15話 廻天、至れり1
灼熱が緩く斜陽へと染まる街並みを薙ぎ払い、総てを浚って過ぎ去った。
爆心地に近い民家は一溜りもなく、年月に削れた石畳が波打ちながら浮き上がる。
「…………凄い」
その総てを眼下に収め、輪堂咲は咽喉を鳴らした。
恐怖か感嘆か。その何方でもない、原始的な感情から来る、抗い難い本音の吐露。
頬に残る焦躁に似た熱波を拭い、己が掌に握られたパーリジャータへと視線を落とす。
ひやりと返る冷たい感触。煉獄の光景を生み出した純白の神器は、それすらも幻と云わんばかりに、今はただ沈黙だけを守っていた。
「何を呆けている。とっとと下山を急がんか、輪堂咲」
「……もう、決着しているんじゃ?」
背後からのんびりと急かしてくる太源真女の台詞に、少女の視線がそちらの方へと戻る。
窺う少女の視線を受け止め、軽く神柱は頭を振って見せた。
「大河が朝露の一滴で穿てるものか。
あれは救世を報せる鏑矢、本流はこの後にやって来る」
「何が起きるのですか?」
「ラーヴァナも、救世の本質は見ていないと云っていた。
だが、結末が確かに偉業通りであるならば、少なくともこの地に立つ神柱を一掃する手段であろうな」
その言葉が意味する事実に理解が追い付き、咲は頬を曇らせた。
街を半壊せしめたこの一撃すら前座であり、神話通りならばその威力は神代を浚える威力を備えているのだと。
「神殺し、ですか?」
「そうだ。ここから先はシータの神域であり、朕は着いていけぬ」
咲の問うような呟きに、迷うことなく太源真女の肯いが返る。
「シータは熔ける岩で踊り続けた少女であり、その本質も又、火行に属している。
火行の神性でも極致が持ちうる神殺しの中に在って、神代を終わらせたシータのそれは群を抜いていよう」
神柱が当たり前に犇く神代。潘国に数多在る神柱と対峙して、尚もただ一柱の勝利とせしめたその偉業は、多くの神柱に対して優位に働く効果を併せ持つ。
それは太源真女であっても変わらない。本来、救世を始めたシータと対峙して、彼女が勝利できる可能性は万に一つも無かったのだ。
救世の号砲が上がった今、太源真女の助力は期待できない。
字義通り世界を壊す神域解放に対し、抗える可能性があるのはただ人とその頂点である神無の御坐だけだ。
「奴の信者と成り果てた論国海軍の侵攻を遅延させ、祭壇を朕の膝元に創ることで信仰から隔絶。
――出来る限りの仕込みはしてやった。現時点で、奴は極限まで弱体化されているはずだ」
「感謝します」
「時間稼ぎに託けて、朕も目当ては宛がっている。――礼は不要ん」
微笑む太源真女に背を向けて、感謝に会釈を1つ。謝意の返事を待つことなく、咲は遥か眼下に見える麓へと舞台から駆けだした。
力強く一歩二歩と、舞台の縁から大きく宙へとその身を躍らせる。
見送る太源真女の視線の先で、少女の身体から精霊光がふわりと溢れた。
奇鳳院流精霊技、異伝、――隼翔け。
可憐な足元に生まれる炎の足場。爆発に近い衝撃を踏み抜いて、少女の身体は滑るように麓へと翔けていった。
「ふむ。……おっと」
木立の向こうへと咲の後背が消えると同時、太源真女の足元がふらついた。
ふらりと千鳥足に危うく踊り、不意に力が抜け落ちる。
その背へと、女性の腕が伸びた。
「――玉体に触れる由、御許しを」
「許す。すまんな、雲岫」
崩れ落ちようとした神柱を支えた雲岫の気遣いに、肩を預けながら太源真女は返す。
艶を失ったその返事から窺える消耗具合に、雲岫は首を振った。
「魔教、武教に続き、天教と御身の神器まで遷し身に蕩尽した上で、強引に神域解放で龍脈を結んだのです。
幾ら御身が尊きに在ったとしても、代償無しとは思えないと洞主より」
「くく。偲弘め、いじましくこちらを横目に眇めていると思っていたら。
そんな事を考えていたのか」
「お陰で、御身が土に触れるのを防げました」
溜息混じりに会話を交わしながら、雲岫は脇の椅子へと太源真女を降ろした。
衣服の裾から黒く髪が流れるに任せ、それでも億劫そうに少女の神柱は身体を起こす。
差し出された急須の鶴口を直に咥え、注がれる清水を飲み干す。
美味そうに鳴る咽喉がやがて静かに、急須ごと押し退けた。
「……宜しかったのですか?」
「何がだ?」
陶器を片付ける硬質な響きの合間、雲岫が背を向けながら問いを投げる。
気のない太源真女の返事に構わず、雲岫は言葉を続けた。
