10話 天地を暴くは、神柱に非ず3
「あの阿婆擦れの事を、余り知らなかったであろう?」
救世を暴くと、太源真女の宣言が広間に傲然と響き渡る。
「云われてみれば」「――確かに知らないわよね」
真国の大神柱の嘲笑にも似た宣言に、夜劔晶と輪堂咲は互いに首肯を交わし合った。
真国側でも、大体は同じ感想なのだろう。
戴天偲弘と玲瑛。更には扉の側に控えていた李鋒俊もが、曖昧に同意を返す仕草を見せる。
――それも仕方がない。
神代に於いて天地混沌の争いを平定し、現世救済を象とする大神柱。
それだけが、晶たちの知るシータの全てであった。
振り返って考えると、シータと呼ばれる大神柱の情報が余りにも少ないと、改めて気付かされる。
晶たちが潘国に向かう理由も、ラーヴァナを潘国のランカーの地に在る龍穴に戻すと云う契約があってこそ。
「現世のただ人が救世に関わるなど、有ってはならぬ故な。基本的にあれは、十重二十重と行動が制限されておる。
其方らの契約も、シータは直接に関わらぬよう避けておるはずだ」
「はい。契約は、 、」
「云わずとも、奴の狙いは最初から決まっている」
咲の返事を最後まで訊く事なく、太源真女は唇を弧に歪めて嗤った。
赤く煌めく火眼金睛が、真っ直ぐに少年を射抜く。
「天子は気付いているな? 答え合わせじゃ」
「――シータ自身の象を現世に再現する事ですね」
「然り」
理解し合う神柱と少年の首肯に、その場に居合わせた全員の視線が往復。――やがて、おずおずと控え目に、咲の右手が上がった。
「象の再現って事は、神器の神域解放を狙っているって事?」
「それも象の再現の1つだが、そっちじゃない。咲、思い出せ。
シータがエズカ媛を成長させた際、向こうは何て云っていた?」
象の再現と聞いて、余人が真っ先に思いつくのは神器の神域解放である。
しかし、神柱の象を鍛造した神器が超常の能力を宿しているのは知っていても、それが今回の事態に関わってくるとは考え難い。
シータは徹底的に言及を避けていたが、嘘を吐けない神柱の性質上、咲との契約には無視できない言葉が入っているはずだ。
「確か……」
咲の記憶の中で、桜色の唇の紡いだ言葉が重なる。
「――必ず果たしなさい。ランカーの娘を本島に戻し、在るべきものを在るべき場所へ」
微かに頤を揺らす少女が思い出したその一言に、晶は同意を肯った。
「つまり、シータの狙いで絶対に必要だと判っているのは、咲がラーヴァナをランカーに返すと云う一点だ」
「それは最初から分かっていた事でしょ」
「だけど、その契約には、俺の同行が一切入っていない。
あかさまの言葉通りなら、神柱は俺を無視できないのにも関わらず、だ」
無視できないはずの、晶の存在を無視している。その事実が指し示しているのは、晶よりも優先しなければならない項目が存在していると云う事実だ。
「咲が。――より正確には、シータの恩恵を享けた存在が、ラーヴァナを伴ってランカーの地に帰還する。これが、シータにとって重要な項目なんだろうな」
「神無の御坐よりも?」
「シータにとって、俺は寧ろ不純物だ。
在るべきものを在るべき場所へって云っていたんだろ。……恐らく、シータの本音はそこに有る」
「嘘って可能性は?」
「ラーヴァナみたいな存在が二柱も相対したら、間違いなく泥仕合に陥っている。神話でそうなっていない限り、シータの本質はそこじゃないはずだ」
神柱は嘘を吐けない。それは神柱の本質が、嘗て語られた己の偉業に由来だからである。
人を演じる能面の神器。九法宝典があればこその、それはラーヴァナの特権であるはずだ。
晶の推測を、太源真女は肩を揺らして嗤い返した。
「天子の云う通り、シータの本質は炎に近い。あれが嘘を吐けるとは、朕も思わぬ」
「炎? 救世では無いのですか」
太源真女の言葉へと、晶に代わって咲が一歩進み出た。
神話に語られる通り、シータの象が救世である事は広く知られた事実である。
そこに誤魔化しの余地はない。神代から伝わる事実こそが、神柱の証明そのものだからだ。
少女の疑問に寸暇も置かず、太源真女の肯いが返る。
「その通り。救世である事は間違いない。が、娘。抑々に問うが、救世とは?」
「現世を救済する。つまる処、元に還す事では?」
「それも1つの側面であろうが、救済と一口に云っても、様々有ろう」
「……確かに。救済とは何か、を改めて考えれば、その意味は随分と曖昧ですな」
