14話 天意を資するに、能わぬもの2
寸前まで寒風だけが支配していた暮江鎮の大通りを、勢いよく少年の脚が駆け抜けた。
その直後に轟音と爆風が吹き抜け、斑と路上を染めていた紙片が捲き上がる。
視界を遮る紙の群舞を視界に収め、夜劔晶は剣指を振り翳した。
振り下ろす。
「――疾ッ」
少年の意思に従い、紙箋兵であったその呪符に重ねられた別の術式が励起。紫電を撒き散らしながら、雷球がその場に顕現した。
息も衝かぬその直後に、角から圧し寄せた棘の波濤が雷球と激突する。
「晶! 木行は、 、」「判っています!」
晶の背で玄麗が警告を放ち、晶は怒鳴るように結論を遮った。
シータは火行に属する神柱であり、――当然にして、パーリジャータも火行に縁が深い。
そして夜素馨は、植物としての側面さえも持ち合わせているのだ。
木生火。刹那に棘が叢と雷球を衝き破り、微塵と砕いて天へと伸びる。
――路面を覆っていた水の鏡面に、棘の蠢く翳りが落ちた。
「パーリジャータは、炎から生まれる涅槃最初の樹。水行と木行が揃えば、勢いづくのは当然でしょう」
軋む棘の群生が、鎌首を擡げて晶を見下ろす。
「私の救世で、お前の護る現世を圧し潰してあげる!」
雪崩れるパーリジャータの向こうから、シータの勝ち誇る声が響いた。
たった独りの神柱が生み出した不壊の群れが迫る威容に、玄麗が唇を尖らせて紅葉のような掌を広げる。
「それも、」
棘の波濤が迫る際にも、神柱の手をそっと押し止めた晶の呟きが交差。
神器の濁流へと呑み込まれる――。
「織り込み済みだ」
焦躁の見えない晶の呟きと同時、儚い音を立てて棘は内側から溶け崩れた。
「…………は?」
純白の棘が無数の破片に代わり、向こうから顕れる晶が無傷で歩く姿。
予想だにしない結末に、シータは絶句した。
パーリジャータは神器である。
そして、ラーヴァナの九法宝典などの例外を除き、神器は本質的に不壊を有するからだ。
神器を破壊する権能はあるにはあるが、この場に立つ玄麗がそれを持ち合わせていないことも同様に知っている。
「何故」
混乱のまま、パーリジャータを握っていたはずの己が右手へと視線を降ろす。
そこに変わらず握られていたパーリジャータを目で確認し、漸く己の犯した間違いに気が付いた。
パーリジャータが破壊された訳ではない。手から伝わるのは、未だ健在と応える己が半身の感触であった。
「どうだ? 自分の得意で出し抜かれた気分は。随分と新鮮だろ?」
「パーリジャータを壊した訳じゃない。…………あの蛇女の権能かしら」
「何のために、咲を囮にして芳雨省の風穴近くに誘い出したと思っている。
お前自身は遷し身で制限されている今なら、太源真女の権能の方が優先されるのは道理だろう」
「――やはり、下賤は駄目ね。私の手勢と神器まで与えたと云うに、あれの戦力を大して削ぐこともできずに終わるなんて」
返る晶の眼差しが、何よりもシータの推測が的中した事を告げてきた。
だからと気分が高揚する訳もなく、シータの怜悧な眼差しが苛立ちに歪んだ。
太源真女の崑崙に直結している風穴は6つ。それらを守護する勢力こそ、真国六教とその神器である。
太源真女の護りを削ぐべく、シータはこれまで論国海軍に真国六教の神器を回収させてきたが、思惑は上手く行っていないのが現状であった。
――加えて、
シータは、漸く自分自身の状況へと意識を向けた。
「気が付いたか」
「お前たちが強く。いいえ、私が弱くなった?
そうか、此処は、私を捕らえる為の罠なのね」
「そうだ。他の神柱の神域で隔絶し、内部の人間を極限まで少なくした。
慶べよ。此処は、お前だけを奉じる為に用意された祭壇だ」
龍穴と云う限られた神域に留まってまで、神柱が現世を求める理由は幾つかある。
世界の柱として秩序を維持する為、箱庭たる現世を愉しむ為。
――その為にも、奉じるものを得て、より強靭に世界へと在ろうとするのだ。
神柱が一方的に人を守護しているのではない。その一方で、ただ人の信仰が神柱を維持しているのである。
「風穴を外れた暮江鎮なら、龍脈越しに神域を狙うお前の手管は使えぬであろう?
