閑話 畏れを棄てよ、祈りすら忘れた頃に
――真国北部、滝岳省、
かん、か、ん。峻険と聳える幽山溪谷に、石削る音が深く響く。
長く続く石段を、革靴の底が踏み締めた。
一歩、一歩。己の前後を確かめるよう慎重に、急な段差を下りてゆく。
物寂しさを孕む山鳴りだけが支配する中、岩山を下る青い外套を羽織った男女2人の姿があった。
ふ。短く吐く息も白く、片方の女性が振り向きざまに空を仰ぐ。
鈍錆色に染まる高天の向こう、青い瞳に白くちらつくものが映った。
『――如何かしたか、ホイットモア少尉』
『標高は高いはずなのに、随分と空が遠く思いまして』
足を止めた気配を感じたのか、先を進んでいた大柄な男の母国語で問う声が。
短く返る応えに、論国海軍で尉官につくハリエット・ホイットモアは慌てて男の背を追った。
『雪が降ってきたな。
現地人共が云うに、風が強いから吹き溜まりはしても積もらないらしいが』
『……乾いた雪ですね。故郷のそれとは、手触りが違います』
『確か君は、南部の出身だったか』
『はい。ブラックミアです』
その名前の通り汽水湖の畔にある故郷を、少女は思い浮かべた。
――つまらない、退屈なだけの港町。
寂れたあの故郷は、今頃、屋根まで白に沈んでいる事だろう。
少女の頃は抜け出すことしか考えられなかったが、そうなった今では懐かしさしか記憶に残っていない。
『ブラックミアか。……帝都から近い港町だったと記憶しているが、――特産は?』
『売れるものと云ったら、鱸と鱈くらいかと。
俺たちが帝都の胃袋を支えていると、酒に負けた父の口癖は定番でした』
『ああ、フィッシュアンドチップスか。私も、学生時代には世話になった』
『キャベンディッシュ大佐もですか』
女性の郷愁に気付いたのか、ハリエットの上司であるヴィクター・キャベンディッシュは軍帽を深く被り直した。
再開した歩みに、気付いた女性が慌てて後を追う。
『呑み明かした朝の定番だったからな。脇に屯していた新聞売りから買った新聞を、結局は読まず皿代わりにしたのを憶えている』
『随分と、悪い事をされているようで』
『新聞を1シリングで、だぞ。文句を云われる筋合いも無いだろう』
1シリングは、凡そ12ペニー。高価な皿になったと嗤う足取りは、険しい石段ながら確かなものであった。
岩が目立つ中腹も過ぎ、やがて渓谷の湿った空気が澱み始める。
『今回の実験が成功すれば、3ヶ月後には論国の土を踏んでいるさ。やれやれ。出世の為とは云え、こんな辺境で喋る猿どもの躾に1年を燻らせてしまうとはな。
はは。このままでは、私の右手まで黄色くなってしまう』
『真国の開拓に入って、漸く10年ですから。幕僚閣下のご苦労も忍ばれます』
『その感謝は、付き合ってくれた君以下部下たちのものだ。
本国の無線越しに、ふんぞり返るだけの幕僚には勿体ない』
視界に映る傾斜が広く緩やかなものと変わり、次第に人の気配が増え始める。
正統なる西巴大陸人とは違い、単調な黒髪に黒目をした真国人の姿が幾人か。向けられる好意的とは云えない視線に、ハリエットから嘆息が漏れた。
『少尉。本心を卓上に投げる行為は、紳士の交渉として相応しいものではない。
真国も今の処、友邦国なのだから』
『分かってはいますが。
――あの黄色い舌が私たちの言葉を汚すなど、想像もしたくありません』
短く返る少女の応えに、ヴィクターは首肯だけで同意を返した。
論国のみならず西巴大陸の言語は、聖アリアドネが刻む言葉の鑿を源流としている。
多くの変遷を経ながら論国で完成された祖国の言葉を、ヴィクターは何よりも誇りを持っていた。
