5話 錯綜と策謀を、澱に友釣りへ1
――東嶺省、青道。
晶たちが襲撃を受けた翌日の早朝、輪堂咲は浮かない表情で朝市を歩いていた。
水兵服に似た袖が翻る度、道行く男たちの好奇の視線が集中する。
困り果てる少女が肩を狭める姿に、肩を並べる同行そのみが苦笑を向けた。
「人気じゃないですか、咲さん」
「私ではなく、洋装が珍しいのかと。そのみさんは、青道に慣れているのですね」
「いえ? 今回が初めてですが」
「……の割には、随分と着熟れておられるご様子ですが」
咲が横目に眇めるそのみの服装は、青道では良くある旗袍。
服を併せる所作にずれは無く、少女が着慣れていると見れば判る。
「――父が良く旗袍を土産にしたので、それなりに違和感を誤魔化せているだけでしょう」
「同行家のお役目は知っていましたが、真逆、ここまでの規模とは。
高天原でこの事を御存じなのは、」
咲の疑問を明言するよりも、そのみは手頃な屋台へと声を掛けた。
大鍋から昇る蒸気の向こうでは、茶色に煮立つ卵が大量に。
取るも取り敢えず合流をした2人、何方も朝食は未だ。空きっ腹を責める甘い芳香に、咲とそのみの頬が綻んだ。
『这是什么?』
『茶叶蛋啊。怎么样,来一个、我的五香粉秘方可是很自豪的』
『给我两个吧、多少钱』
『哎、纸币可不行哦。用铜钱支付是规矩』
老いた店主の手が、紙幣を摘まみだすそのみの掌を止めた。
憮然とした老人の表情に、少女の掌が懐へと戻る。
『纸币不能用? 别的摊位不行吗、』
『这个嘛……至少在这附近、是用不了的』
流暢に言葉を交わすそのみが、会話に眉を顰めた。
代わりに銅貨を差し出すと、表情を和らげた店主が茶葉卵の入った椀を手渡す。
「どうぞ。茶葉卵だそうです」
「――ありがとうございます」
短く礼を一つ。竹を削っただけの棒を箸代わりに、咲たちは卵を頬張った。
煎茶に近い芳香と同時、口一杯に広がる甘辛い卵の滋味。
――その、どこか懐かしい風味が、熱と共に咽喉を滑り落ちる。
「初めての味ですけど、何処かで食べたような、 、?」
「卵は鶏じゃないですね。香りは、……甘茶でしょうか。子供の時分で口にできる、少ない甘味の一つですから」
「甘茶。云われてみれば確かに」
慣れるには時間が掛かるだろうが癖になる味を堪能し、咲は潮風の戦ぐ方向を見遣った。
みゃあ。遠く、縄張りの主張だろうか、海猫が近くの屋根で喉袋を膨らませる。
「父、いえ、同行当主の口癖ですが。土地を知るには先ず、軒先売りの飯を食い漁れ。だそうです」
「その国の言葉では? そちらにも、随分と精通しておられるようですが」
「家業ゆえ、叩き込まれました。
交渉に於いて言葉は武器ですが、嘘を判じられる訳ではありません。……その点、下民にも渡る食べ物は、誤魔化しが利きませんから」
ふぅ。と互いに細く、湯気を口腔から逃しながら、そのみは視線を落とした。
晶たちが巻き込まれた昨夜の状況は、壊れた状況も含めて確認は終えている。
痕跡は確かに。だが、修繕が既に始まっている辺り、幽嶄魔教の統率は間違いないと見て良いだろう。
「……この卵もそうです。先程の店主が、五香紛を隠し味に入れていると」
五香紛とは、真国で日常的に使われる香辛料の一つ。
八角、花椒、桂皮、丁香、茴香。その総てが真国全土から集められた、この国の特産だ。
「戴天玲瑛も証言した通り、魔教、つまり青道は真国と断絶の状況にあります。
――現在、五香紛は貴重な香辛料のはず」
「いま、私たちが食べている茶葉卵にも使われていますよね」
「はい」それが意味する事実は1つ。
「需要に対して、供給が戻りつつある。推測ですが、六教の何れかと同盟を恢復させたのでしょう。――そして反対に、」
「魔教と論国の関係を、晶くんが怪しんでいたわ」
そのみは、咲の応えに薄く笑みを浮かべる。
懐から取り出すのは、先刻に支払おうとした紙幣。
「流石ですね。……これが、数ヶ月前まで流通していた青道弗です。
青道でのみの流通保証券でしたが、現在は大抵の処で取引を拒否されています」
「代わりにそのみさんが支払ったのは、銅貨でしたね。
あちらは、」
「真国で正規に発行されている文貨です。……交易目的の交渉で青道弗はまだ流通していますが、屋台では全滅となると時間の問題でしょうね」
ひらり。精緻な柄の紙幣を視線だけで追う咲に、そのみは結論を返した。
紙幣とは貨幣と同等に見られがちだが、本質はそのみが口にした通り保証券に過ぎない。その根底を支えるものは、信用そのもの。
海外での活動を主とする同行家は、高天原の内地に流通の伝手を持たないが、その実として東巴の海域でも有数の資財家だ。
その継嗣として永く教育を受けてきたそのみは、咲に向けて断言した。
「そのみさんは先刻、青道弗を保証券と称しましたね」
「はい。青道弗の元本を保証しているのは論国。
つまりこれは、信用を指標にした勢力図でもあるんです」
真国にとって青道は高天原での鴨津と同じ、海外との玄関口である。
経済破綻をさせる訳に行かない以上、末端にいくほど現状が素直に浮き上がるのだ。
