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泡沫に神は微睡む  作者: 安田 のら
五章 濫海浄罪篇
220/222

終 紅が暮れゆく後、夜の蒼黒を仰ぎ1

「――雲雀殺し」


 黒曜の刺突が、シータの真芯を捉えて奔り貫けた。

 透徹と輝く夜の気配が、神柱の鳩尾から背へと灼熱の尾を曳く。


 灼け熔けた大地が傷痕を曝し、遅れて遠く大気の割れる音が響いた。


「―――― 、」


 少女の容をした神柱から、悲鳴らしいものは上がらない。

 莫大な衝撃が一点で貫いたのが幸いしてか、吹き飛ぶことすらもなかった。


「わた、くしを、 、貫いたわね、 、下衆」


 蹌踉(よろ)めこうとする足元をただ大地に踏みつけ、紅の眼差しを憤怒で染める。

 自身の至近に立つ夜劔晶を斬り潰そうと拳を振り上げ、

 ――漸く、気付いた。


「、 、パーリジャータが」


 握り締める己の神器から、反応が返らない。

 沈黙するだけとなったパーリジャータを見上げるシータの懐深くで、刺突の姿勢のまま俯く晶が漸く動いた。


 鍛え抜かれた少年の腕が隆起し、渾身でシータの胴から黒の切っ先を引き抜く。

 その瞬間、灼熱の尾を曳いていた水気は渦となって、刹那に少年の所作に倣った。


 シータの背から晶の手元へ、玄に凝る水気の刀身へと還る。

 空間を占有していた莫大な熱量が瞬時に喪われ、代わりに世界を白が満たした。


 ――何処か遠く。春俟ちの小鳥に似た囀りだけが、総ての過ぎた跡に響いた。


 引き抜いた短い刃が、刀身の半ばまでを喪って儚く散った。

 黒曜の輝きを宿したそれは、九蓋瀑布(くがいばくふ)の齎す神域解放である。那由多の概念を刹那にまで凝縮した、矛盾の体現とも云われる有り得ない刃だ。


 ――それが壊れる。

 星辰から現世を護る那由多の概念を越えて漸く、雲雀殺しは微風に散りと紛れて去った。


 雲雀殺しは、編み出した晶をして未だに理解の出来ない精霊技(せいれいぎ)である。

 術理そのものは単純。己の裡に満たされた水気を総て統御し、限界まで加速させて相手へと叩き込むだけだ。


 加速が限界を突破すると、重厚(おも)かった水気はやがて火気の如き軽やかな振る舞いを見せるようになる。

 臨界を越えて尚、加速。それを、渦巻く螺旋の刺突として、解放する精霊技(せいれいぎ)。それが雲雀殺しの術理であった。


 臨界を越えた水気は、斬って薙ぐは疎か、防御の姿勢すら取れない。

 ただ、刺突いて残心へ戻す姿勢だけが、雲雀殺しに赦された唯一の構えであった。


 雲雀殺しの威力は恐らく、現存するあらゆる精霊技(せいれいぎ)を凌駕し得る。

 その上でそれは、朱華(はねず)落陽柘榴(神柱殺し)と違い、神柱の象までも斬り飛ばさない特性を有していた。


 シータを斃さねばならない。だけど救世は殺せない。晶たちを縛り付けていた最後の枷を覆す、雲雀殺しはその最後の一手であった。


 ♢


 軽く音を立てて、シータは力なく膝を衝いた。

 そのまま少女の肢体は、崩れるように地へ仰向けとなる。

 その脇へと油断なく一歩、空かさず晶は間合いを詰めた。


 じゃり。晶の足元で、黒く滑らかな小石が脆く砂に変わる。

 サリサリと砂利を踏み躙る少年を、仰向けのままシータも睨み返した。


 その視界に、距離を置いていた少年少女たちの集結する光景。逃げ場すらない事を悟った神柱の唇が、皮肉な微笑を削り出す。


「ふ、ふふ。敗けたわ。ええ。完敗よ、神無(かんな)御坐(みくら)

