12話 訪いの音を、知らせるもの2
「――世を繋ぐシータは唯一、其方を憎悪する定めを持つ神柱と云えよう」
太源真女の告げた言葉の意味に、晶は鋭く眼差しを向けた。
「それは、俺が現世を護るから?」
「然り。正確には、其方たちが打ち立てた偉業を透して、神柱は現世に降り臨むからである。
神柱を打ち立て、現世と神代を護る。――故に、其方たちを杭の打ち手と呼ぶのだ」
「より良い来世に臨むシータとは、根本的に相容れないと云う訳か。
だけど、それが本当なら、俺が居ないと、シータも現世に降臨できないんじゃ?」
「あの阿婆擦れから云わせれば、其方の協力こそ願い下げであろうさ。
ならば、あれの狙う手段は、残る一つの方よ」
「手段とは?」
現世に確固たる神柱として降臨する。その点だけに限れば、シータの目的自体は非常に単純明快である。
神柱とは奉じられる存在であり、正者より信仰を集める為に現世に在り続けているのだから。
だが、太源真女の言葉通りなら、シータの目的には晶が絶対に必要となるはずだ。
晶の疑問は、想定済みのものだったのだろう。打てば響く勢いで応えを返し、太源真女は手にした盃を一息に煽った。
淡く甘い異国の花の香り。晶が覗き込むと、盃に満たされた液体が物云わず水面を波立たせる。
「それこそ、あれがこの一連を企図した核心よ」
自身が手にする酒盃を共に眺めながら、少女の容を取る神柱は薄く嗤いを唇に浮かべた。
「己が偉業の再現。神柱とは即ち、神代に刻んだ象なれば、その再現さえ行えば自動的に降臨する」
「救世は、シータでなくてはならないから?」
「神柱とは畢竟、そう云う存在だ。
朕以外の誰もが朕の象を達成できぬように、救世を求められる局面が調えられたら、現世の方からシータを降臨させるであろうさ」
「具体的には?」
さらりと返るこれまでの疑問の応えに、晶は思い切って踏み込んだ。
太源真女の云いたい事は、理解できる。
だが、偉業の再現と聞いても、晶には今一つ実感が薄いのも事実だ。
シータの象は救世。つまり、現世がどうにもならなくなった状態に陥れば、望む望まないに関わらずシータは現世へと顕れると云う事だろう。
問題は、何を指して救世となるのか。偉業とは詰まる処、その問題さえも相応の難易度である事を意味しているのだから。
「シータの神話は、その起こりからして少々特殊だ。
――何しろ、神代最期に起きた唯一の偉業であるからな」
――神代に於いて、神々とは天地にのみ存在していたという。
永くそれだけの為に過ぎ去る時代の涯、退屈に飽いた神々は、己の象を主張せんがためだけに天地の陣営に別れて闘争を始めたのだ。
「天地を別け断っていた神々の衝突。それは数多の神々を巻き込み、その殆どを星辰の彼方へと放逐した。これが今に呼ぶ、神去りである」
「神柱が減る。現在、鉄の時代と呼んでいる現象と同じものですか」
「状況は違えど、過程としてはその通り。……天は乱れ、人の子等の嘆きが地を満たしても尚、己たちの闘争を止めようとはしなかった。
――やがて乳海が溢れ、神々をその思い上がりごと呑み込もうとするまで、な」
天地が別け断つ世界の外に広がっている乳海。その彼方より何時の間にか、シータは訪れたと云う。
神柱の闘争を嘆き、そして嘲笑い。彼の踊り子は陶然と、世界の中央で踊り狂う。
その踊りは神々の興味を惹いて止まず、やがて天地の神々は、シータを中央に乳海を攪拌するほどに踊り始めた。
「――やがて天地が攪拌した頃を見計らい、シータは乳海の底に沈む一柱へと巧みに取り入ったのだ。
――それこそがラーヴァナ。ただ人を護るべく、たった一柱、天地に戦いを仕掛けた祝福の神柱だ」
海底からラーヴァナを掬い上げたシータは、パーリジャータを与えた上でラーヴァナを天地の神柱に再び嗾けたのだという。
舞踊に疲れ、天地の闘いに興味を喪っていた神々は、ラーヴァナとシータによって数を減らしていった。
無駄な神柱を減らしたシータは、やがて乳海に神柱の亡骸を沈め、現世へと世界を繋いだのだ。
「これが現世の始まりを謳った、天地攪拌の神話だ。
この神話から解るシータの偉業は、大きく別けて2つの要素で成り立っておる。
つまり、神去りと乳海の攪拌。これらが揃えば、シータは自動的に現世へと降臨する」
2つ細い指を立てて見せつけ、太源真女はふわりと微笑んだ。
「神去りは其方も知る通り、西巴大陸で順調に広がっておった。
とは云え、アリアドネが対処に乗り出した以上、暫くは落ち着いてくれるだろう」
