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泡沫に神は微睡む  作者: 安田 のら
五章 濫海浄罪篇
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14話 天意を資するに、能わぬもの1

 咽喉(のど)から大きく呼吸(いき)を吐き、晶は腰を僅かに沈めた。


 ――一歩。

 広場を薄く満たす水が石畳ごと爆ぜ、少年の体躯が刹那に加速。

 次の瞬間。晶の足は、シータの懐深くへと大きく踏み込んでいた。


 荒れ狂う衝撃に、水面(みなも)に覆われていた石畳が乾いた表面を曝す。

 彼我の挑む視線が交差する中、晶は大きく脇構えから振り被った。

 義王院流(ぎおういんりゅう)精霊技(せいれいぎ)、中伝、――弓張月(ゆみはりづき)


 黒く煌めく精霊力が弧を描き、少女(シータ)の喉元へと牙を剥く。


 唸る斬断の一撃を睥睨。

 迎え撃つシータの右の人差し指と中指が、天を衝かんと垂直に立った。


 煌めく神気が膨れ上がり、救世そのものである少女の唇が嗜虐(しぎゃく)に歪む。


「――切り裂いてあげる」


 灼熱を纏う志尊の腕が揺らぐように獣爪(つめ)を象り、息衝く刹那に叩き落された。


 虚空さえも5本の跡に裂くそれは、神代の掌である。

 神気にまで練り上げなかった晶の精霊技(せいれいぎ)など、比較にもならない。


 圧し潰されるように黒の斬断が砕け、その軌道を遡るように晶へ迫った。


 ――(ヴィヤーグラ)

 その光景に晶は、絵の中でしか見たことのない猛獣を幻視した。


「――ひの」


 絶体絶命でしかない間合いの攻防に、童女が呟きを差し込んだ。

 その瞬間。シータと晶の間に(わた)る息触れ合うほどの狭間に、薄く亀甲の容をした揺らぎが生まれる。


 神柱の一撃が儚く見えるその揺らぎへと激突。――一切の手応えも得る事なく、神気で織られた爪は虚空を裂くだけに終わった。


「紙一重に(わた)る、那由多の距離。――現世を護る貴女の神器ね? 忌々しい」

「然り。九重に架かる(あれ)の亀甲は、如何なる星辰(神威)を徹す事を能わぬ。

 其方の救世も何れに斉しく、(あれ)の亀甲の前には膝を折るしかない」


「そうかしら」

 揺らがず返される玄麗(げんれい)の自信に、シータの唇が皮肉を刷く。

「……なら、これはどう?」


 少女の肢体がゆらりと泳ぎ、舞うように体勢を変えた。

 旋風を描く爪先へと神気が織り重なり、昏く一際の紅光を放つ。


 見たことはない。――だが、その見慣れた神気の運動に、晶の背筋へと否応なしの怖気が奔った。

 九蓋瀑布(くがいばくふ)の権能を忘れ、全力で後方へと跳躍する。


「お前!!」「――燕牙(えんが)


 晶が吐き捨てた直後、紅の昏光が灼熱の飛斬と放たれた。


 それは見紛う事無く、高天原(たかまがはら)で詰み手知らずと称されたその基礎の精霊技(せいれいぎ)


