13話 宴も酣、千秋楽が告げられて3
――時間を少し遡る。
早朝の黒く澱めく海原の向こうを、少女の容をした神柱は金色の瞳で静かに眺めていた。
しばる寒さの潮風に頬を撫でるを任せ、その眼差しは揺らぐことなく。
朝靄の立つ向こうに隠れた論国海軍の戦艦を、確かに捉えていた。
凍みるほどに寒い砂浜に陣取って暫く。ざり、と砂の音を耳に、彼女は後背へと視線を巡らせる。
その先に立つ戴天偲弘の姿に、眦を僅かに歪めてみせた。
「晶は」
「順調であれば、今頃には暮江鎮に到着しておるでしょう」
椅子に座る太源真女へそれだけを返し、華奢な神柱の後背に慇懃と壮年の洞主は控えた。
いっそ非礼とも見えるその姿勢を咎めるでもなく、太源真女は椅子に頬杖を突くだけ。
「……そうか」
「後詰で呼び寄せた剣隊から連絡が。
動員できる道士たちを総て、暮江鎮の郊外に配置終わったとのことです」
「結界の合図は」
「既に。――然し、宜しかったのですか?」
「何がだ?」
偲弘の窺うような問いに、太源真女は鼻を鳴らして先を促した。
偲弘の懊悩を見透かしたものなのだろう。その声音には、明白に面白がる響きが含まれていた。
偲弘とて、それは充分に理解している。
お戯れを。見た目だけ年齢20間際としか見えない相手へと、偲弘は改めて口を開いた。
「此処に居るのは市井の家門から募った剣隊と武侠のみ。作戦は承知の上ですが、もう少し武仙の頭数を揃えておくべきだったのでは?
……幾ら我々が囮だとしても、最低限の武力は必要かと具申1つ」
「勘違いするな。向こう側の方こそ、此処にいるのが精鋭だと確信しているのだ。
張りぼて相手に空試合と知ったときの、奴ばらどもの間抜け面を見てみたいと思わないんだか」
「策動に遊ぶ趣味はありません」
「お堅い奴め。だから禹に出し抜かれるのよ」
「前洞主の仕出かしは関係ないでしょう。
それよりも、向こうの動向です。……本当に、シータは暮江鎮の街中に顕れるのですか」
「十中八九。あれの目的が救世であるなら、ラーヴァナの奪還は避けて通れぬ」
神柱は語りに満足したのか、沈黙が会話の後を支配する。
さざ、 、ぁ。寒風の波打つ一際に、偲弘は太源真女の判断を思考の俎上へと並べた。
――云いたい事は判る。だが、疑問が尽きないのも、又、事実。
特に、
「シータはこれまで、極力表に出ないよう行動してきました。
隠れ棲むものは、穴倉の奥で事を終えるを好むもの。それがこの局面に至っては、派手に振舞う? ……少々、腑に落ちませんな」
「確実を期するなら、その選択肢しか残らんからだ。
――そうさな。神柱が現世に降りる手段は、主に2通りある」
偲弘の疑問を晴らす頃かと、太源真女は人差し指を1本立てて見せた。
「1つは己が眷属である半神半人や、天子を器にする顕神降ろし。朕らが行使した遷し身は、これの外法に当たるな」
「己の眷属を持たないシータは行使できないと、以前に仰っていましたが」
「然り。現世に顕れておらず龍穴を持たないシータにとって、己の眷属を持つ意義は薄い。
天子の方は以ての外だ。あれにとって天子の裡に降りるなどは、亡びる方がマシだろうしな」
シータにとって許容できる打開策こそ、太源真女の見せた神器を代償とする遷し身だけだったと云う事だ。
くく。咽喉の奥を揺らして嗤い、少女の指が2つ目を指し示した。
「ならば、シータが選ぶ手段は残る1つ。己が果たした嘗て偉業を再現し、己の顕現を世界の方から強制させる方法だ」
神柱とは、神代に刻まれた偉業そのもの。畢竟、その偉業を越える為にはその神柱が必要になる。
人が神柱を呼ぶのではない。世界に刻まれた歴史が、準える結果として神柱を呼ぶのだ。
「然し、この方法には欠点がある。
世界が神柱を呼ぶのは究極、自動的な現象の過程としてだ。
救世を始めれば最後、顕現したシータも当然として自由に動くことが難しくなる」
故に。太源真女は、シータの狙いをそう締め括った。
「――救世を始めるよりも早く、シータはラーヴァナを確保する必要があったのだ」
シータにとってすれば、パーリジャータの1つを無駄にしても、救世が動くよりも早くに事態へと介入する手段は貴重である。
遷し身の欠点諸々を無視しても、神柱が単独で顕現する術の持つ魅力に、何も考えず飛びついたはずだ。
「そこです シータにとって、最大の目的は救世だけなのでしょう。
ラーヴァナの奪還は、己の目的に必要無いはずですが」
