9話 鴻鵠は至る、省都の地よ1
東嶺省、青道、神域深部――。
「ぐ。……く、くくく」
肉打つ鈍い痛みに堪えきれず、幽嶄魔教の洞主である莫離涛は床に倒れ込んだ。
肺腑から呼吸が押し出され、老人の咳に嗤いが混じる。
「どうにも、笑える程度には余裕があると見えるな。莫離洞主」
「当然だろう、キャベンディッシュ大佐」
身体を起こしかけた莫離涛の額に、ごりと硬質の痛みが奔った。
感情の見えない痛覚から伝わる、冷酷たい熱を覚える。
見上げると、莫離の霞む視線の先に、幾度か挨拶した間柄であるハリエット・ホイットモアの銃を突き付ける姿が見えた。
金属とも樹木にも見えない銃身に眦を眇め、莫離はその正体を舌に乗せる。
「……ふん。それが、貴様の嘯いていた自慢の玩具か? 大佐殿」
「あれだけ諜報を仕込んでいたのだ。神造計画の表面程度は掴めていると期待していたさ」
老人の反駁もどこ吹く風と、キャベンディッシュは洞主の部屋であった一隅を見渡した。
濛々と土煙の起ち籠める中に、魔教の高手たちの床に倒れ臥す影が。
純白の手巾で口元を覆い、大柄な男性は死屍累々と続くその狭間を歩いた。
「仮にも毒蛇と謳われた洞主が、部下を磨り潰すなど老いたものだな。
――源林武教もそうだったが、東巴の連中は死に急ぎが多いらしい」
「故地も喪った事の無い、奪うだけの連中には判らんよ。
だから、奪還の苛烈さまで金子で賄えるなど、傲慢にも思い上がれるのだ」
「――貴様!」
「止め給え、少尉。その毒蛇には訊きたいことが残っている」
激昂するハリエットを抑え、キャベンディッシュは莫離涛を見下ろした。
「論国に総ての神器は還るべし。と、女王陛下より、権利は賜っているさ。
玉影大経は何処に隠した? 涸れるこの地に在るよりは、帝国の壌土と本懐を果たす方が倖せだろう」
「やはり。以前に親切を装って、風穴の深部を侵した本音はそれか」
「勘違いしないで欲しいが、B-の神器の回収程度に、私が出張る理由も無かったのだよ。今回赴いたのは、洞主へのせめてもの厚意と理解して欲しい」
銃口を一方的に突きつけ、穏やかにキャベンディッシュと莫離涛の会話は続く。
緩やかに身体を起こし、莫離涛は奥座の椅子に腰を掛けた。
「警戒していると、本音を吐き捨てたらどうかね?
――こうやって包み隠さず襲っている辺り、源林武教には手酷くやられたとみたが」
「見てきたような言い草だが、その様子では知らないと見えるな?
残念だが、源林武教はもう無い。夏社洞主殿も、額を撃ち抜かれてまで生きてはいまいさ」
「『王の魔弾』、か」
短く返る莫離涛の指摘に、キャベンディッシュが双眸を瞬かせる。
「……神器の銘まで、良く掴んだものだ」
「鉛玉程度で沈むなら、源林武教では洞主を名乗れん。
出来たと云う事は、それが鉛玉でなかったに他ならんだろう」
「その通り、これが王の魔弾の威力。……そして神柱と云う欺瞞を暴き、帝国が人の頂点となった証明だよ」
――若いな。
平然と持ち直したキャベンディッシュを、莫離涛はうっそりと見返した。
何を仕出かしているか、それが何を意味しているか。論国は表面しか理解していない。
禁忌で遊んで、それが本質だと誤認しているに過ぎないのだ。
「これが、神柱を喪った者共の末路か」
「……何が云いたい?」
「他愛ない事だ。それよりも、源林武教を陥落したなら、何故、列山本訓を得ていない?
