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泡沫に神は微睡む  作者: 安田 のら
五章 濫海浄罪篇
218/222

16話 乳海を穿つは、人の願いを天に焚べ2

 天空高く、悠々と海燕(ハイイェン)遊弋(ゆうよく)する影。

 頬に飛沫く潮を拭い、ハリエット・ホイットモアは前方へと意識を戻した。


 重厚(おも)く蒸気機関は猛り、加速する度に舳先で白く波が砕ける。

 尾を曳く黒煙を背に、ハリエットは幾隻も並走する自軍の揚陸邸の様子を窺った。


 論国(ロンダリア)海軍から引き出せた地上戦闘員は凡そ160。余りにも頼りない頭数だが、表向きはキャベンディッシュの補佐でしかないハリエットの進言ではこれが限界であろう。


 ――せめて、200は用意しておきたかったけど。

 そう、内心だけで歯噛みを残し、前方へ視線を向けた。


 誰にも悟られないよう、呼気を整えて心奧へと意識を伸ばす。

 軽く指先に返る、現実には存在しないはずの銃把の感触。それだけを頼りに、ハリエットは状況への不安を圧し殺した。


 ♢


 ハリエット・ホイットモアは、論国(ロンダリア)南部に在る港町(ブラックミア)で生を享けた。


 小さな漁港しか持たないブラックミアだが、安全な汽水域から漁に出られる事もあってか、漁師は賑わっている小さな町であった。

 狭いだけの寒村を支配していた現実は、たったの2つ。社会は勝者(high)敗者(low)で出来ていて、ブラックミアは変わる事ない負け犬である、という現実。


 獲れた魚は安価(やす)く、しかも売り上げの半分以上が税金として消えてゆく。得られた僅かな儲けも、固焼きの黒パンと酸味のきついエールの代金に変わる始末だ。

 貯蓄など云うに及ばず、日々の愚痴をエールに求めて、叉、漁に出る毎日。


 ハリエットの不幸は、平民でありながら上位精霊を宿した事だろうか。それとも、それを扱うだけの才覚を持ってしまった事だろうか。

 否。それ以上に、この鉄の時代に生まれてしまった事が最大の不幸だろう。


 神柱を喪って久しい論国(ロンダリア)では、貴族と、その階級を保証する精霊位階の凋落が激しい。

 衰退する貴族社会からすると、平民でありながら上位精霊を宿すハリエットは無視できない敗者の異分子と視えたのだろう。


 ハリエットが適正年齢に達したと見るや否や、ブラックミアを治める領主は、彼女を軍人として潘国(バラトゥシュ)の戦線へと投げ込んだのだ。


 激化の一途を辿り、終わりの見えない潘国(バラトゥシュ)内戦の最中、感情をすり減らした涯に彼女はシータと邂逅を果たした。

 夢に(わた)る狭間。ハリエットの心の底を見透かす、涙に濡れた赤い眼差しだけを覚えている。


 ――約束よ、ハリエット。貴女が救世を求める限り、その暁に貴女の望む涅槃をあげる。


 孤独を押し付けられた少女が出会ったのは、眷属も現世も切り捨てた敵の神柱であった。


 ♢


 遠く、沿岸を越えた芳雨省の省都、暮江鎮(ムージャチン)の方向へと視線を向ける。

 視界の向こうで落ちる空が、斜陽の茜を夜の深さに進めたように見えた。


 芳雨省は東巴大陸沿岸近くに位置していると云っても、現実にはそれなりの距離がある。


 地図からの概算では、暮江鎮(ムージャチン)から沿岸まで約5里数余町(20キロメートル)。それだけの距離を開けて、尚、地平に隠れず視える空が落ちる光景。


 ――あれが、救世なのか?


