆく。


「時間ですか?」

「仕方あるまい。必要だったとは云え、今回ばかりは少々長く居座り過ぎた。

 暫くは、龍穴の奥で神器の修復に掛かりきりであろうな」

「次の戦争には間に合いそうにありませんか」


 それは、神柱が龍穴へと戻る予兆。太源真女(タイユェンジェンニュ)を宿していた神器が、象の限界を迎えて崩壊する合図だ。


「――太源真女(タイユェンジェンニュ)さまから檄があれば、武林再編も速やかになると愚考しますが」

「必要ない。この後の戦功は、総て其方とその麾下に与える事を確約する。

 士気は、それだけで充分であろう」

「は」


 にべもなく偲弘(スーフン)の要請を切り捨て、太源真女(タイユェンジェンニュ)はあどけなく(わら)った。

 追従する戴天(ダイティエン)偲弘(スーフン)も、苦笑で応じる。


論国(ロンダリア)の欲望に乗じて、東巴大陸鉄道を朕の龍脈上に徹してやった。

 あの鉄路だ。蒸気機関が入手できなくとも、兵站なら充分に役に立てる」

論国(ロンダリア)にしても、潘国(バラトゥシュ)への戦略方針が盗まれるとは考えていないでしょうね」

「警戒はしていても、意識はしていないだろうな。

 条約と青道(チンタオ)の支配で何とでもなると考えていた、あれらの足元が弱かっただけよ」


 ゆらりと太源真女(タイユェンジェンニュ)の肢体が踊り、金色の輝きが偲弘(スーフン)の眼前だけで悪戯に舞った。

 やがて言葉だけが、最後に偲弘(スーフン)の耳朶へ届く。


「夏までに、目標の制圧を終わらせろ。でなければ、南方の湿気に斃れるぞ」

「ランカー領にラーヴァナが居らず、シータも居ない。加護もない土地を削るのに、1ヶ月(ひとつき)も要しません」

「――是非もなし」


 深く一礼するだけの偲弘(スーフン)は、太源真女(タイユェンジェンニュ)が去った事を充分に確信した後に背を伸ばした。

 踵を返し、広間を後にする。


「父上」

雲岫(ユンシゥ)か。

 ――下知が在った。洞主の代理として、予定通りに武林の再編成を命じる」

「では、本当に?」


 広間の前で待っていた戴天(ダイティエン)雲岫(ユンシゥ)が、予想していた指示に肯いながらも再三の確認を向けた。

 大柄な足音が石畳を踏み、追従する女性の足音が静かに重なる。


 黎隠山(リーインシャン)の岩肌へ伸びる廊下を、(わた)り鳥の影と共に親子二人が急いだ。


「うむ。どうせ芳雨省の蔵も、今回の騒動で底を尽くのは間違いないのだ。

 であれば、迷惑をかけた処から還して貰うのが、最も効率も良いのは道理だろう」

「判りました、そのように」

「――玲瑛は?」

「鋒俊と共に、高天原(たかまがはら)への留学を命じておきました。

 国交を断った真国からの無茶ですが、高天原に拒否はできないでしょう」

「良し」


 辿り着いた先で、掌門人たる己の長女が大きく扉を開ける。


 招集に待機していた武林の精鋭達が、信顕天教の頂点の姿に衣擦れの音を揃えて拝跪。無言の忠誠が林立する間を、信顕天教の洞主が確かに歩く。


「能く集まってくれた」

「「「是」」」

「開戦の勅旨が下った。目標は芳雨省南方、塞都洄瀾(フイラン)

 立て籠もる有象無象には構うな。東巴の地に蔓延る論国(ロンダリア)を排し、渙霖家を掌握する」

「「「――不惜身命! 照魂無悔!」」」


 唱和される号声が、確かな熱量を孕んで広間に轟いた。


 武仙や剣隊の温存。鉄路を補給路に見立て、兵站の確保。論国(ロンダリア)との条約の裏で狙っていた都市を陥落すべく、真国(ツォンマ)がその巨体を密やかに蠢かせた。

 短いですが、今閑話を以て、濫海浄罪篇らんかいじょうざいへんの締めとなります。

 気付いておられる方が居られるかもしれませんが、今章は本来、二章に渡って展開する予定でした。


 玲瑛や鋒俊と高天原から出航するまで。論国海軍を潜り抜けて芳雨省で決着するまで。

 ……これ、よくよく考えたら、手間を掛けすぎじゃ。


 これじゃ駄目だと、大急ぎで構成を詰めました。

 構成が粗くなりました、申し訳ございません。


 これまでの章に渡って暗躍していた神々の物語も終わり、舞台は再び高天原へ。


 再開までに1ヶ月の構成期間を置かせていただく事、ご了承ください。

 では、次章も又、よろしくお願いいたします。


 安田のら

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― 新着の感想 ―
案外遠くに行かずに収めたな、と思ってたけどやっぱり巻いたのか… まぁ長く祖国を離れたらダレないかなと思ってたからきっちりまとまって良かった良かった
論国の手出しが弱まればそりゃ獲るわな… そういえば聖女様は間に合わなかったでいいんだろうか 次の章は高天原という事でそちらも色々と楽しみです
晶くんをこの地に呼べたからどうにかなったけど、そうじゃなかった場合、救世が始まってエライ事になっていたんじゃなかろうか。 真女は『ははさま』より先読みの力が強いと言う事なのかね? それとも神無の御…
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