9話 鴻鵠は至る、省都の地よ4
――芳雨省、信顕天教総本山、黎隠山。
深山幽谷を見下ろす黎隠山の中腹。
風雪が削った岩肌に伸びる渡り廊下へ颪が吹き込み、乾いた雪が端に吹き溜まってゆく。
普段は静寂だけの通廊に、数人の足音が荒く響き渡った。
「――どう言を下されても、納得がいきませんな」
「構わぬ。どの途、そちに納得は求めてない」
呵々と少女が嗤う度、彩も鮮やかな袞衣の裾が翻る。
肩を怒らせた信顕天教の洞主である戴天偲弘が、その衣裳の主である太源真女の背を睨みつけた。
本来は抗弁すら赦されないほど格が違うが、事が譲ることのできない問題なら話は別。
何しろ、愛娘を天子との同盟の使者に仕立て上げられただけでなく、勝手に相手の手土産代わりとされたのだから。
相手が真国の大神柱で信顕天教存立の大前提だとしても、洞主にして戴天玲瑛の父である偲弘には一言あって然るべしだ。
これで不満が溜まらなかったとすると、善良以前に只の愚者である。
「ともあれ、これで盤面は大方に揃った。論国の言葉で何と云ったか?
――そうそう。べすとに近い」
「西巴の言葉繰りに、憶える価値も無いかと」
憤懣遣る瀬無いと云わんばかりの響きをたっぷりと含めて、戴天偲弘は反駁を口にした。
――正直、敵性言語なぞ知りたくも無い。一生涯知ることも無い方が倖せである。
「阿呆」
だが、己の上に立つ存在は、鼻を鳴らして偲弘の心情を嗤った。
可憐な肢体が翻り、太源真女は偲弘の眼差しを覗き込む。
炎の揺らめきが彩る、日輪の如き金睛。――火眼金睛と呼ばれる、一切を地平へ均す権能の双眸が、偲弘の反駁を咽喉奥に封じた。
「言葉とは、ラーヴァナが其方たちただ人に与えた一滴の言祝ぎよ。
――たかが祝福と侮るな。幾ら知恵を与えられようと、これが無ければ人はただの獣と成り下がる」
「む」
「古に、己をして知恵の獣と称した輩が居たそうだが、棒を振り回す事を憶えた猿が、須くして人に為れるか?
否よ。……それでは、猩々が何れ人に為れると、浅はかに喚くのと然して変わらぬ」
翻る爪先が軽やかに、機嫌よく歩を再開する。
追従する一団は反対に、やや勢いを忘れた響きを立てた。
くすくすと童女の如き含み笑いを忍ばせ、太源真女は視線を向こうへと遣る。
一足先に天教のある本殿へと戻った戴天玲瑛が、奉じる大神柱へと跪拝する姿。
「論国とは、改めて会談の席を設ける。
――どうせ、適当に衒らかしてやれば、相手も黙るしかない」
「沈黙。 、 、時間稼ぎの言い訳にしては便利ですな。
――戻ったか、玲瑛」
「はい、お父さま」
多分に皮肉を含ませた呟きを太源真女へと投げつつ、赤黒く怒気に染まった相貌を末娘へと取り繕う。
「おお。戻ったか、玲瑛や。うむ。落ち着いて見ると、確かに器量はそこそこ。
……それで? 天子にはもう、お手付きになって貰ったか」
「は、はぁっ!?」
かんらと、親子に流れる微妙な間を、太源真女の明け透けな笑い声が吹き飛ばした。
やったやらないと、己の貞淑をものみたいに扱われ、流石に玲瑛の頬が紅潮する。
その様子に大方の顛末を察したのか、太源真女もつまらなそうに肩を竦めて返した。
「は。その様子では、天子を篭絡するにも足りなかったか。
朕が見るに、向こうも未だ生娘であるしなぁ。あの初心さでは、褥で鶴唳を塞いでやれば容易ぅに転ぶぞ」
「抑々、私は同盟締結に向かったのであって、嫁に行った訳ではありません」
しかも当人なのに、詳細を説明すらされていないのだ。勝手に期待されて勝手に失望されても、玲瑛からすればお門違いも良い処であった。
それでも、なけなしに上がった少女の反駁を、太源真女は鼻で嗤う。
「父が阿呆なら、娘は間抜けか。渡された貢を使い切ってでも、相手の気を惹くが使者の器量よ。其方の貞淑程度なら、本命前の手付にしかならんわ」
「――お言葉ですが、天子を見るに年齢も未熟なばかり。色艶で傾けるには無理があるかと」
「ふん。……まぁ、善いわ。時間も遣りようも、朕には充分にある。
とにかく今は、足の速い話題を片付けるとしよう」
「ご賢察、痛み入ります」
寒風に翻る袞衣を目の端から外し、偲弘は視線を玲瑛へと戻した。
――誰に似たのか、困った娘だ。
自分の立場は理解しているのか、玲瑛からは抗弁の声は返らなかった。
信顕天教でも、戴天玲瑛に対する意見は千々に割れている。
一言も無く芳雨省から奔出した挙句、無断での高天原との同盟締結。
明確に名の入った禁を侵していなくとも、結果は犯罪を飛び越えて国家転覆に近く。
目に入れても痛くないほどに可愛がっている末の娘だが、ここまでくれば流石に洞主の直系であっても庇える限界を超えていた。
辛うじての救いは、総ての段取りを仕組んだのが、己の奉じる太源真女の神託であると云う一点か。
神柱の意向に、ただ人の意見は意味を為さない。
戴天偲弘の陰に隠れて不満しか云えない輩なぞ、最初から届ける耳も無いだろう。
天教洞主であればこそ、無視はできない世知辛い現実であった。
「太源真女さまよりの執り成しゆえ、高天原への無許可渡航は不問に付された。
が、玲瑛。其方の失態はそれだけに留まらぬは、重々に承知しているな?」
「……是」
「では、聞かせて貰おう。
――魔教と高天原。取引だと景気よく振舞った神錬丹は、何処が出処だ?
