10話 天地を暴くは、神柱に非ず1
待つ時間も然程に立たず、暫くしてエドウィン・モンタギューを除く夜劔晶たちの一行は、信顕天教本山の奥へと通された。
論国の要客と直に見えるよりはと、一足先に晶たちだけが謁見を赦された形である。
通廊を歩く先に、鳥の羽撃きが群れを成して影を落とす。
渡りを控えた時期だろうか。丸みを帯びた鳥の去る姿を、晶は知らず視線で追った。
「どうした」
「……いや。何でもない」
怪訝と問う李鋒俊の声に、晶はのんびりと頭を振った。
僅かに急いだ晶の歩幅が、咲の爪先と揃う。
「雁?」
「妙覚山の麓でも良く見かけた。
随分と遠くまで来たけど、鳥の顔触れはあまり変わらないんだと思ってさ」
「……ふぅん」
少年が困り顔で頭を掻くさまを、咲は上目遣いで覗き込んだ。
西巴大陸との交流が始まろうとも、高天原に於いて渡航の機会は殆ど無い。
海を越えるための大金や労力に、加護の届かない身一つの土地へと向かう決心。特に加護と云う幸運の上積みが消える行為は、高天原の人間にとって忌避そのものだからだ。
興味はあっても、夙に海を越えたいと思うものは少ない。
「帰りたい?」
「夏までには帰らないと。……留年の方が心配だぞ」
「うぅ。忘れようとしていたのに」
留年。余り聞きたくなかったその響きに、咲は唇を尖らせた。
晶たちの時代、上級、尋常を問わず学徒制は義務ではない。留年や退学も、教師の一存で行われる程度には軽いもの。
「事情があっても、教諭は聞き入れちゃくれないだろ。
特に俺は尋常小学校を一年遅れだから、その辺りは厳しくてな」
「心配すんな。天領学院の方は、三宮から良しなにとの言葉を賜っているはずだ。
補試と引き換えだが、 、まぁ何とかなるだろ」
「――ならないよ!?」
優秀な成績を収める晶と学年次席の諒太には大量なだけの試験であっても、咲にとっては圧し潰されるような苦役なのだ。
晶と久我諒太の平然とした応酬に返る、咲の悲鳴じみた反駁が重なる。
「どうしよ。乗り越える自信がないよ」
「俺も手伝うから」
「絶対だよ!」
膨れっ面を見せる咲を横目に苦笑した晶は、ふと意識が向いて周囲を見渡した。
「にしても、ここが信顕天教の総本山、なんだよな」
「ああ。それがどうかしたか?」
「いや。……その割には、随分と人の気配がないなと思っただけだ」
怪訝と来た道を振り返っても人気は無い。 それどころか、黎隠山に入山して以降、人と擦れ違った記憶が無いのだ。
信顕天教の総本山を謳う黎隠山には風穴があるはずだが、それを護持する精霊遣いと擦れ違いが一つも無いのは変な話である。
単純に晶たちと鉢合わせない配慮もあるだろうが、それでも謦一つ響かないと云うのは違和感があった。
「鄙びているだけじゃないか?」
「真国を支える六教の一角だぞ。全く無いって方が変だろうが」
「――お前らが云ってんのは武林の連中だろ。大方は省内に出没する穢レの対処で散らばっているが、皆無って訳じゃないし普段はもう少し賑やかだよ」
疑問を交わす高天原の少年たちに李鋒俊は肩を竦め、通廊の外を指差した。
眼下に広がる、石畳の敷き詰められた中庭。
そこは晶たちで云う練武の道場に当たるのだろう。整然と並べられた石畳には、長年による修練の痕跡が窺えた。
「偶に聞いたが、武林ってのはつまり守備隊の事か」
「守備隊ってのは軍だろ? 高天原の制度だったら、……封領華族の陪臣が近い。
ま。師兄も血の気が多いから、揉めるよりはと一時的に下山させたんだろうな」
晶たちに当て嵌めるなら、武家家門を無遠慮に踏み込まれるようなものか。
それは気分が悪いだろうと納得を返し、ふと晶は首を傾げた。
「やはり感情は良くないか。――って云うか、それなら鋒俊はどうなんだ。
確か、幽嶄魔教の陪臣の家系じゃなかったか?」
真国六教は、それぞれが協調と対立を繰り返す関係であったはずだ。
高天原の門閥流派と違い精霊による住み分けができない以上、残るのは人間の定めた門派だけである。
