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泡沫に神は微睡む  作者: 安田 のら
五章 濫海浄罪篇
216/222

15話 廻天、至れり2

 暮江鎮(ムージャチン)から遠く、芳雨省の沖合を遠く臨む沖合――。


 艦内の騒がしさを横目に、洋上はただ穏やかに凪ぐ。

 ハリエット・ホイットモアは、ちらりと腕時計が捲かれた左手首へと視線を走らせた。


 ――かちりと丁度、時針が15時から1分を、無情な時間の流れが刻む。


「如何なっている!?」

「観測班からの報告は芳しくなく。――電磁投射の結果も、否定(ネガティブ)と」

「目視だけでこの異常だぞ、否定(何も起きていない)など有り得るものか!」


 時計を眇める僅かな後、艦橋に響く怒号と混乱に意識が引き戻された。


 視線の先で、キャベンディッシュが部下の胸ぐらを掴む光景。無粋な上司の醜態に、それでもハリエットは同情めいて生暖かい吐息を漏らした。


 ――無理もない。


 彼らが指差す先には、夜と陽が渦と地平へ落ちゆくさま。天変地異とも云うべき状況が、論国(ロンダリア)海軍の向かおうとする先で広がっていたのだから。


 ――何も知らないまま踊っていたヴィクター・キャベンディッシュの混乱は、想像するに容易かった。


「――少尉」「は」


 御目出度い頭が冷えたか、部下を小突くに飽きたか。キャベンディッシュの問いかけに、ハリエットは揺るがず追従を返した。


「あれをどう見る?」

「幻影。恐らくは、魔術に依る結界の一種ではないでしょうか。

 霧で大軍を演出し敵軍を迷走させたと、真国(ツォンマ)の史書で読んだ覚えがあります」

「石兵八陣と云う奴か? 軍隊規模の誤認識は有り得んと、諜報の判断があった筈だが」


 揺らがず即答したハリエットの応えに、キャベンディッシュは首を傾げた。


 幻影魔術は対象人数を選ばない反面、個人の認識のずれから自然に術式破綻する欠点を併せ持つ。

 小隊規模なら兎も角、100人以上となる大隊への干渉は不可能に近いと云うのが、学者たちの共通常識であった。


真国(ツォンマ)の歴史は永く侮れませんし、隠し玉の1つや2つ程度は覚悟すべきでしょう。

 ……それに、神器が使用された可能性も捨てきれないかと」


 求められた意見に、ハリエットは整然と推測を舌に乗せた。

 可能性は薄いとは云え、魔術すら超えた現実を可能にするのが神器の権能である。


 曖昧としたハリエットの誤魔化しに、気付いたのか救いと見たか。

 確かにな。そう肯いだけを返し、キャベンディッシュは腕を組んだ。


「幻術ならば、強引に進軍するのも選択肢にあるか?」

「口先でどれだけ否定しようと、幻の津波に呑み込まれれば溺死するものです。

 幻影一つと侮るのは、火中の栗を拾う以上に危険かと」

「我らを誘う罠の可能性が高いと。少尉の意見を入れて、洋上で待機して正解だったな。

 ――とは云え、真国(ツォンマ)の連中に論国海軍(こちら)の動向を察知されたのは頂けんが」


 キャベンディッシュの視線の先。真国(ツォンマ)の沿岸上で、翩(ひるがえ)と旗が潮風に泳ぐ。赤一色に染め抜かれたそこに、所属は記されてい。


 青道(チンタオ)戦役に()ける勝者である論国(ロンダリア)と敗者である真国(ツォンマ)は、旗幟を鮮明にしないまま沿岸数里を挟んで静かに睨み合っていた。


「建前ではありますが、真国(ツォンマ)とは条約を結んだ仲です。

