閑話 信念を俟ちて、暮れなずむ晦に
――珠門洲、長谷部領、領都鴨津。
檜の廊下に爪先が落ち、きしりと鶯に似た抗議を鳴きたてる。
険しい面持ちを隠しきれないベネデッタ・カザリーニが久我本邸を訪れたのは、久我法理の帰還を耳にして数刻の後。
――晶たちが丁度、青道の港湾に降り立った時の頃であった。
ベネデッタの来訪は予期していたのだろう。
面会の先触れは直ぐさまに、法理の妻である琳子が先導に立つ。
滑らかに磨かれた檜の表面を吹き抜ける、枯れた寒さ。
骨まで染む冬の潮風に、ベネデッタは悴む指に触れた。
玉砂利を設えられた庭では、庭師たちの樹に巻かれた藁を緩める光景が。
横目で眺める少女の姿に、琳子がくすりと微笑みを浮かべた。
「珍しいですか?」
「ええ。樹の寝巻とは、波国にない作業なので」
「樹の寝巻とは、云い得て妙。樹喰いの虫に寝床を与え、啓蟄を前に焼くのです。
――この山水図は夫の自慢でして、ゆるりと堪能していただければ」
「素晴らしいと思います。金子もかなり掛かるのでは?」
農産と違い、鑑賞が主目的である庭の造園は金子の飛ぶ趣味の一つ。
造園を趣味として破産する御大尽は、何処の国でも聞いた話題であった。
――だがそれ故に、隠然と相手の懐を測る物差しにもなる。
慎重にベネデッタは、庭に掛かる規模から相手の資財を推し測った。
「その辺りは夫に任せています。先々代からの自慢らしく、夫は受け継いだだけと嘯いていますが」
「これほどの規模、数年では利かないでしょう。
世代を超えた絆もあってこそ、御家の至宝と認めるに相応しいかと」
高天原の玄関口として、鴨津は長く栄光を浴した都である。
その燦然たる歴史の証明としての庭を前に、ベネデッタはただそう返した。
寒風の吹き曝しも、障子一つに遮られれば室内は意外と暖かい。
暫くして通された中広間で、久我法理は矍鑠と座っていた。
晶が鴨津へと来ない事実は、法理が帰還するよりも早くに先触れで伝わっている。
今後の予定が変えられる必要を強いられるに、ベネデッタからの不満は当然のものであった。
「来るとは思っていたが、帰った当日くらいはゆっくりと休ませて貰いたいものだなぁ。カザリーニ殿」
「どう云った心算か、お訊きしたく参上したまでです。
……それとも、波国との盟約履行を軽んじられる?」
「それこそ真逆よ。
高天原が貴国を軽んじるなど、有り得なかろう」
ベネデッタを前に飄々と嘯き、法理は盆の窪辺りを掻いた。
一礼をして退室する琳子を背に、柳眉を逆立てたベネデッタが詰問を追い放つ。
「では、此度の仕儀。晶さまが鴨津へ来られる手筈は、反故とされるお心算だったとでも?」
「仕儀と云われようがなぁ。儂らが取り決めたのは、夜劔殿を急ぎ潘国へと送る手段の模索であったはず。
より良い手段が呈されれば、其方に傾くのは自明であろう」
「……つまり貴国は、高喫水船を所有していると。これは明確な盟約違反になりますよ」
波国と交わした同盟の一つである軍事技術の供与。これに対して波国が肯った理由は、最大前提に高天原は高喫水船を所有していないと云う判断があるからだ。
もし高喫水船を造船する技術があるならば、波国の想定よりも早く高天原の軍事力が跳ね上がってしまう。
それは問題だ。何しろ、憐れむ程度であった東巴の台頭は、間違いなく波国で穏健を気取っていた貴族たちの危機感を煽るのだから。
「高喫水船の所有自体は認めるが、あれは同行家の管轄よ。
儂らは疎か、義王院家以外では口出しも赦されん」
「由来は何方ですか? 私が知る限り、論国が供与に協力したとは聞いていませんが」
「さてな。あれは不可触であると、上意より厳命されれば動けん。
海軍が設立されれば潮目も変わると、儂も期待しておる」
思わず立ち上がるベネデッタを前に、法理の表情は崩れなかった。
鴨津を治める男の柔らかな傲慢を前に、ベネデッタが嘆息を漏らす。
「……質問を変えましょう。晶さまが現在、何処に居られるか、久我御当主は訊いておられますか?」
「そろそろ、青道に到着している筈だ。
予定通りなら港から乗り継いで、夜劔殿は潘国へと入国する心算だと」
はあ。法理から返る予想通りの応えに、ベネデッタは覚悟を決めた。
辞去の礼もそこそこに、少女の踵が返る。