不可能ではないだろうが、天教は疑わざるを得ないだろうし、魔教からしてみれば面目を潰されたも良い処のはずだ。
「揉めたも揉めたさ、 、当然だろ。
身一つで門扉を叩いても、先代の禹洞主の執り成しがあって漸くだ」
「そこまでして、入門する理由も無いだろうが」
「あったんだよ。
青道での惨敗を見るに、魔教の勁技じゃ太刀打ちできないと思い知ったからな」
苦く、寂寥を滲ませたその呟きに、晶たちは返す言葉を忘れた。
一気に雰囲気を悪くした事実に気が付き、鋒俊も表情を明るく取り繕う。
「それに、李家は官吏に近い家系だ。家門を移るのに、然程の抵抗は無かったってのが一つ。
まぁ、魔教の陪臣連中も諦めていた節が在ったし」
「李昊然殿の鏢術は、随分と達者に見えたが」
「毒と鏢術が魔教の専門と云われているが、本領は毒だ。鏢術は寧ろ傍系でな。
――魔教に対する皮肉で修練したそうだが、妙に水が合ったみたいで実力も飛び抜けちまったらしい」
天教の話題よりは口も軽くなるのだろう。鋒俊はのんびりと、道すがらに己の身上を舌に乗せた。
「皮肉?」
「李家は古くから、青道の鏢局を管轄してきたからな。
論国の鉄道運輸に押された、不甲斐ない魔教上層への当てつけだと、酔った席で聞いたな」
「鏢局、 、つまり運送業か」
「ああ。鏢師って呼ばれる、荷役の統括だ。
鏢に鏢を掛けた一念で、鏢術を修めたって聞いた」
「――結果的に大功へ昇れば、教理は過程なぞ気にせん」
「洞主偲弘! 行人鋒俊、ただ今の帰参を報告いたします」
突如として割り込んだ男性の声に視線を向けた先、丹塗りの扉の前で戴天偲弘が佇んでいた。
慌てて抱拳礼を返す鋒俊に、落ち着いたのか偲弘は穏やかに肯いを返す。
「鋒俊よ。天教の内情よりはと、己の身上を軽く売り過ぎだぞ。
高天原の一行は歓迎してやろう。――太源真女が首を長くしてお待ちだ」
そう、偲弘は云うだけを口にして、返事も待たずに扉へと手を掛けた。
♢
「来たな、天子。朕の歓迎は愉しめたか」
「……お陰さまで」
丹塗りの扉が開かれた途端、その奥から弾むような艶を帯びた声が晶を出迎えた。
聞き覚えのある響きに、晶も迷った挙句の苦笑を返す。
扉の向こうは、張り巡らされた漆黒の梁に白も鮮やかな漆喰の壁の広間に続いていた。
一見すると質素とも云える広間の奥。撓垂れて座る少女が、晶の隣へと視線を滑らせる。
炎と金が揺らめく火眼金睛の眼差しが、咲を捉えて眇めるように微笑みを浮かべた。
「丁度、好い具合に魄も砕けておるな。
……これなら、過不足なく神錬丹も効力を発揮できよう」
「道中で、神錬丹の使用には制限があると聞きましたが」
「魄の割れ具合がどれだけかにも依るからな、難しい制限ではない。
魄を強化した上での維持。要は、外功と内功の中庸を極めれば良いだけだ。
……その様子だと、己で服する心算は無かったな」
ころりころりと咽喉を鳴らし、太源真女は晶へとそう指摘した。
余人にとって見れば精霊力の増大は魅力だろうが、神無の御坐からすればそこまで拘る理由のない効能である。
「俺にとって、神錬丹はそこまで魅力的なものじゃなかったので。
ただ、咲の状態を知れば、急ぐ必要があったので」
「……知っていたの?」
「神霊遣いになった後から、精霊力が過剰に漏れていたのは気付いていた。精霊力に制御が追い付いていないだけだと思っていたけど、悪化する一方だったから原因は違う。――多分、精霊が神霊に昇った事で魄が耐えられなくなったんだ」
つまり、咲の魂魄は、神霊を抱え込むに少し容量が及ばなかったという事だ。
唯一の幸運は、咲のエズカ媛が神霊に昇る寸前だったと云う一点か。
だからこそ騙し騙しであっても、高天原から遠路遥々と信顕天教があるこの地へと辿り着けたのである。
「走火入魔と云う。精霊力に慣れた時分に良く罹る、内傷の一種だな。
入門したばかりの程度なら薬丹でもどうにかなるが、神霊を抱え込んで割れた魄なら話は別だ。
