7話 何れ神代と、人が臨む時に1
太源真女が爪先を踊らせると同時、一陣の風と共に視界から消える。
その後に残ったものは、戦闘の後と張り詰めた静寂だけであった。
「……見逃して、くれたの?」
「多分、限界だったんだ」
茫然と呟く咲へと、晶が嘆息混じりに応える。
残心を守りつつ納刀。鞘へ奔る軋みに、少年の眦が歪んだ。
「話から察するに、太源真女は風穴の霊気で降りていたんだろうな。
……仮初だけど顕神降ろしを霊気で強引になんて、風穴が枯渇するだけで済む話じゃない」
太源真女が霊気で降臨できた理由は、元が霊気でも行使できる神器であったからだと想像は付く。
とは云え、神柱を現世へ留め置く規模の霊気を蕩尽し続ければ、風穴がどうなるかなど火を見るよりも明らかであった。
「――小天子の見立て通りであろうな。
青道の風穴は、人工的に造成されたものだ。一度でも枯渇してしまえば、都市の風水を引き直さねば回復も望めん」
晶の推測へと、皺枯れた声が返る。
振り返る先では、莫離涛が老躯を無理に起き上がらせている処であった。
「何だ。高天原の言葉を喋れたのか」
「ここは青道だぞ。何れの国と相対しても不自由がないように、莫離家の当主は最低でも三国の言語に堪能でなければならん」
疲れた様子で懐から丸薬を取り出し、震える顎で噛み砕く。
僅かと漏れる精霊光すら呑み込み、溜息混じりの咳を遺した。
「薬剤漬けは身体に悪いぞ。何なら、回生符を渡すが」
「ただの薬丹ではない。生道の術法を練り込んだ仙丹だ。
――話を戻すぞ」
提案をにべもなく撥ね退け、老人は少年を睨む。
天子に思う処が無い、と云えば噓になる。だがそれよりも、状況を整理する方が先だと、感情を圧し隠した。
「神柱がこの惨状を知って見過ごしていたならば、青道の風水を戻すのは無駄であろう」
「それは交渉次第だろう。
神柱と云っても、人の世が布いた理を無視はしない」
「青いな小天子。貴様であれば話は別だが、地を這う我らの言葉など聞く耳すら持たんわ」
晶の返事へと、老人は肩を揺らして嗤い返した。
ただ人の身で、大神柱との目通りが赦される機会は皆無である。
真国六教の宗家であっても、太源真女の坐す崑崙に訪れた事すら無い。
当然、神柱へ奏上する機会は一切なく、莫離涛が突きつけられたのは、最終通告の一言だけであった。
「そうか? 真国からすれば、青道を論国に奪われている方が問題だと思うけどね」
「……未だ、真実に気付いていなかったのか。
論国は既に、青道の放棄を決定しておる」
「何だと?」
「論国の人間が、大挙して港に集まっているのは知っているな。魔教が把握している限り、今回の便で最後のはずだ」
「今回が最後? けど、青道租界の支配権はどうなる。
青道租界は、論国にとっても生命線のはずだぞ」
老人の疲れた告白に、晶の足が止まった。
晶が知る限り、東巴大陸方面に於ける論国の寄港地は3つ存在している。
潘国のランカー領と、真国の青道。――そして、高天原の鴨津。
この内、ランカーと青道は論国も手放さないだろうと、晶は予想していた。
鴨津を除外した理由は単純で、元々波国経由で鴨津領主から貸与されただけの権利だからだ。
その実態は又貸しに近く、論国からすれば精々が小金を稼ぐ程度の旨味しかない。
青道戦役で割譲された青道と比べると、その重要度には雲泥の差があるはずであった。
「そこまでは知らん。だが、現在の青道に、論国人が殆ど居らんのは確かだ。
青道租界の権利なら、保険会社とやらに貸与したと聞いておる」
ここに至って、莫離涛に嘘を吐く理由は無い。
咲からの証言の裏付けもあり、晶は思考を巡らせた。
考え込む少年へと、咲の囁く声が届く。
「――何か気付いたの?」
「……論国が、青道を手放せるはずがないんだ。
正直、青道から論国の人間が消えた状況も、戦時に備えて民間人を退避させている程度だと思っていた」
晶は当初、青道から論国人が去っている理由を、本格的に潘国との戦争状態に陥ったためだと想定していた。
それに、合理主義である論国が、青道の利権まで手放す理由はない。
