16話 乳海を穿つは、人の願いを天に焚べ1
――何れ至る末世に於いて、来世を繋げる。
救世の本質を知るものは、現世に於いて殆ど存在しない。
何故、踊り子でしかなかった神柱がその偉業を果たし、現世に遺ろうともしないのか。
その理由が晶たちの眼前で、醜悪に正体を曝していた。
「太源真女が素直に首を差し出せば、こんな方法を採らずに済んだのだけど」
本当よ。そう嗤う声が、潮騒に似た囁きの中を支配する。
「世界を掻き混ぜる瘴気の濁流。其は乳海を呼ぶ。
パーリジャータの本来の目的は、腐り堕ちる霊気の海を現世に映し出すもの」
ちゃぷ。赤黒い輝きが想像よりも優しく波音を囁き、空間ごと腐り始めていった。
「瘴気の、津波だと!?」
「冗談じゃねぇぞ。この勢い、未だ拡がるってのか!」
夜劔晶と久我諒太。2人は肩を揃えて、瘴気の踊る瀬際から距離を取る。
その後を追うように、容だけ優しく取り繕った少女の肢体が、波間の向こうからゆらりと足を踏み出した。
「神殺しの偉業に至る、条件はたった1つだけ」右掌の指が緩く輪を結び、思わし気に神柱の頬へ添った。
「神柱足らしめる由縁である不壊を越えれば良い。要は、壊せぬものを壊し得る矛盾を果たせば、神殺しの権能として昇華されるの」
救世の踊り子が告げる言葉に、晶は斜陽に染まる天を見上げた。
瘴気を越えて視界に映る夕暮れの色づきが、僅かに深く透き徹り始めている。
ただその事実に視線を眇め、肺腑に蟠る呼気を吐いた。
五行の神柱に限り神域を降ろせる九蓋瀑布の権能だが、制限も当然に存在する。
日の移ろいに伴う時間制限など、特に目立つ欠点の1つだ。
シータに悟られる訳にはいかない。救世を赦してしまった以上、時間は常に向こうを味方する。
時間稼ぎに徹されたら、間違いなく晶たちの敗北に直結する。
「……空を見上げたわね」
「さあな」
見咎めたシータに、減らず口だけを返す。
睨み合う晶と神柱の間合いに、知らず緊張が張り詰めた。
「夜素馨の根で龍脈を殺し、龍穴を瘴気に沈める。龍脈を絶たれれば、龍穴に宿る神柱がどうなるか。火を見るよりも明らかでしょう?」
「……」
龍脈を流れる霊気は、神柱にとっての生命線である。これを霊質として、神柱は神気を紡ぎ、多くの奇跡を世に齎すのだ。
その龍脈が完全に瘴気へ堕ちればどうなるか。荒神堕ちの例を挙げるまでもなく、致命的な結末は想像に難くない。
そして、瘴気に棲まうシータだけが、この瘴毒の海で勝利を俟つ事ができるのだ。
これが、シータの持つ神殺しの正体。不壊を断つ矛盾の刃ほどの威力は無いが、無制限に影響を及ぼす、瘴気の毒による対神域の神殺しである。
「先に云っておくけれど、
――こうなった以上、私にも止める事はできないわよ」
緩くシータの移ろう両掌の指が、胸元で輪を結ぶ。転法輪印を指が象ると同時、慕うように瘴気がシータの肢体を這い回り始めた。
「真国は既に、神去りの環の転輪を回し始めた。世の理そのものが、これを止める事を赦していないのだから」
「それはどうでしょう」
滔々と話すシータの間合いへと、誰かの影が1つ踏み込んだ。
ざぶ。瘴気が飛沫を上げて、その足を吞み込む。
「太源真女さまは、貴様の手管を早々に気付いておられましたよ」
そう言葉を残し、戴天玲瑛は馬歩から震脚へと。その身体が沈むと同時、大気が爆ぜて瘴気を割り拓く。
振り翳すその手に閃く環の神器。天環返照鏡が、シータの胸元へと迫った。
「刺ッ」「――ra!!」
環と鞭剣。少女たちの至近で、爆ぜる衝撃に腐食した地面が割れ砕ける。
刃金が火花を散らす剣戟の末、シータは神器を頬で受け止めた。
「何かと思えば、終わりを待つだけとなった神器じゃない」
