5話 錯綜と策謀を、澱に友釣りへ2
――影梅公女
李昊然の宣言と同時、晶たちが招かれた神域が鳴動した。
昊然の足元から霊脈が沸き立ち、滴る影より一人の少女が顕れる。
白魚の如き肢体を包むは、黒を基調とした豪奢な旗袍。さらりと簪が鳴り、双眸が昏く客人を睥睨した。
立ち昇る神威は間違いなく、晶を除く玲瑛たちの膝が床へと衝く。
少女の背に隠れて追従しながら、晶は懐に準備した界符を握り締めた。
己の心奧を封印し、更に晶は全力で隠形を張る。
昊然の言葉通りなら、この神域は眼前の神柱そのものだ。隠形が有効かは不明だが、それでも無いよりはマシ。
感情の覆われた双眸が晶を映し、
――やがて過ぎ去る。
賭けは勝ったか、見逃されたか。それでも影梅公女の注意が移った事実に縋り、晶は安堵を吐いた。
そんな背後の攻防も知らず、玲瑛は鋭く昊然へ視線を向ける。
『分を弁えない放言は、控えた方が宜しいですよ』
『天を戴くだけの教えに相応しい、傲慢な見解の相違だな。
地に潜むだけの魔教は、神柱の在り様に相応しくないと?』
『それ以前の問題でしょう? 魔教が太源真女より与ったは、地の風穴と魔教の証たる神器のみ。真国にただ一柱たる太源真女を差し置いて、大神柱を僭するなど不遜の極みだわ』
『――勇ましい事だな、戴天家の末娘』
玲瑛の詰問に昊然が応えるよりも早く、暗がりの奥から低く声が返った。
何時からそこにいたのか、矮躯の老人の佇む姿が浮かび上がる。
『この忙しい時期に、能くも面倒を持ち込んでくれた。
とは云え、孫ほどに懐かしい顔を見れた、その礼代わりに我侭は訊いてやる』
『お久しぶりです、洞主大人。……2年振りでしょうか』
『それ位だな。年老いると、月日の経つ速度が早くて敵わん』
見た目は弱々しいだけの老人の、腰を下ろす気配。
頻りと髭のない顎を擦り、皺枯れた老躯の口が嗤いに歪む。
『禹の奴は健勝か』
『……祖父は3ヶ月前に身罷りました。現在、父が洞主の責務を引き継いでいます』
『そうか。行く先が天か涅槃かは知らんが、奴なら好き放題に暴れているだろうさ』
断絶以前は馴染みであった相手の訃報に、魔教洞主である莫離涛は寂しく嗤った。
懐から煙管を取り出し、紫煙で肺腑を満たす。
『憚りながら、涛大人に問い質したい旨が御座います』
『影梅公女さまだろう?』
『――洞主』
『構わん。隠しようも無いなら、どうせ遠からず露見する』
昊然が気遣いを上げるも、老躯の掌に引き下がった。
煙る視界の向こう、戴天玲瑛が決然と睨むその視線。
感情の窺えない影梅公女を見上げ、涛大人は首肯を返す。
荒ぶる霊気の奔流である龍脈は、元来、ただ人に扱う事は赦されない。
だが、大河にも穏やかな流れがあるように、龍脈にも穏やかな流れは存在する。
それこそが、霊気の源泉である龍穴と雑多な霊気が吹き溜まる風穴の二種類。
大神柱の坐す龍穴で人は国家を、そして土地神の坐す風穴を中心に地の加護を得る。
問題は、真国に風穴は多くあれど、龍穴は隠された崑崙の一つしかないと云う点だ。
青道は風穴であり、大神柱を宿すには格が足りない。しかし眼前の神柱が、土地神と一線を画した神威を放っているのも事実。
『青道の風穴に何をされたか』
『さてな。実を云えば、儂も知らん。
――判っているのは、昨年の春の終わりごろに、突如として土地神が去られた事実のみ』
『何を』
意味を測りかねた玲瑛に構わず、涛は煙管の吸い口を噛む。
老いた咽喉が不味そうに煙を飲み下し、僅かと漏れて空気を濁した。
神域で煙草を嗜む暴挙にも拘らず、影梅公女は感情一つ浮かべない。
『論国では鉄の時代と呼ぶそうよな。
今は鬼が減った程度だが、このまま放置すれば何もかもが瘦せ細ると』
『御地の土地神が去られた先は、』
『知らん。が、論国が提案してな、それを容れた。風穴の龍脈を堰き止め、跳ね上がった霊気を以て強引に神柱を降ろす。
――奴ばら共の実験材料とされたが、手段も無いとなれば文句も云えん』
つまりは、去った土地神の代わりを、ただ人の都合で持ってきたと云うのか。