 戦力差は理解しているでしょうし、向こうから手出しする可能性(セン)は薄いでしょう」

「同意、だな。――真国(ツォンマ)高天原(たかまがはら)も、論国(ロンダリア)の恩情に与っている以上は表立った反抗はできん。

 とは云え、最終的な開戦の機微は、論国(ロンダリア)が握っている事実には変わらんが」


 ――抑えきれなくなっている。


 膠着状態に陥った状況に、勇み足を抑えきれなくなっているのだろう。

 辛うじて沈黙に戻ったキャベンディッシュに、救世の協力者と立つハリエットは危ぶむ視線を向けた。




 シータとキャベンディッシュは協力関係にあるが、互いに対等と見做している訳ではない。


 そもそも、キャベンディッシュの目的は、都合の良い神柱を製造する為に、信顕天教の神器を奪取。その足で潘国(バラトゥシュ)へと入国することである。

 シータの救世に対して、結果は疎か過程すらも違えているのだ。


 ――ただ単純に、神柱は嘘を吐かないと云う真実に縋って、キャベンディッシュは夢想へと突き進んでいるに過ぎない。


 そして、シータがハリエットに求めている役割はただ1つ。

 総てが終わったその後に信者(キャベンディッシュ)たちを引き連れて、救世の立会人とする事である。


 龍穴は疎か、現世に()ける信仰すら棄てたシータには、愚かなだけのキャベンディッシュも貴重な信仰の源泉なのだから。


 間に挟まっているハリエットは嘘を吐けると云う事実だけが、論国(ロンダリア)海軍と云う仮初の信者を辛うじてシータの側に繋ぎ止めていた


 どれだけ時間が経ったのか。昼夜の渦を描く空が斜陽の朱へと染まる。

 漸く訪れた変化に身構えるキャベンディッシュの視線の向こうで、朱金の柱が一条、高く天を衝いて、――やがて消えた。


 それが何を意味するものなのか。その答えすら持たないまま、論国(ロンダリア)海軍を率いるものは首肯を1つ。


「進軍だ」


 ――重々しく、状況への介入を告げた。


 ♢


 まるで豆腐を斬るかのように、昏い朱の切っ先がシータの正中を奔る。

 落陽(らくよう)柘榴(ざくろ)を叩き墜としたその手応えは、夜劔晶が思う以上に薄かった。


「っつ、 、はぁっ、っ」


 それでもその瞬間、練り上げた朱華(はねず)の神気が抉れるように喪失。

 久方ぶりに覚える心奧からの疲労に、堪える事なく晶は呼吸(いき)を吐き尽くした。


 ――避けられた。


 胸中を占める感情は、その一言だけ。本来なら、先刻の一撃はシータを二つに断ち切っていなければならなかったからだ。


「貴っ、様ぁっ!! 私の、貌をぉ」


 ――滂沱と。血潮と(はらわた)の代わりに紅の神気を零しながら、シータが怨嗟を吐き捨てた。


 少女の容姿をしていても、シータが受肉しているのはパーリジャータと云う銘を与った神器そのものである。

 不壊の正中を奔った程度(・・)(かす)り傷。神殺しが不発に終わったのは明瞭であった。


 嚇怒の呻きを無視して、晶は半身を更に一歩。

 踏み込む右脚が地に弧を描き、後退するシータの間合いへと深く晶の攻勢を圧し込んだ。


 神殺しは二連続で叩き込めない。だが、晶にはもう一振り、鳳の玉体を鍛えた神器がある。

 その決意の侭、虚空へと差し伸べた晶の掌から朱金の輝きが水平の軌跡を刻んだ。

 奇鳳院流(くほういんりゅう)精霊技(せいれいぎ)、中伝、――十字野擦(じゅうじのすり)


