6話 幽明を仰ぐ、月に隠れるもの2
『突然の来訪に快く応じて頂き、感謝しよう。――戴天家の末姫殿』
『夕刻を越える前でしたので、お気になさらず』
宿の一階にある質素な卓を挟み、戴天玲瑛と李昊然は和やかに笑顔を交わした。
湯気の立つ茶杯が卓上を滑り、返杯が戻る。
『ふ。戴天宗家手ずからの茶とは、李家末代までの語り草となりましょう』
『……魔教洞主の腹心ともあろう為らば、これから幾らでも機会はありましょう』
薫る茶の香りを愉しむ昊然へ、玲瑛は謙遜だけ舌に乗せた。
晶の推測が気に掛かっているのか、やはり少女の声は硬い。
玲瑛の警戒を気付いているものか、昊然は並べられた茶器を覗き込んだ。
揺れる茶から昇る甘く柔らかな香気に、思案を巡らせる。
『黄茶ですか。それもここまで甘く優美な。……滝岳省は玉山のものと見ましたが?』
『お言葉通り、玉山の銀針です。
――他省と交流を断って久しい青道で、茶利きを嗜める余裕が残っているなど思いませんでした』
『元々から青道は、内外との交易で栄えた土地故に。
茶も嗜めぬほど、窮している訳ではありません』
急ぎ調達した黄茶の産地を当て擦りながら、玲瑛と昊然の会話が続いた。
茶杯が替わり、新たな茶を口の細い急須から注ぐ。
『次は黒茶ですか。御地、芳雨省の産でしょうか?』
『はい。本来ならば聞香杯で愉しんで頂きたいものですが、杯一つしかないもので』
『風雅なものを愉しまれる。――天教が資する芳雨省は、恵まれておられる』
『論国と昵懇の青道と比べられると、昔ながらの気風である天教は見劣りもしましょう』
穏やかなだけの話題の終わりに、少女は窓越しの通りへと視線を巡らせた。
行き交う人の表情に、昏いものは1つとして窺えない。
天教宗家からすれば魔教の手段に納得は難しいが、生活する人々の笑顔まで否定する権利も又、玲瑛には無かった。
ことり。やがて当たり障りのない話題も尽き、杯が卓上で音を立てる。
いい加減に相手の真意を問い質すべく、玲瑛は口を開いた。
『さて。――夜を迎える前に、本題へ入りましょうか』
『何。聞きそびれた事が一つ。
気になれば何も手につかぬようになる性分にて、ご容赦いただきたい』
昊然の含む笑みに、天教の少女は眼差しを鋭く返す。
曖昧に逃さないと言外に告げる相手に倣い、昊然も茶杯を卓上へと戻した。
『青道へ来られた理由、未だ聞いておりませんでしたから』
『……青道の繁栄に終わりも見えず。と、評判の真偽は如何ほどのものかと、興味がありまして。鋒俊は青道の出と聞いていまして、道案内をお願いしたのです』
『鋒俊が。ふん。愚弟は天教武林で上手くやっているでしょうか?』
『――師姐の件に、俺は関係ないだろうが』
『幼い反発だけで、青道に砂を掛けた馬鹿者が。
李家の姓に泥を塗って、直ぐに逃げ帰るかと思っていたわ』
『想像通りにいかなくて、残念だったな。
昨日も殺しきれなかったようだし、官僚仕事に慣れ過ぎて腕が鈍ったか?』
『ほざけ。李家に後足で砂をかけた小僧が。
天教の武門を通っても、成長はできなかったと見える』
自身の話題に堪らず口を挟んだ鋒俊へ、昊然の嘲りが即座に返る。
云い返す言葉を詰まらせた弟に鼻を鳴らし、兄であった昊然は視線を玲瑛へと戻した。
『如何ですかな、青道の栄達をご覧になって』
『正直、ここまでの復興を成し遂げたのは、魔教の絶えない尽力あってこそと認めます』
『是々。その言葉を戴ければ、洞主大人も六教との蟠りも流せるというもの』
『……やはり魔教は、源林武教と同盟を組みましたか』
『さて。知りませんな。それに、友誼を結んで何の問題が? 我ら魔教とて真国六教の一つ、仲間外れは寂しいでしょう』
玲瑛の詰問を笑って流し、昊然はもう一度茶杯を口につけた。
泰然と余裕を崩さない昊然の眼光が、鋭く玲瑛の視線と交差する。
『武教だけならば、私も兎角、口を挟む権利は無いと承知しています。
――が、魔教の善意に論国の影が見えるならば、外患誘致の懼れを問われるは仕方ない仕儀かと』
『外患を呼び込むなど。その胎を探り合っても、お互いに痛いだけでしょう』
さては、夜劔晶との同盟を嗅ぎ付けられたのか。
意図を充全に含ませた昊然の言に、痛い処を突かれた玲瑛は歯噛みした。
『我らが外患を呼び込んだとでも? その言い草は、李家と云えどただで済みませんよ』
『それこそ、玲瑛殿の方が能くご存じでしょう。
――それに、武教が魔教と同盟を組んで何の利益が? 何方にも利が無いなら、同盟などお題目に過ぎなくなる』
海外の家系との勝手な同盟は、規模の大小に関わらず重罪とされている。
敗北し、青道の支配を割かれた魔教と六教の関係が断絶したのも、何よりこの決まりごとが足枷となっているからだ。
天教宗家の直系である玲瑛であっても、露見すればただでは済まないほど。
武教の気質を考えれば、魔教越しに論国と近づくなど受け入れ難い案件である。
『……武教は縋るしかなかったんだろ』
『ほう?』
言葉に詰まる玲瑛の代わりに、その背から応えが上がった。