「現在、対シータの戦闘を主導しているのは天子と高天原の勢力です。
玲瑛が信顕天教の武仙精鋭を率いているとはいえ、裏方に回っているにすぎず。
……このまま、天教の膝元で論功を好きにされるのは賛成できません」
「勘違いするな。論功を好きにさせるのではなく、丸ごとをくれてやるのだ」
「尚更でしょう。
最悪、後代に於いて、信顕天教が軽んじられる前例となってしまいます」
信顕天教の未来を売り渡すような神柱の判断に、無駄と承知の上で戴天雲岫は反駁する。
それでも神柱に判断を翻す気配はなく、忸怩と感情を残したまま片付けに戻った。
雲岫は信顕天教を代々与る戴天家の血筋であり、当代洞主である戴天偲弘の長女である。
更には天教洞主に次ぐ掌門人の地位を与る身であり、生まれた時から次代洞主としての教育を受けてきた。
太源真女が神域解放を行使する触媒として黎隠山に残らざるを得なかったが、今すぐにでも暮江鎮出の戦闘に後詰と加わりたいのが本音であろう。
「間違えるな、雲岫」
拘泥を残す雲岫の仕草に、それでも太源真女は揺らがなかった。
「シータと同じ理外に龍脈を結ぶ朕の神域解放だが、シータの方が上手である。
龍脈の奪い合いとなれば、間違いなく朕が競り負けてしまうだろうな」
「シータの方が強大だと云うことですか」
「その局面だけを見るなら、そうだ。
シータの救世を抑え続けるためには、其方と云う触媒が傍に侍らねばならん」
シータの攻勢を防ぐだけで手一杯だったのだから、相手の強大さも瞭然だろう。
それでも、偲弘による論国海軍の遅延策と雲岫の協力無くして、晶たちはこの戦場に立っている事すら侭ならないのだ。
戦後の信顕天教の立ち位置を案じる雲岫へと、太源真女は微笑みだけを返す。
「派手な表舞台は、晶とシータの舞いにくれてやれ。
裏方の八割を信顕天教が成し遂げれば、自然と真の戦功は真国が独占できる」
「是。理解しました」
「それよりも。――エドウィンと云ったか、あの論国のすぱいの動向は掌握しているか?」
得心に首肯した雲岫は、投げられた名前に双眸を瞬かせた。
エドウィン・モンタギューと名乗る、ロインズ保険会社の調査員。その正体が論国の諜報員である事は公然の秘密である。
周囲の感情を逆撫でにする可能性もあるため交流を限定していたが、
「……たっての頼みがあり、暮江鎮の外縁での観戦を承知しました。
表舞台は高天原が立ちますから、我々としても都合が良く」
「なら良いが、監視は厳にしておけ。
……恐らくだがあの男、一癖二癖以上は隠しているぞ」
「諜報とは、そう云ったものでしょう。ただ、御身が見た通り、ただ人の身であの戦場に関与できるものとも思えませんが」
「そうであるな」
怪訝と雲岫が返した応えに、太源真女はふと双眸へ翳りを落とした。
エドウィン・モンタギューが下位精霊しか宿していないのは、謁見の際に太源真女も直に確認している。
そもそも、天子ですらない身で、神柱の視線を欺けるとも思えない。エドウィン・モンタギューが凡夫であるのは、間違いない事実であろう。
――だが引っ掛かる。論国の衰退著しいとはいえ、西巴の端から外交に赴く人物として適当とも思えんが……。
「……それよりも」「うん?」
思考へと沈む太源真女の意識は、思わしそうな雲岫の呟きに現実へと戻った。
「輪堂咲は間に合うのですか? これ以降は時間との勝負です。救世が本格的に始まる前に片を付けるのが肝要となってきますが」
「何の為に玲瑛を前戦へ出したと思っている。
朕の神域解放とシータの権能は同じもの。――為れば、此方が健在である限り漸減戦術は可能と云う事だ」
♢
灼熱が視界を染め、慣れ親しんだ古い街並みが崩れ果てる。
その只中を、玲瑛は全力で疾走り抜けた。
熱波に煽られ、梁だった木材と漆喰の壁が脆く崩れる。通りの所々が灼熱に熔け、ゆらりと泡立つその底へと沈む。
これを、神柱と謳われるたった一柱の存在が生み出したと、その瞬間を見届けていた玲瑛ですら、現実として呑み込む事は難しかった。
それでも、疾走する速度を緩める事は無い。
戴天玲瑛がここに立っている理由はただ1つ、この為なのだから。
視界の向こう。炎の彩る狭間に、褐色の腕がゆらりと踊った。
轟々と熱に地鳴る中に関わらず、しゃらりと鉄輪の涼やかな響きが少女の耳朶を打つ。
――シータ!