何れ自分たちの属下となる国とは云え、真国は未だ人間以下しか住まない異郷。
本心が如何あれ、表面上は波風を立てないように腐心してやるのが、上位者としての善意でもあろう。
余所行きの笑顔を浮かべると同時、ヴィクターの靴底が渓谷の底へとついた。
感情を圧し隠すように、ハリエットが深く軍帽を被る。
地の底とも紛うその周囲には、これまでの静けさと打って変わり人の気配で満ちていた。
真国人も論国人も様々に、計測機器を持った男たちの行き交う姿。その奥に佇む2人へと、ヴィクターは足を向ける。
一際に目を引く巨漢の真国人と、対照的に細く小柄な論国の老人。
好ましい感情を持てないその揃い踏みに、ヴィクターは真国の言葉で話しかけた。
「――待たせましたかな? 私たちが最後のようだ」
「はっは、然程も無く。娇小美人との時間を邪魔してしまったならば、申し訳なく」
「ハリエットは自分の部下に過ぎません。まぁ。美人との会話が長ければ良いと云うのは、否定しませんがね。――夏社洞主」
――2人だけを強調。何処に居ようと目は有るとでも云いたいか、喰わせ者め。
会話の端に滲む毒を敢えて気付かぬ素振りで、ヴィクターは笑顔を取り繕った。
源林武教の洞主である夏社志剛も、腹蔵を覗かせずに笑い返す。
「美人との会話が名残惜しいのは否定しませんぞ。そう云えば、儂の近縁にも年頃の娘が。
――キャベンディッシュ家は伯爵位とか。貴殿の家格に恥じぬ器量と自負していますが」
「素晴らしいご提案ですな。次に真国へ訪れる際には、期待させていただきたく」
「是非とも!」
ヴィクターは勿論の事、その部下も、論国に戻れば次に真国を訪れる機会など無い。
空手形を承知した上で、2人は快活と握手を交わした。
用も終わり、筋肉の塊にしか見えない洞主が場を後にする。
遠ざかる山のような気配に、残る老人が心配そうに口を開いた。
『宜しいのですか? あのような約束を簡単に』
『構わんさ。婚姻外交は何処の国でも常套手段だ。
この程度の口約束なら、挨拶代わりにもならん』
『なら良いのですが……』
口籠りながらそれ以上を口にすることなく、老人も引き下がる。
作業を再開させた老人を脇に、ヴィクターとハリエットも視線を戻した。
論国の軍人たちが眺める先には、結界に縛られた木簡が一巻だけ。
地味な外見と裏腹の厳重な扱いを、ハリエットは意外そうな面持ちで眺めた。
『……ただの巻物にしか見えないだろう?』
『はい。そこらの火に焚べれば、一瞬で炭になりそうな』
『その実、火は勿論、壊れる事も有り得ないのだ。故郷の神器を一度だけ見たことはあるが、あれも常識を超えた武器であったよ』
『忌々しい事です。あれは私たち論国にこそ相応しいもの、猿の群れを救うために消費するなんて』
ハリエットの声音に、忸怩と不満が滲む。
痛いほど気持ちを理解できるヴィクターも、宥めるように肩を叩くだけに止めた。
『――ハーグリーブス博士。進捗はどうなっている』
『これまでの難航が嘘のように順調です。
青道で、貴重な神格封印と神器を消費した甲斐が有りました』
『人造龍穴か。理論上可能は聞き飽きた、青道でも結局は成果を出せなかったしな』
『前回の失敗は、神格封印の設置方向に原因があったと、結論も出ています。
前回の問題点の洗い出しと対策は既に。――これで決着ですよ』
ヴィクターの気掛かりに、ハーグリーブスと呼ばれた老人も語気を荒げる。
――無理もない。
似合わない老躯の焦りに、圧を掛け過ぎたかとハリエットも無言で謝意を返した。
波国のアンブロージオ司教から齎された神格封印は、ただの封印結界ではない。
西巴大陸に燦然と君臨する聖アリアドネは、人の容を象とする。