目立たないよう肩に手を置いて黙らせようとする鋒俊を無視し、晶は一歩前へ。
『風穴が枯れれば、それこそ罪だのなんだのと云っていられる場合じゃない。
武教が消えようが、人さえ残れば咲く花実もあると苦渋の末に決断したんだ』
『ふん。その様子からすれば、真国六教を知らんとみえる。
六教は即ち、地と共に在る。その歴史を絶やしても、また人に栄えた歴史はない』
昊然の返事に、晶は玲瑛へと視線を巡らせる。
微かな首肯。その言葉に偽りはないと判断し、余計に晶は笑顔を返した。
『だから、殊更に状況を隠したんだろ。
救いを求めた側である武教が論国を知ったのは、恩義を売られた後だ』
『………………』
『今更に論国を拒否もできない。魔教と違い、六教から離れる訳にもいかない。
――最善の選択肢となると、黙っている一択だ』
仁義に篤いという性格を考えれば、恩を売られたまま武教の側から盟約を破棄するなどできない。
自縄自縛に陥った武教に残っている選択肢など、考えなくとも一つしかなかった。
『素晴らしい推理だな。
天教に入門した新人と聞いたが、出身は何処だ?』
『今は関係ないだろ、それ』
『面白い推測の礼だ、戯れに当ててやろう。
言葉の訛りから芳雨省と思っていたが、青道の響きが随分と多い。……女遣いの発音に気付いて、鋒俊の発音を真似たな』
話題について行けず、玲瑛の表情が僅かに動く。
それでも構うことなく、昊然は椅子に深く座り直した。
『言葉遣いがいきなり拙くなったかと思えば、次には流暢に会話。
信じ難いが、この瞬間にも言葉を学んでいるんだな』
茶杯の縁に指を滑らせ、昊然は自嘲に唇を歪めて見せる。
知識も技量も、修得の速度が常軌を逸して速いのだ。
これでは相手の出身を測るのも不可能と思えるが、逆手に取れば面白い事実が浮き彫りになる。
『その修得速度から逆算して、真国の言葉を習い始めたのは精々が2ヶ月前だろう。
――つまり、貴様は真国の人間ではない』
外患云々を持ち出したのは、単に相手の反応を見る為の切っ掛けだ。
宿に到着する前、晶の素性について大方の推測は立てていた。
『その見た目で真国人ではないのなら、高天原だろう。
戴天玲瑛。青道に訪れたのは、高天原と接触する為か』
『……だからと云って、何か問題がありますか?
東端の属島ごとき、国外と手を組んだと糾弾するのは、些かに早計が過ぎると云うもの』
『――てんし』
貴人とは云え、未だ交渉に拙い娘から言質を奪い、昊然は確信に嗤う。
突然の話題に呆ける晶たちへ、魔教の使者が言葉を続けた。
『子供の時分に、寝物語で聞いただろう。
天子。山河を穿ち真瑪大連を築き上げた、父祖天帝の子供時代だ』
『知っていますが、……御伽噺を今更に講釈でしょうか?』
『ああ。普通ならそう考えるだろうな。
――だが、今回に関しては違う』
天帝は真国勃興の物語として、広く語り継がれている伝説の一つである。
太源真女の伴侶にして、万軍を以て東巴大陸を纏め上げた英傑の称号。
大神柱に最大の信頼を与えられたそのものは、神柱の権能に依らず天に意を通したと謳われていた。
特に隠す事も無いその伝説は、余り知られていない事実を含んでいる。
昊然は、晶たちの見せる三者三葉の表情に視線を巡らせた。
話題に追いついていない玲瑛と鋒俊に、そもそも天帝の知識がない晶。
――目標の確信を得て、時間は充分に稼げた。
『天子とは、大神柱の信頼を委ねられた英傑の称号』
その言葉の意味を悟り、晶が腰に手を回す。
――だが、遅い。
魔教は、道術に多く比重が置かれた教えである。
勁技は然程に重視されず、所属する多くは風水を修める道士。
昊然も例に漏れず道士だが、それでも魔教の重責を担うものとして勁技も修めていた。
魔教の勁技は、隠形と武器術の側面に秀でている。
故に、晶たちと対峙して、昊然が確実な勝利を収める為には、初手を必中させることが絶対の条件。
昊然が振り抜くと同時、その服の袖口から銀閃が幾重にも閃いた。
『高天原では、そう。――神無の御坐と云われていたと、聞いた事があるな!!』
『ちぃっ』
玲瑛と鋒俊は眼中にない。
精妙に放たれた鉄釘が、晶の肩口を狙って飛来。
直後。晶の抜き放った太刀が、鋭く音を響かせて釘を叩き墜とした。
散り消える火花に視界が奪われた間隙に、昊然の呪符が晶を挟むように励起。
衝撃が吹き貫け、宿の壁が無惨に崩れ落ちた。
雪崩れ込む冬の凍風に、埃と衣服が舞う。
外の通りに弾き出された晶は、咳き込みながら立ち上がった。
「くそ。囲まれた!」
見上げる視界総てに映る、道士服に身を包んだ男たちの姿。
隠形を並行して行使しているのか、気配の薄い男たちが一糸乱れぬ所作で呪符を放つ。
『『『――疾』』』
五つの頂点を象り、晶を中心に結界が立ち上がった。
精霊力を封じ込める呪符の鎖が、その周囲を十重二十重と囲い込む。
対象を圧縛する封印結界。逃げようとした晶に、不可視の重圧が直撃した。
声も無く沈む晶に、止めようと玲瑛が声を張り上げる。
『何の心算ですか、李昊然!
