終 紅が暮れゆく後、夜の蒼黒を仰ぎ2
――産霊。
そう宣言する朱華の碧眼にシータの反応は僅かと遅れ、
――やがて意図を理解した後に嘲笑へ変わった。
「ふ、ふふ。ああ、そう云う事。どうせ救世は止められない。
ならばと代案したなら、確かに産霊は妥当な手段よね」
「然りに、あろう?」
蒼と紅の双眸が悪戯に交差し、離れる。
総ての敗北を確信したシータを睥睨して、朱華は扇子で口元を隠した。
「其方は殺せぬ。
象を支える神柱が減れば、天は緩やかに末世の影へ沈むだけになるからのう」
「……再三に問いますが、シータを封じれば」
「結局は同じじゃ。
始まれば最後。一旦は堰き止めても、やがて乳海は潮騒の如く寄せて来るからの」
戴天玲瑛の疑問を横目で流し、ゆらりと扇子を夕凪に泳がせる。
途端。静かな伽羅の香りが、踊るように虚空を染めた。
どうにもならない。その神柱からの託宣に、夜劔晶を除く、その場に立つ全員が眉間に皺を寄せる。
だが、朱金の神柱の微笑みは、揺らぐものは浮かばなかった。
「だから、そこの男は、お前を呼び出した」
「然り。産霊を以て神柱を殖やし、天を支える象を恢復させる」
要は、キャベンディッシュたちの目論んだ神造計画と、骨子は同じである。
神柱が減って鉄の時代が訪れた以上、神柱を増やして堰き止めると云う考え方だ。
決定的に前後の策が違うのが、神話に基づいた正規の手段か否かと云うだけ。
「シータが何故、火神の座に在るか。其方たちは考えたことがあるか?」
「炎に纏わる神柱、だからではありませんか?」
「否。救世を支える末世と創世。――それこそが、シータを火神に留めている最大の理由よ」
朱華の声に隠し切れない喜悦の響きが滲み、童女の双眸が天を仰ぐ。
誰そ彼を迎える本来の天に一つ。気の早い白星を見止め、由良と舞いの拍子を踏んだ。
遠く海の果てで繋がった炎の磐座が、童女を言祝ぐように一斉に朱の穂を佐々鳴らす。
「妾の本質たる、日輪を泳ぐ鳳もそう。
己自身を灼き亡ぼし、再びに生を享ける偉業を果たしたが故、妾は神柱の階を昇るに至ったのだ」
幼く胸を張る仕草で語る朱華は愛らしくも、語られた言葉は壮絶なものであった。
五行の内、火行は最も矛盾に満ちた神性を有している。
死して生まれ、浄滅し再生する。本来は繋がらない五行を繋げるの要こそが、火行の役目だ。
火行のみが宿す神殺しの権能も又、矛盾の精髄が昇華した証左と云えるだろう。
「ええ。私の引き寄せた末世は、所詮、現象としての紛い物よ。
――けど、そこの男は知っているのかしら?」
「何をだ?」
「神話は大方に調べ尽くしたんでしょう? そこに書かれていたはずよ。
産霊を経た火神は、どの様な末路を辿ったか」
「………………」
褐色の神柱が紅の双眸を眇めるに、返る応えは無かった。
その沈黙が何よりの正解だと、シータが嘲笑を投げる。
「神柱を産む火神の特権は、朱華媛の告げた通りであるのは確かよ。
ただ、他の神性を孕むなんて無茶が、代償も無く赦されるはずもないでしょう」
晶としても、それは最大の懸念の1つであった。
神話に伝えられる神柱を産む過程で、必ず辿る火神の末路。
「神柱を迎える火処は、浄滅の通り道でもある。
新たな神柱を滅ぼさぬためにも、基本的に妾たちは死を求められる」
「では、産霊とはつまり、」
「妾の死である」
「晶くん! 知っていたの!?」
息を呑む輪堂咲の呟きへ、朱華が静かに肯いを見せる。
落ち着き払うその仕草に噛みつく先を失い、咲は晶へと鋭く視線を向けた。
救世の涯。シータが己を犠牲に数多の神柱を産み落としたとある。
少女の詰問に、少年は正直に応えを返した。
「可能性は考えていた」
「どうするの」
末世を遠ざけるために産霊は必須だが、その犠牲が大きすぎる。
云う迄もなく神柱は、国体を守護する最大の理由の1つだ。
己が奉じる朱華を喪うなど、珠門洲の衛士として赦される決断ではない。
だが、咲の剣幕に、晶は静かに頭を振った。
「産霊に神柱の死以外の方法はある。――そうですよね、あかさま」