莫離涛の言葉の意味が、一呼吸だけ遅れて晶たちの理解に染み渡った。
『そのような無茶苦茶。他教がどう思うか。
そもそもですが、大神柱を降ろしたと云っても、何処から、如何やって!?』
『儂等をしても伝えられておらぬ。――が、論国人の手管は大まかに理解できた。
何処ぞから神格を封じる術式を持ち込み、風穴の出口を封じたのよ』
要は、河を塞いで造る堤防と発想が同じである。
霊気が際限なく増大を続ければ、理論上、水量だけなら龍穴に届くはず。
『人造龍穴。――ですが、神柱は? 影梅公女とは、何れの神柱を青道に据えたのですか。
そのような暴挙。崑崙に露見すれば、太源真女の激怒は免れませんよ』
『十中八九の賭けではあるが、太源真女なら儂らの行いを見過ごすと思うておる。
何故ならば、影梅公女とは、 、』
『――太源真女と同じだから。でしょう? 涛大人』
涛が最後まで言葉を紡ぐより早く、晶が口を挟んだ。
興味からか、年月が白く刻まれた老人の片眉が引き攣れる。
『ほう。我が神域の絡繰り、看破せしめたのか』
『その反応なら、少なくとも的外れじゃない。
公女とは能く云ったものです。真女の別け身ですね、それ』
顕れてから一向に感情の欠片すら浮かべない影梅公女を、晶は視界に収めた。
神柱にとって、象とは決して偽れない己そのものだ。
しかし、莫離涛の傍らに立つ影梅公女からは、それが一切感じられなかった。
興味がない。ではなく最初から存在しない。
神柱としての格が存在しても、その土台となる我がないのだ。
――在り様の齟齬からして、考え付く可能性は1つ。
『人造龍穴と神器を直結させて、強引に神柱へと昇格させた辺りでしょうか。
……元となった神器は恐らく、六教が賜ったという神器』
『その通り。魔教の神器である玉影大経こそ、影梅公女の原点である』
魔教洞主の断言に、玲瑛は唇を噛み締めた。
神器とは、神柱が己の象を別けて鍛造した器物を指す。
眼前の神柱を僭称する存在が青道の神器ならば、ある意味で太源真女と斉しいでもあるのだ。
神器と神柱を道具として扱うその思考は、真国のみならず世界でも異質の考え方である。
慄然とする玲瑛に視線を眇め、涛大人の口元が歪んだ。
『他教が受け容れんなど承知の上で、李も余所者となった己の弟を排除しようと動いた。
――久しぶりだな、鋒俊。天教の門を潜って得るものはあったか?』
『……はい。得るものは多く。機会があれば、報告したく思います』
『今は忙しい故な、その時を愉しみにしていよう。
昊然。後は頼む。出国を手伝ってやれ』
『お待ちください。……青道から論国人の姿が消えていますが、』
老人が重たそうに腰を上げ、踵を返した。
その背へ投げられた玲瑛の疑問に、老人の足が僅かと止まる。
『先刻も忙しいと仰っておりました理由と、何か関係があるのですか?』
『何を云っている? 春節がもう直ぐだろう。儂等の苦労も、下の民たちには関係ない。
……論国の奴らは知らん、最近見ないと清々していた程度だ』
返る言葉は短く、再開した歩みが止まることはなかった。
老いた背と、それを追うように影梅公女の姿が闇に消え、その先を李昊然が遮る。
『充分だろう、戴天の末姫どの。
洞主の意向でもある。青道を出たいと云うならば、我らとて協力も吝かではない』
『私の方針としては……』
神柱の威圧が消え、安堵する玲瑛の背で晶は首を傾げた。
『春節?』
『それが? ――ああ、そっちは太陽暦か。
旧正月と云えば判るか』
『ああ、旧暦の新年か。真国じゃ、未だ年は明けてないんだな』
小声で交わされる何事も無い会話。
当初の危惧を逸れて、流れる空気は穏やかなまま。その後は何かが起こることも無く、晶たちは会談を終えた。
申し訳ありません。
かなり頑張りましたが、想定以上に筆が進みませんでした。
読んでいただきありがとうございます。
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