容とは容器そのもの。即ちアリアドネとは、内面と現世を別け断つ己と云う障壁を司っているのだ。
その象を鍛造した西方の祝福の神域特性もまた、現世のあらゆるものを封じる結界であると云う。
神格封印とはその模倣。ただ人が歴史上で初めて構築した、神域特性の完全なる再現であった。
人が構築したものであるが、その複雑さと精緻さも群を抜いている。
内部構造の多くが暗号であり、ヴィクターたち論国海軍も発見された当初の数だけを持ち出すに留まっていた。
『此処で失敗すれば、神格封印は本番の残る1つ。
後が無いのだ。……博士も、少尉の心配を慮れるだろう?』
『理解はしておりますよ』
一年近く、ここまで文明に取り残された地で缶詰だったのだ。
互いに鬱憤も積もっていたのだろうと、互いに頭を下げる。
『本国の状況はどうなっていますか』
『緩やかだが、気付かぬところで綻びが隠しきれなくなっている頃だろう。
出生数は最盛期の凡そ半分で推移している。――だがそれよりも、中位以上の精霊遣いが生まれなくなっている方が問題だ』
苦く噛み潰したヴィクターの呟きに、状況を察したハーグリーブスも神妙に肯った。
論国は、旧来の貴族制度と議会による二柱の運営で成り立っている。
本来は、この二柱が均衡を保ててこそ正常な国家運営も望めるのだが、貴族制度が大きく揺らぐ事態に陥ったのだ。
貴族の青い血を保証してきた大神柱と上位精霊の減数。貴族を貴族足らしめていた意義の喪失と技術革命による戦線拡大により、平民と貴族の差が狭まってしまったのである。
その結果、貴族の掌握していた軍権が弱くなり、戦線の維持すら困難となったのだ。
平民生まれの中位精霊遣いを重用しても、戦力の維持には追い付いていない。
貴族の衰退に連れ、政治も無軌道なものと変わっていったのが論国の現状であった。
『子供は生ませれば良いが、精霊は増やせんからな』
『充分に承知しております。
――計画を説明いたしますと、神格封印で風穴の入り口を遺し出口を封印。濃縮されたエーテルを以て、風穴を人造龍穴へと昇格させます』
『そこまでは、青道でも上手くいったと聞いているが』
『風穴と龍穴を計測しても、検知されたのがエーテルであるのは確かです。
但し、風穴のエーテル濃度は100前後が精々であるのに対し、龍穴は1000以上であると判明しております』
『……ここの風穴は?』
ヴィクターの気掛かりを問われ、ハーグリーブスは皺に埋もれた口を歪める。
つい先刻も検出させた数値を指して、老躯の背筋を伸ばした。
『現在は1200前後で安定しておりますな』
懸念の第一段階を突破した報告に、ヴィクターも安堵を浮かべようと。
『……ただ』
続く言葉に、眉間へ険しく皺を刻んだ。
『何かあるのか?』
『大したことではないと思いたいのですが、順調すぎるのです』
青道では、土地神を潰す計画の準備段階から、年単位では効かない手間が掛かっている。
だが、同様の手管を用いた源林武教の風穴では、完了まで数ヶ月も掛かっていないのだ。
時間が短縮できたことは喜ぶべきだが、それ以上に、ハーグリーブスは何かの意図を予感せずにはいられなかった。
『無理を承知でお聞きしますが、計画の延期は、 、』
『――不可能です。ハーグリーブス博士』
苦く進言を口にしかけた老人を、ハリエットが鋭く掣肘する。
『今作戦は、既に延期できない時点を進行しています。
段階は既にステージ3。現計画の放棄は認められません』
『……だ、そうだ』
苦笑したヴィクターが、ハリエットの言葉を継いだ。
作戦は最初期、神格封印の模倣を前提としていた。
