12話 訪いの音を、知らせるもの1
――芳雨省、省都暮江鎮。
信顕天教での会談を終えた翌日。
陽が沈み、夜を待つだけになった芳雨省の省都の片隅で、輪堂咲は独り行き交う人の流れを眺めていた。
内々に開戦は知らされているのだろう。人の足はどこか忙しなく、仕事終わりに緩んだ風情は見られなかった。
「ふぅ」
嘆息を1つ。茶樓の表通りに設えられた卓上へと、咲は茶杯を置いた。
ことりと空杯の底が硬質の響きを残し、吹き晒しの寒風が空だと杯の熱を奪う。
少女の唇から白い呼吸が一陣、ふわりと捲いて異国の夕暮れへと消えた。
「此処に居られたのですか」「――玲瑛さん」
笑いを堪えるような呼びかけ。その方向へと咲が視線を向けると、卓の対面に戴天玲瑛が腰を下ろす。
「どうして此処が?」
「青道には見劣りしましょうが、これでも芳雨省随一の繁華ですよ。
東巴大陸鉄道の途中駅もありますし、見慣れぬ服装を見れば武林に一報が寄せられます」
「ああ。……着替える必要がありますか?」
玲瑛の注進に、咲は己の服装を見下ろした。
高天原では広く認知された衛士仕様の隊服であるが、元々は論国の水兵服である。
馴染みがある分、意識はあまり向かなかったが、西巴大陸人の多い青道を一足出れば目立つ事この上ない。
青道でも似たような会話をしたな。そうぼんやりと考えつつ、咲は椅子へと座り直した。
「不要でしょう。高天原の若い友が芳雨省の危難に助力すると、各家門の剣隊末端に至るまで周知徹底しましたので。
――これで不埒を考えようものは、周囲も見えない馬鹿です」
「そんな事は、 、」
辛辣な玲瑛の評に、咲は思わずくすりと咽喉を鳴らした。
加えて、今この瞬間から玲瑛が随伴しているのだ。
この僅かな時間。芳雨省でも随一の安全を得た店先で、玲瑛は咲と微笑みで対峙した。
「晶はどうしているか、ご存知ですか?」
「天子さまならば、芳雨省の東岸へと遠出をしています。……如何にも、気にかかることがあるそうで」
「そうですか」
短い会話が途切れて、再び沈黙が支配する。言葉を捜そうと、玲瑛は冷たく放置された茶器に気が付いた。
潘国から高天原まで、茶道は東巴方面で広く嗜まれている風雅の1つである。
国柄に違いがあるが、真国の古い作法の1つに、冷えた茶器の暗喩は内密の話である事を玲瑛は知っていた。
店主に一瞥を送る。その無言の要請に首肯で返し、店主は店の奥へと静かに消えた。
聴覚を強化すればその限りではないが、そもそもから高天原の言葉を履修しているものは殆どいない。
「人払いは済ませました。……何か気になる事でも?」
「では、率直に。
――玲瑛さんは、太源真女さまの対応をどうお考えですか」
盗み聞きの心配は無いと判断して、玲瑛は咲の方へと向き直る。
促しを得て、咲も重く懸念を舌に乗せた。
「何方にしても、論国が攻めてくるのは間違いないでしょう。
元々からして、論国の侵攻に対応する為に私は高天原へ渡ったのですから、疑う所以はありません」
「玲瑛さんのご承知に有るは存じております。ただ、考えるほどに太源真女さまの行いが怪しく思えて。……そもそも、玲瑛さまが高天原を訪れるは、先代洞主の遺言であるとお聞きしましたが」
「遺言とまではありませんが、警告は確かに。
祖父は開明的でしたが、その真意は周辺国の動向を危惧してのものでしたから」
信顕天教の先代洞主である禹は、生前から技術革命に理解ある人物として知られていた。
一見するだけなら不利に思える条件を批判諸々から呑んだ上で、東巴大陸鉄道の線路を率先して芳雨省に通したのだ。
発電技術や蒸気機関に必要となる、大規模な鋳鉄技術の模倣。幽嶄魔教との関係改善を青道租界の成立以前から進め、六教によって事実上の分割統治されている真国を統一しようと見据えていた節まである。
信顕天教が現状に追いつけていられるのは、禹の先見が明らかであった証明であろう。
「ですが、玲瑛さんを高天原に向かわせたのは、太源真女さまの企図するものと。先代洞主の危惧を、大神柱が横槍で奪った事にならないでしょうか」
「流石にそれは、意見1つに穿ち過ぎでしょう」
「そうでしょうか……」
神柱への非難ともとれる咲の危うい言動に、玲瑛は鋭く掣肘を囁いた。
誰にも聞かれていないと云う、安心感あってだろう。しかし、真国唯一の神柱を卑下されるのは玲瑛をしても良い気分はしない。
咲もその辺りは理解していたが、それでも忸怩と言を翻そうとはしなかった。