 内心でそう呟き、ハリエットは眼差しを眇めた。


 ハリエットは、救世の詳細を殆ど知らない。

 本来の救世とは、乳海と呼ばれる瘴気の波濤で龍脈を穢す神殺しの偉業である。――その事実だけが、ハリエットの知る真実であった。


 乳海の導く腐敗の渦は、正者を選ばず死に貶める。ハリエット・ホイットモアの役目は、仮初の信者と見立てた論国(ロンダリア)海軍を安全に救世の中心地へと導く事である。


 神柱が現世に必要とする、龍穴と信仰。龍穴を持たないシータが現世に在るには、少なくとも信仰が必要であるからだ。


 仮初であっても信者は信者。論国(ロンダリア)海軍による乳海への巡礼行は、新たな神話の樹立と共にシータの顕現(けんげん)に今少しの猶予を与える予定であった。


「身分を示すものは外しておけ」

「……ですが少尉。戦時条約では、 、」


 ハリエットの指示に、上陸部隊を率いる部隊長が意見を向ける。

 状況を理解していないその具申を、ハリエットは鼻で(わら)ってみせた。


「東巴の野蛮人共が戦時条約をご丁寧に護ってくださると? 随分と御目出度い脳味噌をしているな、貴様」

「それほどでもありません」


 ハリエットからの侮蔑に、部隊長は己の徽章を破り捨ててみせる。

 その仕草に従う部隊員たちにも、それで良いとハリエットは首肯を返した。


「総員、傾聴。我々はこれから、芳雨省の省都を掌握する。

 ――だが建前とはいえ、真国(ツォンマ)論国(ロンダリア)と停戦協定を結んだ関係。論国(ロンダリア)海軍が率先してこれを行うのは、色々と不都合があるだろう」

「我々は飽く迄も、不正規の部隊と云う事ですか?」


 その通り。部隊長からの確認にハリエットも同意する。

 暗に非道を為すと云ったにも等しいハリエットの宣言だったが、周囲の兵士から反駁の声が上がることはなかった。


 条約を結んだ論国(ロンダリア)が、謎の戦力に侵攻された相手国へと人道的見地から介入。然る後に、論国(ロンダリア)の平民以下である劣等的文明を、植民地とする事で慈悲的に支配してやる。

