閑話 暗澹を呑み、鯨は泳ぐ1
――晶たちが青道を出立して数日の後。
きぃ。天高くから耳障りに、春の気配より早い海燕が啼き立てる風追いが響いた。
飛び去る影の代わりに吹き抜ける、冷たくべとついた潮風。一陣に煽られた解れ髪が、同行そのみのうなじに絡みつく。
「……はぁ」
茫洋と広がる昏い海面を眺め、そのみは鬱陶しそうに纏わりつく髪を指先で払った。
巡る視線が海岸線の向こうまでを流し、そこに浮かぶ艦船総てを視界に収める。
「――どれだけ距離が離れているか、判りますか?」
「1里に満たないと云った処でしょうか」
「実際は、もう少し離れています。
指標の無い海洋は、気付かない内に距離感が狂いますので」
コツがあるんですよ。そう穏やかに笑う男性の影が、高天原から来た少女の足元に差し込んだ。
向かう指先に従い、視線を巡らせる。
「自分を指標にこの三点を結べば、進行方向の距離が詳細に割り出せます。
場数を踏んで経験を積めば、大体の距離は感覚で掴めるようになりますね」
「経験ですか。海の仕事は男性のものなので、女性には縁遠く」
「真国でも似たようなものです。
海路を象とすると謂れを持つ神柱、娘媽は、気に入った船乗りが貴族の娘の船遊びの船頭を仰せつかったと知り、嫉妬で海を乱して男をあの世に連れ去ったらしいですね。
余程が無ければ海の仕事は男だけのものでしょう」
「何処でも似たような話はあるのですね。――娘媽は実在しているのですか?」
「さて」
軽い口の応酬の末に相応しく、男性の肩を竦める気配。残念ながら少女の興味は曳けなかったようだが、気にする向きもなく男性も口を続けた。
「実在していたとしても、神代の折りに太源真女の均しに憂き目をみているでしょうが」
「真偽は神代の向こう側、ですね。……私たちも倣って、現世御利益に戻ります」
「是」
遥か昔に過ぎ去った事実の追及を諦め、少女と男性の視線が大洋へと戻る。
三々五々と昏い水平線上へと浮かぶ艦船の影に、2人は1つの船尾を見止めた。
「同行所有の艦船でしたか。娘独りを異国に残して、高天原に帰還するとは薄情なもので」
「御存じでしたか」
青道という国際都市へと展開するに能って、高天原の閉鎖的な性質は弊害でしかない。
海外展開する組織の頂点には当然に現地の代理人を雇った上で、仲介を二重三重に挟んで背景を誤魔化していた。
同行家が所有する海恒公司を幾ら調べても、出てくるものと云えば緑茶と家具が少々だけの健全なもの。
論国と水面下で鬩ぎ合う混乱期に、無数と林立する公司の1つに疑義を向けるなど、尋常ではない洞察力だ。
「そのまま、幽嶄魔教の情報網を侮っておいてください。
――そう云えば、貴女は青道に残って良かったのですか?」
「……何の事やら」
口調を濁したまま、そのみは肩越しに視線を流した。
そのまま踵を返し、元来た道へと戻ろうと歩き出す。
少女を逃す心算も無いのだろう。足早に変わるそのみの歩調に、男性の爪先が追い付いた。
「天子の件ですよ。現在、天子の脇を固めるのは、久我家と輪堂家。つまり珠門洲の派閥です。
特に輪堂家が側室筆頭であるならば、同行家が娘を残した理由など訊くも野暮かと」
「そこは否定しませんが。だからと浪漫を期待されても困りますよ」
「成る程。同行家、曳いては義王院家の意向は、天子の御情けに与る辺りですか」
じゃり。そのみの歩く足が止まり、聞き逃せない無礼を吐いた男性へ視線が向かう。
剣呑と眼光に刺し貫かれて尚、気にする向きも無く男性は肩を竦めた。
「――これは失礼」
「気にしていません。……次はありませんが」
追及も上辺だけ、砂利を踏み締める音だけが再開される。
凪ぎの潮風に吹かれながら、港湾沿いの岸壁をそのみたちは歩き続けた。
もう、粗方の論国人は青道を退いた後か。擦れ違うものは、商機を零した真国人がつまらなそうに台車を曳く姿だけ。
暫くの沈黙を破ったのは、そのみの側からであった。
「義王院家としては忸怩たるを認めますが、この一件で奇鳳院家の先に立つ事は無いと、同行家は判断しています」
「敗北を認めると? 神柱が天子を譲るなど、有り得ないと思いますが」
「ええ。くろさまは認めないでしょう。
――ですが決めるのは、晶さんです」
そのみの言葉に、男性は感情を窺わせない視線を交わす。
だが、反駁を浮かべる事なく、そのみは視線を逸らした。
「天子を縛れぬは、世の理とご存じのはず。