このような暴挙。仮令、魔教が治める青道であろうと、赦される仕儀では有りませんよ』
『――赦されるよ、戴天の末姫どの。
何しろ、この地を知ろ示す影梅公女の御意思だからな』
少女の怒号に昊然が応えるよりも早く、大通りの向こうから皺枯れた応えが返った。
枯れ木の如く痩せ細った矮躯の影が、晶たちの視界に映る。
幽嶄魔教の洞主である莫離涛が、影梅公女を背に連れて姿を現した。
『天子とはな。
……真逆、このような隠し玉を、天教が持ち込んでくるとは思わなんだよ』
『御伽噺でしょう。魔教の洞主大人ともあろう方が、与太話に踊らされるのですか』
『与太ですらない。
――昨年の夏に影梅公女が容を得たものの、神柱の位階を確かにせぬまま半年が経とうとしておる。御意思の発露は千載一遇の機会、逃す訳にはいかん』
かつり。老躯の手元で杖が鳴り、影梅公女がその前へ進み出る。
昼に見た姿と打って変わり、その所作には確かに意思が宿っていた。
『――待、て』
莫離涛の台詞を耳に、結界の重圧を耐え凌ぎながら晶が口を開いた。
その台詞が意味するものと晶の経てきた騒動が、鮮やかに重なる。
『昨年の、夏だと。影梅公女が容を得たのは、確かに8月の中頃だな』
『封圧する結界を圧し退けるか。流石は英傑の雛よ。
――その通り。影梅公女が意思を得たのは、その辺りだ』
晶の脳裏で、昨年の事件が鮮やかに結びついた。
風穴と支えてきたパーリジャータ。それらを奪還するべく、アリアドネと対峙した一件。
それらが意味するもの。
『――やっぱり、お前たちは神柱を創った訳じゃないんだな』
『何を云いだすかと思えば。影梅公女は、ここに確かに在らせられるぞ』
抑々からして、前提が間違っているのだ。
李昊然の反駁を、晶の嘲笑が斬って棄てた。
『だからだよ。
神器とは、神柱の偉業を象と与えて鍛造された器物だ』
『故に、人造龍穴に直結する事で、神柱に昇華したのだ。何処に間違いがあるとでも』
その象を人造龍穴で強引に励起させたのが、影梅公女である。
堂々巡りの問答に、それでも晶は首を振った。
『影梅公女を支えている偉業は、公女とやらの偉業じゃない。それは、太源真女の偉業だ。
忘れたのか? それは、結局のところ真女の別け身に過ぎないんだ』
だから、晶の目の前に立っている存在の正体は、たった一つ。
『青道の風穴に設置された神格封印は、夏直前までの龍脈を基準に設置されている。
だけど、パーリジャータが引き抜かれて東巴大陸の龍脈は切り替わったはず。人造龍穴の根幹をなしている神格封印も、龍脈の流れが変われば役に立たない』
人造龍穴の霊気が、極端に目減りしたのは気付いたはずだ。しかし実際に神柱として顕現した影梅公女に、疑問は浮かべなかったのだろう。
それに、魔教が何かしようにも、一切が出来なかったはずだ。
東巴大陸のものには、西巴大陸の神格封印は干渉できないのだから。
神柱の意志が曖昧なまま、加護の復活する矛盾をよく考えるべきであった。
『影梅公女など、最初から存在していない。そこに立っているのは、太源真女ってだけだ』
『――その通り』
晶の断言を受けて、影梅公女だったその存在は華やかに口を綻ばせた。
『初めまして。と云うべきであるな、天子よ。』
それまで希薄だった少女の気配が、唐突に神威を纏う。
『朕こそが、真国を知ろ示す太源真女である。
逢えて嬉しいぞ、神無の御坐』
瞳が金色に彩りを変えて愉し気に、真国の大神柱が晶だけにそう名乗りを上げた。
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