 それは、潘国(バラトゥシュ)や新大陸でも行使してきた、論国(ロンダリア)の基調路線だ。


 ハリエット麾下のこの部隊も、この路線を踏襲するのは初めてではない。

 動揺一つなく従う部隊員たちを一瞥して、彼女は満足そうに頷いた。


暮江鎮(ムージャチン)と云ったか? 我々が芳雨省の省都を鎮圧した後、キャベンディッシュ大佐がそれを追う名目で進軍を開始する」

「沿岸に陣を構えている敵性戦力は?」

「突破が第一目標だが、出来るだけ減らせ。その為のものも持ってきただろう」

「承知しました」


 ハリエットの言葉に薄く(わら)い、部隊長は脇に設えられた布を見下ろした。


 防水の白い布に覆われた腰ほどの高さのそれは、既知の戦闘教義に対する革新でもある。


 ふわりと潮風に泳ぎ、布の隙間から輪に連なる銃身が覗く。

 この兵器が投入されて以降、潘国(バラトゥシュ)の抵抗勢力が一掃された事実は、ハリエットたちの記憶にも新しかった。


 ――回転式多連装砲。

 毎分200発の銃弾が生み出す圧倒的な制圧力を前に、時代遅れの精霊遣いなど無力でしかない。

 貴重な兵器の複数投入は、キャベンディッシュたち復権派の期待の表れだ。


 頼もしくもその威容をハリエットは見下ろし、


「接岸後、第一掃射。丁寧に挽き肉に変えてやるぞ」

「はっ」


「――やっぱり。此方に持ち出していましたか」


 第三者の言葉に続く舌の根を凍らせた。


 しんと息が潜み、揚陸艇の船内に沈黙が降る。波を蹴立てていた舳先が止まり、やがて海は静けさを思い出した。


「どうして止めたっ」

「止めていません。炉が勝手にっ!??」


「無駄ですよ。蒸気機関を支えるのは、結局のところ熱量(火行)に過ぎません。

 水行たる私を前にして、維持できるものではないでしょう」


 部下との声を潜めた遣り取りに、再び割り込む流麗な(クイーンズ)論国語(ロンガー)。混乱する部下を放置して、ハリエットは船外へと乗り出した。

 その視線の先。海面の上には何時の間にか、見知らぬ少女の佇む姿が。


 潮の騒ぐ波間にみえる藍染の羽織は、特徴的に高天原(たかまがはら)の出自である事をハリエットに伝えてきた。

 波の上に立つ。その異常よりも何よりも、警戒からハリエットは誰何(すいか)を投げた。


「何者か」

「それを問うのも、お互い様でしょう。論国(ロンダリア)海軍の復権派の方々」

「さてな。……高天原(たかまがはら)のものだな」

「さあ?」


 疑問に疑問で返す応酬。早々に相手の意図を宣言させる努力を諦め、ハンドサインで部下に指示を出す。

 首肯で応じる部隊長を横目に、ハリエットは相手の意識を逸らすべく口を開いた。


 現状、時間が無いのはハリエットの方である。のらりくらりと時間を潰される位なら、速攻の方が効果的なはずであった。


「こちらは軍事行動下である。外洋の向こうに在る高天原(たかまがはら)に、これを遅滞させる権利はないはずだ」

「軍事行動じゃないですよね。所属を示す徽章も、野戦の軍服も着ていませんもの。

 軍事条約に違反しているのでは?」

「所属を明らかにしない限り、貴様も同じ身分だが」

「はい。御心配なさらずとも、能く承知しております。(ならず者)は冦同士、舞台裏で消えるが道理でしょうから。ええと、ハリエット・ホイットモア少尉」


 目的はお見通しだと云わんばかりの向こうの台詞に、ハリエットは舌打ちを堪える。


「知っているなら、私の自己紹介は不要だな。――そちらの名前を聴こう」

同行(どうぎょう)そのみ(・・・)と申します。姓名は高天原(たかまがはら)に準じていますので、悪しからず」


 同行(どうぎょう)。少女から聞こえたその響きに、東巴大陸へと出征する際に叩き込まれた記憶が無視の出来ない警告を放った。


 高天原(たかまがはら)に立つと云う、高天原(たかまがはら)八家の第八位。同行(どうぎょう)家は序列こそ低いが、決して軽んじられる相手ではない。

 たった1つのその小さな氏族は、高天原(たかまがはら)の持つ唯一の対海戦力だ。


「撃て!」


 ハリエットの短い号声に、部下が長銃の引き金を引く。軽い炸裂音と同時に、少女の姿が霞んで消えた。


「や、 、」「――上空だ、馬鹿者!!」


 手応えを返す部下の声を、ハリエットの警告が掻き消す。

 見上げる先で、虚空を踊るそのみ(・・・)の姿が視界に映った。


 抜刀する太刀の切っ先から迸る精霊光が、一層に強く尾を曳いて斬道を刻む。

 義王院流(ぎおういんりゅう)精霊技(せいれいぎ)連技(つらねわざ)――。


玄襲(くろがさね)」「――舐めるなァッ」


 冷酷たく墜ちる少女の宣言に、敢然とハリエットの迎撃が重なる。

 振り抜いた(サーブル)と太刀が激突し、ハリエットの足元で船の床が割れ砕けた。


 鬩ぎ合う女性たちの煽りを受けて、先頭の揚陸艇がくの字に拉げる。

 その瞬間、3隻ある揚陸艇の1つが、大きな水柱と共に海の底へと呑まれて消えた。


 ♢


 巨大な水柱が沿岸に向かっていた揚陸艇を呑み込んだ様は、キャベンディッシュの立つ艦橋からも良く視えた。

 沈む寸前に見えた精霊光は、ハリエットの身体強化のものだろう。


「少尉がやられたか。

 ……残りの部隊を総て出せ」

(はばか)りながら、大佐。状況が全く掴めない以上、後詰に残した戦力を放出するのは、推奨しかねます」


 キャベンディッシュが短く告げた台詞に、空かさずハリエットの代理を務める腹心が意見具申を上げた。


 抑々、後詰に割り当てられている役目は、補給路の確立と戦線の維持である。

 戦闘教義に()いて後詰を実践力として前線投入するのは、戦力が崩壊した段階。この判断を下した時点。キャベンディッシュは世に見る愚将と宣言したにも等しいのだ。


「ではどうしろと? 本国(論国)に居る復権派の老害共は、利権漁りにしか興味が無い。救世とか抜かす潘国(バラトゥシュ)の神柱も、こちらが要求通りに成功しなければ契約を切り捨てるだろう」