「くふ。晶はやはり聡明よの」
そうでなければ、理屈に合わない逸話が高天原にある。
含むような童女の肯定に、晶は己の想像が当たった事を確信した。
「……莫迦な。有る筈がないでしょう。
私が救世の贖いに神去りを辿ったように、産霊の結末は絶対と決められているわ」
「幽玄で僻んでばかりの、其方であれば知れぬだろうさ。
火神が産霊を行えば確かに死は免れぬが、それは特権故の代償のようなものだ」
童女の肢体が嫋やかに翻り、ふらりと拍子を刻む。
「――嘗て、国産みの折り、」
沈々と、深々と。伽羅の香りが炎の磐座へと降り積もり、ぱちと扇子の閉じる音にその場の全員の意識が醒めた。
「高天原へ流れ着いた五行を統べる神柱は、龍穴を護るために己が象を別け、自身は土行の神柱として即位した」
それは、嘗て高御座の媛君が辿った高天原勃興の逸話だ。
五行を別けて、己の象を土行のみの神柱と示す。
それは、産霊の根幹を成す、神柱産みと良く似た経緯だ。
朱華の説明の結論を、晶が続ける。
「高御座は五行を別けて土行と成りましたが、死んだ訳ではない。強いて表現するなら、ご自身を編纂したという意味では?」
「その通り。産霊とは本来、神柱と伴侶を結んで、新たな神柱として昇華する儀式の事だ。
火神のそれは、ただ無理に再現しただけに過ぎん」
「――そう。神無の御坐を此処に連れてきたのは、安全に朱華媛の象を別けるためね。
ただ、朱華媛が火行を下りるのは同じだろうけれど、それは良いのかしら」
「残念ながら、見当違いじゃ。救世」
舞う爪先を止め、朱華は嘲るように紅の神柱を睥睨した。
「今回に限って、産霊の代償は不要じゃ。何しろ、材料が目の前に居るからのう」
「……真逆。私の象を別ける心算!?」
「当然であろうが。此処まで騒動を広げたのだ、最低でも救世の象を無害にせねば収まるものも収まらん」
救世が殺せないと高みの見物を決め込んでいたシータの表情が、晶たちの意図で蒼白に染まった。
引き攣る褐色の神柱を、呆れた表情の太源真女が後ろから撃つ。
「どうせ、其方の事だ。ほとぼりが落ち着いた頃を見計らって、再び末世を呼び込むに決まっている」太源真女の総てを見透かすような眼差しに、シータの反論は返らない。
「貴様を解体しないと、潘国は信用を恢復する機会すらも与えられんだろうが」
「潘国については心配ないでしょう。そもそも、ランカー領にある龍穴は、ラーヴァナのものです」
「では、シータの扱いはどうする? 龍穴が得られなければ、ほぼ確実に悪神と成り果てるぞ」
シータの救世は、基本的にシータ自身の神去りで完結する。
その救世が果たせない以上、新たに生まれる神性は現世に留まるしかないのだ。
龍穴を得られないのであれば、嘗てのラーヴァナと同じ客人神の末路を辿ってしまう。
それでは、シータを無害とした処で結局は同じ事だ。
「龍穴の当てはあります」太源真女の危惧をしかし、晶は頭を振って後背を指差した。
「太源真女も、その為に彼を黙認していたんでしょう?」
「――気付いていましたか」
少年が指差す先から、気配もなく苦笑が返る。
さり。灼け乾いた塵芥と砂利を踏み砕く響きと共に、ゆらりと虚空から白皙の青年が進み出た。
エドウィン・モンタギュー。論国の諜報員を名乗るその青年が、帽子を手に軽く会釈する。
ち。気障な仕草に、久我諒太が舌打ちをした。
「戦闘が終了する機会を窺っていただろう。
汽車でも隠形を行使していた辺り、下位精霊じゃない事は確信していたさ」
「隠形? 証拠は残さなかったはずですが」
「残していなかったから、確信したんだよ。汽車の時、お前は食堂車に留まっていたが、俺たちの会話を把握していただろうが。太源真女と謁見した際に漏らしていたから、言い逃れはできないぞ」
「成る程、一本取られましたね。迂闊でした」
鋭く向けられた諒太の詰問に、エドウィンはあっさりと両手を上げた。
余りにも簡単な肯定に、身構えていた諒太も肩透かしに顔を背ける。
「何処が迂闊だよ。どうせ、気付かれる事は予定の内だろうが」