「この神器が無事という現実こそ、太源真女さまが健在である証明よ」
「それが?」
玲瑛の反駁を鼻で嗤い、シータが鞭剣で畳み掛ける。攻防が激しく入り乱れ、衝撃が地面を穿っていった。
攻勢を押し込みながら、シータが嘲笑に唇を歪める。
「私の神殺しは即効性が無いけど、防ぎようは無いわ。
今は神器を行使えても、太源真女が瘴毒に耽溺すれば終わるでしょうに」
「でも、救世は始まっていない。
――本当なら、そろそろ前兆が起きている筈だけど?」
玲瑛の指摘に、シータからの言葉は返らなかった。
シータの神域解放に即効性は無いが、発動そのものを止められる訳ではない。
風穴にパーリジャータを穿ち、瘴気が蔓延し始めた現状。玲瑛の言葉通り、龍脈から瘴気が溢れていなければおかしいはずだ。
「……何をした?」
「太源真女さまの神器で、太極を結んだ」
「あの蛇女、 、パーリジャータの権能を真似たかっ」
その短い言葉に、漸くシータは何が起きているか理解した。
太源真女の神器は総て、渾沌たる太極を別けて鍛造されている。それらで主要な龍脈を迂回させ、シータが殺した風穴の外から霊気の流動を助けているのだ。
それは嘗て、パーリジャータが龍脈の流れを制御した手法の模倣である。
その手管からシータが行使する神殺しの本質を推測し、太源真女は対抗策を立てたと云うのか。
「太源真女さまだけでは無いぞ。追放された後、ラーヴァナが潘国を唆して涅槃教を拡大させた本当の理由も、水面下でお前の手段を広く警戒させるためだ」
「愚図がっ。何処までも私の足を引っ張ってくれる」
悪態を吐くシータの顔面で、天環返照鏡が光芒を点した。
刹那に収束する神気の束が、シータの視界を駆け抜ける。
寸前で回避したシータの視界に、紫紺の輝きを湛えた玲瑛の双眸が映った。
「お前。その瞳 、 、」「――願い給う」
神柱の驚愕と少女の決意が交差。直後に溢れた神気が、衝撃を伴って奔り抜けた。
轟音と共に爆炎が昇り、その内側を突き破って玲瑛とシータが間合いを取る。
「天子に至る研鑽が、高天原の特権だとでも思ったか」吐き捨てるように呟き、玲瑛は呪符に印を叩きつけた。
「魔、薬、武、人、地。――そして天。六踏を窮め、太極の頂へと昇る。
我こそがその始まり、ただ人の身で天子に至る極致の1つ!」
神錬丹と莫大な術式を母胎越しの赤子へ注ぎ込み、意図的に精霊の位階を昇華させる。
初めて完成を見た人工的な神霊遣いである戴天玲瑛が、煌めく神気を呪符と共に天へと放つ。
励起の炎が青白く、夜が近づく天へ織り重なり、光芒を貫いて氷の雨に変わった。
「こんな、子供騙しをっ」
「――夜劔殿。後は恃みます!」
シータの怒号を無視して、玲瑛は後方へと跳躍。入れ替わりに、晶がシータの至近に割り込んだ。
寂炎雅燿を縦と翳し、鞭剣の一撃を受け止める。
撓る鞭剣が寂炎雅燿の刀身に絡みつき、刹那を逃さずに上空へと弾き飛ばした。
「ち」「――La、Aaa!!」
回避しようとする少年を、シータの爪先が追う。
猪の勢いを得て、シータの蹴撃が晶の正中に突き刺さった。
「が」
「神気も練り上げないで、嵩が氷の時雨頼み? 火行との相性は悪いでしょうけど、躰を冷やすにも物足りないわ」
瓦礫の向こうへと転がる晶を視界に落とし、大通りだった場所をシータが悠然と歩んだ。
ふと、晶の視線が気になり、天を振り仰ぐ。陽がゆっくりと沈み、一条の光を残してやがて消えた。
地上の騒ぎもどこを吹く風に、変わる事のない一日の終わり。
男のつまらない余所見かと、シータは鼻を鳴らしてそれきりで忘れた。
それよりも、シータが最も警戒しなければならないのが、晶の持つ落陽柘榴の神殺しだからだ。