何処へ赴こうと、誰に肩入れしようとも、何ものにも阻む権利は与えられていません」
「ですが同時に、神柱が求めるも必然でしょう」「――だからこそ、ただ人である私たちが、ただ人でしかない天子を縛るのです」
言葉を重ねようとする男性の言葉尻を、そのみは間髪赦さず捕らえた。
神柱より与えられる加護は、晶にとって心理的な束縛そのものである。
精霊の助力さえあれば本来は必要もない加護を、挙って神柱が与えようとするのは、ただ単に己に対する気を惹きたいが為だからだ。
それでも必要なものだと晶に思い込ませたのは、それが晶を1つの土地に縛り付ける最終的な軛になってくれると期待できるからである
そして、これが為せることが指し示す、重要な事実がもう1つ。
――神無の御坐の自由とは詰まる処、晶に対する干渉も一切ないと云う事だ。
「神無の御坐とは、只々、……そう只管に、個として強固。恐らくは、理論的にも完成されたただ人である事を意味していると、私たちは考えています。
――ですがそれは逆説的に云うと、どこまで突き詰めてもただ人でしかないと云う証明にもなるでしょう」
自由に在れる晶を加護と云う欺瞞で縛る事が赦されるなら、それはより凡俗な手段で縛る事も可能であると云う証明。
ちらり。そのみは視線だけ、冬終わりの青道の水平線へと巡らせた。
石畳の階段を数歩飛ばしに、脇に延びる桟橋の上を歩く。
「珠門洲が心を掴んだなら、國天洲は政治を掴めばいい。
晶さんの心は1つだけですが、人の政治は人の数だけ存在するのですから」
薄く少女の口の端に浮かぶ微笑が、怖気を孕んで風に紛れた。
輪堂だろうが久我だろうが、晶の傍を固めておけば盤石だと勘違いしているなら好都合である。
局面は既に、戦争へと切り替わっている。それは如何に晶の勝利に貢献し、傍に侍る発言権を競うかの局面に入ったことを意味していた。
それを知っている者がもう1人。同行家の計算通りに遅れて、防波堤の隙間から係留港へと姿を現した。
「あれが、同行家の待ち人ですか」
「ええ。晶さんには伝えていますが、侑国と論国の高天原侵攻に対抗する為、高天原はこれ以上の戦力を晶さんに提供する事ができません。
――ですが、高天原に依らない戦力なら、時間差で向ける事は可能です」
蒸気機関の響きが消え、波を蹴立てる揚陸艇の舳先の勢いがやがて止まる。
緩やかに波の砕ける囁きの中、停泊した小舟から桟橋へと梯子が降りた。
待ち人が何方だったのか。取り留めのない思考を遊ばせながら、そのみは降り立った少女へと微笑んで見せる。
「ようこそ青道へ、お待ちしていました。――ベネデッタ・カザリーニさま」
「……招待状に応じぬは、貴族の嗜みに無いので。とは云え、面白いものを観れず仕舞い、は興醒めですが?」
「それは保証いたします。二番手同士、仲良くできると確信していますので」
淡く黄金の髪に中つ海の輝きと称された碧い双眸が、不機嫌を隠そうともせずにそのみの眼差しを迎え撃った。
「驚きましたよ。真逆、青道へ到着する直前、私たちの軍用回線からあなたの招待状が送られてきたのは。……お陰様で、青道に食い込めていた諜報網を総取り換えです」
「早期に知れただけ、良かったではありませんか」
「無線の存在をどうやって掴んだのか、好奇心までにお訊きしても?」
「こちらに渡っている技術から、論国がどう進歩しているのか、単純に推測しただけです」
司祭位を示す純白の僧衣が翻り、そのみと歩調を合わせる。
相手の拍子を待ち、隠すでもなくそのみは真実を口にした。
蒸気機関、電話、――そしてラヂオ。電報に使用されている打点式交信法を考えれば、西巴大陸の技術が遠隔通信に向いている事は間違いない。
何処まで開発が進んでいるのかは判らなかったが、論国海軍の展開の早さから、試験段階は既に過ぎている事も確信していた。
――加えて、
「昨年の葉月に波国が高天原から撤退してから、たった半月で高天原に再来訪するのは、如何にも下手を打ちましたね。
お陰様で、無線の通信限界と青道に拠点の実在は確信出来ました」
「余裕がないとはいえ、あれは確かに下策でした。――では、私と奇鳳院家御当主が対面した際に、教皇選挙が話題に上がったのも?」
「はい。同行家からの助言に依るものです。
御存じでしょうが、皆さまの嘘を吐けない体質は、知らぬ事実に対して曖昧になりますので」
嘘を吐けない体質は武器であるが、それは既知の事実に対してのみ有効である。
何気なく切り出した返事に、少女は軽く真実だけを舌に乗せた。