「真逆、真逆。流石は高天原八家の御子息と、我々も感心頻りでしたよ。
――処で、私の目的に何時気付いたのか、後学の為にも教えていただけませんか?」
「気が付いたのは、太源真女との謁見の時だな。
何を隠しているのかはさて置き、目的が神造計画だと云う事は確信できた」
「謁見の流れに違和感はなかったはずですが」
「先ず、自国の海軍を切り捨てて迄、あんたが真国に肩入れする理由は無い。
つまり、あんたの目的は真国じゃない。切り捨てる味方が後生大事に抱えている、何かって事だ」
単純に選択肢を減らし、結果として残った最後の可能性を晶は舌に乗せた。
「論国海軍も、あんた達も、最終的な目的が同じだと仮定するなら、色々と説明が通るからな」
「ええ。神柱を造るなどと宣ったキャベンディッシュの正気を疑いましたが、本国に神柱を戻す熱意は認めていました」
問題だったのは、都合の良い神柱を製造すると云う思考の方である。
都合の良し悪しに関わらず、神柱とは変化しない存在だ。
本質を曲げて妥協するのであれば、抑々、神柱となる前提自体が成立しない。
「真国に肩入れする格好だけみせて論国海軍を潰し、最低でも神造計画の詳細を入手するのが目的だった訳だな」
「裏にシータがいたことは予想外でしたが、神柱を本国に迎えられるなら好都合です。
聞いた限り、龍穴に神が宿りさえすれば問題はないと思いますが?」
「本質的にはそうであるが……」エドウィンの提案に、しかし朱華の表情は優れなかった。
「簡単にはいかんぞ。龍穴に加え、神柱には奉じるものが必要となるからな」
「奉じるものとは?」
「決まっておろう、信仰だ。
民草が真に新たな神柱を受け入れなければ、神柱の支配は成り立たん」
「論国にも、民草は居ますが?」
「それらが信じているのはアリアドネ聖教じゃ。そこに救世の基盤はなかろう。
神柱を龍穴に持ち込むには、最低でも主教を涅槃教へと改宗する必要があろうさ」
主教を切り替える。論国人が何人いるのかはさて置き、何万人と要るそれら総てを改宗するのが難しいのは想像に容易い。
他でもない神柱である朱華の判断に、エドウィンも渋く返答を濁らせた。
「それは、 、不可能では」
「だから、簡単にいかんと云った。妾も最初、潘国が隠している龍穴を宛がえば良いとしか考えていなかったからな」
「――いや。手段はある」
結論が出ないまま場を支配する沈黙に、ふと晶が言葉を挟んだ。
全員の視線が集中する中、エドウィン・モンタギューへと視線を向ける。
「論国海軍の神造計画で、模造とはいえ神器の製造に成功していたよな」
「『王の魔弾』の事ですか?」
論国の青年が首を傾げ、その銘を口にした。パーリジャータを素材に、有り得ない神柱をでっち上げた紛い物の神器の事だ。
「ですが、あれは完全に見た目だけです。幾らシータでもそれ以上は不可能だと、太源真女よりお聞きしていますが」
「ええ、そうよ」青年の言葉に、シータも同意を浮かべた。
「『王の魔弾』は、パーリジャータの外装を偽っただけの神器。神代より続くその偉業の神柱でないと、捧げられた信仰も無駄になるわよ」
「そうはならない。お前から切り離した救世を、咲の持っているパーリジャータに注ぐ。
――エドウィン・モンタギュー。論国の主教は、アリアドネ聖教の習俗派と聞いたが、間違いないな」
「はい。ですが、何をする心算ですか?」
「つまり、論国の神柱を奉じていた元の神話はもう喪われている。
シータは踊り子として、数多の神柱を演じる権能を持っていた。多少、元の神話から離れていても、演じる事が可能なはずだ」
「お前――!!」
晶が何を考えているのか理解して、シータは血相を変えた。
しかし、敗北を認めたその肢体は動かない。
それはある意味で、神殺し以上に屈辱的な判決だ。
同じく理解に至った朱華も、悪戯に笑顔で追従する。
「成る程。こ奴に他の神柱を演じさせる訳か」
「不可能とは云わせない。お前が論国海軍を温存していたのも、ラーヴァナの信仰を奪わなかったのも、現世に留まる為の信仰が必要だったから。
