7話 何れ神代と、人が臨む時に3
戦闘が明けて翌日、青道駅の行き交う雑踏の中で、晶たちは李昊然と対峙していた。
西巴大陸の出身と一目でわかる乗客たちが、少年たちの傍らを怪訝と過ぎてゆく。
『這是乘坐東巴大陸鐵路的車票』
『……感激不尽』
素っ気なく昊然から差し出された紙片を受け取り、戴天玲瑛は少しだけ眉を顰めた。
指の先に納まる大きさの表面に、真新しく滲む洋墨の綴り。
――Fanyu。小さく打刻された論国語を眺める少女に、察した昊然は苦笑を返した。
「論国人から云わせれば、真国人が鉄道を利用するのは分不相応らしい。
芳雨省まで順調に行けば、4日前後だったはずだ。面倒は起こしてくれるなよ」
「覚悟はしています」
忠告を決然と受け止める玲瑛の眼差しに野暮を思ったか、昊然もそれ以上に言葉を続ける事は無い。
少女から外した視線を、その後背に立つ夜劔晶へと遣った。
「天子。交渉はしてみたが、魔教であっても芳雨省までが限界だ。
潘国に行きたいのなら、其方で何とかしろ」
「ああ。……訊かないんだな」
「必要無いからな。お前たちを饗する本命は、芳雨省で俟つ太源真女だ。
――それが良いか悪いかは、お前たちが決める事だろう」
短く突き放した昊然の応えは、それでも最大の思い遣りなのだろう。
太源真女が去った後、晶と魔教の交わした会話は簡素なものに留まっていた。
それこそ昊然が把握しているのは、潘国へと可能な限り早くという要請だけ。
――二三の言葉の後に動いてくれた昊然が、晶からすれば一層に不気味な程であった。
「単純に考えるなら、悪い話ではない。
迅速に潘国へ向かうとなれば、太源真女と信顕天教の協力は不可欠になるからな」
「神柱の要請だから従うけれど、信顕天教の協力が不可欠と云う根拠は?」
「理由は2つある」
晶の問いに昊然は指を2つ立て、1つを折って見せた。
「信顕天教の南方に広がる那渠山脈は無主の地と思われがちだが、実際は違うと云うのが理由の1つ。
真国と潘国の国境は、天教が管轄している。当然、辺り一帯の地形にも一番詳しい」
隠す心算も無いのか、明朗に返る昊然の応えを、晶は大雑把に脳裏へと書き込んだ。
事前知識は仕入れていたものの、大洋を挟まない地続きの情報は貴重である。
「無主の地というのは?」
「論国の流儀に従えば、一種の緩衝地と云うべきか。
意図的な空白地帯で、交易路を確保してきたのだ」
晶の質問へ丁寧に応えながら、昊然は改札の向こうへと伸びる鉄路を指した。
実の処、潘国の現状で昊然が把握している情報は、質も量も詳報と云い難い。
それでも、青道勃興からの長い年月で、それなりに情報は蓄積されていた。
「無主であろうが、数人が集まれば統治を求めるのは人の理。
南方塞外主を名乗る一族が、天教のみを交渉の相手として門を開いているそうだ」
「――ええ、事実です」
昊然が意味ありげに視線を流し、その先に立つ玲瑛も揺るがず応じた。
元より、隠す心算も無い。晶の目的が大方に予想で来た時点で、その事実は交渉材料の一つに考えていたからだ。
「那渠山脈の麓を拠点とする渙霖家は、古来より潘国との交易を中継する事で栄えてきたと聞いています」
「それだけか?」
「――と、云いますと?」
前提だけを認めた玲瑛と昊然の、鋭い疑問の応酬。
短い沈黙の後、先に李昊然が手札を晒した。
「青道は確かに塞外について詳しくないが、それでも噂の幾つかは届いている。
塞外家は独立独歩ではなく、その実、潘国の息が掛かっていると」
「…………所詮は真国の向こうの噂一つ、そこまで躍起となる意味も無いでしょう」
「噂に関して、確度は高いと思っている。
渙霖家の当主は代々、維雅と名乗るそうだな。真言に依るとその意味は……」
意味を存分に含ませ、昊然は晶を見遣る。
――お前なら判っただろう? 言外に雄弁と問われ、渋々晶も口を開いた。
「随分と訛っているが、近い響きならヴィダーリヤ辺り。……ああ、成る程」
「そう云う事だ。潘国に向かうならば、渙霖家に協力を仰ぐが良い。
――どの途、太源真女は慶んで承諾する」
「随分と断言するんだな。 俺はてっきり、魔教も引き留めようとするとばかりに思っていたが」
意外そうな晶に、昊然も首を振るだけで応える事は無い。
人員も限られた魔教でも、晶に対する意見が割れたのは事実だ。
なにしろ天子である。大神柱に意を通せる晶は、困窮も極まった魔教に在って、乾坤一擲の可能性を持っているのだから。
だが、李昊然と莫離涛は総ての意見を黙殺してまで、晶が東嶺省の境を通過するのを赦したのだ。
背景にあるのも又、神無の御坐の存在する意味。
「私が胡麻を拾うだけで、西瓜を見逃す戯けに見えるか?
