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泡沫に神は微睡む  作者: 安田 のら
五章 濫海浄罪篇
192/222

7話 何れ神代と、人が臨む時に1

 太源真女(タイユェンジェンニュ)が爪先を踊らせると同時、一陣の風と共に視界から消える。

 その後に残ったものは、戦闘の後と張り詰めた静寂だけであった。


「……見逃して、くれたの?」

「多分、限界だったんだ」


 茫然(ぼうぜん)と呟く咲へと、晶が嘆息混じりに応える。

 残心を守りつつ納刀。鞘へ奔る軋みに、少年の眦が歪んだ。


「話から察するに、太源真女(タイユェンジェンニュ)は風穴の霊気で降りていたんだろうな。

 ……仮初だけど顕神降(あらがみお)ろしを霊気で強引になんて、風穴が枯渇するだけで済む話じゃない」


 太源真女(タイユェンジェンニュ)が霊気で降臨できた理由は、元が霊気でも行使できる神器であったからだと想像は付く。


 とは云え、神柱を現世へ留め置く規模の霊気を蕩尽(とうじん)し続ければ、風穴がどうなるかなど火を見るよりも明らかであった。


「――小天子(シャオティエンズ)の見立て通りであろうな。

 青道(チンタオ)の風穴は、人工的に造成されたものだ。一度でも枯渇してしまえば、都市の風水を引き直さねば回復も望めん」


 晶の推測へと、皺枯れた声が返る。

 振り返る先では、莫離涛(モォリタオ)が老躯を無理に起き上がらせている処であった。


「何だ。高天原(たかまがはら)の言葉を喋れたのか」

「ここは青道(チンタオ)だぞ。何れの国と相対しても不自由がないように、莫離家の当主は最低でも三国の言語に堪能でなければならん」


 疲れた様子で懐から丸薬を取り出し、震える顎で噛み砕く。

 僅かと漏れる精霊光すら呑み込み、溜息混じりの咳を遺した。


「薬剤漬けは身体に悪いぞ。何なら、回生符を(わた)すが」

「ただの薬丹ではない。生道の術法を練り込んだ仙丹だ。

 ――話を戻すぞ」


 提案をにべもなく撥ね退け、老人は少年を睨む。

 天子(神無の御坐)に思う処が無い、と云えば噓になる。だがそれよりも、状況を整理する方が先だと、感情を圧し隠した。


「神柱がこの惨状を知って見過ごしていたならば、青道(チンタオ)の風水を戻すのは無駄であろう」

「それは交渉次第だろう。

 神柱と云っても、人の世が()いた理を無視はしない」

「青いな小天子(シャオティエンズ)。貴様であれば話は別だが、地を這う我らの言葉など聞く耳すら持たんわ」


 晶の返事へと、老人は肩を揺らして(わら)い返した。


 ただ(・・)人の身で、大神柱との目通りが赦される機会は皆無である。

 真国(ツォンマ)六教の宗家であっても、太源真女(タイユェンジェンニュ)の坐す崑崙(コンロン)に訪れた事すら無い。


 当然、神柱へ奏上する機会は一切なく、莫離涛(モォリタオ)が突きつけられたのは、最終通告の一言だけであった。


「そうか? 真国(ツォンマ)からすれば、青道(チンタオ)論国(ロンダリア)に奪われている方が問題だと思うけどね」

「……未だ、真実に気付いていなかったのか。

 論国(ロンダリア)は既に、青道(チンタオ)の放棄を決定しておる」

「何だと?」

論国(ロンダリア)の人間が、大挙して港に集まっているのは知っているな。魔教が把握している限り、今回の便で最後のはずだ」

「今回が最後? けど、青道(チンタオ)租界の支配権はどうなる。

 青道(チンタオ)租界は、論国(ロンダリア)にとっても生命線のはずだぞ」


 老人の疲れた告白に、晶の足が止まった。


 晶が知る限り、東巴大陸方面に()ける論国(ロンダリア)の寄港地は3つ存在している。

 潘国(バラトゥシュ)のランカー領と、真国(ツォンマ)青道(チンタオ)。――そして、高天原(たかまがはら)鴨津(おうつ)