「対処とは?」
「向こうが聖伐と呼ぶ、神柱の再眷属化だ。アリアドネの負担は増えようが、決定的な崩壊は遠ざけられる」
神柱を属神として、龍穴の出力以上の霊気を得る波国の外法。その原理を応用する事で、アリアドネは他の龍穴の負担を代替してきたのだ。
元々、神去りは、那由多の涯に訪れる終焉を指し、1000年程度で発生するような事態ではない。
今回の神去りに至っても、パーリジャータを仕込んだ上で強制的に引き起こしたもの。
神去りに停滞の気配が生まれた事で、シータは焦ったのだろう
未だ現世に降臨していないシータは、他の神柱とは違い、現世に対する干渉力は非常に低い。
意図的な神去りがシータの手管だと発覚すれば、最悪の場合、国家を越えた封じ込めが行われる可能性もあるからだ。
「故にシータは次善の策として、真国へと目を付けた。
真国の神柱はただ一柱、朕のみが坐している。朕を崩せば、東巴中原を局地的に神去りで満たせると踏んだのであろう」
――愚かな事にな。
ふ、と。太源真女の呟いた唇が、凄絶と笑みを象った。
「もう一点。乳海を攪拌する為の杭であるパーリジャータを、誑し込んだ論国の手勢を通じて東巴中原の各地へと仕込ませれば、シータ降臨の条件は揃う」
「神話では、天地の神柱が争っているのでは」
「重要なのは、結果的に何をどうやって揃えたか。その過程が合いさえすれば、闘争は重要ではない」
神話に於いて、天地の神々は闘争に明け暮れ、遂には神柱の数を減らしたと云われている。
そもそも論、神代に比べて現世の神柱自体、非常に数が少ない上に制限も多いのだ。
闘争を絶対条件にしてしまうと、再現そのものが不可能になってしまう。
神柱の数が減っていれば、天地の神柱の対立は演出程度で事足りるのだ。
「じゃあ、ラーヴァナの役割は何だ?
どう考えても、向こうがシータに協力する理由はないぞ」
「シータにとってあれは、勝利の為の条件だ。
其方の云う通り協力は拒否されるだろうし、ランカー領に戻られても面倒だったろうな。
だからこそ、ランカー領からも距離を置いた東巴中原が、天地攪拌の再現に最適となった訳だが」
本来は、ランカー領の龍穴から放逐した後、その時が来るまで手元で厳重に封印する算段だったのだろう。
しかし、ラーヴァナはシータの思惑から逃れ、シータから潘国を奪還すべく高天原の掌握を目論んでしまった。
「高天原の侵攻に関しては、あの阿婆擦れも焦ったであろうさ。
もし、ラーヴァナが高天原に勝利すれば、シータの勝ち目は喪われてしまう。
敗けたとしても、ラーヴァナが亡びると天地攪拌に於けるシータの勝利が難しくなってしまうからな」
「勝っても負けても、高天原はラーヴァナにとって損の出ない無謀な賭けだった訳か。
だけど、ラーヴァナの意に反して、亡びる事も無く俺たちが勝利してしまった」
「シータが、勝利させたのだ。
咲と云ったか? ただ人の小娘を一時的な協力者と見立てて権能を貸す事で、ラーヴァナを身動きの取れない状態にまで追い込ませた。
お陰で、現状は表向き、シータにとって理想通りに見えているはずだ」
何しろ、天地攪拌を起こすだけなら、今にも起こせるからだ。
くつくつと咽喉を鳴らし、太源真女は晶へと躯を寄せた。
冷たい潮風よりも滑らかな少女の肌が、晶の腕へと絡みつく。
「開戦のとりがあは、シータにくれてやった。
であれば、主導権を握る事の好きなあの神柱なら、間違いなくこう考えるであろうな――」
♢
冬枯れが奔り抜ける山間に、浅黒い肌の爪先が静かに落ちた。
暗闇はただ閑に密やかに、陶磁器ほどに艶を湛えたその素肌を撫でて過ぎる。
昏く広がる眼下を見下ろし、それは紅く煌めく双眸を愉し気に眇めて見せた。
「――此処に至るまでに、随分と気を揉まされたけど。もう焦る必要は無いわね」
しゃらり。微かに着物が衣擦れを囁き、艶めかしく鉄輪が足元で鳴る。
暫くぶりの現世を愉しむように、年頃の少女の容をしたシータは軽やかに踊った。
「太源真女も愚かな事。
論国の裏に私が居るとも知らず、見す見すと敵の手駒を招き入れるとは」
太源真女は嘗て、真国に坐す他の神柱を平定した過去がある。
ただ一柱として真国に君臨するこの地の神柱は、故に性が苛烈を極め強大である事が知られていた。
だが、如何に強大であっても、所詮は個である事に変わりはない。
28本14対。世界最多を誇るパーリジャータの小さな棘にとって、その眼力は鈍く映って見えた。
「私には、現世へ降りる方法が無いとでも?