アレがあれば、儂等なぞ用済みのままだったはずだが」
そこを突かれるのは予想済みだったか、キャベンディッシュの表情は崩れない。
それでも雰囲気は誤魔化しきれず、張り詰めたものに変わった。
老躯を睥睨する視線が、剣呑なそれに変わる。
「それについても、訊きたいことがある。
実は、いきなり現れた妙な少女に、神器を奪って逃げられてね。随分と華美な服装では有ったが、心当たりは有るか?」
キャベンディッシュの返事に、莫離涛の肩が揺れた。
昨日今日の出来事だ。いきなり現れて神器を回収するような相手に、心当たりなど一つしかない。
太源真女。煌びやかな衣装と聞いた莫離涛の脳裏に、傲然と嗤う真国の大神柱の姿が思い浮かんだ。
神器を奪ったという言葉も、昨夜の出来事と符合する。
――ならば、キャベンディッシュの求めるものは無駄足になるだろう。
「くくく。遠い地の出来事で儂に期待されても、知らんものは知らんなぁ。
それとも、風穴を漁ってみるか? 運が良ければ、案外見つかるかもしれんぞ」
「遺憾だが、洞主殿を楽にしてからそうさせて貰うさ。
末期の言葉は有るかね? 些少ではあるが、協力に対する労いに聞くだけはしておくが」
そう嘯いたキャベンディッシュが、嗤う莫離の額に拳銃を当てた。
末期の言葉を遺したものは、そう多くない。だがキャベンディッシュの予想に反して、老人の嗤い声は不意と止んだ。
「それは助かるな、キャベンディッシュ大佐。
李昊然はどうした? 此処に来る途中で遇ったはずだが」
「……ああ、彼か。随分と大言壮語を吐いてくれたが、
王の魔弾で撃ち抜いた瞬間に術を暴走させて自爆したよ」
「ほう?」
李昊然の名を記憶から呼び起こし、キャベンディッシュは感慨も無く平然と返す。
『王の魔弾』で撃ち抜いた顛末に、莫離は意外そうに答えた。
「死体は?」
「何を期待しているか想像は付くが、無駄であると先に云っておこう。
爆発の跡に残っていたのは片腕だけ。……あれで生きているならば、奇跡だよ」
「そうか、そうか」
くつくつと咽喉で嗤う莫離の額に、銃口が強く押し込まれる。
逃げ場はない。しかし、莫離から笑い声が止む事は無かった。
――充分にキャベンディッシュの時間は削ってやった。瓦礫を掘り起こす余裕が無ければ、後は力量次第だ。
「云い遺す事はそれで打ち止めか?
では、後の予定が詰まっているのでね。ここいらで老人には退場を願うとしようか」
「ああ、それで良いさ。キャベンディッシュ。
――だが、知っているかな? 貴様は儂を毒蛇と評したが、毒蛇の恐ろしさを知るのは、誰もが死んだ跡であると?」
莫離涛の末期を聞き届けたものは、この場にどれだけ居たのか。
老人のか細い息は、直後に響く銃声に、ただ寂しく吹き潰された。
暫くして、神域に運び込まれた発電機に熱が入った。
白熱灯に明かりが点り、昼間と見紛う明るさに満たされる。
「どう云う事だ!?」
雪夜に冷える神域の一角。忙しく駆け回る兵士たちを余所に、怒声が響き渡った。
「……さて。皆目見当もつきません」
「魔教の風穴での実験は失敗であると、君の報告だったはずだが? ハーグリーブス博士!」
「そして風穴に封じられた玉影大経には触れることもできなくなり、撤退を余儀なくされた。
――大佐殿の確認された通りですな」
「では、何処に持ち去られた! あれが無ければ、今後の計画が行き詰ってしまうぞ」
大柄なキャベンディッシュが、神秘学者の権威として知られるエドマンド・ハーグリーブスの襟元を掴んだ。
自信の上司でもある男の苛立ちに、それでもハーグリーブスは冷静に続ける。
「大佐殿に云われるまでもなく、充分に理解しております。
莫離涛を殺したのは早計でしたな。あの云いようでは、どうやら源林武教の顛末の真実に気付いていたのでしょう」
「どうだかな。生かしてやった恩を忘れて、黙ったままなのは想像に難くない。
魔教の頂点なら、自決用の毒には苦労もせん」
「ですが、ともあれ情報の分析には、暫く時間を頂く必要があるかと」
「仕方ないな。
だが、急いでくれ給え。時間が無い」
衿を整えながら、ハーグリーブスはその要請に肯いを返した。
無言で離れる老人を余所に、キャベンディッシュへとハリエットが囁く。
「何か、御懸念でも」
「奪った相手に、大方の予想はついている。
――源林武教の神域で、列山本訓を盗んだあの小娘だ」
「真逆。源林武教のある滝岳省と青道は、鉄道を利用しても1週間は要します。
どう考えても、時間軸の辻褄が合いません」
「逆だ。小娘に青道の神器を回収させて、その後で源林武教で我々に奇襲を仕掛けたのだ。
そうすれば、時間的な辻褄は合うだろう」
短く首を振るキャベンディッシュに、ハリエットは吃驚を返した。
神器の扱いについては、意外なほど各国で扱いにばらつきがある。
特に世界最多と知られる潘国の神器、パーリジャータの多くは散逸しており、所在が不明であるのは有名な事実であった。
「では、真国六教の神器は総て、あの小娘が回収していると?」
「いいや。神器が神柱の象徴と考えれば、最後の手段だろう。でなければ、魔教と武教の神器で回収のタイミングが違う理由に説明がつかん。