 この内、ランカーと青道(チンタオ)論国(ロンダリア)も手放さないだろうと、晶は予想していた。


 鴨津(おうつ)を除外した理由は単純で、元々波国(ヴァンスイール)経由で鴨津領主(久我家)から貸与されただけの権利だからだ。

 その実態は又貸しに近く、論国(ロンダリア)からすれば精々が小金を稼ぐ程度の旨味しかない。


 青道(チンタオ)戦役で割譲された青道(チンタオ)と比べると、その重要度には雲泥の差があるはずであった。


「そこまでは知らん。だが、現在の青道(チンタオ)に、論国(ロンダリア)人が殆ど居らんのは確かだ。

 青道(チンタオ)租界の権利なら、保険会社とやらに貸与したと聞いておる」


 ここに至って、莫離涛(モォリタオ)に嘘を吐く理由は無い。

 咲からの証言の裏付けもあり、晶は思考を巡らせた。


 考え込む少年へと、咲の囁く声が届く。


「――何か気付いたの?」

「……論国(ロンダリア)が、青道(チンタオ)を手放せるはずがないんだ。

 正直、青道(チンタオ)から論国(ロンダリア)の人間が消えた状況も、戦時に備えて民間人を退避させている程度だと思っていた」


 晶は当初、青道(チンタオ)から論国(ロンダリア)人が去っている理由を、本格的に潘国(バラトゥシュ)との戦争状態に陥ったためだと想定していた。


 それに、合理主義である論国(ロンダリア)が、青道(チンタオ)の利権まで手放す理由はない。

 残る可能性の幾つかを、晶は慎重に思考で並べた。


潘国(バラトゥシュ)との決着を目前に、俺なら安全な青道(チンタオ)の拠点は手放さない。

 青道(チンタオ)を名目に防衛同盟が結ばれているし、頭上の侑国(ウクサンスト)に対して警戒する必要がある」

論国(ロンダリア)侑国(ウクサンスト)が険悪だなんて、聞いた事はないけど」

真国(ツォンマ)の方だよ。侑国(ウクサンスト)が南進政策を推し進めている以上、真国(ツォンマ)はどうしても邪魔になるんだ。

 これまでの投資も回収しなければいけないし、論国(ロンダリア)には青道(チンタオ)を離れる理由が、 、」


 そこまで口にして、晶はある可能性に考え込んだ。


 徹底した合理主義である論国(ロンダリア)は、無駄な選択肢を好まない。

 つまり裏を返せば、青道(チンタオ)を手放す充分な理由が出来たことを意味しているのだ。


「――侑国(ウクサンスト)と密約を結んだとか。後方を警戒する必要が無くなったら、潘国(バラトゥシュ)陥落(おと)せると考えたんだ」


 論国(ロンダリア)潘国(バラトゥシュ)との戦争が長引いた要因は幾つかあるが、その1つに距離が挙げられる。

 基本的に戦争は金食い虫だが、本国との距離が開くほど戦費は跳ね上がるのだ。


 論国(ロンダリア)潘国(バラトゥシュ)は、大陸を挟んだ真反対に位置する。兵站(補給路)を確保するための青道(チンタオ)だが、真国(ツォンマ)侑国(ウクサンスト)が掲げる南進政策の最前線でもあるのだ。