貴女の得意とする神器の遷し身。あの抜け道は、数多の神器を削り出せる私にこそ相応しい業よ」
シータ自身は未だ顕れていないが、その象であるパーリジャータは既に現世に存在しているのだ。
他の神柱の支配地に現界する手前、太源真女以上に制限は有るものの、シータ自身は自由を取り戻したも同然であった。
「念のために、論国を引き込んでおいて善かったわ。
――ねぇ、そちらの首尾は上々かしら?」
「問題ありません。論国の復権派は、我が世の春を夢想している最中です。
後少しで天子を仕留められる時に邪魔されたのは、流石に腹が立ちましたが」
不意に虚空へと、シータが問いを投げかける。
シータの背に広がる暗闇から、低く女性の声が返った。
「高天原を勝利させた時点で、天子の介入は覚悟の内よ。
私もあの時は少しばかり期待したけど、気にしていないから」
「お気遣いいただき、ありがとうございます」
「貴女はいつもそれね」
四角張った女性の声に、シータの肩が愉しそうに揺れて返す。
爪先ごと踊るように振り返った先で、かさりと草の踏み砕ける乾いた音が響いた。
論国の軍服が、確かな実体を伴って夜風に揺れる。
ハリエット・ホイットモア。未だ海上の人であるはずの論国の大尉が、鋭い眼差しを柔らかく臥せて一礼した。
「軍人としての性分は、変えるのも難しいものにて。卑小たるこの身が、御身を煩わせる事なければ幸いです」
「気にはならないわ。だって貴女は、私が特にと目を掛けた子だもの。
貴女の上司は、王の魔弾に疑いを持っているかしら」
「ヴィクター・キャベンディッシュは、権勢に素直な駒です。
色好い絵を見せてやれば、都合よく解釈できる程度の知能は持ち合わせていますし」
「なら、私が使い潰してあげるのが善意と云うものね。
不思議には思わなかったのかしら。自分に絶対の忠誠を誓う軍人が、都合よく前に現れるなんて」
「大佐は天然でしょう。
男社会の軍で私がなぜ出世できているのか、理解しているのかすら怪しい相手ですから」
「じゃあ、状況の制御も簡単かしら?」
シータの問いに、ハリエットは頤に指を当てて思案に暮れた。
状況の制御を。と云う事は、軍の到着予定をずらす必要があると云う事だろう。
現状でも、かなり艦船を急がせているのだ。
不可能ではないが、そのためには手札を一枚、切る必要がある。
「芳雨省の沖合に到着するのは、当初の予定通り2日後です。――これ以上となると、ノット数以上の無理を利かせる必要が生まれますが」
「不可能とは云わないのね」
「簡単ではありません」
「無理は云わないわ。貴女にお願いしたいのは、その逆だもの」
シータから返された予想外の応えに、ハリエットは瞳を瞬かせた。
つまり、到着を遅らせると云う意味。それ自体は難しい要求ではないが、組織行動を直前で変えるためにはそれなりの理由が必要となる。
「開戦を遅らせると云う事ですか」
「ええ。以前に話した通り、天地攪拌に於いて私が勝利する為には、ラーヴァナが絶対に必要なの。
ラーヴァナはランカー領に直接向かうと踏んでいたのだけれど、気を利かせた高天原が、直接芳雨省まで届けて来てくれたわ」
直接、龍穴から彼女を抉り出す準備も進めていたのに、無駄になっちゃった。
明け透けにそう笑うシータへと、ハリエットは首を傾げて見せた。
「ラーヴァナが既に、芳雨省に到着しているのですか」
「太源真女は隠した心算のようだけれど、間違いないわ。
私が手頭からに愛を注いだ神霊とラーヴァナの気配が、お誂え向きにも芳雨省の風穴から伝わってくる」
「と云う事は、開戦は御身が芳雨省の風穴を陥落させてから?」
「ええ、そうなるわね」
ハリエットの伺う声に、悪意の欠片すら窺わせない少女の弾んだ返事が返る。
両の掌を合わせ、無邪気にシータは、唯一の協力者へと跳ねるように舞ってみせた。
「さあ、ハリエット。救世を始めましょう。
――この下らない現世を脱ぎ捨てて、新たな世へと私が導いてあげる」
遅くなり申し訳ございません。
読んでいただきありがとうございます。
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