そう認識すると同時、玲瑛は壁を蹴って宙へと跳躍。
「――あら? 畳み掛ける絶好の機会だったのに、神無の御坐は何処に逃げたのかしら」
「口直しに主菜を求めるなど、通俗な方ですね」
「武仙たち!」シータの軽口も早々に、少女は肺腑を震わせて大音声を放った。
「――状況開始!!」
――不惜身命! 照魂無悔!
寸暇の遅れなく、一斉に跳躍した信顕天教の武仙たちも、声を揃えて覚悟を返す。
その先頭に立って、玲瑛は虚空へと手を差し伸べた。
心奧に収められたものが、確かな存在として少女に応える。
――渾沌の掌に光輪あり、万物悪意を理外に返す鏡なれば。
――一を持てば万を生じ、万を持てば一に帰す。太極の帝たる理為り。
「返理来現」躊躇う事なく、玲瑛は己が切り札を解き放った。
「――天環返照鏡!!」
煌々と玲瑛の掌から光輝が溢れ、円環を象る。少女は滑らかに手首を返し、人差し指へとその円環を引っ掛けた。
くるりと回すそれは金色に輝く円環の神器。それを目の当たりに、シータは好戦的に微笑みを返す。
「私の救世を防いだは貴様の実力に非ず、増長したか人風情!!」
「敗けも煮詰まった辺りでしょう、白々しい!」
神柱と人の怒号が交差。間髪入れる事なく、シータは再び灼熱の槍を振り翳した。
龍脈越し黎隠山へと撃ちこんでも、太源真女の神域解放に阻まれてしまうのがオチだ。
――しかし眼前に居る少女へ直に撃てば、話は別だろう。
救世の号砲である灼熱の槍は、人間の耐久力を遥かに超える熱量を有している。
加えて、無差別に空間を圧搾する槍の爆発は、ただ人の防御で追いつけるものではないからだ。
「鋒俊!」
同時に叫んだ玲瑛の声は、シータへ向けたものではなかった。
応える声は無く、代わりに縄鏢が幾条も石畳の無事な箇所を穿つ。
それは神器ですらない、鍛えられただけのただの鉄刃。確かに視界に収めていた可愛らしいそれを無視し、
寸暇を於かず、シータは灼熱の槍を解き放った。
轟。圧倒的な熱量が、神柱の足元からを融解させて飛翔。刹那に彼我の距離を渡った槍の切っ先が、玲瑛へと到達する。
玲瑛も又、躊躇う事なく正面から灼熱の槍を受け止めた。
その様を見届けたシータの唇が、獰猛に吊り上がる。不壊の特性を持つ神器が、シータの一撃を受け止める程度は想定の範疇。
爆発で玲瑛ごと空間を圧搾するべく、両の掌を握り締めた。
神域解放を行使する余裕など与えない。
「圧しつ、 、」「――陰!」
同時に玲瑛の号声が交差。直後に爆発へと玲瑛が呑まれ、
――嘘のように灼熱が消え去った。
「私の槍を!」
「――遅い!!」
嚇怒から動きを止めたシータの懐深くに、玲瑛が踏み込む。
そのまま翻った円環の神器が、紅の軌跡を残してシータの腕へと激突した。
神柱の芯に、激甚と伝わる衝撃。
一撃を赦した。呻くよりも、その屈辱からシータは周囲に向けるべき余裕を忘れた。
空かさずに張り巡らされた縄鏢が精霊光を放ち、武仙たちが剣に乗って宙を翔ける。
飛刀術。芳雨省でのみ知られる信顕天教の秘術に、シータは瞠目を返した。
「封壇閉祀、勿擾救世之眠、奉此為律命!」
視界は疎か、意識からも忘れていた縄鏢が、結界符を励起させた封印結界に換わる。
他の神柱に対して効果は薄いが、名指しにする事で己に対する効力を限界まで引き上げたその結界に、シータの頬が激怒に紅潮した。
結界の隙間から降り注ぐ、武仙の放った呪符。それは、神柱と人が味わう、史上初となる空間飽和爆撃であった。
意識の外から狙い撃たれる屈辱に、シータは至近に立ち続ける玲瑛を睥睨する。
「それは、神柱の赦した所業では無いぞ、人如きが!!」
「鳥に吠えて戴きたいものですね、それは。あちらが先達でしょうに」
「知った口を――」
シータの悪態を遮り、再び玲瑛の神器が紅の軌跡を刻む。
一人と一柱。両者の譲らぬ攻防の最中、僅かにシータの理性が冷えた。
――此奴等。未熟とは云え、この小娘は己共の上意であろうに。構う事なく、呪符を投げつけてくるとは。
それよりも、至近で受け続けている玲瑛の消耗の方が深刻なはずだ。
幾ら身体を強化しても、内臓までは追いつけないのだから――!?