「……話題を変えましょうか。
真国の技術、五気調和の知識ですよね?」
「ええ。精霊力を増加させる修練法だとか。そんな便利な技術があるなんて」
「名前だけは知っています。……廃れた理由も。
――咲さんは、他国の精霊技を見た事はありますか?」
「波国と争った時にある程度ですが」
「思い出してみてください。相手が行使していたのは、現神降ろしか内功の類では?」
そのみの言葉に、咲は肯いを返した。
その通り、波国の審問官がみせたのは、身体強化に類するものである。
外功に近いものは、神器かベネデッタの法術のみ。純粋な外功に属するそれを見た事は無かった。
「八家でも知っているのは同行家程度の、つまらない情報です。
精霊技の原型は真国のものですが、急速に発達したのは高天原に渡って以降」
「戴天玲瑛が無手で外功を行使していたと、晶から訊いています」
「そこが重要、精霊技を行使する為に五気調和を棄てたのです。
咲さんは、生身で精霊技を行使うと暴発すると知っていますね」
そのみからの常識を問う声に、肯いだけを返す。
精霊技は、精霊器を媒体にする事でしか行使できない。
何故ならば、精霊力を外功に転化する衝撃に、己の器である魄が耐えられないからだ。
五気調和の恩恵は、己の器の強化。
「……そういう事、ですか。器を強化して、精霊技の反動に耐えられるようにする」
「発想自体は単純なものです。真国六教の目的は、人を仙へと導く為のもの。精霊技自体は余禄に過ぎず、目的は総てその一点に集束すると聞いています」
「真国が精霊技を重視しなかったのは、向こうにとって捨て置いた技術だったからですか」
「反対に高天原にとって、五気調和の修練は意味が薄い。
――一時的に器を強化しても、精霊が昇華する訳ではありませんから」
要は。合理と不合理の取捨選択だ。
精霊である魂と、己の器である魄。魄が多少強化されたところで、魂の本質的な出力に変わりはない。
精霊器とは、よく云ったものだ。
精霊技を求める高天原とは、目的が違うと云うだけの話。
「生身で精霊技を行使できるのは、利点ではないと?」
「無意味とは云いませんが、どれだけ修練しても所詮は人の器。霊鋼の強度には届きません。
それに、真国からすれば、高天原は受け入れ難い存在となりましたから」
そのみは滔々と語りながら、朝市の一角に設えられた小さな卓に腰を下ろした。
隣に咲も座り、油断なく周囲を見渡す。
「真国と高天原が断交した原因ですか?」
「その1つに過ぎませんが、割合を大きく占めているのはそうですね。
真国が求める仙とは、涯無く魄を窮めたものの称号。……つまり、半神半人とは別の手法で、神柱の頂に手を掛けたものの事ですから」
「真国六教の目指すものは、本当の意味での人工的な神無の御坐ですか」
「その通りです。――見下していた相手が、己の棄てた手段で至上の目的に手を掛けた。
……彼らからすれば、私たちは認める事も難しい裏切り者と云う訳です」
人工的な、神無の御坐の製造。人の身に余る真国の大望を理解し、咲は思考を巡らせた。
その傍らで、そのみが声を潜める。
「晶さん曰く、青道から論国人が減っていると」
「晶の見立てが確かなら、ほぼ全員が青道を後にしているはずです」
「……父が係留港を確認しましたが、確かに論国の艦船が見当たりません。
少ない西巴の人間は恐らく、別の国か事情を知らない末端ですね」
何かが起きている。それも、青道に関連して陰謀に近い何かが。
しかも、事情を知っていそうなものは、総て何処かに逃げた後だ。
「――そろそろ、晶くんが幽嶄魔教と会談する頃です」
「上手く事が運ぶと願いましょう。私も釣り餌のまま、待ちの姿勢では堪りませんので」
「だからと云って、会談を纏められる自信も有りませんが」
そのみの愚痴に、咲は短くそう締めた。
2人、意見が合った事を微笑み合う。
賑やかな朝市を余所に、緊迫した空気が少女たちの座る一画を支配した。
♢
咲と別れた晶は、玲瑛たちと連れ立って青道の街中へと赴いていた。
土地勘に加えて、行き先を知っているからだろう。当然とばかりに李鋒俊が先導に立った。
街に一歩入り込んで暫く。港湾地区に建つ高層建築と違い、真国の建物が続くようになる。
「この辺りに、論国と戦争していたって雰囲気はないな」
「青道戦役の被害は、主として港湾に集中していたそうです。
港湾の復興には論国の資本が注がれているので、そちらの風潮が目立つのでしょう。
何処に魔教の耳があるか判りませんし、そろそろ真国語に切り替えてください。
――『你会说的吧』?」
お上りさん丸出しで周囲を見渡す晶に、玲瑛から含みのある台詞が投げられた。
李鋒俊に露見した時点で、玲瑛からそう要求されるのは覚悟している。
『……これで良いか? 理解できるのは日常会話だけだ。
複雑なのは期待するなよ』
『充分だろうが。
どうせ貴様なら、聞いている内に修得する』
肩を竦めた晶からの拙い口調。訥々と会話をする分には問題ない響きに、憮然と鋒俊が応えた。
『これは興味本位ですが、何時学ばれたのですか?