玲瑛へと、咲の双眸が鋭く差し込まれる。
「失礼かと思いますが、先代洞主に警告を受けたのは――」
「夏の入りでしたか。祖父より呼び出されて、自分が死んだら高天原に話を持っていくようにと。祖父が死んだのは昨年の暮れでしたから、私が動いたのはそれからになりますが。……何かご不審でも?」
「時系列が合わないと。太源真女さまが高天原の事態を把握したのは、龍脈の流れが変わった時だと仰っていました」
静かに2人。探り合う視線が絡み合い、やがて離れた。
「そうでしたか?」
「ええ。その後に、夢渡りで玲瑛さんを動かし、高天原に使者として渡らせたと聞きました」
「怪しむようなところは無いと、存じますが」
「高天原でパーリジャータが抜かれ、龍脈が書き換わったのは、葉月の下旬に入ろう頃です。
夏の終わりではありません。
つまり、僅かではありますが、玲瑛さんが夢渡りを享けるよりも、先代洞主さまが警告する方が早かった事になる」
咲の台詞に、玲瑛は頤へと指を当てた。
戴天禹の警告と太源真女が事態を把握してからの行動にある、僅かな時系列のズレ。
疑問としても些細なものに過ぎず、玲瑛が行動を起こしたのも年明けでしかない。
警告から行動のズレが大きすぎるのだ。こうなってしまうと、何方が先など水掛け論にしかならなかった。
それでも、言を放ったのが嘘の吐けない神柱である以上、見過ごせない違和感である。
内奥に鋭く切り込もうとする咲の疑問に、玲瑛は応えるものを持てなかった。
僅かに沈黙を置いて、それよりも、と玲瑛は無理矢理に話題を変えた。
密談が終わったと判断したのだろう。店主が沈黙の合間を縫って並べた新たな茶器が熱く湯気を燻らせる。
「咲さんは精進潔斎へと入る身ですが、準備は宜しいでしょうか」
「……本当に呑まなければなりませんか? これ」
はた、と両の掌を合わせた玲瑛へと、咲は懐から晶に渡された丹薬を摘まんで見せた。
神錬丹と呼ばれるそれは赤黒い色見をして、どうにも滋味や効能があるとは思えない。
「――取り敢えず、矢鱈と持ち出さないでくださいね。
そんな見た目でも、天教が知り得る限りの薬道の粋を集めた仙丹なんですから」
「匂いが受け付けないんですが、 、」
触れた指に残る、腐臭に近い錆びたそれ。薬草だけでは有り得ない匂いは、体に良いと云い難いもの。
咲の情けない抗弁に、気持ちは判ると苦笑しつつ玲瑛は窘めた。
「咲さんの陥っている精霊力の漏出する入火走魔は、精霊力の制御に慣れたものが罹る状態ではありません。――つまり現状こそ、シータの狙いである可能性は高いとみて良いでしょう」
「私を殺したところで、シータの得にはならないと思いますが」
玲瑛の言葉に、咲は少しだけ唇を尖らせた。
太源真女が警戒していたとしても、咲にとってシータとは、契約を与った恩義のある神柱である。
エズカ媛を神霊へと昇らせた件然り、敵意を覚える事も難しい相手なのだ。
この土壇場で敵だと云われても、心情的に切り変えが難しいのも当然だろう。
――そしてそれは咲のみならず、遠く咲と離れて行動している晶も同じ状況であった。
♢
咲と玲瑛が会話をしていると同じ頃――。
芳雨省の省都である暮江鎮から船で川を下った川沿いの質素な係留所に、晶たちの乗る船が接舷した。
誰がと指示が投げられるよりも早く、舫が結ばれ、同行した数隻が舳先を並べる。
船底の軋みを残し、砂利の敷かれた地面へと人の影が幾つも降り立つ。
その内の一人である晶は、戴天偲弘と肩を並べ周囲を見渡した。
暮れなずむ斜陽を背に、潮騒の囁きだけが見渡すものたちを迎える。
「こんなに浜が広がっているなら、此処に省都を立てた方が合理的なんじゃないか」
「当初はその意見も多かったと聞いておる。――が、この一帯は浅瀬が多くてな。高喫水船が係留できる港を建設するには、技術も費用も足りなくて立ち消えになった」
晶の呟きに偲弘が応じ、地面に置かれた荷物の1つを手にした。
相当な重量があるのだろう。壮年の洞主に踏み躙られて砂利が重く悲鳴を上げる。
「行くぞ。伝達は先に走らせたから、質素でも宿は準備されておるはずだ」
周囲が夜闇に沈む頃、晶は宿の桟に腰を下ろし、漸くの人心地を吐いていた。
連れてきた何名かが警備に当たる背を、晶は何と無しに眺めていた。
「――どうした、天子。
物憂げな表情なぞ、其方には似合わんであろうが」
「……太源真女さま。俺を経由して顕神降ろしを強引に行使するのは構いませんが、些かに軽率かと存じますが」