吾が降ろした神域で太源真女の権能を隠せば、この程度の芸当は可能よ」
「玄麗媛。私の足元を掬って、得意の心算? ……この程度、」
玄麗の茶々に切り返し、シータは鞭剣へと戻したパーリジャータを一振りした。
僅かに歯噛みを残して、地を駆けだす。
「――逃れられぬよ。パーリジャータは其方自身。強固な象として鍛造されたそれは、今や其方専用の檻と同然じゃ!」
玄麗の声に背を押され、後を追うべく晶も地を蹴った。
直ぐに、出口に向かって大路を駆けるシータへと、晶の速度が追い付く。
並走した瞬間に、晶は呪符を宙へと放った。
「疾ッ」
呪符の霊糸を視界に定め、晶の剣指が虚空を斬る。――それと同時に、振り返ったシータの腕が複雑に踊った。
――不発。霊糸は切れる事なく、逢えなく呪符が路面へと落ちる。
予想だにしない結果。直後に放たれた斬撃を、晶は咄嗟に横道へと回避した。
「――それを誰が与えたか、その恩ごと忘れた不躾どもが。
ラーヴァナが真言で世界の在り様を伝えたように、私が手印を其方たちに与えたと云うに!」
「自分自身で隠したものを、今更に恩着せがましいな。神話も恩も、お前自身が念入りに隠しただけだろうが」
石と漆喰が破片と飛び散り、晶を追い縋るように鞭剣が家を削っていく。
息衝く暇もなく、晶は大路へと大きく迂回した。
抑々、ただ人の身で神柱に挑む、その発想が常軌を逸しているのだ。
口調だけ威勢を装ったが、晶にそれほどの余裕がある訳ではない。
現状も、一見すると優位に見えるが、その実、追い込まれているのは晶の方。
シータがこの準備に千年以上を費やしていた一方で、晶たちが準備できた札は限られているからだ。
シータの手札がどれだけあるか判らない状況で、晶に残された手札は残り数えるほども無い。
――特に、暮江鎮の罠を相手に曝してしまったのが痛いな。
相手に見破られる直前に自分から告げる事で、何でもない風を装ったが。――あれでシータが下手に勘繰ってくれなければ、無駄に札が晒されただけになってしまう。
何方にしても、これ以降に晶が採れる策は、短期決戦の一択しか残っていなかった。
民家を削る爆風が止み、茫漠を土煙が視界を塗り潰す。
その向こうにシータが立っていると確信し、晶は躊躇う事なく粉塵の中へと飛び込んだ。
戦ぐ風が視界を晴らし、抜けた眼前にシータが視界に入る。
来ると確信していたのか、躊躇う事なく相手も鞭剣を振り翳して応戦の姿勢を取った。
交差。晶とシータの斬閃が重なり、幾重にも火花を散らす。
余裕を失ったシータが、体勢を退きつつ巻き込むように鞭剣を撓らせた。
「La――、Aaa!!」
縦に切り裂く鞭剣の斬道が、絡みつくように晶の太刀を打ち据え――。
元はパーリジャータだと云うその斬撃は、呆気なく晶の太刀を中程から断ち切った。
甲高く悲鳴を残し、太刀から玄の神気が霧散する。
「これで――」
それでも勢いを殺すことなく、晶は一歩を踏み込んだ。
「取り回し易くなった!!」
刀身から零れる黒の輝きが、滂沱と視界を浚う。
清冽な冬の気配が晶を取り巻き、瞬時に高みへと練り上げられた。
義王院流精霊技、異伝、――佳月煌々。
加速した莫大な神気がシータへと届き、余さず虚空に轟き渡る。
――狙うは、シータの持つ鞭剣の柄。
「月明星稀!!」
本来は視界一帯を薙ぎ払う精霊技が、シータの手元にのみ集中して吹き抜けた。
勢いに負けたか、純白の杭へと戻ったパーリジャータが虚空へと舞う。
シータが徒手となった事を確かに確認し、晶は後方の玲瑛へと視線を向けた。
「いいぞ、玲え、 、」「――駄目じゃ、晶!」
晶の台詞を遮り、玄麗の警告が飛ぶ。
その背から吹き抜ける爆風が、未だ相手の健在を告げてきた。
「私よりも、私の神器を警戒?