 僅かに反応が遅れた晶へと、無慈悲なまでに殺到する。

 轟音。応じるべく(ひるがえ)る晶の斬閃に沿って、灼熱が連れるように爆ぜた。


 膨れ上がる爆炎の赤。その裡を突き破り、神器の権能に護られた晶が家屋の1つへと。瓦を蹴立てて、落下するように着地。


「その精霊技(せいれいぎ)……」

「当然でしょう? 私は数多在る神柱の武(いさおし)を謳ってきた踊り子(カタック)よ。

 精々が十数年、生きただけの小娘の武芸を即興で舞う程度、然して難しいものでは無いわ」

「――ちィッ」


 悠然と爆炎越しに響くシータの声に舌打ちを残し、晶は屋根伝いに駆けだした。


「晶ぁっ。あの精霊技(せいれいぎ)――」

「咲の精霊技(せいれいぎ)だ!! 想定よりも1つ悪い。――結界を狭めるのは無し、維持に注力しろ!」

「お前は!?」


 並走する久我(くが)諒太へそう怒鳴り返し、晶はシータの方向へと爪先を向けた。

 爆炎が僅かに晴れ、少女の神柱が紅蓮の髪を風に泳がせる姿が見える。


「――足止めだ。とにかく時間を稼ぐ」




 屋根から飛び降りる際に、晶は体躯へとしがみつく玄麗(げんれい)を抱き返した。

 満足そうな吐息を胸元に残し、腕の隙間からシータを睥睨する。


「時間稼ぎとは豪気に云い放ったが、龍穴も無い、現世に在るだけの神柱を潰すだけぞ」

玄麗(げんれい)はシータの詳細を知っていますか?」

「……余り知らぬ。あの神柱は神代を終わらせた神柱。

 詳細を知るものは、その殆どがシータの手で消えておる」

「龍穴は疎か、奉じるものも神話も無い。――なら、どうやって現世に維持を、 、」


「――私を放ってお喋りなんて、随分と余裕ね」


 そう疑問を口に出しかけた晶へと、シータが(わら)いながら一歩。

 滑るような歩法で、一気に距離を詰めた。


「その武芸!!」


 再び、視た記憶のある足捌きに、晶は顕神降(あらがみお)ろしに任せて跳躍。空中へと身体を躍らせた。

 煌めく神気を振り払い、虚空へ差し伸べたシータの腕に白い棘が顕れる。


「その程度で(サルパ)から逃れようなど、笑止」


 一振りしたか否から銀閃が放たれ、くねるように晶へと畳み掛けた。

 空中で晶が応じる事、1つ2つ。呼吸(いき)衝く間も無い猛攻に耐え切れず、3度目に再び屋根へと叩き墜とされる。


「げほっ」「――晶!」


 玄麗(げんれい)を庇いつつ、二転三転。跳ね起きた晶は、眼下に立つシータが握る武器を睨んだ。

 白い棘であったはずのパーリジャータが、何時の間にか鞭にも似た剣に姿を変えている。


 潘国(バラトゥシュ)()いて鞭剣(ウルミ)と呼ばれるそれを一振り。虚空に裂音を残し、シータは首を傾げて見せた。


「ああ、これ? 別に不思議なものじゃないでしょう?

 ラーヴァナが嘗て振るった武芸は、総て、この私が手づからに教えたもの。この武器だってそう。パーリジャータを手折ってラーヴァナに与えたのは、他ならない私なのよ」

「くそ。その武器には嫌な記憶しかないってのに」

「あら、嫌いだった? ――じゃあ、こんな手妻はどうかしら」


 くつり。少女が咽喉(のど)を鳴らし、所作も殆ど無く地面を蹴る。

 悠々と家屋を飛び越え、晶の向こうへと軽やかに着地。


 ――振り向きざまに、少女の躰が加速した。


 人間大に大気が刳り貫(くりぬ)かれ、その代償に立っていた家屋が倒壊する。

 瞬後。紅く煌めく神気が、引き連れるようにシータの軌跡を描いた。

 奇鳳院流(くほういんりゅう)精霊技(せいれいぎ)、止め技。


「!?」「――石割鳶(いしわりとんび)


 晶の驚愕とシータの嘲笑が交差。揺らぐ亀甲の護りに、パーリジャータが正面から衝き立った。

 膨れ上がる爆炎。原初の燈火を宿した斬断が、幾重にも九蓋瀑布(くがいばくふ)が生み出した亀甲の表面で衝撃を残す。


 ――やがて、熱量は勢いを落とし、九蓋瀑布(くがいばくふ)の権能の前に静かに消えた。


 晶を護るのは、那由多と云う距離そのものだ。仮令(たとえ)、火行の神気であろうとも正面から突破する事は不可能。

 威力を全てに振り切った石割鳶(いしわりとんび)であろうとも、星辰から現世を護る絶対の防御を前にすれば必定の結果だろう。


 ――だが、その決まりきった結末をしても、シータの嘲笑は揺らがなかった。


「――ディヴィヤン・ヴァラン・プラープヤ」

 鞭剣(ウルミ)の影が熔けて揺らぎ、やがて一振りの槍と姿を変える。

「パヴィトラヴリクシャ・シャーカー・パッラヴァーハ・プラサーリヤンテ・ムーラーニ・チャ・シーグラム・シャタヨージャナサーガラーン・アティクラミシャンティ」


 少女の唇が謳う言祝ぎと共に、その槍の切っ先が亀甲の正中を貫いた。

 無音。何の抵抗も無く、槍は亀甲へと吸い込まれる。


「無駄な事を、シータ」玄麗(げんれい)の声が勝ち誇った。

「これまで、那由多の護りを貫けたものなど居らぬ。諦めて、――」

「貴女こそ忘れたのかしら? 那由多の距離など、偉業とするにも可愛らしいから誰も謳わなかっただけよ。永劫を息衝く神柱であれば、少しばかりの遠出に過ぎないでしょうに」