「ほう。やはり戴天が先に気付いたか。最初に思い至るなら、其方であろうと予想はしていたぞ」
「……お戯れを」
賭けをしておけば良かったと、かんらと嗤う少女の声音に、戴天偲弘は渋面で応じた。
未だ理解し切れていないのだろう。脇に控えた玲瑛が、窺うように父親へ視線を向ける。
「父さま。救済は救済、ではないのですか?」
「薬を処方するだけの、治療ではないと云う意味だ。腐った傷口を切り、無事な箇所を縫い合わせるのも又、治療の一環になろう」
「――救済なら、更に意味が曖昧になる。けど、シータの神話から大体は想像がついた」
独白じみた偲弘の例えを後ろから継ぎ、晶は結論を舌に乗せた。
「天地を別け断ち、神々の闘争を終わらせ、現世へと繋いだシータの偉業。つまり救世とは、」
「現世に繋げる為に、神代を終わらせたって事!?」
「シータを主神に据えた涅槃教は、次の生を説く教えだろ。
そう考えると、象の本質は世界を繋げる処にありそうだけど」
「――その通り。あれの唱える救世の本質とは、世界を繋げる橋渡し。だがそこに、世界を終わらせて来世を始める役割も併せ持っている」
太源真女が含むように応じ、手にした杯を高く掲げて見せる。
滔々と語られるその言葉に、咲は首を傾げた。
ラーヴァナの九法宝典に、シータのパーリジャータ。この広間に立つ面子で、咲は突出してシータに最も縁が深い。
「ですが、神代は遠の昔に過ぎています」
「現在が神代か現世かは、あれにとっては別に関係ない。――重要なのは、あれの目的が象の再現に有ると云う一点だ」
「でも、どうしてそんな事を狙っているんですか」
「動機なら単純だ。――あれは、現世へと再び舞い戻る事を狙っておるのよ」
咲の疑問に応えながら、太源真女は杯を煽る。
甘く漂う芳醇な薫りに、酔うような流し目を巡らせた。
「其方たちの間違いは1つ。シータは未だ、現世に降りていないのだ」
「シータは神代と現世を繋ぐ神柱。
つまり、その瞬間にしか在れないと云う意味ですね」
「……でも、パーリジャータは実在しているわよ」
「嘗ては居たって事だよ。救世の意味をよく考えるべきだった。
世を救うと象に刻んでいても、人を救うとは云っていない」
「あ」
悔しそうな晶の推測に虚を突かれ、思わず咲は吐息を漏らした。
救済の意味には様々ある。薬で癒し、傷口を縫って血を止める。
――そして、手遅れに苦しむ人を苦しまずに終わらせるのも又、救済に当たるのだ。
「嘗てシータは、人を護らんとするラーヴァナに味方する格好で己が偉業を成し遂げた。それ自体は上手く運んだのだが、誤算が1つ。
――救世の本質は、現世に常に在り続けるものではなかった」
世界の救済を謳う以上、役目が終われば世界から弾かれる。
如何に強大な神柱であろうとも、玄麗媛の裡に有る現世に於いて、その象には必ず制限が掛けられるのだ。
「故にシータは、世界で唯一の現世に存在しない神柱である。
条件を満たせなければ、あれは現世に干渉できぬのだ」
「つまりその条件こそが、象の再現である救世ですね」
「世界が末世に満たされれば、救世は必然と稼働を始める。現世を末世と貶めるならば、」
「鉄の時代。神柱の数が減る事で、救世の条件が満たされると」
「然り」
大体の事情を理解した晶の回答に、太源真女が満足気に嗤う。
「論国が潘国に侵攻した際、シータの龍穴が見つからなかったと波国の使者から聞きました。――最初から龍穴が無かったとすると、誰も見つけられなかった理由に説明がつきます」
「ああ。無駄な事をしておると嗤わせて貰ったわ。
元より潘国の龍穴は、ランカーの地に在るたった1つのみ。あの広大な領地の龍脈を代替しているのは、パーリジャータの権能に他ならん」
パーリジャータの権能は、28本14対ある杭と杭の間を繋げることだ。
半年も無い数ヶ月前。その権能は高天原で、朱華の神域から神気を掠め盗り央都の風穴を撃ち抜いている。
その幾つかでも風穴の間を繋げるならば、龍脈の代替は然して難しい問題では無い。
「咲とラーヴァナを戻すのも、象の再現に必要だからですね。
末世を準備したら、次はそれを平定する要素が必要になるから」
「ラーヴァナとシータは嘗て、盟約を結んだ朋友。シータの象を再現するには、ラーヴァナの協力が必要不可欠になる。