 ――それで?」

「訊きたいことがある」

「……でしょうね」


 神柱の問いかけに対し、晶は眦を眇めた。


 敗北を認めて尚、シータの眼差しに揺らぎはない。

 最終的な勝利を確信したシータの真意が、晶の最期の疑問でもあった。


「お前が、咲と契約を交わした真意は何だ?」

「ラーヴァナを取り返すためよ」

「それだけなら、咲を神霊(みたま)遣いにする必要は無かったはずだ。

 遊び心にしても手間が掛り過ぎている、咲の本当の役目があるだろう」


 少年の隣へ咲が肩を並べる光景に吐息を1つ、シータは後頭部を大地に預けた。

 想像はついているんでしょう? 苦笑じみた応えに、晶は首肯を返す。


「九法宝典だろ。あれに何か関係しているだろう、とは思っている」

「ええ。九法宝典は、ただ単にラーヴァナの祝福を書き連ねたものでは無いわ。

 10在る教えは、その総てを修める事で人は完全な祝福を得る事ができるの」


 それは確信に近い、晶の確認だった。


 咲との契約に際し、シータが固執した条件。一つは九法宝典をランカー領に戻す事だが、隠れた真意がもう一つ。

 ――咲自身に九法宝典を龍穴へ持ち込むよう求めた点だ。


 普通の条件だろうと思うが、よくよくに考えればこれは変だと判るだろう。

 ランカー領に戻すだけなら、咲が居なくとも成立するはずだからだ。


 政治的な側面を考慮しなければ、寧ろ人海戦術の方が効率的ですらある。

 運ぶのは物資ではなく神器が1つ。囮を大量に派遣し、そのうちの一人として本命がランカー領に辿り着けば良いのだから。


第一宝典(アートマン)から第十宝典(アハンカーラ)まで、どれ一つと欠けても、ラーヴァナの願ったただ(・・)人の真理には至れない。

 神代に()ける私の失敗は、何よりもラーヴァナの偉業を完全な容で達する事ができなかった事よ」

「けど、九法宝典の神域解放は割れる事でしか達成できなかった。

 結局、残った能面は、隠された最後の10枚目だけか」

「本当に困ったわよ。九法宝典は欲しいけれど、10枚総てを還せるのはラーヴァナだけ。

 だから私は、代替案を行使する事に決めた」

「それが咲か」


 晶の呟きに苦笑じみて、シータは肯定の代わりに天を仰いだ。

 死闘をどこ吹く風とばかりに、穏やかな青の高みで一羽の渡り鳥の遊弋(ゆうよく)する姿。


人間の本質(アハンカーラ)は神域解放の要だけど、それだけで偉業は望めない。

 けど、雛型があれば? 最低でも、宝典の欠損を穴埋めする事が可能になるわ」

「咲の役目は、九法宝典の雛型か」


 晶の確認に、肩を並べた咲はこっそりと袖を引く。

 自分の事と辛うじて判るが、晶と神柱が交わす会話の要点が掴めなかったからだ。


「……さっぱり、意味が分からないんだけど」

「要は10の答えが欲しいけど、咲の持っている能面だけだと1しか返らないって事だ。

 能面を後9枚分、咲で代替して穴埋めする必要があったって事だな」


 それが咲の役割だと、晶の呟きに咲は首を傾げた。

 どうにも、手間暇掛けてまで準備するような、重要そうな役割には聞こえない。


「それくらい、手伝っても善かったと思うけど」

「雛型って云っても、要は生贄って事だぞ、それ」

「ウソ!?」

「本当だ。苗床って漏らしていただろ、此奴」


 雛型と云う台詞に隠れた残酷な事実に、咲は頬を引き攣らせた。

 跳ね返る晶の断言に周囲を見渡すが、否定してくれる相手もいない。


「そう云う事だ。呪符を書くためには状況に合わせる必要があるけど、それを固定しなければならなくなったようなものだな。

 ほぼ確実に破綻するし、仮令(たとえ)、成功しても粗悪な咲の模倣ができるだけだろうさ」

「ぅえ」


 無数の自分自身が目の前にいる状況を想像し、咲は嫌悪から声を漏らした。

 だが、考えてみれば当然か。土台がない以上、雛型で穴埋めするのは合理的な思考だが、9枚総てそれで代用すれば、9割分の咲しか生まれないのは結論としても妥当である。


「お前の協力者にその役目を命じなかったのか?