残る可能性の幾つかを、晶は慎重に思考で並べた。
「潘国との決着を目前に、俺なら安全な青道の拠点は手放さない。
青道を名目に防衛同盟が結ばれているし、頭上の侑国に対して警戒する必要がある」
「論国と侑国が険悪だなんて、聞いた事はないけど」
「真国の方だよ。侑国が南進政策を推し進めている以上、真国はどうしても邪魔になるんだ。
これまでの投資も回収しなければいけないし、論国には青道を離れる理由が、 、」
そこまで口にして、晶はある可能性に考え込んだ。
徹底した合理主義である論国は、無駄な選択肢を好まない。
つまり裏を返せば、青道を手放す充分な理由が出来たことを意味しているのだ。
「――侑国と密約を結んだとか。後方を警戒する必要が無くなったら、潘国を陥落せると考えたんだ」
論国と潘国との戦争が長引いた要因は幾つかあるが、その1つに距離が挙げられる。
基本的に戦争は金食い虫だが、本国との距離が開くほど戦費は跳ね上がるのだ。
論国と潘国は、大陸を挟んだ真反対に位置する。兵站を確保するための青道だが、真国は侑国が掲げる南進政策の最前線でもあるのだ。
「その為の同盟でしょ? 流石に青道を喪ったら、論国は手詰まりになるじゃない」
「論国にとって、東巴大陸ってのは投資の対象でしかない。損が出るなら、迷わず切るだろうさ」
波国の姿勢を見る限り、西巴大陸は本質的に東巴大陸を国家と見做していない。
価値観が違うと云うだけではなく、会話ができる程度の認識しかないのだ。
――それは、互いが善意とする位置が違う事実を、暗に意味していた。
真国も論国も、本心から相手と対等に接していると考えているだろう。
だが論国からすれば、会話だけでも充分な扱いであり、約定の維持は別の問題でしかない。
論国もそうだが侑国にも、残りの国を牽制する意味はない。それよりも同盟の挙句に、互いが敵対して共倒れする方が問題なのだろう。
そう仮定すると、論国の目標も自ずと絞られてくる。
「不可侵の密約を結べば、青道を放置できると踏んだんだろうな」
「密約を結んでも、侑国が大人しくしている保証なんてないじゃない」
「無いなら作れば良い。適当な餌を喰っている最中なら、侑国だって真国に食指を向ける余裕もないだろ」
「え、 。――真逆、高天原が論国の目標なの?」
えさ。そう口にしかけ、咲は漸く正答に思い至った。
二方面作戦は、どの国であっても下策である。侑国が高天原を相手に動けない隙に、論国は潘国を攻略する心算なのだ。
「北方を留守にする訳にはいかないって、同行当主が云っていたろ。
多分、侑国の動向を掴んだから、急いでいたんだ」
「鴨津租界は? 高天原も条約を結んでいるって、聞いた覚えがあるけど」
「あっちは波国との条約だ。論国にとって、高天原は喪っても余り痛くないんだろうな。
寧ろ、これを機に鴨津を正式に属領へ組み込む算段かもな」
ここまで条件が揃えば、晶であっても大方に想定はつく。
戦術面での目途が付いたならば、戦力の再編を行うのは守備隊でも基本だからだ。
「……急いで高天原に戻る?」
「俺たちが戻っても意味はない。
同行当主は状況を気付いていたみたいだから、それに賭ける」
結論を終えて、晶は短く息を吐いた。
異国の地。それも神無の御坐としての不自由が目立つ状況だ。
潘国に入国するまでは行動を控える心算であったが、神無の御坐と知られた以上は自重する意味も無いだろう。
「何よりこれは、俺たちにとっても好機のはずだ」
「高天原に集中している間は、真国や潘国で私たちは自由に行動できるからでしょ」
「そうだ。――莫離洞主。滝岳省に人造龍穴を造る名目で、論国が向かったはずだ。
何時頃に、人造龍穴が完成すると聞いている?」
晶の問いに、皺枯れた老躯がゆっくりと立ちあがった。
震える指が杖を突き、相反するように鋭い視線が晶を射抜く。
「機密の一点張りで聞いておらんが、まもなくだろう。率いていたのは、キャベンディッシュとか云う男だ。
――何故だ?」