「可能な限り早急に、青道へと出立します。
――当然、出国許可は直ぐに頂けるのでしょうね? 久我の御当主殿」
「無論よ。今回の判断は夜劔殿の独断に近くてなぁ。実の処、儂らにも思うものはある。
カザリーニ殿が希望するならば、ここを離れた後にでも許可を出そう」
「結構。では今日中に、我らは出立します」
けんもほろろに去るベネデッタを見送り、法理は温くなった緑茶を一口。
やがて、ベネデッタを門まで送った琳子が戻り、中広間の障子を開け始めた。
冬晴れの貴重な一時、殊更に用が無いならば畳に陽を当てておきたいのだろう。
殊更に止める理由も無く、法理は冷える身体に火鉢を寄せた。
「門を出られたかな」
「はい。……随分と煽られたのですね? 帰り際の頬が、不満も露わのご様子で」
「それで済めば御の字よ。
何に気を遣っているのか、波国からすれば論国は破門した相手であろうに」
苦笑する琳子へと、眉を顰めて応じる。
一枚岩ではないと知っていたが、西巴大陸を取り巻く状況は想像以上に複雑であった。
味方と握る手の裏で刃物を覗かせ合うなら可愛い部類。酷いものとなれば、娘の初夜に手ずから毒殺させるような父親も居たりする。
論国もそうだ。アリアドネ聖教から破門された直後に、習俗派と呼ばれる聖教の一派閥を引き込む。
以降、完全に決裂しているのかと思いきや、付かず離れずの付き合いだ。
「切っ掛けは恐らく、鉄の時代だろうな。
神柱から遠ざかるほどに、著しい大陸の暴走が気に掛かる」
そして、宗主国として制止の立場に在るアリアドネ聖教に、迎合の向きが見られる辺りも怪しい。
まるで何かが、東西巴大陸を捲き込もうとしているかのような。
「薄皮の向こうから魑魅魍魎に歓迎されようが、納得して驚きもできんな。……これは」
「――私とすれば、諒太たちと咲さんの安否が心配ですよ。
全く、馬の骨に咲さんをくれてやるなど。奇鳳院家の下知とは云え、輪堂孝三郎も曇ったものです」
「云ってやるな。それに今は、鴨津も落ち着かん時期だ。
多少は損しても、玻璃院の助力に傾注しておこう」
琳子の愚痴に、法理は思考を現実へと戻した。
神無の御坐と云う事実が、三宮四院八家の機密であるのは変わっていない。
それ故に、知らされる事の無い妻の不満が溜まりがちになるのは、法理の悩みの一つであった。
相も変わらない寒さに身震いし、徐に腰を上げる。
ゆっくり休みたいのは本音であるが、留守にしていた間の決済は溜まる一方。執務の卓上で犇いている書類へ思考を向け、法理は鬱屈と嘆息を漏らした。
♢
久我本邸を離れたベネデッタは、道を寄る事なく鴨津の係留港へと足を向けた。
埠頭脇に係留された連絡船から、髭面の偉丈夫が立ちあがる。
波国が誇る快速帆船『カタリナ号』の船長、パオロ・バティスタが、待ち疲れた表情を向けてきた。
仕方あるまい。かれこれ数ヶ月は、何かと理由をつけて鴨津に留まっていたのだから。
『お。漸くの出航ですかい』
『ええ。ですが予定を変更、青道で私と審問官2人は下船します。
バティスタ船長は予定通り、ランカーの港へと向かってください』
反論を封じる勢いでベネデッタが告げ、連絡船へと乗り込んだ。続けて、部下であるサルヴァトーレ・トルリアーニとアレッサンドロ・トロヴァートが、窮屈そうに身体を圧し込む。
大柄の偉丈夫が乗り込んだことで、狭い連絡船が横に危うく揺れた。
『今までのんびりさせて貰ってなんですが、随分と急ですな』
『口惜しくですが、奇鳳院に謀られました。
晶さまは現在、青道に。――港から乗り継ぐとは久我当主の言ですが、速度を求めたならば目的は東巴大陸鉄道です』
『成る程。速度を競う一点に出し抜かれましたか、嘘を吐けないとは存外に不便なもののようで』
事情を表面だけ理解したバティスタが、手ずからに連絡船の火を入れる。
やがて、暖気の満ちた連絡船が、ゆるりと黒煙の尾を曳き始めた。
『バティスタ船長に訊きますが、青道に駐留させている部下を動かせますか?』
『論国に傍受される恐れがあるので、それほど詳細に動かせませんが。
……可能ではありますな』
『結構。――可及的に、青道の租界を統治する領事と接触を、好反応なら高天原の干渉をそれとなく流してください』