真国に渡ると決まったのは半月前ですし、それ以前は私たちの言葉を理解している様子もなかったと記憶にありますが』
『単語の響きは高天原と近しいから、使い処は凡そに判別がつく。
文法も真言の構文と似ているしな。後は応用だけと思えば何とかなる』
『……普通は異常です。が、今回に限っては有り難い。通訳は最低限で構いませんね』
『云っとくが、想定の無い用法が出されたらお手上げだぞ。
何だよ手紙って、危うく赤っ恥を掻く所だった』
高天原の文字が真国に由来している以上、文字は同じだが用法の違う単語が幾つかある。
その例を口から零した晶へと、先導に立つ鋒俊が振り向いた。
『安心しろ。必要なものは俺が通訳してやる。それよりもここから先、お前が高天原の縁者だと知られないように心血を注げ』
『その心算も無いが、念のために訊いておく。……何でだ?』
周囲には何故か、人の気配はない。
袋小路だろう先へ迷わず向かう鋒俊は、やがて前に聳える店の扉を大きく開いた。
扉一枚から溢れる人の気配に、構うことなく鋒俊が奥へと歩く。
食堂なのだろう。広く卓と客が並ぶ狭間を抜け、厨房へ。
晶たちには気付いているだろうに、幾人かの視線が過ぎるだけで咎めるものはない。
やがて、更に奥へ。格子の窓を隔てた大通りからの喧騒を余所に、鋒俊の先導で晶たちは奥へと歩いた。
『幽嶄魔教宗家の莫離家だが、――特に洞主である涛大人は青道戦役で辛酸を舐めたからな。海の外の人間を受け入れられるとは、到底思えん』
『残り五教との断交を決めたのも、洞主大人の決定と聞いています。幹部である李昊然殿だけとの会談なら……』
『――そちらも望みは薄いでしょう。どうやら、霊道に潜ったようですし』
『霊道?』
玲瑛の希望的な予想に、陰鬱と晶が呟く。
朱華の万窮大伽藍や玄麗の黒曜殿と同じだ。神柱の坐す神域へと繋がる深みに踏み入れたと、晶は直感的に理解した。
格子窓の向こうは大通りだが、その実は、手を伸ばしても届かない距離で隔てられている。
現実と紙一重で切り離され、晶たちは神域へと潜っていた。
神域の傍で会談をすると云う意味は、互いに胸襟を開けという暗喩だ。
此処まで示された以上、魔教を統べると云う洞主が出なければおかしい。
――否。それ以上に、気に掛かることが一つ。
『幽嶄魔教が護るのは風穴だと聞いているけど』
『ええ、真国の龍穴は崑崙のみ。……それがどうしましたか?』
『龍脈の吹き溜まりに過ぎない風穴は、本来ならここまでの規模にならないんだ。
幽嶄魔教が奉じているのは、確か土地神だったよな』
『信顕天教と変わりないはずですが……』
『――真逆、天教の金魚の糞如きが、宗家よりも早く気付くとはな』
戸惑う玲瑛の声が、通路の奥から吹き荒ぶ風の響きに去り散った。
昨夜も聞いた、李昊然の傲然とした応え。
『その通り。此処に奉ぜられるは、土地神に非ず。神柱の頂に昇った新たな大神柱よ』
途端、莫大な神威が圧し掛かり、晶たちの足を阻む。
奥の暗がりから、昊然が晶たちを睥睨した。
『影梅公女の御前である。臥して礼を尽くせ、下郎ども』
新年あけましておめでとうございます。
本年も、拙作を宜しくお願いします。
安田のら