そこまで思考が及んだ時、シータは慄然と斜陽に染まろうとする冬天を見上げた。
味方からの爆撃の最中にも拘らず、玲瑛の眼差しが当然のように力を喪っていない。
それは、この状況が予定調和であると云う事を意味していた。
どれだけ堅かろうが、人が張った結界など片手間に砕ける強度しかない。
その上、神柱であるシータの玉体は、象を担う証左として不壊の特性を持っている。多少は驚いたが、呪符の攻撃は大雨程度の痛手に過ぎない。
それは、玲瑛たちも承知している、この戦闘の最大前提であるはずだ。
――つまり、呪符も結界も、シータに向けたものではない。
「お前。真逆、その鏡の権能は」
「先刻に直撃を受けたのに、漸く気が付くなんて間抜けが過ぎるわよ」
神器が灯す紅の光軌は、違う事なくシータの神気である事を意味していた。
更には、呪符の生み出す衝撃も、結界に封じられて余す処なく玲瑛の掌中に在る円環へと吸い込まれていく。
換わりに一際と勢いを増す、玲瑛の攻勢。
所有するものへの害意そのものを因果の円環に吸収し、所有者の力と換える。
渾沌たる太極の神器。天環返照鏡が、力強くシータの神気に染まりながら神柱の咽喉先へと軌跡を刻む。
「蛇女め。手癖の悪い真似ばかり相変わらずっっ」
「ご安心なさってください。前座程度で沈むなど、こちらも期待していませんので!」
入り乱れる紅の攻防も、やがて鎬を削る音を残して玲瑛が弾かれた。
流石に膂力で優ったシータは、腕を振り抜いた姿勢で玲瑛を睨む。
玲瑛自身は大したことが無い。警戒すべきは太源真女の神器であろう。
シータは玲瑛の掌中に在る円環の神器を睨み続け、
――自身の足元で回転を止めた金色の輝きには終ぞ気付く事は無かった。
弾き飛ばされた勢いのまま、玲瑛は手にした円環でシータの足元に在る円環に照準を合わせる。
力を吸収し己のものと出来るならば、放出も又、可能であると云う事実。
寸前に気が付いたが、もう遅い。
「こんな小細工――!!」
「――陽」
その瞬間。シータの足元に転がる円環が紅に染まり、解放された灼熱の槍が縄鏢と暮江鎮の結界を同時に貫いた。
轟音。一帯を廃墟とせしめた熱量さえも、夕陽に染まるへと連れるように過ぎてゆく。
「く、――くくっ」
灼熱の渦に染まりながらも、その光景にシータは思わず咽喉を鳴らした。
暮江鎮の結界が、自らの手によって崩れ落ちる。
己を縛っていた祭壇の重圧が淡雪と消える感覚にこそ、シータの相貌が喜悦に染まった。
「私に勝利できる唯一の鎖を、自ら断ったな太源真女!
残るは、神無の御坐の頸を落とせば、救世の障碍は最早ないも同然よ!!」
小五月蠅い武仙たちが夕日の空を飛翔する気配もなく、清々とシータは一歩――。
強烈な違和感から、その歩みを止めた。
シータが戦闘を開始したのは昼下がり、そこから時間は1刻と経っていないはずだ。
幾ら冬日の陽が短いとしても、空が斜陽に染まるなど有り得るのか。
そもそも、現在、頭上に架かっている天空総ては、玄麗の――!
「――そも、天の知ろ示す神域が吾だけのものと、誰が断じた?」
静寂を貫いて、玄麗の声がシータの意識を打つ。
振り向く神柱の視線の先で、童女の容をした神柱が領の掌を広げて見せた。
右の指を5本、左を4本だけ。合計9つの指がシータを指し示す。
「一番、腹立たしいが、――いちばん、其方に相応しい奴が、用があると恃んできてな。
したくは無かったが、晶の頼みゆえに了承した」
――神域解放。天から降るその声に、虚を突かれたシータの反応が一拍遅れる。
「ここのつ」
「落日に、燃える柘榴の、甘露かな、――盛りは過ぎて、一年に栄えと」
暮江鎮を斜陽に染め抜く夕陽の朱より、尚も昏い臙脂の斬閃が虚空すらも断つ。
一見は質素なだけの白の袴を翻し、叩き墜とされるは少年の大上段。
シータの意識が追い付いた頃には、既に回避も防御も赦さない間合い。
言葉に足る呼吸を咽喉が吐くよりも速く、落陽柘榴の神域解放がシータの正中を奔り抜けた。