最新鋭の戦艦の船長であるパオロ・バティスタは、大雑把な外見と違い政治に通じている。
特に無線を駆使した遠距離通信も所有しているとなれば、間違いなくベネデッタが命じられる中で最長の手の長さを誇っているだろう。
今は、その影響力が有り難い。
『そこまでの厄介事か? 恩寵の御子が貴重なのは判ったが、高々が1人の子供だぞ』
『トルリアーニ卿の意見は軽んじ過ぎだが、私も意見は同じくしている。
本国の中枢も、恩寵の御子の実在に関しては懐疑的だと』
『――そうね』
腹心2人からの苦言に、ベネデッタも肯いだけは返した。
だがそれは、表面的な価値しか知らないが故の意見。
道端の石に価値は無くとも、その裏に宝石を見出せたならば意見は翻る。
これは、知っている側と知らないものの鬩ぎ合いでもあるからだ。
だが、その真実は過剰な程に人欲を掻き立てる。
高天原では沈黙を貫くと云う、それはベネデッタをして賢明な判断であった。
『……論国が主導しているという、計画の進捗はどれほどかしら?』
『何故知っておられるか、訊ねない方が良いのでしょうな』
『死んだヴィンチェンツォ・アンブロージオが持ち出した神柱を封じるという呪法。その砲身が何処を経由していたかを考えれば、自明の理です』
『――神器を用いた実験の再現性は確保されているそうで、枢機院は随分と乗り気だとか』
『では、晶さまが青道に到着してしまえば、遠からず異変に気付くでしょうね』
青道から論国人が極端に減った理由。晶がこれから直面するのは、神柱が統べると云う世界の片鱗だ。
バティスタから返る台詞に気も無く応じ、ベネデッタは近づく『カタリナ号』を眺める。
揺れる波間の向こう。帆船から覗く蒸気機関の煙筒が、まるで行き詰る時代の象徴として少女の視界に映った。
♢
――珠門洲、洲都華蓮。神域、万窮大伽藍。
山の峰を支配する冬の厳しさも、神域には届かない。
特に火行を司る此処に在って、寒さは無縁のものであった。
ゆるりと、灯色に染まり始める華蓮の街並み。その光景をただ眺めるに任せていた朱華は、やがて畳へと背を預けた。
指から碁石が零れ、退屈に飽いた呟きが宙に散る。
「……暇、よな」
「あかさまの手番ですよ? 早く打ってください」
「もう小ヨセよ、嗣穂の打ち方では妾に勝てぬ」
寝そべる童女から返る応えに、盤を挟んでいた奇鳳院嗣穂は唇を尖らせた。
ざらざらと碁笥へと注がれる白と黒の音に、朱華が肢体を起こす。
「今頃、晶は何処に居るのかの?」
「予定に遅延がなければ、そろそろ青道に到着しているはずです。
後は、鉄道に乗り込めば、ベネデッタ・カザリーニも追いつけないかと」
「――詰めが甘かったわね、嗣穂」
暮れなずむ華蓮を眺める2人の会話に、嗣穂の母であり珠門洲で洲太守を与る奇鳳院紫苑が言葉を挟んだ。
何時の間にか、背に立つ紫苑が反古の裏を見せる。
「久我当主からの電報が、今しがたに届きました。
ベネデッタ・カザリーニが、今日の夕刻に出港する許可を求めて来たとか」
「少々早いが、想定通りであろう。
蒸気機関が生む速度と云えど、今から追いつくのは潘国に入ってからであろうさ」
「……いいえ。お母様の仰りでは、東巴大陸鉄道の経由まで看破されたのでは?
そうなると最悪、潘国に渡る手前で追いつく可能性があります」
「やってくれるのう」
「晶さんは気付くでしょうか」
「――それ次第ではあるが、心配はあるまい」
折角、稼いだ時間も、状況次第では不意になる可能性もあるのだ。
気遣う嗣穂の呟きに、それでも明け透けと朱華の応えが弾む。
彼女からすれば、世の総ては刹那に過ぎて終わる出来事。
どれだけ年月が去ろうとも、人が変わろうとも、本質的にその瞳が興味を示す事は無い。
只唯一の例外として、神無の御坐だけがその瞳に映る事が赦される。
その現実。晶は自分が求められている本当の意味を、これから知るのだ。
旅の終わりに晶が見せる判断の全てを愛そうと、火行を知ろ示す童女は嗤って見せた。
今年最後の更新です。
前提となる状況を今年中に出そうと、展開を急ぎました。
年の暮れに彼女たちが何を狙っているのか、是非とも想像してください。
本年はお世話になりました。
巡る来年もまた、よろしくお願いいたします。
安田のら