そこに油断も隙も無い。ただ、晶だけを確殺すべく、シータは一層に気炎を吐いた。
「じっとしていなさい。そうしたら、優しく咽喉を捌いて、己の血で溺死させてやるから」
「全くな」
冷嗤うシータに負けじと、咳き込みながら晶が嗤う。
衰えの見えない晶の気勢に、怪訝とシータは歩みを止めた。
「何を隠して、 、」
「いやさ、」警戒する神柱を眼前に見上げ、晶は最後の手札を指に掛けた。
「――お前は徹頭徹尾、自分の事しか興味が無いんだなって」
疾風を捲いて、少女が駆ける。
太刀の鯉口を切った瞬間、菫色に輝く神気が刃金と共に迸った。
「!?」
大通りの脇から少女の影が飛び出し、シータの視線が奪われる。
その僅かな間隙を衝いて、輪堂咲は低い姿勢から水平に斬撃を放った。
奇鳳院流精霊技、初伝。
「――雲雀突き!」
最短最速を誇る奇鳳院流の突きが、正確に鞭剣の石突を捉える。
火花を散らして鬩ぎ合う神気と瘴気の狭間で、シータはそれでも勝利に嗤った。
「ああ。そこに隠れていたのね、咲。
私との約束を放り出して、とっと逃げ出したのかと思っていたわ」
「正直、最後まで信じたいと願っていたけど。
貴女がこんな手出しをするというなら、約束は反故で良いかしら」
「神柱との約束を反故にするなど、赦されもしないわ。
ラーヴァナを還しなさい。約束した以上、その愚図は私のものよ!」
咲が隠し持っている九法宝典の気配は、シータの視界にはっきりと映っている。
後はこれさえ奪えば、理想となる救世を遂げる事も可能になるのだ。
「させるかよ」「――晶!」
咲へ伸びる腕を晶の障壁が弾き、少女たちの間合いへと強引に割り込む。
少女と同時に跳躍し、シータと距離を取って肩を並べた。
「咲」「大丈夫。――これで終わらせましょう」
気遣う少年の囁きに、決然と少女が返す。
その様子を睥睨しながら、シータは鞭剣を一振りした。
「本当に忌々しい男。後少しでラーヴァナが手に返ったというのに、
何時も邪魔をするのはお前ね」
「だから、神代から今まで、誰かしらに敗け続けたんだろ」
「……何ですって」晶の台詞に、シータは眉間へと皺を寄せた。
「私が、何時、敗けたとでも」
「何時もだろうが。ラーヴァナを逐い、論国の龍穴を穿ち、周囲に神去りを強要して。
――挙句、あんたには何が残った?」
「……………………」
「何も残っちゃいないよなぁ。盟友を喪い、信仰を得る事も無く。お前はただ、此処で過去の偉業の素晴らしさを喚いているだけだ」
晶の台詞に、鞭剣の一撃が返事を返す。
晶と咲の間を奔る、石畳を斬り削る閃き。茫漠と軌跡を残す土煙を横に、挟むように晶と咲が間合いを詰めた。
「救世? より善い来世? クソ喰らえだろ、そんなモン。
今日を必死に生きて、明日の為に眠る。お前が地を這いずるって嗤っていた俺たちが欲しいのは、現世御利益の1つきりに決まってんだろうが」
「何も知らない、虫けら風情が!」
「知らないね」
怒髪天を衝く勢いで攻勢を畳み掛けるシータの懐深くへと、少年の足が大きく踏み込む。
減らず口に嘲笑を乗せ、晶は神柱の眼差しを見返した。
「結局お前は、過去の栄光を忘れられないだけだ」
「黙れ」
「より善い来世なんざ、どう頑張っても手に入らない。そんな事すら判らないから、ラーヴァナにも愛想を尽かされたんだろうが」
「!!」
――苦涯が終わり、現世が繋がる。それで充分だろう。
青く褪めた肌の神柱の、困ったような笑顔で諭す記憶。遠く振り棄てたはずの盟友との会話が、シータの脳裏に過ぎる。
動揺ではない。だが、懐かしい記憶の奔流に、シータの脚が致命的に止まった。
その隙を衝いて、反対側の通りから躍り出る少女の姿。