 ぱき。シータがそう云い置かない内に、硬く脆音を立てて槍が再び容を崩した。

 鋭く棘が槍から生え、亀甲の表面を覆い尽くす。


「パーリジャータは神威ある限り千里万海に根を(わた)した天恵の樹! 涅槃にさえ届いた根を前に、那由多程度の距離で届かないとでもっ」


 その速度は瞬くうちに、亀甲の奥に(わた)る那由多の距離を踏破した。

 薄く揺らぐ亀甲の裏側から、鋭い棘の1本がその切っ先を覗かせる。


「っ!?」「――ふた!!」


 晶が後退すると同時、那由多の距離を純白の棘が亀甲を貫いた。

 追い縋る鋭い棘へと、玄麗(げんれい)は紅葉のような掌を突き出す。


 新たに生まれた揺らぎに激突し、やがて棘の勢いが静かに止まった。


「距離だけかと思ったか。

 (あれ)の亀甲は、那由多と呼ぶ単位そのもの。永劫に近い時間が、根を張り巡らせる余裕など与えぬわ!」

「貴女も忘れたようね。パーリジャータは、嘗て涅槃(来世)に息衝いた樹よ」


 負けじと(わら)い、シータの指が複雑に踊る。その意思に従うかのように、パーリジャータの先端が不気味に揺らいだ。

 晶が太刀を手放すと同時、白い棘の波濤がその刀身を絡め取る。


「貴女御自慢の亀甲も、夜素馨(パーリジャータ)の前には薄板同然ね」「――晶!」


 シータと玄麗(げんれい)の声が交差。その狭間に立つ晶は、息を整えて空を見上げた。


 晶とシータが戦闘を始めて、未だ幾らも時間は経っていない。

 加えて、シータを相手に、晶たちの手札を盤面に晒してみせるのは愚策だ。


 咲の精霊技(せいれいぎ)を模倣した辺りを鑑みると、晶が(いたずら)精霊技(せいれいぎ)を行使するのは、シータの攻勢を助長させる可能性があった。


 泥臭く、相手が苦手とする分野を使って、物量だけでも勢いを削る必要がある。

 そう覚悟を決め、晶は腰から呪符を数枚引き抜いた。


「疾っ」「――子供騙しをっ」


 少年の剣指が霊糸を一息に斬り飛ばし、天に織り重なる呪符が黒く神気の輝きを放つ。

 水撃符。過剰なまでの神気の後押しを受け、その総てが水行の礫と降り注いだ。


 シータは末世を灼くべく生まれた神柱である。その性質は火行に属し、水克火の法則を決して無視はできない。

 仮令(たとえ)、亡ぶ事は無いとしても、気分の良いものではないはずだ。


 笑顔をかなぐり捨てたシータの額に、太く青筋が浮かぶ。

 その嚇怒が生んだ一瞬の隙に、家屋の向こうから少女が1人、シータへと飛び掛かった。


「玲瑛っ」「――準備は終わりました。夜劔当主、後は貴方が離れるだけです」


 戴天(ダイティエン)玲瑛がそう叫び、腰から別の呪符を引き抜く。


「神柱に挑む不敬の上に、余所見とは巫山戯けてくれるわね」

「これでも忙しい身なので、救世はお呼びでないのですよ」


 苛立つ侭に不満を舌に乗せたシータへと、少女は負けじと返す。

 次の瞬間。玲瑛の体躯へと、パーリジャータの棘が一気に襲い掛かった。


 棘に棘が生え、その勢いが波濤と変わる。ただ(・・)人の躯程度なら微塵に変える暴虐の波を前に、それでも玲瑛は怯むことなく呪符を翳してみせた。


山河尽(山河は果て)人遗忘(人が忘れ)唯我(ただ私だけが)独记(覚えていようとも)