天子とは渦中にあるもの。……貴様に居座られたら、今度こそ青道は無事に済まん」
「要は、邪魔だから出ていけって話しだろ」
「そうとも云う」
悪びれず首肯を返した昊然に、晶も呆れた視線を返した。
「それが理由の2つ目?」
「いいや、本題はこれからだ。玲瑛殿が私たちとの交渉に神錬丹を用意していたならば、お前たちにも神錬丹が渡っていると思うが」
「――昊然殿。……その件については」
「玲瑛殿が交渉の札にしたい気持ちは理解するが、手土産に渡した以上、詳細は必要だろう」
慌てて釘を刺そうとした玲瑛を、昊然は真面目に諭した。
押し黙る玲瑛に黙礼だけ、昊然は晶へと視線を戻した。
「是薬三分毒と云われる通り、薬効には常に副作用が付き纏う。
神錬丹も例には漏れん、用途を間違えれば容易く毒に変わる代物だ」
玲瑛の思惑は判っている。神錬丹の効能を不完全に伝える事で、晶たちの牽制にしたいのだろう。
しかしその判断は、危険な賭けに過ぎない。
それも片方が希少な神錬丹となれば、高天原は勿論、天教にも修復不可能な亀裂を入れてしまう。
高天原では情報の断絶が起きていたが、真国にはかなり正確な神無の御坐の情報が残っていた。
神無の御坐とは英傑である。比喩ではなく純粋な事実として、神無の御坐には英雄となる結末しか残されていないのだ。
無論、その事実にも意味はある。眼前に立つ少年は知らないだけで、恐らくは多くの神柱がそうなる結末を俟っているのだろう。
僅かに憐憫を覚えたが、それこそが神無の御坐だ。
困難を享け、これを打ち払う。理不尽に対して、理不尽な勝利を奪う英傑の宿痾。
「用途の詳細は玲瑛殿から聞くが良い。
用法さえ間違えなければ、それは確かに最上級の仙丹だ」
それ以上は応える心算も無い。昊然は言葉を切って、最後に自身の弟だった少年へと視線を向けた。
――憐れを云えば、此方も引けを取っていない。
正直、先の見えた青道と李家よりはと、一縷の望みを賭けて天教へ差し向けた愚弟。
中々に数奇な巡りで青道に戻ってきたものだと、昊然は感慨を覚えた。
『鋒俊』
『何だよ、……兄貴』
『これ以降、父の赦しを得るまで青道の門は潜れぬものと思え』
厳しさを装う声音に、判ったとだけ鋒俊のつまらなそうな応えが返る。
子供としか思えない弟の仕草に、苦笑しかけた口を戻した。
『お前を李家から出したが、李鋒俊が私の愚弟である事に変わりはない。
いざと在れば、李家を名乗る事を躊躇うな』
『良いのかよ。長輩連中が黙っちゃいないと思うけど』
『構わん。どうせ縁を断った訳でもない。お前が青道の外でどう名乗ろうとも、李家長輩の耳に届くこともなかろう』
昊然の思い遣りに気付いたかどうかは知らない。
ただ李鋒俊は言葉も無く、視線を逸らして肯いだけを返した。
♢
事前の許可は通っていたからか、改札は問題なく通れた。
西巴大陸の人の大半は、青道駅の港方面が目的なのだろう。晶たちが駅舎へ向かうほど、他人の視線は疎らと移る。
話し込んだせいで僅かに遅れた予定に、人影の減った通路を少年たちの足が急ぐ。
「汽車は一度動けば、余程が無いと停まらないと聞きましたが。本当ですか?」
「高天原の鉄道とそう変わりはないなら、間違いなく。
汽車が物理的に運行不能にならない限り、車内で何があっても停まらない」
息急きる玲瑛の声に、晶が応えた。
鉄の塊である蒸気機関車は、その自重だけでも急な制動は難しい。
加えて、常時、石炭と水を消費する構造上、運行計画は距離から厳密に組まれているのだ。
下手な停車は最悪、線路の上に鉄の塊を放置せねばならない状況にもなってしまう。
遠距離への連絡手段が限られている現在、それは後続の列車と衝突する可能性が発生する行為でもあるのだ。
蒸気機関車の停止は最悪、死罪まで問われる重罪とされていた。
一度乗りさえすれば、目的地には何があろうと到着する。
その常識こそ、晶が東巴大陸鉄道を利用する事を決めた理由の1つであった。