だが模倣が不可能と判明した時点で、限られた神格封印の回数だけで成功させねばならなくなったのだ。
字義通り神柱を封じるための結界を前提にしたこの作戦は、総てが噛み合っていなければ成立すら難しかった。
『ステージ3と云う事は、青道は――』
『既に、民間の退避も完了している。幽嶄魔教の老人も、泡を食っている頃さ』
『左様で。――戦力は間に合いますか?』
心配は尽きないと云った風に、ハーグリーブスにも追及の止む気配がない。
『距離を無視して大洋上の艦隊に連絡できるなど、無線は素晴らしいと思わんかね。
時間的な精度は、幾らでも帳尻が合わせることが可能になった』
『退避までは順調でしょうが、鴨津へと嗾けても民衆は都合良く動かないかと』
『心配ない。民衆の心理は、大勢の集まる方へ流れるものだからな。先頭の船を誘導すれば、何も考えずに付き従う』
ヴィクターは堪えきれないと嗤いを漏らし、両の手を広げた。
鴨津租界の状況は、総て把握している。波国から鴨津の統治権を借り受けた時点から、この作戦の要は始まっているのだ。
豊かには成っても、行き詰った論国に選択肢は殆ど残っていない。
――何しろ、人口までも半減しているのだ。
論国の問題は多いが、特に顕著な点が戦闘に耐えうる要員の払底である。
それを誤魔化したうえで、東巴大陸を統治下に平らげるのがこの作戦の主目的であった。
『長距離航行も可能な大型船舶だが、当然、補給は必須。
鴨津租界で補給するしかないが、鴨津は大型船舶複数分の胃袋は賄えない。
飢えて死にたくない民衆は、偶然、積み荷の銃を見つけるだろう』
飢えて暴徒寸前になったものが火器を手にした結末など、火を見るよりも明らか。
鴨津租界を巻き込み、民衆が高天原へと略奪に雪崩れ込む手筈となっていた。
無論。略奪するだけの民衆だけでとんとん拍子に支配が成功すると、ヴィクターも楽観視はしていない。
銃を持った善良な民衆が削られ、高天原も疲弊した頃、論国海軍の師団単位が、人道支援のお題目に高天原の南部から攻め込む予定となっていた。
残る気掛かりは北の雄たる侑国だが、
『――侑国とは既に同盟を組んでいる。
高天原の割譲を条件に出せば、喜んで協定に署名もしてくれた』
論国海軍は南から、侑国が北から攻め込む手筈である。
東巴大陸の統治として潘国が最初と思われがちであったが、その実は高天原を主軸に総てを手中に収める為の手段と云う訳だ。
『――我ら論国が東巴の猿どもを統治してやると、慈悲を注ぎ続けて何年になる?
この半世紀の頭痛のタネを一掃できる好機だ。ハーグリーブス博士も、過不足なく作戦を進めてくれ給え』
『承知しました、大佐』
ハーグリーブスが相槌を返し、結界に縛られた神器へと足を向ける。
濃密な霊気が一際に輝きを遺し、冷たい熱を周囲に振りまいた。
渦巻く霊気が一際に収束を見せ、壊れぬはずの神器がその輪郭を崩し始める。
初めて見る現象。ハーグリーブスは勿論、ヴィクターも困惑を漏らした。
『どうなっている、博士』
『……判りません。
初めての現象なので、何が起きたのか』
輝くほどに霊気が凝り、やがてその奥から1人の少女が姿を顕した。
黒い髪に黒目。豊かな衣裳が少女と共に踊り、緩やかな足取りで地面に爪先を落とす。
轟然と金に縁どられた黒目が、威圧するかの如く周囲を睥睨。
「移し身は成功であるか。
……だがまぁ、頭が高いぞ下郎ども」
たったその一言だけ。太源真女が傲然と胸を張る。
――直後。
無音の爆発が周囲を呑み込み、風穴ごと神域を消し飛ばした。
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