 呑み込まれる。幾重もの棘が雪崩れ込み、家屋を向こうまで薙ぎ倒す。

 漆喰の壁が一瞬で土煙と化し、パーリジャータの棘はそれすらも轟音と共に圧し流した。


 ――やがて、僅かに残った土煙が晴れたそこには、傷一つなく立つ玲瑛の姿があった。

 人だろうと術だろうと微塵に砕くだろう神器の棘を防ぎ切った界符が役目を終えて、玲瑛の前で静かに燃え尽きる。


「パーリジャータの渦を、」

「六踏を修め、ただ(・・)人を仙と為し、何れ天帝の位階へと至る。

 ……真国(ツォンマ)六教の目指すものが、人を天に昇らせることなれば、神器の不壊を再現する程度、驚く事は無いでしょう。」


 弾かれるように両者は間合いを仕切り直し、玲瑛は軽く服の裾を払う。

 傷は疎か、旗袍に裂傷の1つも見当たらない。ただしつこい土埃だけを払う少女の姿は、完全にシータの予想外のものであった。


「夜劔当主と私の契約に、私はできる限り戦闘に加わらない旨がありました。

 それが貴女を警戒してのものなら、――成る程、燻り出すのにも苦労する訳ですね」


 緩く、銀にも似た精霊光が、少女の肢から絡みつくように踊る。

 それはシータも見たことのない、複雑に体系立てられた道術(タオ)の精髄だ。


「貴重な神錬丹と上位の界符を犠牲にしましたが、成る程、神柱相手なら安い代償でしょう。私も随分と道化を強いられましたしね、

 ――見返りは期待しても良いのでしょう? 夜劔当主」

「ああ、任せろ。大抵の可能なものなら、奇鳳院(くほういん)家に強請ってやる」


 自信満々に応える少年へと、無茶は云いませんよと少女が苦笑を返す。

 不満そうに玄麗(げんれい)が頬を膨らませるのを余所に、シータの視線もその先に向かった。


神無(かんな)御坐(みくら)。お前、何処までを想定していた」「――神柱は嘘を吐けない」


 シータが視線を巡らせた先。砂塵を踏んだ少年が、静かにその疑問へと応えを返した。


「それは、あんた達(神柱)が現世の秩序そのものだからだ。

 神柱としての象を背負う以上、言葉一つでも嘘は吐けない。そんな事が赦されれば、世界そのものが維持できなくなってしまうからな」

「…………」

「それは(ひるがえ)って、神柱が得意とするものにも影響される。――それこそ、お前がラーヴァナ(水行)と盟約を交わした理由だ。違うか?」

「――――黙れ!!」


 晶の口上を寸前で遮り、シータが一息に加速する。猛然と石畳を砕き、少女の体躯が宙を舞う。


 躯が軸から渦を描き、解けるように脚が旋回。神気が(ガルダ)の爪先を象り、唸りを上げて晶を狙った。


「――()の!」


 皮一枚の寸前で、九蓋瀑布(くがいばくふ)が新たな権能を晶の前に創り出した。

 それは、陽の創り出す影よりも薄い鏡面。向こうが透けて見えるほどのそこに、褐色の爪先が衝き立つ。


 轟音。それまでとは違う異質なまでの衝撃が返り、シータの蹴撃は呆気なく弾き返された。


「私の蹴撃を!!」


「三枚目が其方の限界か」吐き捨てるシータへと、玄麗(げんれい)(おもむろ)に応えを返した。

「忘れたか、シータ。(あれ)の亀甲は九重に架かる天の蓋。

 亀甲の表層を崩したとて、九枚の何れかが其方を神性ごと喰い止める」


 嘲るように童女は(わら)い、晶の首すじへとこれ見よがしに(かんばせ)を埋めて見せた。


「先ほど云ったな。――神柱であれば、那由多の距離など少しばかりの遠出だと」


 九蓋瀑布(くがいばくふ)は見上げる空そのものの神器。那由多と云う概念を象としたその9枚は、1枚1枚が現世を護るための絶大な権能を有している。


 世界最大にして、文字通りの世界最強を背負う神器。

 九蓋瀑布(くがいばくふ)の強度こそが、現世の強度限界そのものなのだから。


「その通りよ。嘗ての星辰にはなな()つまで徹した輩も居たものだが、」

 くすり。咽喉(のど)だけで含み(わら)う童女が、揶揄いに肩を揺らした。

「――其方はどうやら、その域にまでは至れぬようよな」


玄麗媛(げんれいひめ)!!」


 嚇怒を吐いたシータの背で、遠く白い狼煙が上がる。

 ――時間だ。


 晶は漸く、数ヶ月に(わた)る策が成功した事を内心で実感した。



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― 新着の感想 ―
一気読み!めっちゃ面白い
九蓋瀑布最強!
アリアドネもシータも、そもそも失敗したからいまこんな事態になっている訳で、よくそれで相手を下に見れるものだなと。 ラーヴァナは、その辺下準備に手を抜かないで文字通り死力を尽くしている感が有った物だが…
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