「その為の同盟でしょ? 流石に青道(チンタオ)を喪ったら、論国(ロンダリア)は手詰まりになるじゃない」

論国(ロンダリア)にとって、東巴大陸ってのは投資の対象でしかない。損が出るなら、迷わず切るだろうさ」


 波国(ヴァンスイール)の姿勢を見る限り、西巴大陸は本質的に東巴大陸を国家と見做していない。

 価値観が違うと云うだけではなく、会話ができる程度の認識しかないのだ。


 ――それは、互いが善意とする位置が違う事実を、暗に意味していた。


 真国(ツォンマ)論国(ロンダリア)も、本心から相手と対等に接していると考えているだろう。

 だが論国(ロンダリア)からすれば、会話だけでも充分な扱いであり、約定の維持は別の問題でしかない。


 論国(ロンダリア)もそうだが侑国(ウクサンスト)にも、残りの国を牽制する意味はない。それよりも同盟の挙句に、互いが敵対して共倒れする方が問題なのだろう。


 そう仮定すると、論国(ロンダリア)の目標も自ずと絞られてくる。


「不可侵の密約を結べば、青道(チンタオ)を放置できると踏んだんだろうな」

「密約を結んでも、侑国(ウクサンスト)が大人しくしている保証なんてないじゃない」

「無いなら作れば良い。適当な餌を喰っている最中なら、侑国(ウクサンスト)だって真国(ツォンマ)に食指を向ける余裕もないだろ」

「え、 。――真逆、高天原(たかまがはら)論国(ロンダリア)の目標なの?」


 えさ。そう口にしかけ、咲は漸く正答に思い至った。

 二方面作戦は、どの国であっても下策である。侑国(ウクサンスト)高天原(たかまがはら)を相手に動けない隙に、論国(ロンダリア)潘国(バラトゥシュ)を攻略する心算(つもり)なのだ。


「北方を留守にする訳にはいかないって、同行(どうぎょう)当主が云っていたろ。

 多分、侑国の動向を掴んだから、急いでいたんだ」

鴨津(おうつ)租界は? 高天原(たかまがはら)も条約を結んでいるって、聞いた覚えがあるけど」

「あっちは波国(ヴァンスイール)との条約だ。論国(ロンダリア)にとって、高天原(たかまがはら)は喪っても余り痛くないんだろうな。

 寧ろ、これを機に鴨津(おうつ)を正式に属領へ組み込む算段かもな」


 ここまで条件が揃えば、晶であっても大方に想定はつく。

 戦術面での目途が付いたならば、戦力の再編を行うのは守備隊でも基本だからだ。


「……急いで高天原(たかまがはら)に戻る?」

「俺たちが戻っても意味はない。

 同行(どうぎょう)当主は状況を気付いていたみたいだから、それに賭ける」


 結論を終えて、晶は短く息を吐いた。


 異国の地。それも神無(かんな)御坐(みくら)としての不自由が目立つ状況だ。

 潘国(バラトゥシュ)に入国するまでは行動を控える心算(つもり)であったが、神無(かんな)御坐(みくら)と知られた以上は自重する意味も無いだろう。


「何よりこれは、俺たちにとっても好機のはずだ」

高天原(たかまがはら)に集中している間は、真国(ツォンマ)潘国(バラトゥシュ)で私たちは自由に行動できるからでしょ」

「そうだ。――莫離洞主。滝岳(ロンユエ)省に人造龍穴を造る名目で、論国(ロンダリア)が向かったはずだ。

 何時頃に、人造龍穴が完成すると聞いている?」


 晶の問いに、皺枯れた老躯がゆっくりと立ちあがった。

 震える指が杖を突き、相反するように鋭い視線が晶を射抜く。


「機密の一点張りで聞いておらんが、まもなくだろう。率いていたのは、キャベンディッシュとか云う男だ。

 ――何故だ?」

太源真女(タイユェンジェンニュ)が云っていただろう。――滝岳(ロンユエ)省も大騒ぎだと。

 源林武教の神器を別け身に論国(ロンダリア)の軍を強襲したなら、去り際の台詞も説明がつく」


 問題は、大神柱が潰したと断言しなかった点だ。

 源林武教はどこまで理解してこの茶番に付き合ったのか。それ次第で、晶たちに残された時間が替わってくる。


滝岳(ロンユエ)省に向かった論国(ロンダリア)軍は、真国(ツォンマ)潘国(バラトゥシュ)攻略を目的にした遊軍だろうな。

 青道(チンタオ)に戻ってきて事情を知ったら、間違いなく俺たちの前に立ちはだかる」

「だろうな。……今思い返せば、土地神を喪った窮地にも拘らず、武教の夏社(シアシェ)洞主はやけに落ち着いておった。間違いなく、太源真女(タイユェンジェンニュ)の指示でこちらと組んだのだろう。