「シータが幻視しているのは、有り得ぬ理想の来世だからだ。
あれの偉業は現世を終わらせて来世を繋ぐのみ。要は、繋げた来世であっても、理想を確定させる事はできん。
延々と賽子を振るしか能がないなら、他の神柱の象で出目を強制させる必要がある」
忘れたのか? そう太源真女は、戴天偲弘へと悪戯に嗤って見せた。
ラーヴァナの象は、ただ人足れと言祝いだ祝福である。真に知性ある人として認められるべく、ラーヴァナが垂らした一滴の教え。
「ラーヴァナが齎す祝福の本質は、人として足る規定条件の決定だ。
奉じさせるただ人を理想通りに作り替える事で、シータは来世を理想像へと造り変える気なのであろうさ」
「ですが、かつての盟友とは云え、ラーヴァナは自らが切り捨てた相手です。
仮令、目覚めさせた恩があると云っても、粛々と従うと決まった訳でもありませんが」
己が理想を確定させる為に、ラーヴァナの持つ偉業を必要としている。――それは判る。
だが、ラーヴァナとシータの盟約は、神代の終わりに断たれているはずだ。
裏切られた相手に対し、ラーヴァナが協力する理由は無い。
偲弘が向けた最後の疑念に、太源真女はそれでも揺らがず頭を振った。
「ラーヴァナがこれまで振るった策を考えてみよ。
シータの手段を模倣した以上、逆も叉、然りでなければならぬ」
「それは? ああ、そう云う事ですか。
……ではあの天子は、太源真女さまとの会談でシータが敵だと気付いた振りを装ったのですか」
「当たり前であろうが。その為に態々、朕の向けた茶番に乗っかったのだしな」
そこまで聞いて事態を総て理解した偲弘は、晶と名乗った少年の言動を記憶に並べた。
覇気は疎か、やる気も薄そうな言葉。だが玲瑛や鋒俊から聞いた限り、行動の起伏が妙に激しく感じたことを思い出す。
――そして、
晶が行動を派手にするとき、必ずと云ってもいいほど隣に居なかった相手。
晶が何を警戒していたのか、偲弘は漸く理解に至った。
「……天子は、誰が裏切り者か気付いているのですね」
「うむ。それに朕らの内情を盗み聞くために、シータが苗床を密かに利用しているだけだ。
朕もそれを利用したから、向こうから云わせればお互い様ではあるが」
「利用した?」
「シータを確実に暮江鎮へと誘き出すために、彼女に街の散策を赦したのだ。
雲岫に訊いたお勧めの茶楼を教えておいたから、街の中心に間違いなく誘き出せる」
どれだけの時間が砂浜で過ぎただろうか。雷鳴に似た音が後背の彼方から響き、反対に微風が緩く抜けてゆく。
その奇妙な感覚に、戴天偲弘は芳雨省の省都がある方向を見遣り、
――思わず、双眸を見張って立ち尽くした。
「あれは…………!!」
「やはり目の前の餌に我慢できなかったか、踊り子風情」
絶句する偲弘の視線の先を追い、呵々と太源真女は慶びを咽喉で鳴らした。
山野が遠くに窺う彼方。暮江鎮のある方向で、天の降り降りる光景が見えた。
それは、星辰から現世を護る天蓋そのもの。見上げれば必ず其処に在る、世界最大の神器。
昼と夜が混在する天を見上げ、絶句する人々を余所に太源真女は呟く。
「拙速が巧遅に勝るとは常識であるが、逸ればそれは腰の入らぬ一撃に過ぎん。
そこが貴様の終点だ、朕と天子の歓待を存分に楽しんでくれ」
♢
「願い奉るは、磐生盤古大権現」
少年が振り下ろす指の先で、間欠泉の如く水の柱が天を衝く。
時雨と降り頻る水飛沫の狭間から、綺羅と黒曜に彩られた着物の童女が顕れた。
「――静寂に微睡み給え、霊亀冬濫玄麗媛!」
石畳に水が薄く張り、天に架かる昼と夜を映し出す。
その水面に落ちる波紋が消え、五行の一角である水行を知ろ示す神柱は薄く双眸を見開いた。
「――シータか。気位ばかりを鼻に掛けた其方が、肉の器に成り果てるとは。
宗旨替えにも程があろうに」
「は。寝てばかりだった小娘が、男の味を知った途端に訳知り顔で腰振りか。
これだから、神無の御坐は始末に負えないのよ」
鼻を鳴らして玄麗との会話を切り上げ、シータは晶へと視線を移した。
穏やかなだけの少年の表情が迎え撃つ。そこからは、どれだけシータの策を見抜いていたか視抜く事ができなかった。
「…………何時から気付いていたか、聞いてもいいかしら」
「最初の疑問は、ラーヴァナが央都の風穴を討ち抜いた方法だ。
あれがパーリジャータを利用したものだとしたら、先ず、どうやって他の神柱の権能を利用できたのか。そんな新しい疑問が見えてきた」