――そう。お前たちの狙いは、私を弱らせて封じる事ね」
バレた。的確に晶たちの狙いを指摘する声に、晶は大きく飛び退く。
逃さじとばかりに、風塵を捲いてシータが晶へと距離を詰めてきた。
「祭壇とは、神柱の神域にして封領地。
お前たちは結局、私の救世を止める算段がつかなかった訳か」
「――く、そっ」
徒手のままシータからの猛攻が再開され、虎と鷹を象る腕と蹴りが畳み込まれる。
半分に刀身が目減りした太刀で衝撃を凌ぎつつ、晶はその攻めを必死に耐えた。
「救世は、末世を繋ぐ最後の希望。お前たちの一存で終わらせて良いものではないものね。
現世に神去りを止める手立てが無いならば、結局は私に縋るしかないいのは道理でしょう」
「それが判っているなら、どうして大人しくしなかった!」
晶の防御を擦り抜け、腹にシータの蹴撃が入る。
二転三転。転がって距離を取りながら、晶は跳ね起きた。
「神去りは何れ来る。今じゃないにしても、千か万年か。
永劫を誇るなら、何故、その程度の短い時間を待てなかった」
「――うんざりだからよ」
少年の糾弾を、少女にしか見えない神柱は莫迦莫迦しそうに応えて見せた。
「ただ人共は口を開けば、やれ日々の辛さが、生きているのが厭だとか。私が創ってやった世に不平不満ばかり。
――あれを言祝いだラーヴァナだってそうよ。私を差し置いて、下らない男に惚れこんで」
――だから、龍穴から放逐してやったのよ。
つまらなそうにそう断じるシータは、晶の隣に立つ玄麗を視界に収めて嗜虐に嗤った。
「お前はあの男に良く似ているわ。神柱を誑し込んだ辺り、特にそう」
「神無の御坐か」
「だけど、あれよりは未熟に過ぎなくて善かった。
太源真女と組んで仕込んだ策は、これで打ち止めかしら?」
「さあな」
「この都を祭壇にして、私を封じる。狙いは悪くなかったけど――」
少女の容をした神柱は、余裕を取り戻したのか頬に指を当てて首を傾げて見せた。
「そもそもからして、お前たちは私の狙いを勘違いしているわ。
私が此処に向かったのは、此処に咲が居ると思っていたからよ」
嗤うシータが背にした向こうで、紅に輝く神気の柱が天を衝いた。
煌々と静かに。向こうに見える山は、信顕天教の総本山である黎隠山か。
身構える晶へと、シータは悠然と嗤った。
暮江鎮は確かに風穴から離れているが、それでも龍脈の上として繋がっている。
そしてその先にある風穴と神域には、咲が居るはずであった。
「暮江鎮で罠を張ったのは下策だったわね。
――咲の魂魄を割る前に捕捉できたのは、私も僥倖だったわ」
にたり。シータの神気の彩を佩いたような、紅の唇が勝利に歪んだ。
風穴で走火入魔に備えている咲は、晶たちの中でも特にシータと縁が深い。
神気を別け与えられた、新しい神霊であるエズカ媛。その契約により、手中で護るラーヴァナの九法宝典。
そして、余り話題には上らないが、もう一つ。
――ラーヴァナが密かに持ち込んだ、シータの神器であるパーリジャータ。
そしてパーリジャータは世界最多を誇るが、元々一つの夜素馨から手折られた神器だ。
「パーリジャータの権能は、現世の外に在る龍脈で互いを結ぶ。
崑崙は視えなくても、太源真女の妨害さえなければ片は付くわ」
自分の別け身でもあるパーリジャータを通じて風穴から龍穴を抉るのは、対象となるパーリジャータの位置さえ判っていれば、然して難しい問題ではない。
残り少ない神気を総て掻き集めてでも、崑崙の龍穴を陥落しさえすれば帳尻は合う。
「救世が先になっちゃうけれど、此処まで九法宝典に近ければ誤差の範疇。
――ここで救世を始めましょう」
そう言葉を残し、シータは己に残った神気を総て、手に持つパーリジャータへと叩き込んだ。
――それは、混沌を齎す棘。乳海に突き立つ、創世の導。
世界を繋いだ臼の偉業を持つ、純白の神器である。
「ブーマウ・アンタハ・サンプールノーピ・スヤート、