横目に過ぎる時計に残る充分な余裕。それでも一層に、少年たちは足を速めようと。
『――Do wait!』
流暢な論国語が鋭く、急ぐ晶たちの足を制止させた。
金髪に碧眼の、軍人と一目でわかる制服を着た女性。その手に覗く鈍い鉄の輝きの正体を悟り、晶は勢い余りかけた咲を背に庇う。
短銃。玲瑛と鋒俊も庇う格好で、自然と晶が前へ出た。
その姿に何かを勘違いをしたか、女性は侮蔑も露わに真国語を吐き捨てた。
『真国人の駅構内への侵入は、使用時間外は禁止だ。使用人ならば、従業員専用を使え』
『……申し訳ありませんが、俺たちは使用人では有りません。
幽嶄魔教の伝手がありまして、客として汽車に乗る予定です』
『――幽嶄魔教? ふん。論国が権利の一部を許可したら、直ぐに我が物で私用とはな。
手綱を離してやれば途端に権力を恣か。猿どもはやはり手に負えん』
晶の説明に一応の納得を見たのか、女性は短銃をホルスターに仕舞う。
その後ろから鷹揚に近づく大柄な男性へと、鋭く敬礼を向けた。
『失礼しました、キャベンディッシュ大佐』
『無事か、ホイットモア少尉。――此奴等は?』
『汽車の乗客だと。……幽嶄魔教に、我々の指導が行き渡らなかったらしく』
『くれてやった権利だ。代金さえ支払えば、子供を数人程度なら黙認をしてやれ』
『大佐は甘すぎます。真国人に脇を見せれば、幾らでもつけあがりますよ』
『気持ちは理解するが、面倒ごとが長引くのもな。……まぁ確かに、少尉の進言通り、慎重は期すべきであるが』
女性と男性の間に交わされる、流暢な論国語の会話。聞き取れないと思い込んでいるのか、その内容の不穏さに晶は眼光を鋭く尖らせた。
此処で抵抗するべきか否か、素早く脳裏で天秤を揺らす。
『……では』
『銃弾が勿体ない、取り敢えずは拘束で済ませろ。
明日にでも事故だと云い張ってやれば、黄色いだけの猿どもなら黙る』
――厄介な。
余計な問題を持ち込んだ男女2人に、晶は一瞬で覚悟の天秤を傾けた。
無罪を問うよりも有罪をでっち上げて封殺しようと、互いを気遣って相談しているのだ。
嘗て守備隊総隊長だった万朶鹿之丞の保身から晶を捕縛しようとした出来事が清廉に思えるほど、汚濁に塗れたそれは善意であった。
彼我に於ける唯一の勝機は、相手が油断しているこの瞬間だけである。
言葉を理解していない振りを装いながら、晶は腰を僅かと落とし――。
『――キャベンディッシュ大佐!』
不意の声に、踏み込もうとした攻め足を解いた。
全員の視線が、声の方向へと集中する。
その先に立つ茶髪に榛色の瞳をした青年が、快活と握手を求める。
『いやあ、お久しぶりです。
このような場末でお遭いできるとは。――何時、滝岳省からお戻りに?』
『――モンタギュー君か。機密ゆえに、詳細は差し控えさせて貰いたいな。
君こそ何故、青道駅に? 保険会社は、北も南も興味ないと思っていたが』
『っはは。無い用事を作れるのが、ロインズの良い社風という奴でして』
険の残るキャベンディッシュの詰問を朗らかに躱し、モンタギューと呼ばれた青年は晶へと柔らかい笑みを向けた。
敵か味方かも判別が難しく、晶は次の一手に迷う。
それを察したのか、青年は流暢に高天原の言葉を紡いで見せた。
「晶くん。待たせてしまったかな?」
「いえ。こちらもてっきり、駅舎で合流するとばかり。急がせたこと申し訳ありません。――ミスタ」
口籠りそうになる舌を誤魔化す晶の肩を、モンタギューは軽く叩いて見せる。
その身体でキャベンディッシュとホイットモアの視線を遮り、通路の向こう側へと指で指し示した。
疎らな人混みに紛れて、よく知った八家の少年が無言で身体を翻す。
雑踏の向こうへと消える少年からの支援に、晶は諒太の策が上手く運んだ事を悟った。
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