15話 廻天、至れり2
暮江鎮から遠く、芳雨省の沖合を遠く臨む沖合――。
艦内の騒がしさを横目に、洋上はただ穏やかに凪ぐ。
ハリエット・ホイットモアは、ちらりと腕時計が捲かれた左手首へと視線を走らせた。
――かちりと丁度、時針が15時から1分を、無情な時間の流れが刻む。
「如何なっている!?」
「観測班からの報告は芳しくなく。――電磁投射の結果も、否定と」
「目視だけでこの異常だぞ、否定など有り得るものか!」
時計を眇める僅かな後、艦橋に響く怒号と混乱に意識が引き戻された。
視線の先で、キャベンディッシュが部下の胸ぐらを掴む光景。無粋な上司の醜態に、それでもハリエットは同情めいて生暖かい吐息を漏らした。
――無理もない。
彼らが指差す先には、夜と陽が渦と地平へ落ちゆくさま。天変地異とも云うべき状況が、論国海軍の向かおうとする先で広がっていたのだから。
――何も知らないまま踊っていたヴィクター・キャベンディッシュの混乱は、想像するに容易かった。
「――少尉」「は」
御目出度い頭が冷えたか、部下を小突くに飽きたか。キャベンディッシュの問いかけに、ハリエットは揺るがず追従を返した。
「あれをどう見る?」
「幻影。恐らくは、魔術に依る結界の一種ではないでしょうか。
霧で大軍を演出し敵軍を迷走させたと、真国の史書で読んだ覚えがあります」
「石兵八陣と云う奴か? 軍隊規模の誤認識は有り得んと、諜報の判断があった筈だが」
揺らがず即答したハリエットの応えに、キャベンディッシュは首を傾げた。
幻影魔術は対象人数を選ばない反面、個人の認識のずれから自然に術式破綻する欠点を併せ持つ。
小隊規模なら兎も角、100人以上となる大隊への干渉は不可能に近いと云うのが、学者たちの共通常識であった。
「真国の歴史は永く侮れませんし、隠し玉の1つや2つ程度は覚悟すべきでしょう。
……それに、神器が使用された可能性も捨てきれないかと」
求められた意見に、ハリエットは整然と推測を舌に乗せた。
可能性は薄いとは云え、魔術すら超えた現実を可能にするのが神器の権能である。
曖昧としたハリエットの誤魔化しに、気付いたのか救いと見たか。
確かにな。そう肯いだけを返し、キャベンディッシュは腕を組んだ。
「幻術ならば、強引に進軍するのも選択肢にあるか?」
「口先でどれだけ否定しようと、幻の津波に呑み込まれれば溺死するものです。
幻影一つと侮るのは、火中の栗を拾う以上に危険かと」
「我らを誘う罠の可能性が高いと。少尉の意見を入れて、洋上で待機して正解だったな。
――とは云え、真国の連中に論国海軍の動向を察知されたのは頂けんが」
キャベンディッシュの視線の先。真国の沿岸上で、翩翻と旗が潮風に泳ぐ。赤一色に染め抜かれたそこに、所属は記されてい。
青道戦役に於ける勝者である論国と敗者である真国は、旗幟を鮮明にしないまま沿岸数里を挟んで静かに睨み合っていた。
「建前ではありますが、真国とは条約を結んだ仲です。
戦力差は理解しているでしょうし、向こうから手出しする可能性は薄いでしょう」
「同意、だな。――真国も高天原も、論国の恩情に与っている以上は表立った反抗はできん。
とは云え、最終的な開戦の機微は、論国が握っている事実には変わらんが」
――抑えきれなくなっている。
膠着状態に陥った状況に、勇み足を抑えきれなくなっているのだろう。
辛うじて沈黙に戻ったキャベンディッシュに、救世の協力者と立つハリエットは危ぶむ視線を向けた。
シータとキャベンディッシュは協力関係にあるが、互いに対等と見做している訳ではない。
そもそも、キャベンディッシュの目的は、都合の良い神柱を製造する為に、信顕天教の神器を奪取。その足で潘国へと入国することである。
シータの救世に対して、結果は疎か過程すらも違えているのだ。
――ただ単純に、神柱は嘘を吐かないと云う真実に縋って、キャベンディッシュは夢想へと突き進んでいるに過ぎない。
そして、シータがハリエットに求めている役割はただ1つ。
総てが終わったその後に信者たちを引き連れて、救世の立会人とする事である。
龍穴は疎か、現世に於ける信仰すら棄てたシータには、愚かなだけのキャベンディッシュも貴重な信仰の源泉なのだから。
間に挟まっているハリエットは嘘を吐けると云う事実だけが、論国海軍と云う仮初の信者を辛うじてシータの側に繋ぎ止めていた