 ここまで付き合ってくれたんだ。忠誠心は疑っていないはずだが」

「勿論。ハリエットは最初の候補者よ。けど、あの娘は野心が強すぎた。救世を果たせたとしても、あれでは早晩に自分の渇愛で潰れてしまったでしょうね。

 ――ハリエットの器は、私を支える神子の家系に充てるだけで精々だったわ」

「ああ。お前の理想には不適格だった訳か」


 晶の言葉に、シータは肯いだけを返した。

 その点からすると、咲の器はシータからしても理想に近かった。


 上位精霊を宿した平均的な器。その上で、神柱の眼鏡に適うほど真っ直ぐな性格をしている。

 仮令(たとえ)、図られた結果だとしても、彼女をただ(・・)人の雛型として選ばない理由は無かった。


 薄く視線を巡らせて、シータは己の掌中に握られた鉈を眺めた。


 パーリジャータであった刃は、依然と沈黙を守ったまま。

 ――それが、意味する理由は一つ。


「……ハリエットは死んだのね」

「侵攻するはずの論国(ロンダリア)海軍と一緒なら、そうだろうな」


 感情の伴わない少年の同意に、諦めの吐息が漏れた。


 28本14対のパーリジャータは、入り口と出口が明確に別けられている。

 入り口は入る事しか出来ず、出口も又、然りだ。


 ラーヴァナの持つ鉈は出口であり、対となる入り口こそ、ハリエットの王の魔弾であった。

 ()る権能を()る権能と装い、銃の神器を造り上げる。

 出来たのは神器に程遠い紛い物であったが、それでも論国(ロンダリア)海軍は良く踊ってくれた。


 ――可哀想な娘。幼くして戦場に放り込まれて、歪みながらも私を信奉してくれた。

 その涯が無為な死だと知っても、彼女は付いてきてくれただろうか。


 吐息を振り切ったシータは、灼熱の輝きを双眸に蘇らせて晶へと視線を返した。


「この仕儀を、どう決着つける心算(つもり)かしら。――神無(かんな)御坐(みくら)殿?」

「決着はもう、晶の勝ちで着いたでしょ」

「この救世はね、咲。――でも、それじゃ済まないのが、現世というものでしょう?」


 怪訝と返す己との誓約者へ、シータの憐憫が向かう。

 恐らくだが、この場に居合わせているものは全員。それこそ、晶を除いて誰一人として、救世の本質を理解していない。


「救世は現世を維持するための、云わば安全装置。これを壊す事は、何れ訪れる末世に対する守護を己自身で破棄する事に斉しいわ。

 ――それに、」


 だから晶も、シータを神柱殺しで斬り臥せることだけは避けた。

 どれだけ敵対していたとしても、次の世界を喪う理由にはならないからだ。


「救世は、必ず訪れる。今私を止めたとしても、救世が果たせず終わった事実は消えない。

 私が現象として救世を引き起こした以上、遠くない内に乳海はまた発生するでしょうね」

「――それは、救世が結実するまで止まらない?」

「ええ」


 念を押す晶の言葉に、間髪入れずシータは肯定を返す。

 偽れない神柱の宣下。それは単純な、事実の示唆であった。


太源真女(タイユェンジェンニュ)も当初こそ、私を末世まで封じる算段でいたんでしょうね。己の不利には気付いていたのでしょうけど」

「――当然であろう。其方が南方塞外家を陥落した際に、その狙いは予想しておったわ」


 何時の間に黎隠山(リーインシャン)から麓へ降りたのか。未だ霜の掛かる向こうから、太源真女(タイユェンジェンニュ)の歩く姿が視界に入る。


「気付いていたの」

「当たり前であろうが。南方塞外主に与る号は維雅(ヴィダーリヤ)

 王統を意味する真言の号はつまり、其方の息が掛かった一派だと云う事だ」


 黒髪を微風に泳がせ、太源真女(タイユェンジェンニュ)が勝ち誇る声が響いた。


「――生意気な、蛇女め」


「ああ、心地良いなその悪態。朕の決めた中原の罠を、其方も気付いていたのだろう」

 お互い様である。そう(わら)い、少女の容をした神柱は腰に手を当てた。

「ここ最近の論国(ロンダリア)の動きを見て、向こうに貴様の息が掛かった連中が潜んでいる事も確信していた。真逆、あそこまで少数だとも思いはしなかったがな」

「子等は勝手に思考する。……南方塞外家も結局、日和見で動こうとしなかったから、郎党諸共を切り捨てたけど」

「勝手に思考するから、愛おしいのではないか。

 それが判らないから、其方は世の狭間に取り残される羽目になったのだ」


 相容れないのだろう。神柱はお互いに、鼻を鳴らして視線を背ける。

 そのままシータの視線が、晶の眼差しを捉えた。


「お前の狙いも、私の封印かしら?」

「封印はしない。お前を殺しもしない。俺がするのは、救世、そのものだ」

「敗北した私が、気持ちよくお前に協力をするとでも」

「いいや?」


 せせら(わら)うシータへと、晶は穏やかに言葉を紡ぐ。


神無(かんな)御坐(みくら)が存在する理由。この為に、玄麗(げんれい)の神気をほぼ空になるまで落とし込んだんだ」

「どう云う意味かしら?」

「お前の神器なのに、もう忘れたのか?