雲岫に在庫を確認させたが、減った形跡はなかったぞ」
苦々しく偲弘は、最も気掛かりであった疑問を玲瑛へと投げた。
神錬丹の効能は、本来不可能なはずの精霊力の増大。1人につき、生涯一度切りと制限は多いものの、その効能は誰しもが求める無二の魅力がある。
特に精霊の位階がただ人の序列を決定するこの世界であればこそ、その価値は天井知らずの魅力を持っていた。
それ故、天教に於いて神錬丹は、製造から流通まで慎重に選定されている。
中核を成す原料の幾つかに至っては、採取するものを家系ぐるみで抱え込むほど徹底をしているほどだ。
仮令、信顕天教の頂点である戴天家の直系であっても、可惜と扱えない。
他国に対する同盟の手土産には、どう考えても割に合わない代物であった。
「お祖父さまが身罷る際に、私に持っているようにと。
何れ、侑国と論国は手を組むはずだから、高天原に渡して侑国の掣肘とするようにと」
「……あの老狐狸。こっそりと原料から割り増していたなっ」
あっさりと玲瑛が白状したその入手経路に、偲弘は思わず悪態を漏らした。
冷静に考えてみれば、当然の帰結である。
神錬丹の精錬方法を完全に把握しているのは、信顕天教でも洞主のみ。記録にない神錬丹があるとするならば、間違いなく精錬した犯人は洞主の知識を持っていなければおかしい。
特に先代の天教洞主であった戴天禹は、保守色の強い天教に在って特に開明的な性格をしていた。
蒸気機関に強く興味を持ち、魔教との同盟恢復を模索していた人物だ。
周囲の反対を押し切り、魔教重鎮の家系である李鋒俊を引き込むなど、賭けに近い強権を揮ってきた事でも知られていた。
玲瑛の独断ではなく先代洞主である禹の指示。しかも当人は、既に故人である。
実行した玲瑛の責任を有耶無耶にした上で、先代と現洞主の対立構造に落とし込んでいるのだ。
こうなった場合、発生した責任を誰が取るのかを問われれば、最終的には戴天偲弘の元に行く着いてしまう。
頭を抱えた偲弘を余所に、太源真女が痛快そうに咽喉を鳴らした。
通廊を渡り、その向こうにある部屋へと太源真女は踏み込んだ。
磨かれた御影石の床を歩き、その奥座にある朱塗りの椅子に腰を下ろす。
椅子の主となった少女の神柱は、追従する玲瑛たちへと火眼金睛を細めて見せた。
「呵々、愉快痛快。そちと違い、先代洞主は喰えぬ輩だの。
安心せい。論国の動向が明白になった今、責任を取る必要はなかろ。
――禹めに救われたな」
「救済とは云い難いですが」
「論国からの来訪があっただろう。……それが先代の勝利した証明だ」
ゆるりと泳がせた少女の掌に許しを得て、信顕天教の重鎮たちと玲瑛は床に膝を突く。
会話の合間の機会を得て、玲瑛は恐る恐ると口を開いた。
「――太源真女さま。来訪者はロインズとか云う商会の先触れです。
精霊力も計りましたが、位階は間違いなく平民でした」
「隠形は?」
「精霊看破を防いだような反応はありません、私の精霊は興味も示さなんでしたな。
――先ず、結論に間違いはないかと」
対象に悟られず、遠距離から魂魄に封じられた精霊を看破する。
天教が秘匿する最高機密の道術をさらりと口にして、偲弘は腕組みをした。
一方的に対象の精霊を看破するその術式は、生命に精霊の宿るこの世界に於いて、対象を丸裸にする行為に等しい。
その有用性を熟知しているからこそ、信顕天教はこれまで他勢力に対する優位性を崩してこなかったのだ。
「商会の一平民を使者に仕立てたと? 論国はそこまで人材が払底していると云う事か」
「ただ人の考えそうなことなら幾つか思い当たる節はあるが、些事である。一先ずは捨て置け。
――天子の方はどうしているか?」
「…………」
末娘が引き込んだ一層の悩みのタネを一言で流され、偲弘は嘆息を漏らした。
過去に一度だけ謁見が許されているが、太源真女の性格はその頃から忘れたことはない。
尊大にして苛烈。気まぐれとしか思えない神託を下ろし、多大な犠牲と引き換えの最善を選ぶ大神柱。
神代と呼ばれるその時代、太源真女は一人の天子を天帝へと昇らせるために、真国に数多と存在した他の神柱を根絶やしにしたという。
「少し手合わせは致しましたが、見所は有っても未熟ですな。
精霊を宿していないのは確認しましたが、 、」