 ――時間稼ぎも欲しいか?」

「要らない。下手に刺激したら、その分だけ向こうの動きが活発になるだろ」


 莫離涛(モォリタオ)の申し出を断り、晶は嘆息を一つ残した。

 時間がない事は覚悟していたが、ここまで差し迫った状況は想定外であったからだ。


 心奧に残留する精霊力を慎重に確かめる。

 夕闇の差し迫る空を振り仰ぐと、高天は未だ高く、手を伸ばしても届きそうにはなかった。


 ♢


 かしゅり。小さく音だけ残し、折り畳んだ望遠鏡を懐へ押し込む。

 晶たちが戦闘を繰り広げていた地点より半里(2キロメートル)を離れた高台で、久我(くが)諒太は鼻を鳴らした。


「晶の野郎。こっちに面倒ばかり、手前ェで下手打ってりゃあ世話ないだろうが」

「……仕方ありませんよ。その為の私たちです」


 宿の欄干(らんかん)から背を離し、軋ませる勢いで円卓の椅子へと腰を下ろす。

 その対面に座る帶刀(たてわき)埜乃香(ののか)も、同意を返すだけに止めた。


「大陸へ(わた)高天原(たかまがはら)もんは少ないってなぁ有名だが、思った以上に狭い国だったんだな」

論国語(ロンガー)の習いは義務と云っても、卒業すれば縁は有りませんし。

 ――けど、海外(うみそと)で頼られて、悪い気持ちはしないでしょう?」


 埜乃香(ののか)が手持ち無沙汰に小説の頁を捲り、漫ろと返す。

 卓上の珈琲だけが、応じるように水面(みなも)を揺らした。


 海外を主な活動の場とする高天原(たかまがはら)のものは、同行(どうぎょう)家を例外として殆どいない。

 土地の加護が強い高天原(たかまがはら)()いて、洲を離れる行為は本能的に忌避を覚えるからだ。


「まぁな。鴨津(おうつ)租界の伝手を、洗い浚い手繰ったんだ。手応え無しは、御免被るぞ」

「大丈夫ですよ、諒太さん。……来られました」

「ああ」


 埜乃香(ののか)の手にした小説の頁が、近づく気配を悟り僅かと揺れる。

 妻でもある少女の警告に、深く椅子に座り直した諒太は珈琲を飲み干した。


 白く塗られた漆喰の壁伝いに響く、階段を上る足音。


「――お待たせ致しました」


 ――暫くして、にこやかに微笑みを浮かべた青年が姿を現した。

 白い洋装(スーツ)の裾を靡かせ、諒太たちの卓に残された空席へと腰を下ろす。


 柔らかそうな栗色の髪(ブラウン)榛色(ヘーゼル)の瞳。西巴大陸の出自と判る、30前後の男性であった。


「八家の御曹司が見聞の為と出国されるとは。

 正直。鴨津(おうつ)租界の領事から連絡を受けてからこっち、本当に来られるのかと、社でも一等人気の賭けでして」

「それはそれは」敵意を覗かせない微笑みを返すだけ、諒太に先んじて埜乃香(ののか)が返事をする。

「――懐は潤いましたか?」

「もう少し吹っ掛けてやれば。とは云え、ここの支払いは期待してください」


 お道化て肩を竦めた青年が、身を乗り出して右手を差し出した。

 明白(あからさま)埜乃香(ののか)へと向けられたその手を、脇から伸びる諒太の右手が強引に奪う。


「――そりゃ、助かるぜ。知っているだろうが、久我(くが)家嫡男の久我諒太だ」

「エドウィン・モンタギュー。ロインズ保険会社の調査員をしております」


 ぎしり。鍛えられた少年の握力に、(ろく)な鍛錬をしていないだろう男性の手が悲鳴を上げた。

 奔る痛みも相当なもの。にも拘らず、エドウィンと名乗ったその男は、顔色一つ変えずに諒太の握手を柔らかく返す。


 やがて振り解くようにして、互いの握手が離れた。


「……では、商談を始めましょうか」

「応」


 柔らかい青年の要請に、硬く返る少年の応え。

 腹蔵を覗かせない笑みのまま、夜空の下で密会が始まった。

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― 新着の感想 ―
マス○ーキートンの読者だった一人としてはエド君の活躍にも期待してますが 高御座達が何処まで読めていたのかも気になります
本格的なぶつかり合いは避けられない、かな ロンダリアの主戦力が未だに読めないの怖いな …モンタギュー氏は本当に訓練して来てない人なんだろうか
過去の積み重ねの皺寄せが一気に晶くんに降り掛かっているな…。 他国の神柱の事情まで全部今代の神無の御坐が解決しなくちゃいけないとか貧乏籤にも程があるな…。
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