絢爛(けんらん)たれ、寂炎(じゃくえん)雅燿(がよう)!!」「知られた精霊技(せいれいぎ)で徹せるとでも!!」


 怒号が交差。シータの胴を狙う二振り目の神器を、シータが手にした鞭剣(ウルミ)で喰い止める。

 激突した衝撃で土砂が捲き上がり、周囲から視界を奪った。


「ち」「――ィィイッッ」


 鬩ぎ合う爆炎に、晶は寂炎(じゃくえん)雅燿(がよう)の柄を握り締める。

 瞬後。朱金の輝きが一層に猛り、透き徹る刀身から溢れて渦と換わった。

 奇鳳院流(くほういんりゅう)精霊技(せいれいぎ)、初伝――。


鳩衝(きゅうしょう)!!」「――な」


 晶の足元から炎が噴き上がり、シータを呑み込む。

 思わず漏れる吃驚すらも浚い、朱金の爆炎が一帯を更地に変えた。


「……驚いたわ、本当に。真逆、神殺しを持ち出してくるとは、

 随分と思い切ったものね」

「こっちだって焦ったぞ。

 ――咲の精霊技(せいれいぎ)を模倣できるってことは、かなりの情報を抜かれているって事だからな」


 零れ続ける神気を右手で抑え、憤懣を隠し切れないとばかりに神柱である少女が呟いた。

 慎重に間合いを保ちながら、少年も寂炎(じゃくえん)雅燿(がよう)を構え直す。


 巍々と揺らがない少年の構えに、シータはぎりと奥歯を軋ませた。


 ――神殺しを持ち出すと云う事は、現世から救世を放棄する事を決めた? そこまで、この子供が思い上がれるとは。


 シータの戦術は、徹頭徹尾、救世を軸にしている。それは、現世のものたちが救世を放棄しないだろうと云う、確信があったからだ。

 楯にしたシータに云えた台詞ではないだろうが、意表を突かれたのは事実である。


 僅かに睨み合い、晶たちは同時に地を蹴った。




 灼熱に揺らぐ大気を挟み、神柱と少年は並走。跳ねるように瓦礫を越え、間合いを詰める。

 両者の斬撃が同時に放たれ、瓦礫すら残っていない広間で火花を散らした。


「こ、の!!」

「しつこい下種が、嫌われるわよ」

「そっくり、お前の事だろうが!」


 剣戟よりも速く罵声が飛び交い、競り合う刃筋を挟んで睨み合う。

 踏み込む一瞬を逃すことなく、晶はシータを蹴り飛ばした。

 奇鳳院流(くほういんりゅう)精霊技(せいれいぎ)、初伝――。


燕牙(えんが)!」「――甘い」


 炎の飛斬を斬り飛ばし、シータが跳躍。その更に頭上を覆うように、周囲から呪符が降り注いだ。


「晶。今のうちに距離を取れ!!」「無駄だ、諒太! ――此奴に呪符は効かない」


 走り来る諒太の姿に、晶の制止が飛ぶ。

 ――その瞬間。シータの左掌が手印を結び、呪符は音すら残す事なく紙切れと還った。


「私の手印は、世を糺す裁定の(しるべ)。貴様たちの拙い真言(マントラ)を無為と定める程度、容易いと知りなさい」

「ラーヴァナを求めながら、その神器は否定するんだな。

 ――その矛盾がお前の限界だ。シータ!」

「黙れェッ」


 晶の減らず口に怒号を返し、一気にシータが間合いを詰める。

 奇鳳院流(くほういんりゅう)精霊技(せいれいぎ)、中伝、――隼駆け。


「「――!?」」


 少年たちの間へと、シータの身体が割り込むように着弾。

 捲き上がる粉塵に諒太は呪符を引き抜き、

 ――紙切れとなった呪符に舌打ち1つ、躊躇う事なく投げ棄てた。


「くそ、隙が無い」

「指の1つで呪符を紙切れにするとか。無茶苦茶だろうが、この神柱サマっ」

「同感だ。見ただけで精霊技(せいれいぎ)を模倣するなんざ、反則も良い処だ」

「手前ェが云えた台詞かっ」

「何でだよ!?」


 怒鳴り合う少年たちに、鎌首を擡げた鞭剣(ウルミ)が迫る。


 大気を切り裂く斬閃の唸りが届くよりも速く、晶の足が旋回。

 奇鳳院流(くほういんりゅう)精霊技(せいれいぎ)、初伝、――帰り雀鷹。


 上段から叩きつける寂炎(じゃくえん)雅燿(がよう)の一撃が鞭剣(ウルミ)を弾き飛ばし、逆袈裟に返す次撃がシータを正確に狙った。


 パーリジャータに(ひび)が入った今、寂炎(じゃくえん)雅燿(がよう)の断罪折伏もシータにとって無視は出来ない威力のはず。

 朱金に燃える斬閃が尾を曳き――、