「随分と肩透かしの実力だと?」
「はい」
微笑みを崩さない太源真女に、偲弘はそれでもやや辛口の評価を下した。
――天子。
高天原では神無の御坐と呼ばれるその存在は、神話に於いて精霊と神柱に無条件の愛を注がれる存在と伝わっている。
森羅万象がその歩みに首を垂れ、一切の自由を天から赦された、生まれながらの帝。
掌の一薙ぎは雲を薙ぎ払うが如く、地の障碍の悉くを退けると伝承にあった。
先刻に闘った天子の再臨は、神話に語られたそれと比べるとどうにも手応えが無い。
「其方と天子の闘いは移し鏡で観ておるが、 、あれは手加減だの」
「仕方が無いでしょう。
接待次いでの演武で、粋がった子供相手に本気を出すまでも無い」
「其方ではない。天子が手加減をしたのだ」
事も無げに断じた真国の神柱を、偲弘は胡乱に見遣った。
天子と比べられると遥かに格は下がるが、戴天偲弘も真国六教の一角である信顕天教の洞主である。
当然、生まれて精々10数年しか経っていない少年相手に、手加減されるほど拙くはない。
海を渡った相手を無下に扱うでなく、精々が好々と頭を撫でた程度。
「確かに飛刀術を落とされはしましたが、あれは私が勝ちを譲ったのです」
「だが其方は、手足を喪う事なく此処に立っている」
思わず投げた反駁を、太源天女はどうともなく鼻を鳴らした。
「実力のある増上慢を、其方はどうやって躾ける?」
「少々、乱暴に揉んで、鼻っ柱を折ってやるのが定石ですが……、真逆、あの小僧」
神柱からの言葉に、思い至った偲弘は呻くように呟いた。
武芸の才を得た若者が調子に乗るのは世の常。だが、才能では武を極める事はできない。
突出した才能は、下手な敵以上に己と己の属する流派を腐らせる危険があるからだ。
天子も同様に、能力が突出しすぎていたならば? ――思い当たるのは、玲瑛や鋒俊が視たという学習能力の早さだ。
戦闘中に真国の言語を修得するほどの学習能力など、間違いなく凡百の優秀さを置き去りにしてしまう。
「それと同じよ。朕が視るに、天子はどうやら極端な戦いしか知らなかったのであろうな。
だからこそ無意識に、其方を定規代わりに天子は手加減をする術を理解したのだ」
「確かに。そうでも無ければ、高天原が差し向けようとも考えませんな」
太源真女の推測を、戴天偲弘は唖然としながらも納得を返した。
協調も何もあったものではない。
そんな才能が武林に入りでもすれば、本人に非が無くとも排斥の対象になってしまう。
だが、その学習速度は脅威であっても、今回に限れば頼もしい限りである。
特に脅威が迫っている現在、論国と高天原の動向は決して無視できないものだからだ。
「……南方塞外主の動向は掴んでいるか?」
「渙霖家の現当主は、依然、沈黙を守ったままです。
ただ、塞都洄瀾の門は開いているようで、東巴大陸鉄道の汽車が入っていくのは確認されておりますな」
「だろうさ。これで、今回来訪した論国人の用件は、大方に想像がついたな。
……一枚岩ではないのは、どの国も同じと云う事か」
「それは、どう云う意味で?」
偲弘の慎重な返事に、何れ判るとだけ返し、太源真女は泰然と立ち上がった。
跪く面々を後に、その繊手が窓を大きく開ける。
「開戦と云う事だ。論国が攻めてくるぞ」
「真国内にある部隊だけでは、準備に後数ヶ月は時間を要するはずですが」
「阿婆擦れ女の手管だ。どうせ向こうも後が無いから、その辺りは無理を通す」
「太源真女さまには、この趨勢が見えておられるのですか?」
窺うような偲弘の問いに首を降り、太源真女は黎隠山から一望できる絶景を見遣った。
ひゅるりと遠く、鳶の寂しげな啼き声が響く。
「天子たちは、既に到着しているな」
「是。別館で休んで貰っています」
「結構」
玲瑛の返事に少女の神柱は、振り向いて短く首肯を返した。
吹き抜ける寒風に髪を躍らせながら、それでも寒さを微塵も感じさせない笑みを浮かべた。
「先ずは、論国人も含めた用件から話すとしようか。
朕の推測が間違っていなければ、この戦争は意外な程に早く終わるぞ」
読んでいただきありがとうございます。
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