……だが、ラーヴァナが、裏切ったシータに合力すると思えん。ならばと、最低でも共にいる現状を作り出そうとしたのだろうさ」
「――では、シータはもう準備を整えていると?」
「それは有り得ぬ」戴天偲弘の不意の問いかけを、太源真女は頭を振って否定した。
「現世が末世に崩れるのは、並大抵のことではない。少なくとも、神代と同じ状況を整える必要がある。その為に論国を抱き込んで、真国へと攻め込ませたのだ」
「真逆、論国の狙いは」
「真国の神柱は一柱しかおらぬ、斃れれば局地的ではあるが末世の条件を満たせよう。
――シータめに踊らされて憐れな程であるが、面倒な事よ」
呻くような偲弘の言葉に、太源真女は自嘲気味に嗤った。
時系列に整理し直すと、事の次第は非常に単純なものである。
シータは先ず、末世を再現する為に西巴大陸の神柱を龍脈越しに潰し始めた。
単純に行くならば、末世の条件がその段階で整うはずだったのだろう。
「だが、ここで誤算が起きた。
神柱を喪った論国が暴走を始め、選りにも依って潘国に攻め込み始めたのだ」
シータにとって、それは間違いなく予想外の出来事だったはずだ。
神柱を喪ったばかりの論国と、存在しないシータを奉じ、ラーヴァナを喪って永い潘国では、国家としての安定性が違いすぎる。
野火の如く侵攻の勢いが広がると同時、シータの狙いは頓挫しかけたのだ。
方針の転換を余儀なくされ、シータは論国の一勢力に加担する事を決めたのだろう。
その一派こそが復権派であり、引いては論国の海軍である。
「では、復権派は、 、」
「救世の入れ知恵で論国の神柱を復活させる術を得たと勘違いし、復権派は多大な労力を支払って真国の青道を橋頭保としたのだ。
曲がりなりにも近場に鴨津があると云うのに、変だとは思わなんだか?
――総ては、真国で神去りを確定させるためよ」
それでも、過程の半分までは上手く行っているのも間違いない。
ラーヴァナとシータの縁が咲の下で1つに纏まり、嘗てないほどに神柱の立場が混とんとしているのだから。
「復権派は後が無いから、神器を回収すれば多少の時間が稼げるはずだ。
――エドウィン・モンタギュー。復権派の侵攻は何時になるか、其方は予測がつくか?」
「難しい問題ですね。侵入経路も不明のままでは、規模の予測もつきません。
大規模輸送の為に線路を曳いていますが、それをそのまま侵攻に流用するとは思えませんし」
太源真女の言葉に、エドウィン・モンタギューは難しい表情で頸を傾げた。
線路は安定した兵站の確保に強いが、人員の一斉移動としては未だ弱い。
なにしろ、線路を爆破されると経路そのものが潰されてしまうのだ。
線路がその力を発揮するのは、最低でも線路周辺の安全を確保してからだろう。
「――十中八九、侵入経路は海だろうな」
「理由を訊きたいね」
応えに迷うエドウィンの代わりに、晶から言葉が返った。
驚く周囲に構う事なく、その根拠を続ける。
「ここは沿岸からそう遠くないし線路も近いから、侵入経路はこの二つに絞られる。
だけど復権派は、魔教に青道租界の支配権を売却している。
論国がどう考えているにせよ、俺たちが列車に乗りこめた以上、その中には東巴大陸鉄道の権利が含まれているはずだ」
「……キャベンディッシュ大佐は、魔教との契約程度に頓着する性格じゃないが」
「真国に頓着しなくても、軍人なら軍の移動には気を遣う。
一度は売却した線路の安全に信頼が置けないのなら、その安全を確保できるまで海軍である以上、海路の方を選択するはずだ」
「確かに。それなら……」
晶の予測に納得を返し、エドウィンは思考を巡らせた。
予測自体はそう突飛なものではない。
単純に、何方がより安全を確保できるかを比べただけである。
だが、その思考速度が早過ぎる。
下手な情報を寄越せば、エドウィンの予想を超えた被害を論国海軍に与えてしまう可能性があるからだ。
「……海路を想定し直ぐに行動に移すと想定したなら、2週間掛るか否かと云った処かと」
「では、大体の方針は決まりだな」
内心の苦悩を隠し、当たり障りなく返したエドウィンの返答に気付いているのだろうか。
構う事なく、太源真女は肯いを返した。
「あの阿婆擦れは、朕に対する仕込みの殆どを終えて動けなくなっている。
今ならば、その足元を掬うのも難しい事ではなかろう」
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