結果論として嘘でないならば、時に嘘を吐けない体質は武器となり得る。
その現実を巧く利用してきたベネデッタも、肩を竦めて同意を示すだけに留めた。
待機していた拖船に物資が詰め込まれ、少女たちが会話する傍らを行き交っていく。
その光景を流し見つつ、ベネデッタは素早く思考を巡らせた。
「侑国と論国が、高天原へ侵攻する旨は?」
「当然に知っています。特に侑国は、國天洲で蠢動を始めていましたから。
……ただ昨年、賄賂に転んだ議員郎党の頸を父が粗方に洗いましたので、暫くは黙っていると見込んでいましたが」
ベネデッタの問いに、そのみは肯いを返した。
その予想が過ちだったと知ったのは、侑国にある軍港の1つに軍艦が並び始めたからである。
しかも、軍港を塞いでいる海氷を爆薬で砕いてまで。ここまで隠す心算も無い強行軍ならば、侑国は今回の高天原侵攻に対する相当な自信があると云う裏付けにも換わる。
「恥ずかしい話です。我らが護国にのみ黙して専従する輩と思われるなどと。
同行家は寡兵にありますが、侑国と対等に渡り合った精鋭ですよ?」
「だからこそ、論国と手を組んだのでしょう。――いいえ。向こうの慌てぶりからすると、論国海軍の独走の方が可能性として高いかしら」
西巴大陸の事情に精通するベネデッタは、頤に指を当てて首を傾げた。
晶たちの情勢を鑑みるに、最も警戒すべきは論国と侑国の共同歩調である。
しかし、現在の論国は足並みを乱れ切っており、両軍の共同作戦など覚束ない状況にあった。
その為、相手は双方がぶつからないよう、戦線を調整されただけで現状は済んでいた。
「ええ。事実、久我の次期当主が論国の使者と行動を供にしています。
この状況自体は、論国中枢も望んでいないのでしょう」
「成る程。であれば、 、」
「――私たちの相手は、論国海軍のしかも一方面軍だけですか」
状況を整理して、ベネデッタは肯いを1つ。
その語尾を継いで、それまで沈黙を守っていた男性が口を開いた。
少女たちよりも更に陰鬱に、感情を隠した声音が周囲に響き渡る。
その声にベネデッタは視線を向け、その相貌を前に記憶を探った。
「そう云えば、貴方は? ――高天原の方と見受けられませんが」
「ええ。少々縁を得て、同行家と行動を共にしているだけです」
自嘲に満ちた男性の口調に碧い瞳を眇め、ベネデッタは改めて男性を視界に収めた。
高天原ではなく、西巴大陸の出身にも見えない。ならば、残る可能性は1つ。
「……名前をお訊きしても?」
「李昊然と、生き残った蛇の毒とだけ、憶えて頂ければ結構です」
髪が風で踊るに任せ、ベネデッタの誰何に李昊然は嗤いで応じた。
「私の事は、其方の事情に関係ありません。
――同行殿。今後の方針を詰めても問題ありませんか?」
「ええ。此方がカザリーニさまに要求する協力は、外洋を航行可能な戦力です。
快速戦艦、カタリナ号と云いましたか? あれの速度を貸してください」
「補給が終われば、外洋に出る事自体は問題ありません。……が西巴大陸の宗主国である手前、波国が貸せる協力はそれだけが限界でしょう」
「充分です。今後を考えれば、寧ろ都合は良いですし」
「ああ。そう云う事ですか」
「――援軍が無ければ、天子の戦局に不利に傾くと思いますが」
平然と応えるそのみに、ベネデッタは納得を返す。
代わりに、話題に付いて行けなかった李昊然が、疑問を浮かべた。
高天原は身動きが取れない上に、晶たちには論国海軍の精鋭が追撃している状況。
戦略的に見れば、論国の優勢は並大抵では揺らがないほど盤石に固められている。
「いいえ。それは無いでしょう」
「と云いますと?」
状況に追いついていない李昊然へと、そのみは悠然と向き直った。
論国は。否、論国海軍は知らないはずだ。
「敵対するのが神無の御坐だと。仮令、知ったとしても、神柱を喪った者たちは神代の意味を理解できないでしょうから」
杭を打つ真実を知らぬものからこの戦争に脱落していくと、晶が関与してきた時点から決まっているのだから。
この事実を理解しているのは、人の世の政治と神代の両面を理解しているものたちに限られる。
同行家こそその1つ。時に政治に、時に神柱にと関わりながら、隠然と現世を泳いできた鯨である。
――その直系たる少女は、李昊然の疑問へとそう短く応えるに留めた。
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