――ハーグリーブス博士!」
大柄な男は、苛立つ感情の侭にハーグリーブスへと足を向けた。
「結果はお待ちくださいと、 、何か?」
「神器が無ければ、神造計画にどれだけの遅延が生じるか、試算はできるか?」
「神話の普遍化で神器を創り出す手法には目途がつきましたが、何よりも西巴大陸では龍脈が枯渇しかけているのが問題でした」
「……だから、東巴大陸の龍脈をこじ開ける事で、霊気を確保しようとしている。そこまでは理解している」
「結構。神造計画の核心である、人工神柱の創出に必要な神話と莫大な霊気。その内の神話は用意出来ましたが、霊気の源泉である龍脈の確保には至っていません。
……このままでは、試算どころか遂行すら侭ならなくなるでしょうな」
「ち。やはりか。 、 、以降の実験で、龍脈を必要とする実験は全て切り捨てる」
「――大佐!」
「仕方あるまい。我々復権派の復興は、この実験の成否に掛かっているのだ。
今更に、何の成果も無く撤退するなど認められん」
ハーグリーブスの返答に僅かだけ悩み、直ぐさまキャベンディッシュは決断を下した。
咎めるハリエットの声にも、決断が変わる事は無かった。
「最後の機会として、信顕天教の神器を確保に動く。
だが、それも無駄に終わったら、あれとの契約通りに神造計画を切り変える」
「私は反対です。……嘘を吐けないと云っても、あれは信用できません!」
「だからと云って、他に選択肢も無い。
――博士。これより我々は信顕天教へと向かい、神器の確保に動く。ここでの情報収集を終えたら、直ぐに後を追ってくれ」
「畏まりました」
歩き出した男の後を、ハリエットの気配が追う。
静まり返るだけとなった魔教本拠を抜け、夜の闇へとキャベンディッシュは歩き出した。
♢
「あああ」
東巴大陸鉄道の列車に乗り込んで数日。少女たちの滞在する個室の隅で、悲嘆に満ちた溜息が漏れた。
朝食を済ませた輪堂咲は、溜息の方向へと視線を向けた。
「どうしたの? あれ」
「さあ。……先ほどお見掛けしてから、終始あの有様でして」
それに構う事なく、部屋の片隅では戴天玲瑛が頭を抱える姿が。
咲と埜乃香は視線だけで用件を押し付け合い、やがて根負けした埜乃香は、恐る恐る玲瑛に声を掛けた。
「玲瑛さん。その、どうかしたのですか?」
「……埜乃香さん」
「はあ」
これまでに無いような縋る声に、反応に困った埜乃香も首肯で応じる。
「どうしましょう?」「――それを訊きたいのですが!?」
落語のオチにも使えないような遣り取りを余所に、咲は車窓の向こうへと視線を遣った。
疎らな雑木林と田圃の向こうに、岩山の林立する光景が見えてくる。
「電線は通っていないのですね」
「……当然です。電気は論国の技術ですので、青道以外では嫌厭されているでしょうね」
「技術は使い方次第でしょう。
嫌うだけでは、乗り遅れますよ」
「それは理解していますが、父である戴天偲弘は西巴の技術を毛嫌いしていますので」
「父? と云う事は、ここはもう既に」
「はい。信顕天教の本山がある芳雨省です。この速度なら、今日の昼には駅に到着するかと。
――あああ」
「あ、また」
咲との会話の最中に、再び玲瑛は頭を抱えた。
何かの発作にも見えるその光景に、咲と埜乃香の腰が少しだけ引ける。
「……もしかして、芳雨省に帰るのが嫌なのですか?」
「う」
「と云うよりも、お父さまに再開するのが怖いとか」
咲が不意に上げた声に、玲瑛は覿面の反応を見せた。
少女たちの視線が集める先で、真国の少女は視線を逃す。
戴天玲瑛が高天原に訪れたのは、確か信顕天教の指示ではなく独断だったはずだ。
――つまり、怒られるのが怖かっただけ。
図星と直ぐに判るその所作に、やがて咲たちは含むように笑い声を上げた。
「ふ、ふふふ」
「だ、駄目ですよ、咲さま。――笑ったら、ふふ、流石に失礼かと」
子供らしい理由に笑い合う少女たちへ、玲瑛は唇を尖らせた。
「……皆さん。笑っておられますが、直に他人事ではなくなりますよ」
「その、酷い事にもならないと思いますよ。玲瑛さんが高天原へ向かったのは、大神柱の差配でしょう?
幾ら何でも、 、ふふ。それで咎められるのは変ですし」
「確かに、崑崙からの執り成しはあるでしょうが! ……その、父は頑固で知られているのです」
「頑固と云っても、理を通さぬ方が人の上に立てるとも思えませんが」
「理は通すのです。通すのですが、
……まぁ、会えば直ぐに判りますよ」
見れば直ぐに判るとだけ残して、玲瑛は再び頭を抱えた。
普段の様子と違う玲瑛の姿に、咲たちは再び視線を交わし合う。
その真実を知るのも残り数刻。列車は静かに、信顕天教の支配地である芳雨省の中心地へと進んでいった。
お待たせいたしました。
漸く余裕が出来ましたので、再開いたします。
校正次第では、あと一回、猶予を頂く可能性は御座いますが、何とか今週の更新には間に合いました。
今後ともよろしくお願いいたします。
読んでいただきありがとうございます。
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