「復権派に追従する以上、進むしか途はないと云う事ですか」

「そうだ。信顕天教の神器を返還させ、奴等の風穴を潰して神柱を造る下地にする。神造計画は、論国(ロンダリア)千年の栄光を盤石のものとする乾坤一擲の策だ」

「……正直、信じられない計画です。神柱を造るなど、 、波国(ヴァンスイール)から異端の烙印を押されかねませんが」

「もう、破門されている。これ以上悪くもならん」

「は」


 踵をかえすキャベンディッシュの後を、腹心は追従する。

 甲板に出ると、肌に凍てつく潮風が荒く2人を出迎えた。


「次は私も征る。揚陸艇を準備しろ」

「危険です、大佐。最低限、沿岸の安全を確保してからでも」


「――はは」


 走り回る水兵たちに指示を飛ばす間を縫い、キャベンディッシュの決意が響く。

 制止しようとした部下の耳に、低く嘲笑する声が響いた。


 腰に提げた短銃に手を掛け、キャベンディッシュと共に振り向く。


 その視線の先で、白面を付けた男の佇む姿。

 長髪に袖の長い袍。長髪と面に遮られ、その感情を窺う事はできなかった。


 その右腕の半ばから頼りなく袖だけが揺れて、布の中身が無い事を示す。


「……何者だ」

「何者とは寂しいな、キャベンディッシュ大佐。

 清算したと云え、付き合いの長い同士。1ヶ月も経たないうちに忘れられるとは、寂しい限りだよ」


 嘲る声には、確かに聞き覚えがある。だが、殺したと思い込んでいた相手の生存は、少なからず驚愕をキャベンディッシュに与えた。


「貴様、 、」「撃て!!」


 吃驚と反応が遅れた上司に代わり、腹心が銃を構える部下に指示を放つ。

 乾いた銃声に、男の着けていた仮面が虚空にくるりと踊った。


「大佐、撤退を、――がっ!?」


 上司の楯となるべく、前に出た腹心が(おとがい)を逸らす。

 茫然(ぼうぜん)と歯噛みするキャベンディッシュの眼前で、腹心だったものの額からナイフに似た刃物がずるりと引き抜かれた。


 焦躁に駆られるまま、漸く腰から銃を引き抜く。


 僅かに視線を逸らしたその瞬間、相手の仮面が青白く燃え尽き、茫漠と燻煙が広がった。

 視界が白く染まり、銃火が閃く度に部下の呻きが増えてゆく。


「どうした、大佐殿? 戦いも部下の死も初めてじゃないだろう。

 それとも、死んだ者との戦いは初めてだったか?」

「黙れ!」


 嘲る声へ怒鳴り返し、銃口を上げる。

 視えない煙の向こうに遮られ、舌打ちしながらキャベンディッシュは後退りした。




 ――名前。名前は何と云ったか。

 元々から、そんなに興味もない存在の1つ。役目も終わって切り捨てた相手の名前など、思考に置く価値も無い。


 キャベンディッシュはそう、本気で考えていた。


 憶えているのは、幽嶄魔教とかいう小汚い集団の、上層だったかと云う事だけ。


「キャベンディッシュ。――洞主の末期を覚えているか」

「な、に?」


 右の耳元へ、囁くように男の声が届く。

 息を呑んだ論国(ロンダリア)軍人が右腕を大きく振り払い、(ろく)に狙いも定めないまま銃を撃った。


 燻煙を貫く弾道のすぐ下で、素顔を曝した男が左掌を掲げて見せる。

 その指の間に挟まれた呪符が数枚、溢れんばかりの精霊力を湛えて鋭く立つ。


 その姿に、皺枯れた老躯の唇の動きが、記憶で重なった。


「毒蛇の毒は――、」

 放たれた斬撃の呪符が虚空を裂き、キャベンディッシュの胴体を断ち貫く。

「死んで尚、お前を狙う」


 ――そうだ、思い出した。


「李、 、」


 薄れゆく意識の中、キャベンディッシュは、血煙の向こうで李昊然が立ち上がる姿が見えた気がした。


決戦の舞台裏。

最後まで、閑話とするか悩みました。


読んでいただきありがとうございます。

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