「殺ったァッ」「――止めたわ」


 低く神からの宣下に慄然と、晶は後方へ跳躍した。

 遠く、地鳴る響きが地面の奥底を這い回る感触。本能の告げる侭、晶と諒太は全力で広場からの退避を図る。


 ――直後。莫大な衝撃が、炎を連れて広場を圧し潰した。




「――本当に面倒臭い。あのお人好しのラーヴァナを捜すのも、世を繋げるのも。

 この私が、手ずからに助けを向けてやっているのに、この期に及んでも、お前たちはそうじゃないと反抗ばかり」


 ――だから(・・・)、止めてあげるわ。

 何処までも傲慢に、シータは頤を反らして宣言した。


「勘違いしているようだけど、私がここまで手間暇を掛けてあげたのは、お前たちのためなのよ?」


 ラーヴァナの神器。シータが執着していたのは、ただ(・・)人たれと言祝いだ、九法宝典の神域解放が欲しかったからである。

 ここまで手間暇かけた理由は、単純に少しでも理想の世界を呼び寄せる為。


 実の処、救世を行使するだけなら、シータは何時でも可能なのだ。


 だが、もう良い。涅槃(より良い世界)も、世界を繋げるのも。現世が神殺しでシータを否定するなら、それ以上の暴虐を以て蹂躙するだけ。


 そうシータは(わら)いながら、純白の杭に戻したパーリジャータを足元に撃ち込んだ。


「28本14対。私の手折った夜素馨(パーリジャータ)の枝は、論国(ロンダリア)海軍に1本、此処(ここ)に4本在ると知っているでしょうけど。

 ――残り23本が何処に仕込まれているか、貴方は把握しているかしら?」

「何を」


 予想外の問いかけに、呆気と晶は応えを返した。その呟きで充分とばかりに、シータは朱の刷いた唇を嘲笑の形に刻んで見せた。


「何の為に条約を結んでまで、論国(ロンダリア)海軍に真国(ツォンマ)中を駆けずり回らせたと?」


 ゆらりと一歩、シータが褐色の玉体を前に進ませる。


 神柱の肢体から神気が立ち昇り、紅の神気が何処か昏く輝きを凝らせた。

 紅から赤に、そして何処までも深い臙脂(えんじ)の輝きへと。


太源真女(タイユェンジェンニュ)と続く主要な風穴を抑え、龍脈をパーリジャータで代替する。

 ――真国(ツォンマ)の龍脈は今や、私の支配下に在るわ」


 神柱としての宣下を(わら)い棄てながら、シータは晶たちへと歩みを進めた。

 遠く、地鳴る響きに止む気配はなく、シータの足元へと集束。赤黒い輝きが、昏くシータの肢体へと絡みつく。


「其方たちが知る龍脈こそ、私の象を成したもの為れば。

 淀みに積もる澱たる流れも、叉、真なり」


 龍脈とは現世を支える霊気の流れであり、パーリジャータはそれを自在に支配する。

 霊気と瘴気。移ろうこの2つの相こそ、シータが真に支配するものである。


 ――乳海に根を下ろし、万海長夜を支配する樹。

 ――神代と近代。何れの世に在って、変わらず流れて澱む世界の摂理そのもの。

 神域解放。シータの足元のパーリジャータから瘴気が噴き出した。


クシーラシンドハウ(乳海に夜素馨の)・パーリジャータスヤ・ムーラム・スターピャ(根を降ろし、)サンサーレ・ブラママ(渾沌と回る)ーナン・|ジャガット・サンハラーミ《世を閉じなさい》』


 正常な霊気の供給が止まる事は、龍穴に宿る神柱の喪失を意味する。

 潘国(バラトゥシュ)に数多在った神々を殺し尽くした、これこそがシータの誇る神殺しの本当の正体。


 瘴気が大気を腐らせ、パーリジャータによってこじ開けられた風穴が、際限なく赤黒い輝きに蝕まれてゆく。


 ――その向こうでただ1つ。紅の双眸だけが、輝きを変える事なく嗜虐(しぎゃく)(わら)った。



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咲の出番が此処からというのは「そういう事」ですね
いつも肝心な所で活躍しきれない落陽柘榴くん。 今回も最後の一手を逃す辺りそう言う運命を持った神器なのではなかろうか…。
ラーヴァナを捜してたというがあの神がシータに味方するんだろうか…? 裏どころか表にも色々意図隠してそう
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