――アハン・トゥ・ケーヴァラン・アーダルシャム・パシャーミ!」
灼熱の神気が迸り、パーリジャータを通じて風穴へと逆流した。
ラーヴァナが見せたように、それは龍脈越しに龍穴を穿つシータの常套手段である。
その確かな手応えに、その場に立つ誰もが策の成就を確信した。
♢
神代を含めて、この長距離穿孔とも云うべきシータの一撃を防いだ神柱は存在しない。
何故ならば、龍穴や風穴の位置は誤魔化せても、動かす事はほぼ不可能だからだ。
直結している風穴越しに撃たれれば、如何に防御していても神域は間違いなく破壊され尽くされる。
所有者の意思を無視して、勝手に純白の薙刀が少女の掌中へと顕れた。
「来ました!」
「――だから云ったであろうが。あの阿婆擦れは、失敗も反省も知らぬ。
朕の知る限りであるなら、黴が生えきった戦術を得意満面で行使するであろう」
少女の緊迫した報告に、別の少女の声がつまらなそうに応じて見せる。
僅かに山の影が差し込むそこは、黎隠山の風穴の直上に在る広場。
ひらひらと片手で仰ぐように、広場の中央に立つ太源真女はもう片方へと告げた。
「病み上がりで耐えるなよ。
神錬丹で魂魄を強化したと云っても、救世の一撃に耐えるほどの強度はないからな」
「ですけど――」
「其方の主戦場はこの直後だ。
判ったなら、とっとと朕に向けてそれを撃ち込まんか」
揺らがぬ神柱の決定に、緊張した面持ちで輪堂咲はパーリジャータを構える。
純白の切っ先は一直線に、太源真女へと向いた。
「大丈夫ですよね」
「愚問。――放て」
余りにも平然と神柱が応える。
その直後に、咲の持つパーリジャータから紅く神気で象られた槍が撃ち込まれた。
莫大な熱量に空間が軋み、撓むように広場の石畳が波打つ。
太源真女の編む神気と純粋な灼熱が、その中央で鬩ぎ合った。
「盗み聞いていたはずだ。――ラーヴァナは一時、朕の下に身を寄せていたと」
槍が更に灼熱を帯び、滲むようにその先端が太源真女の護りを穿つ。
じりじりと。だが確かに、太源真女との距離が狭まっていく。
迫る神器の一撃を視界に、太源真女は暮江鎮に立つであろうシータの姿を捉えた。
「ラーヴァナは其方の手管を総て、朕に云い遺している。
潘国での狙いが巧く運ばなかったら、間違いなく真国が次の標的になるだろうとな」
だからこそ徹底的に崑崙と直結した龍脈を隠したし、主要な風穴に真国六教を置いた。
シータの戦術を考えれば、それは当然の帰結と云ってもいいだろう。
ラーヴァナと太源真女の想定外は1つ。シータが先に救世の狙いとしたのは、西巴大陸の方であった事か。
その所為で、数百年単位で策を遅延させざるを得なくなったのだから。
「ラーヴァナの分である。――その痛み、甘んじて受けるが善い」
その言葉を最後に、太源真女はシータの神気へと優しく触れた。
――その指は一つの真理、玉体は地の始まりから生まれ出た。
――一つが二つ、二つが四つ、四つが八つに。死から生が絶えず移ろうは、その象徴。
世界の始まりに在った渾沌を象と知ろ示す、それは太源真女の神域解放である。
「乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤」
太源真女の呼びかけに応じ、8つ在る己の神器が応じるように見えない龍脈を結んだ。
その直後に、太源真女の神器が結んだ道を徹り、灼熱の槍は元居た場所へと飛翔。
――遠く見下ろす暮江鎮が、神代の一撃を受けて灼熱に輝いた。
轟音。爆風が熱波を乗せて黎隠山の高みへと届き、2人の少女の前髪を揺らす。
「朕の教えを、道術と呼ぶのはこれが由縁である。
――世界の外の龍脈への干渉が、貴様だけの専売特許だとでも思ったか」
茫然と見降ろす咲の背で、得意気に太源真女がそう呟いた。
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