――つまり、論国の神柱として捧げられた信仰でも、少なくともお前だけは自分の信仰にできるって事だ」
そう告げる晶の身体から、朱金の輝きが溢れ出した。
滂沱と渦を描く神気はやがて、朱華の神域を越えて夜闇へ移ろう天を衝く。
それは新生の言祝ぎ。神無の御坐としての真の役目である、産霊を告げる産声であった。
「神代を演じ続けた己の偉業が仇となったな。
切り離された救世の奥で、己の愚かさを省みろ」
「――漸く、ラーヴァナが手に還って、これからと云う時に! 此処で私を喪えば、二度と涅槃は望めないと思え!!」
「そんなもの。最初から存在しない」
嚇怒を吐くシータの舌鋒を、晶の応えが真摯に断ち切る。
息を呑む紅の双眸が、少年の眼差しと冷たく交差した。
救世たる少女と、現世を繋ぎ留める杭の打ち手。本来ならば決して交わることのない志尊の存在たちは、やがて少しだけ距離を開けた。
「理想ってのは、何処まで行っても理想でしかないだろうが。
手を伸ばして理想を掴んだとしても、結局は隣の田圃が青く見えてくる」
朱華の神気に誘われるように、紅の神気が天を衝く渦へと熔けてゆく。
抗うように身動ぐ少女の神柱は、やがて観念したかのように俯いた。
「……私の希った偉業は、総て無駄だったと?」
「そう考えたのが、間違いの始まりだって云ってるんだ。
お前の理想とする来世は、秩序に満ちた穏やかな世界だったな」
「ええ、そうよ。理想じゃない」
「だよな。けど、それは決して訪れない。
――忘れたか? お前は神代の救世で、数多の神柱の象を殺したんだ」
減った象は簡単に恢復しない上、産霊で増えたとしても限界がある。
神代よりも象が減るのなら、当然、涅槃など届くはずもなかった。
「お前の救世は結局、不完全に始まる事を前提にしている。
何度、お前が救世を繰り返しても、理想の来世なんて訪れる事は無い」
「じゃあ、ラーヴァナは、 、」
「気付いていたんだろ。お前の理想は結局、理想のままだと。
だから、潘国をお前から奪還しようとしか考えていなかったんだ」
潘国の主教たる涅槃教さえラーヴァナが奪えば、シータには現世へ干渉する手段が無くなる。
ラーヴァナだけが、最初からシータの理想を否定する事なく、その偉業の結実である現世を護る事に終始したのだ。
「――――、 ――、 、……」
もう、シータから返る応えは無かった。
言葉にならない吐息を漏らし、救世を担う神柱は朱金の柱へと去る。
最後の紅の輝きが一条。シータの持っていたパーリジャータへと、絡みつくように消えた。
「エドウィン。これを論国の龍穴に差し込めば、新たな神柱として再臨するはずだ」
「感謝します、天子どの」
「……やっぱり、情報を掴んでんじゃないか。
シータと救世は切り離したが、基本的にそれだけだ。新たな神柱を粗雑に扱えば、何れシータが戻るぞ」
「肝に銘じます」
晶から投げられた純白の杭を受け取り、にこやかにエドウィンが応じる。
踵を返して遠ざかる青年を見送り、晶はその場に座り込んだ。
焦げて割れた石畳に腰を下ろす晶を、教導だった少女が覗き込む。
「これで、終わり?」
「少なくとも、シータとラーヴァナの因縁は仕舞いだな。
そのみと合流したら、さっさと高天原に帰ろう」
「そう云えば、帰りの船はどうするの? 同行の当主は、青道にも居ないんだよね」
頬杖を突いてぼやく咲の隣で、少年は途方に暮れた呟きを漏らした。
「さあ。……」
咲の疑問を実の処、晶も一切考えていなかった。
少年の心情を見透かしたように、春俟ちの夜風が桂林の山河を渡って行く。
期待する少女から視線を逸らし、晶はただ、天に架かる満天の星々を見上げた。
「――どうしようか?」
――統紀4000年。真国、芳雨省。
晶と咲の旅は、啓蟄を越えた異国の地で漸く、決着を迎えた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
残り、閑話を1つ入れて、今章は締めとなります。
今後ともよろしくお願いいたします。
安田のら