 ――咲」

「ええ」


 漸く回ってきた本当の役目に、咲は軽く晶へ首肯を返した。

 茜に色づき始めた陽の傾きへ、その腕を(ひるがえ)す。


(みちび)け」

 心奧で触れる純白の柄を、少女は一気に抜刀した。

「――乳海を導く棘(パーリジャータ)!!」


 太陽の熱すらも跳ね返す白の薙刀が、咲の所作に従って踊る。

 剣舞は刹那に。咲は舞うように、旋風を刻む切っ先を地面へ衝き立てた。


「干渉不可能な龍脈を結ぶお前の神器は、入る権能と出る権能が確実に別けられている。

 咲の持つパーリジャータは出る権能。――なら、その入り口は何処に在ると?」

「お前。最初から、私が与えた神器を逆手に取る心算(つもり)だったのね」


 晶の言葉に、漸くシータも己の神器の所在を理解する。

 ラーヴァナが高天原(たかまがはら)へ持ち込んだパーリジャータは2本。咲が行使しているのは、高天原(たかまがはら)の風穴を陥落させるためのものだったはずだ。


 ――なら、その対となる片方は、元々、何処と繋がっていた?


九蓋瀑布(くがいばくふ)で、神気の当てを誤魔化したのはこの為だ。

 ――玄麗(げんれい)が云っていただろう、お前に用がある方が居ると」


 地面を衝く純白の切っ先から、傲然と炎が溢れた。

 何よりも鮮やかな朱金(あけこがね)の輝きが、その場に立つ誰しもの視線を浚う。


 渦を撒いた炎が弧を刻み、周囲の廃墟さえも塗り替えて炎の磐座を映し出した。

 それは、半年前。鴨津(おうつ)源南寺(げんなじ)で、波国(ヴァンスイール)の神子が遠く神柱を願った手法そのもの。


 茜の空に手を翳し、ただ(・・)人の頂点は炎の先に(いま)す鳳の神柱を希った。


 ――それは南天の守護鳥。日輪を遊弋(ゆうよく)する絢爛(けんらん)なる図南。

 ――瑞雲に(いま)す、万窮(ばんきゅう)の主。


「願い奉るは、奉天(ほうてん)芳繻(ほうしゅ)大権現(だいごんげん)泡沫(うたかた)に舞い給え、鳳翼(ほうよく)夏穏(かおん)朱華媛(はねずひめ)!」

「――千秋楽も冷える頃に呼ばうとは、晶も随分と神柱(おんな)を扱うに慣れたよな」


 重畳、重畳と。晶が吟じる祝詞の果てに、童女の弾む声が響いた。

 ふわりと漆塗りの(くつ)が拍子を刻み、絢爛(けんらん)と単衣が(ひるがえ)る。


朱華媛(はねずひめ)!!」

「やはり、裏に潜んでいた真打ちは其方であったか、救世」


 晶の首元へ嫋やかに、童女の腕が抱きついた。

 青に染まる少年の眼差しを横目で見上げ、金髪碧眼の童女の神柱が悪戯に双眸を眇める。


「ラーヴァナと云い、其方と云い。そろそろ、其方たちとの因縁も終幕を降ろすべきであろうさ」

「だから? 救世は私の象よ。壊すだけが能の火行(朱華媛)にできるものではないわ」

「然り。確かに救世はできぬわ。――が、独身(ひとりみ)が過ぎて忘れたようよな?

 神代に()いて、火処(ほと)は火神の特権であるぞ」

「何?」


 法悦と。童女の神柱はこれ見よがしに、晶の首筋に口元を埋めて見せた。

 此処(ここ)まで我慢して、神域を貸し与えてまで玄麗(げんれい)に譲ったのだ。


産霊(むすび)である。そろそろ其方も、身を落ち着かせる時であろう」


 ここから先は己のものだと。炎の如く金の髪に焔を踊らせ、童女の神柱は高らかに笑った。


 

 今章も、残る処一話のみ。

 後少しお付き合いください。


 連絡です。


 ここで申し訳ございませんが、来週の更新はお休みをいただきます。

 東京へ行ってきます。楽しみです。


 ♢


 読んでいただきありがとうございます。

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