どれだけ時間が経ったのか。昼夜の渦を描く空が斜陽の朱へと染まる。
漸く訪れた変化に身構えるキャベンディッシュの視線の向こうで、朱金の柱が一条、高く天を衝いて、――やがて消えた。
それが何を意味するものなのか。その答えすら持たないまま、論国海軍を率いるものは首肯を1つ。
「進軍だ」
――重々しく、状況への介入を告げた。
♢
まるで豆腐を斬るかのように、昏い朱の切っ先がシータの正中を奔る。
落陽柘榴を叩き墜としたその手応えは、夜劔晶が思う以上に薄かった。
「っつ、 、はぁっ、っ」
それでもその瞬間、練り上げた朱華の神気が抉れるように喪失。
久方ぶりに覚える心奧からの疲労に、堪える事なく晶は呼吸を吐き尽くした。
――避けられた。
胸中を占める感情は、その一言だけ。本来なら、先刻の一撃はシータを二つに断ち切っていなければならなかったからだ。
「貴っ、様ぁっ!! 私の、貌をぉ」
――滂沱と。血潮と腑の代わりに紅の神気を零しながら、シータが怨嗟を吐き捨てた。
少女の容姿をしていても、シータが受肉しているのはパーリジャータと云う銘を与った神器そのものである。
不壊の正中を奔った程度の掠り傷。神殺しが不発に終わったのは明瞭であった。
嚇怒の呻きを無視して、晶は半身を更に一歩。
踏み込む右脚が地に弧を描き、後退するシータの間合いへと深く晶の攻勢を圧し込んだ。
神殺しは二連続で叩き込めない。だが、晶にはもう一振り、鳳の玉体を鍛えた神器がある。
その決意の侭、虚空へと差し伸べた晶の掌から朱金の輝きが水平の軌跡を刻んだ。
奇鳳院流精霊技、中伝、――十字野擦。
「絢爛たれ、寂炎雅燿!!」「知られた精霊技で徹せるとでも!!」
怒号が交差。シータの胴を狙う二振り目の神器を、シータが手にした鞭剣で喰い止める。
激突した衝撃で土砂が捲き上がり、周囲から視界を奪った。
「ち」「――ィィイッッ」
鬩ぎ合う爆炎に、晶は寂炎雅燿の柄を握り締める。
瞬後。朱金の輝きが一層に猛り、透き徹る刀身から溢れて渦と換わった。
奇鳳院流精霊技、初伝――。
「鳩衝!!」「――な」
晶の足元から炎が噴き上がり、シータを呑み込む。
思わず漏れる吃驚すらも浚い、朱金の爆炎が一帯を更地に変えた。
「……驚いたわ、本当に。真逆、神殺しを持ち出してくるとは、
随分と思い切ったものね」
「こっちだって焦ったぞ。
――咲の精霊技を模倣できるってことは、かなりの情報を抜かれているって事だからな」
零れ続ける神気を右手で抑え、憤懣を隠し切れないとばかりに神柱である少女が呟いた。
慎重に間合いを保ちながら、少年も寂炎雅燿を構え直す。
巍々と揺らがない少年の構えに、シータはぎりと奥歯を軋ませた。
――神殺しを持ち出すと云う事は、現世から救世を放棄する事を決めた? そこまで、この子供が思い上がれるとは。
シータの戦術は、徹頭徹尾、救世を軸にしている。それは、現世のものたちが救世を放棄しないだろうと云う、確信があったからだ。
楯にしたシータに云えた台詞ではないだろうが、意表を突かれたのは事実である。
僅かに睨み合い、晶たちは同時に地を蹴った。
灼熱に揺らぐ大気を挟み、神柱と少年は並走。跳ねるように瓦礫を越え、間合いを詰める。
両者の斬撃が同時に放たれ、瓦礫すら残っていない広間で火花を散らした。
「こ、の!!」
「しつこい下種が、嫌われるわよ」
「そっくり、お前の事だろうが!」
剣戟よりも速く罵声が飛び交い、競り合う刃筋を挟んで睨み合う。
踏み込む一瞬を逃すことなく、晶はシータを蹴り飛ばした。
奇鳳院流精霊技、初伝――。
「燕牙!」「――甘い」
炎の飛斬を斬り飛ばし、シータが跳躍。その更に頭上を覆うように、周囲から呪符が降り注いだ。
「晶。今のうちに距離を取れ!!」「無駄だ、諒太! ――此奴に呪符は効かない」
走り来る諒太の姿に、晶の制止が飛ぶ。
――その瞬間。シータの左掌が手印を結び、呪符は音すら残す事なく紙切れと還った。
「私の手印は、世を糺す裁定の導。貴様たちの拙い真言を無為と定める程度、容易いと知りなさい」
「ラーヴァナを求めながら、その神器は否定するんだな。
――その矛盾がお前の限界だ。シータ!」
「黙れェッ」
晶の減らず口に怒号を返し、一気にシータが間合いを詰める。