「――吾の神域に留まっていた頃。晶は其方の神話を伝わっているだけ、ほぼ全ての書籍に目を通しておる。
其方たちの神話を、恐らくはかなりの精度で掴んでおるぞ」
茶化すように玄麗が告げ、シータの不満気な視線を晶の背に隠れて遣り過ごす。
舌を出す稚気た応酬を黙殺し、踊り子の姿をした神柱は晶へと視線を戻した。
無言の促しを得て、晶も改めて言葉を繋ぐ。
「潘国の神話を読んだ限り、ラーヴァナとシータに関して最初の逸話はほぼ同じだった。
特に盟友と約定を結んだ下り。シータは夜素馨を自ら手折り、盟友の証にラーヴァナの武器としたと」
静寂を落とす天蓋の神器を、晶は遠く見上げた。
手を伸ばせば届きそうなほどに近い天の蓋は、それでもただ人である晶の手に余る神器でもある。
現世の何処に在っても、無条件に神域を降ろすその神器が晶の掌に赦されているのは、信頼を寄せられているからに他ならない。
「神柱が偽れない以上、神話も真実のみしか書けない。――だが書かれない神話ってなるとどうだ」
「…………」
「単純に考えて盟友の証を平等にするならば、互いに神器を行使する許可を与えるはずだ。
シータがパーリジャータを赦したなら、ラーヴァナは九法宝典を行使する権限を与えた辺り。
ならお前は、盟約を盾にラーヴァナの象を行使する心算だろ。――違うか?」
「いいえ、正解よ。
全く。念入りに神話を潰したはずなのに、何処で漏れたのかしら」
「ラーヴァナをランカーに戻せって契約したからだ。あれで疑問をほぼ確信に変えられた」
「ああ、あれ。――なら貴方は、あの頃から私を怪しんでいたのね。
ランカー領に直接向かわなかったのも、私がそこで待ち構えていると考えたから?」
「どうせ、論国にも協力者を仕込んでいただろうが。
そう考えると、青道で擦れ違ったあの女性尉官。神無の御坐嫌いのあんたと、随分と気が合いそうな感じがするな」
晶の返答に図星を突かれ、シータはつまらなそうに髪を手櫛で梳いた。
裏側を知ればどうと云う事は無い。晶たちを捕らえるべく論国海軍の内部に仕込んだ己の協力者を先導したのも、敵側に確信を助長させるだけの下策でしかなかったと気付く。
「これまでにラーヴァナがパーリジャータを行使したのは、源南寺と央都の2度。
その内、央都でのパーリジャータの行使は、ラーヴァナの九法宝典を着けた存在による行使だ。
その直後にお前は咲と契約を交わしている。怪しむなと云う方が無理あるだろう」
そう告げながら、晶はゆっくりと距離を取った。
「判らないのが、咲の役割だ。
ランカー領にラーヴァナを戻すのは良いとしても、それで済ますには上位精霊を神霊に成長させるなど、どう考えても過剰だ」
最後に残った疑問は、シータの策動に於ける咲の役割である。
ランカー領にラーヴァナを戻すためと云いつつ、その契約に対してシータの与えた恩恵が大きすぎる。
「多く苦難を人の子に与えるのよ。その代償と考えて、それほど不思議な恩寵かしら」
「不思議だね。特に神話まで隠したあんたなら、結んだ契約の条項を1つ2つ黙っていてもおかしくない」
――例えば。
「神霊としたエズカ媛を通じて盗み聞く程度なら、朝飯前じゃないか」
「やっぱり気付いていたのね。
だから咲と距離を取ったり、それとなく太源真女から離していたりしたの」
咲自身は無意識だろう。そもそもからして、こう云った防諜周りからは縁遠い少女だったのだ。
神柱とは云え、己の奉じていない他国のそれを相手に、護国を信じる少女が肯う行為とは考え難い。
それに、ここまで気に掛けているなら、シータの隠している策は少なくとも、咲に関して未だ残っている筈であった。
「…………先に云っておくが、暮江鎮から逃す心算は無いぞ」
高天原を離れてからこの方、目減りする一方だった神気が急速に晶の裡へと満たされてゆく。
じり。少年の足元に残る水溜まりに波紋が曳き、同時にシータの爪先も緩く弧を描いた。
鎧袖一触の気迫が、彼我の間合いに張り詰める。
「ここが先途だ、シータ。――救世だけを夢見て、果てて逝け」
「策を暴いて終わった心算かしら。神柱共の争いを鎮めた私の舞いは、既に始まっていると云うのに!」
――瞬後。少年の腰が沈み、白と鞘奔る音を残して太刀を抜刀き放つ。
足元から飛沫が弾け、軌跡を残して疾駆した。
激突。斬撃ではなく、玄と紅の神気が一足一刀の間合いで交差する。
文字通り、神代からの闘争が、古くから続く省都の一角で幕を上げた。