帶刀埜乃香の居合抜きが、晶たちの反対からシータに迫る。
「――割きて咲き、哭いて虚しき、花の色」
周囲に満ちた水の神気が、埜乃香の太刀へと集束。振り抜いた斬閃に沿って、勢いを増した薄緑の精霊光が褐色の肌をした神柱を捕らえた。
舌打ち一つ。精霊力の檻から逃れるべく、シータが瘴気を練り上げる。
だが、逃れる事はできない。
神霊遣いまで出力が制限されたシータにとって、この檻を壊す事は容易ではないからだ。
「小癪な!」
「――還って来ぬと、孵らずの仔に!」
一呼吸にも満たない。だがシータの見せた致命的な隙に、今度は咲が太刀を斬り上げた。
奇鳳院流精霊技、相生技。
「「――不如帰!!」」
幾重にも連なる爆炎が、シータをその向こうに呑み込んだ。
轟音が響き、灼熱が踊る。だが悲鳴など無い。
当然だ。
瘴気に棲まう神柱であると同時に、シータは火行の神柱でもある。
如何に強力な精霊技であっても、炎を自在とする神柱を相手に火行の精霊技で挑むなど、不可能に近いからだ。
諒太が埜乃香を庇い、咲と玲瑛が距離を取る。
全員が護りに入る中、爆炎が吹き荒れる前へと晶が立ち上がった。
その手を虚空に差し伸べ、落陽柘榴を心奧から抜刀する。
「これで止めだ、シータ。救世は、末世が果てた後に追って来い」
吐き捨てるようにそう告げ、少年は半身から落陽柘榴を叩き墜とした。
「――それを待っていたわ」
「!」
爆炎の奥から嗤う声が。同時に伸びる褐色の腕が、落陽柘榴の刀身を真芯から掴む。
華奢にしか見えない手弱女の腕に連れて、爆炎からシータが抜け出した。
「神殺しは強力だけど、当然、それに費やされる神気も莫大なものと知らないの?
それを続けざまに撃つなど、神柱を何だと思っているのかしら」
「ち」
距離を取ろうと晶が藻掻くも、巍々と揺らがずシータが赦さない。
ゆっくりと少年に見せつけるように、シータは瘴気に凝る拳を振り上げた。
「煩い蠅だったけど、漸く捕まえた。もう手段も打ち止めでしょうし、じっくりとしっかりと殴り殺してあげるわ」
煽る言葉と共に、瘴毒を曳いた拳を振り下ろそうと――。
「それは、こっちの台詞だ。シータ」
晶は漸く、安堵を吐いた。
「この精霊技は、未だ完成していないんだ。制御も難しいし、兎に角、撃つまでに時間がかかるのがな」
晶の側も、最初から火で決着をつける心算は無かった。
神殺しを前面に見せつけ、人の入り乱れる戦闘でシータの注意を惹く。
これらの算段は総て、水行から目を逸らさせるための手妻程度の策。
――この本命となるたった一撃を、割り裂いたパーリジャータに叩き込むための。
至近へ迫るシータの双眸に、晶が隠し持っていた反対の掌が映った。
ちりちりと音を立てる、夜天を凝らせたような短い刀身が一振り。
「それは、」危険だ。シータの思考が、全力で回避を叫ぶ。
神殺しとは違う。だが、明確に危険であると、忘れたはずの本能が警告する。
迷わずそれに従おうとして、だが、逃れられない現実に、シータは愕然とした。
左手を、晶が逃れられないように掴んでいる。
寸前までの勝利の確信が、落陽柘榴を、引いては晶からの回避を拒んでいるのだ。
己の傲慢さで、救世が終わる。
受け入れられないその事実に嚇怒を吐こうと、
――その総てが、晶の放つ厳冬と灼夏の一撃に呑まれた。
義王院流精霊技――、
「雲雀殺し」
伝すら未だ無い。水行から始まり水行を越えた一撃が、シータを貫いてやがて消える。
やがて少年が見上げた天の先。九蓋瀑布が遷していた夜天が晴れ、その向こうから本来の空が青く顔を覗かせた。
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