当初は神器を経由して顕れていた太源真女であったが、晶の心奧を経由する格好で現界を続けていた。
「そこまでの負担でもあるまい。ならば、今の際を愉しむ風雅程度に考えれば良かろう。
――ほれ、天教の洞主も気を利かせよ」
確かに負担はそこまで無いものの、気分のいいものではない。
晶からの無言の抗議を余所に、ひらひらと太源真女が掌を揺らし、その意を汲んだ偲弘も一礼だけ残して場を辞去した。
少女の容をとった神柱はくつくつと嗤い、戸惑う少年の隣を陣取る。
場所を譲れと少女の身体が割り込むに連れ、早々に晶は撤退を選んだ。
「何じゃ、つまらぬ。――暫くの天子に浮かれて、妹は神柱の扱いを教えなかったのか」
「妹?」
「其方たち高天原のものは、高御座と呼んでおろうな。
あれは元々、朕の対となるべく顕れた五行の神柱ゆえの。朕は妹と呼んでおる」
「対となる?」
少年の眼差しの奥底を、火眼金睛が舐めるように捉えた。
赤い双眸に幼さも薄くなった晶の相貌が落ち、くつりと咽喉が鳴る。
「ああ、なんじゃ。あれはその辺りも伝えておらんのか。――妹は元々、五行の神柱である。土行へと移ったのは、其方の前任となる天子を得てからの話となるな」
「五行を別けて、高御座さまが土行の神柱と成られた経緯は聞いた事がありますが」
「然り。――そうなると妹は、産霊の事も伝えておらぬか」
「聞いた事はあります」
流石に無知なままではいられぬか。そう肯いを返しながら、太源真女は慎重に言葉を紡いだ。
世の中に、知った方が良い情報と知らない方が良い情報は当たり前に存在する。それは、神無の御坐である晶であっても変わりはなかった。
産霊に関する知識はその狭間に在るものだが、今回、それもシータが関与しているならば間違いなく知っていた方が良い知識になる。
「産霊とは、天子に求められる目的そのものである。
――そも其方は、逢う神柱が総て女性の容をしている事を疑問には思わなかったか?」
「幾度か。あかさまに訊いた事はあります。
俺の知る限り、侑国を知ろ示している大神柱を除き、男性の神柱は居ませんでした」
「侑国のそれに関しては、民草の都合で塗り替えられたのであろう。ただ事実として、男神は存在しないのは間違いない」
そう断じる太源真女と晶の視線が交わる。――薄々とは察していたものの、やはり驚きは禁じ得ないと云うのが、晶の本音であった。
「現世に神柱があるは、須く人の奇跡と交わる為である。――其方に対の話をしたのは、この為だ」
「対とはつまり、神柱には必ず対極が存在すると云う事ですね」
「然り。天があれば地があるように。そして何れ、人を渡して三竦みに立つように。
片方だけではなく、万象は2つ以上在って安定を得るものだからだ。
大神柱が女性の姿を取るのもその通り、其方たち天子と交わり産霊を成すために他ならない」
「って事は、産霊ってつまり」
ようやく想像が追い付き、晶は神妙な表情を浮かべた。
男女が揃って意味を成すことなど、経験のない晶をしても想像には容易い。
「その通り。天子が在る意味とは、神柱と交わり新たな神柱を現世に顕現させる事に在る。
神柱であっても女の性はある。――数多の神柱を孕ませなければならぬ関係から、恐らくほぼ総ての神柱は其方を無視できぬようになっておる」
「天地人の神柱が居て、その総てが俺に干渉しようとする意味はそれですか。
……では、シータは? あれは何方かと云えば、今回の1件でも干渉しないように仕向けていましたが」
ラーヴァナの起こした百鬼夜行の折り、シータが干渉したのは咲だけである。
その1件を除いても、シータが晶を避けているような気配があるのは確かであった。
晶の疑問に、太源真女の唇が嗤いに刻まれた。
「それが産霊の話を伝えた中核だ。シータの狙いは先刻に伝えた通り、現世を壊し神代へと還る為である。――翻って、天子である其方の目的は?」
「神柱を産み、現世を永らえさせるため。……対の話は、そう云う事ですか」
太源真女の言葉に漸くの得心を得て、晶は頭を抱えた。
道理で、眼前の神柱がシータの事を阿婆擦れと呼ぶ訳だ。
「天子とは詰まる処、現人の神柱と云う見方もできる。神柱である以上、対の摂理からは逃れられん。
現世を永らえさせる神柱である其方の対。――世を繋ぐシータは唯一、其方を憎悪する定めを持つ神柱と云えよう」
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