「太源真女が云っていただろう。――滝岳省も大騒ぎだと。
源林武教の神器を別け身に論国の軍を強襲したなら、去り際の台詞も説明がつく」
問題は、大神柱が潰したと断言しなかった点だ。
源林武教はどこまで理解してこの茶番に付き合ったのか。それ次第で、晶たちに残された時間が替わってくる。
「滝岳省に向かった論国軍は、真国と潘国攻略を目的にした遊軍だろうな。
青道に戻ってきて事情を知ったら、間違いなく俺たちの前に立ちはだかる」
「だろうな。……今思い返せば、土地神を喪った窮地にも拘らず、武教の夏社洞主はやけに落ち着いておった。間違いなく、太源真女の指示でこちらと組んだのだろう。
――時間稼ぎも欲しいか?」
「要らない。下手に刺激したら、その分だけ向こうの動きが活発になるだろ」
莫離涛の申し出を断り、晶は嘆息を一つ残した。
時間がない事は覚悟していたが、ここまで差し迫った状況は想定外であったからだ。
心奧に残留する精霊力を慎重に確かめる。
夕闇の差し迫る空を振り仰ぐと、高天は未だ高く、手を伸ばしても届きそうにはなかった。
♢
かしゅり。小さく音だけ残し、折り畳んだ望遠鏡を懐へ押し込む。
晶たちが戦闘を繰り広げていた地点より半里を離れた高台で、久我諒太は鼻を鳴らした。
「晶の野郎。こっちに面倒ばかり、手前ェで下手打ってりゃあ世話ないだろうが」
「……仕方ありませんよ。その為の私たちです」
宿の欄干から背を離し、軋ませる勢いで円卓の椅子へと腰を下ろす。
その対面に座る帶刀埜乃香も、同意を返すだけに止めた。
「大陸へ渡る高天原もんは少ないってなぁ有名だが、思った以上に狭い国だったんだな」
「論国語の習いは義務と云っても、卒業すれば縁は有りませんし。
――けど、海外で頼られて、悪い気持ちはしないでしょう?」
埜乃香が手持ち無沙汰に小説の頁を捲り、漫ろと返す。
卓上の珈琲だけが、応じるように水面を揺らした。
海外を主な活動の場とする高天原のものは、同行家を例外として殆どいない。
土地の加護が強い高天原に於いて、洲を離れる行為は本能的に忌避を覚えるからだ。
「まぁな。鴨津租界の伝手を、洗い浚い手繰ったんだ。手応え無しは、御免被るぞ」
「大丈夫ですよ、諒太さん。……来られました」
「ああ」
埜乃香の手にした小説の頁が、近づく気配を悟り僅かと揺れる。
妻でもある少女の警告に、深く椅子に座り直した諒太は珈琲を飲み干した。
白く塗られた漆喰の壁伝いに響く、階段を上る足音。
「――お待たせ致しました」
――暫くして、にこやかに微笑みを浮かべた青年が姿を現した。
白い洋装の裾を靡かせ、諒太たちの卓に残された空席へと腰を下ろす。
柔らかそうな栗色の髪に榛色の瞳。西巴大陸の出自と判る、30前後の男性であった。
「八家の御曹司が見聞の為と出国されるとは。
正直。鴨津租界の領事から連絡を受けてからこっち、本当に来られるのかと、社でも一等人気の賭けでして」
「それはそれは」敵意を覗かせない微笑みを返すだけ、諒太に先んじて埜乃香が返事をする。
「――懐は潤いましたか?」
「もう少し吹っ掛けてやれば。とは云え、ここの支払いは期待してください」
お道化て肩を竦めた青年が、身を乗り出して右手を差し出した。
明白に埜乃香へと向けられたその手を、脇から伸びる諒太の右手が強引に奪う。
「――そりゃ、助かるぜ。知っているだろうが、久我家嫡男の久我諒太だ」
「エドウィン・モンタギュー。ロインズ保険会社の調査員をしております」
ぎしり。鍛えられた少年の握力に、碌な鍛錬をしていないだろう男性の手が悲鳴を上げた。
奔る痛みも相当なもの。にも拘らず、エドウィンと名乗ったその男は、顔色一つ変えずに諒太の握手を柔らかく返す。
やがて振り解くようにして、互いの握手が離れた。
「……では、商談を始めましょうか」
「応」
柔らかい青年の要請に、硬く返る少年の応え。
腹蔵を覗かせない笑みのまま、夜空の下で密会が始まった。
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