奇鳳院流精霊技、中伝、――隼駆け。
「「――!?」」
少年たちの間へと、シータの身体が割り込むように着弾。
捲き上がる粉塵に諒太は呪符を引き抜き、
――紙切れとなった呪符に舌打ち1つ、躊躇う事なく投げ棄てた。
「くそ、隙が無い」
「指の1つで呪符を紙切れにするとか。無茶苦茶だろうが、この神柱サマっ」
「同感だ。見ただけで精霊技を模倣するなんざ、反則も良い処だ」
「手前ェが云えた台詞かっ」
「何でだよ!?」
怒鳴り合う少年たちに、鎌首を擡げた鞭剣が迫る。
大気を切り裂く斬閃の唸りが届くよりも速く、晶の足が旋回。
奇鳳院流精霊技、初伝、――帰り雀鷹。
上段から叩きつける寂炎雅燿の一撃が鞭剣を弾き飛ばし、逆袈裟に返す次撃がシータを正確に狙った。
パーリジャータに罅が入った今、寂炎雅燿の断罪折伏もシータにとって無視は出来ない威力のはず。
朱金に燃える斬閃が尾を曳き――、
「殺ったァッ」「――止めたわ」
低く神からの宣下に慄然と、晶は後方へ跳躍した。
遠く、地鳴る響きが地面の奥底を這い回る感触。本能の告げる侭、晶と諒太は全力で広場からの退避を図る。
――直後。莫大な衝撃が、炎を連れて広場を圧し潰した。
「――本当に面倒臭い。あのお人好しのラーヴァナを捜すのも、世を繋げるのも。
この私が、手ずからに助けを向けてやっているのに、この期に及んでも、お前たちはそうじゃないと反抗ばかり」
――だから、止めてあげるわ。
何処までも傲慢に、シータは頤を反らして宣言した。
「勘違いしているようだけど、私がここまで手間暇を掛けてあげたのは、お前たちのためなのよ?」
ラーヴァナの神器。シータが執着していたのは、ただ人たれと言祝いだ、九法宝典の神域解放が欲しかったからである。
ここまで手間暇かけた理由は、単純に少しでも理想の世界を呼び寄せる為。
実の処、救世を行使するだけなら、シータは何時でも可能なのだ。
だが、もう良い。涅槃も、世界を繋げるのも。現世が神殺しでシータを否定するなら、それ以上の暴虐を以て蹂躙するだけ。
そうシータは嗤いながら、純白の杭に戻したパーリジャータを足元に撃ち込んだ。
「28本14対。私の手折った夜素馨の枝は、論国海軍に1本、此処に4本在ると知っているでしょうけど。
――残り23本が何処に仕込まれているか、貴方は把握しているかしら?」
「何を」
予想外の問いかけに、呆気と晶は応えを返した。その呟きで充分とばかりに、シータは朱の刷いた唇を嘲笑の形に刻んで見せた。
「何の為に条約を結んでまで、論国海軍に真国中を駆けずり回らせたと?」
ゆらりと一歩、シータが褐色の玉体を前に進ませる。
神柱の肢体から神気が立ち昇り、紅の神気が何処か昏く輝きを凝らせた。
紅から赤に、そして何処までも深い臙脂の輝きへと。
「太源真女と続く主要な風穴を抑え、龍脈をパーリジャータで代替する。
――真国の龍脈は今や、私の支配下に在るわ」
神柱としての宣下を嗤い棄てながら、シータは晶たちへと歩みを進めた。
遠く、地鳴る響きに止む気配はなく、シータの足元へと集束。赤黒い輝きが、昏くシータの肢体へと絡みつく。
「其方たちが知る龍脈こそ、私の象を成したもの為れば。
淀みに積もる澱たる流れも、叉、真なり」
龍脈とは現世を支える霊気の流れであり、パーリジャータはそれを自在に支配する。
霊気と瘴気。移ろうこの2つの相こそ、シータが真に支配するものである。
――乳海に根を下ろし、万海長夜を支配する樹。
――神代と近代。何れの世に在って、変わらず流れて澱む世界の摂理そのもの。
神域解放。シータの足元のパーリジャータから瘴気が噴き出した。
『クシーラシンドハウ・パーリジャータスヤ・ムーラム・スターピャ・サンサーレ・ブラママーナン・|ジャガット・サンハラーミ《世を閉じなさい》』
正常な霊気の供給が止まる事は、龍穴に宿る神柱の喪失を意味する。
潘国に数多在った神々を殺し尽くした、これこそがシータの誇る神殺しの本当の正体。
瘴気が大気を腐らせ、パーリジャータによってこじ開けられた風穴が、際限なく赤黒い輝きに蝕まれてゆく。
――その向こうでただ1つ。紅の双眸だけが、輝きを変える事なく嗜虐に嗤った。
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