その娘の状態は、神錬丹を服用する前の修練を終えた魄に近い。……成る程、神錬丹なら、その娘の状態を正常に戻せるだろう」
偲弘はそう呟き、困り顔で己の髭を撫でた。
神錬丹の扱いは、信顕天教の趨勢に関わる秘事でもある。
先代洞主の勝手によって渡った神錬丹であっても、何とかして取り戻さないと偲弘も現洞主としての沽券に関わってしまうのだ。
――情と理は天子に、規範と歴史は天教に在りか。能くも、こんな混迷とした状況に落とし込んでくれたな。……親父。
はぁ。恨みを噴飯と咽喉の奥に呑み込んで、偲弘は頭を振った。
幸運だったのは、玲瑛の持ちだした神錬丹が正規の仙丹では無いという事実だ。
管理下にある神錬丹を持ち出したなら流石に庇い立てもできないが、誰も知らない仙丹を持ち出したからこそ、ここまで事態を有耶無耶にできたのだ。
後は、持ち出された痕跡を抑え籠めれば……。
状況が例外に例外を重ねすぎている。悩んでいても時間の無駄と、妥協案を舌に乗せた。
「神錬丹の服用は、その娘のみに限定。残りは此方に還して貰いたい。
その代わりと云っては何だが、代わりの仙丹を高天原に渡すがどうだ?」
「随分と安っぽい交渉を持ち掛けたものだの。天教の器が知れるなら、もう少し奮発しても良かろう」
偲弘が何とか捻り出した案を、太源真女は鼻で嗤った。
その様に、人の気苦労も知らずと、偲弘の額に青筋が奔る。
「……太源真女さま。事は信顕天教の秘事にて、
どうかお控え頂ければ」
「朕の与えた神器、天璽正録の知識から得た功理だろうに。
隠したい原料は、千年清臨草か? それとも瘴風封絶根か? 瘴毒抜きの鬼道なら、継灯生教が専門だぞ」
「太源真女さま、どうかお控えを! 可惜と知識を与えれば、人は好きに漁り始めるものにて」
「名前を与えただけで漁れるようなものでもあるまい。
それよりも、値引きを強請るような真似をする位なら、相当に仙丹を融通せよ。
財庫の底を知られるよりも、器量の底を見透かされる方が恥にあるぞ」
うんざりと云い合う真国の大神柱と信顕天教の洞主を交互に見遣り、晶は首を傾げた。
どうにも会話の端を繋げれば、太源真女の重視しているものが見えて来ない。
奇鳳院嗣穂や義王院静美の見立てと違い、どうにも目的が咲にもあるように見えるのだ。
「太源真女さまが、俺を呼び出したのでは無いのですか?」
「其方を真国に招いたは相違ないが、それが総てに非ず。天道天理を早めようと、誰ぞが不埒にも龍脈へ干渉していたようであるからな。
――其方を知ったのは、寧ろ意外な収穫であった」
少女の姿をした神柱の返答に、晶の疑問が更に深まった。
龍脈を通じて高天原に侵攻したラーヴァナの陰謀は、昨年の終わりに阻止されている。
だが、太源真女の口振りでは、陰謀は未だ続いているように聞こえるからだ。
「ラーヴァナの侵攻なら阻止しましたが……」
「くく。いじましい神柱であったろう? 何しろ、独り最期まで、神柱と人の狭間で杭を打った娘よ。
――朋友に裏切られて尚、己が神器である真言をただ人の為に費やせと分け与えたのだから、お人好しも筋金入りであったわ」
晶の問いに曖昧な答えを返し、真国の大神柱は視線を晶へと戻した。
状況が混沌としている理由は、単純に相手が隠しているからだ。
神託の原理さえ理解しているならば、敵が何を目的にしているのかは想像に難くない。
神錬丹の存在を論国に隠したならば、後は状況を擦り合わせるだけである。
流し見るように戴天偲弘へと促せば、肯いを返して広間を後にした。
エドウィン・モンタギューを呼びに向かったのだろう。
その背を見送る晶たちへと、太源真女は朱を刷いた唇を弧に歪めてみせた。
「さて。先ずは論国を暴くぞ。
どうせ敵手の狙いは1つ、――神去りで東巴中原を侵す事だからな」
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