4話 月暈は皓と、六踏を迎え2
晶たちが飯店へと帰り着いたのは、表通りの喧騒に終息が見え始めた頃であった。
ぱちり。焜炉の覗き窓から立てる、薪の焼き崩れる音。
きい。微かと軋みを残した窓から、寒い外気と共に爪先が床へ。
意外と響く音に、待機していた輪堂咲が声を潜めた。
「……大丈夫? 晶くん」
「ああ。だけど、幽嶄魔教に宿の位置が知られた」
「――取り敢えず、今夜の襲撃は心配ないでしょう」
晶の苦い表情に、続いて窓から部屋へと戻った戴天玲瑛が応じた。
寒い空から暖かい室内へ。急激な寒暖の差に、肌が総毛立つ。
「根拠は?」
「李昊然は、魔教でも新進気鋭の名打てです。
私自らが赴く姿勢と宣言した以上、魔教から迎える姿勢を破れば面子を汚すだけですから」
時間稼ぎに過ぎませんが。そう呟くように補足して、玲瑛は旗袍の上から羽織る肩掛けを脱いだ。
狭い室内に、次いで李鋒俊が床を鳴らす。
「最悪は、高天原と戴天家が手を結んだと知られたか」
「――昊然が云うには、俺が蚤の市に居たって情報で捜し回っていただけだと」
「嘘で俺たちを泳がせている可能性は?」
夜気の残滓が熱に紛れるを眺め、鋒俊は部屋の壁に背を預けた。
現物がない以上、逆説的に論じなければならなくなる『無いの証明』は難しい。
正直、疑い出したら最後、際限が無くなる問いかけだ。
落とし処を決めなければならないが、会ったばかりの他国の者同士にそこまでの信頼関係は育っていない。
「先ず無い。昊然の性格からして、高天原と戴天家が同盟を結んだと知れば、単独では動かない。
必ず手下を集めて、情報を漏らさないように包囲してから襲撃するだろうな」
「――魔教に限らず、真国六教であれば面子は軽んじません。
特に洞主補佐である昊然殿ともなれば、軽々と薄暗い手段に動けないでしょう」
慎重に言葉を並べる鋒俊の代わりに、玲瑛が言葉を継いだ。
高天原との関係に保険を掛けようと動いたが、こうなってしまえば逆効果である。
今後の行動で揺らぐよりかはまだ良いと、内心で情報の開示を決めた。
「幽嶄魔教について、夜劔殿はどれほどご存じですか?」
「余り、だな。敵対しなければならなくなる論国については、事前にかなり調べたが」
同盟を結んで直ぐの移動であれば、調査に費やせる時間もそれほど無い。晶の返答に嘘はないだろうと判断し、玲瑛は一つ肯いを返した。
「信顕天教、瑞光地教、慈徳人教、源林武教、継灯生教、幽嶄魔教。
これら六教の内で幽嶄魔教は、青道に風穴が在ると云う特殊な立ち位置を守ってきました」
「一寸待って。都に風穴が在るのって、
……当然の事じゃないの?」
意外な説明に、咲からの疑問が返った。
高天原では、龍穴や風穴を中心に都が築かれる。その事実に関して、都は勿論、それぞれの土地であっても例外はなかった。
理由は明白。氏子籤祇によって与えられる加護の有効範囲は、土地神の支配圏に限られるからである。
加護とは即ち、その土地に於ける事象の干渉優先権。術の通りが良く、幸運に傾きやすくなる事実を意味する。
風穴を中心に生活圏を築くのは、氏子籤祇に縛られる咲にとっては至極、道理の結論でもあった。
「――輪堂様の懸念は、加護の有効範囲ですか」
「他国では違うと?」
「余程の例外を除けば、私の知る限り。
真国の崑崙もそうですが、神柱の司る象は人の世よりも本質的に自然と近しいですから」
「要は認識の違いだな。」
そう説明を締め括る玲瑛に、晶は納得を返した。
「神柱と近ければ加護も篤くなるが、神域は象に寄り添う方が自然という訳だ」
「例外となる神域には、多くに共通したものがあることも周知されています。
つまり、人に縁る神柱であれば、その限りではないと云う事です」
その状況に当て嵌る神柱として最も有名なのが、波国の聖アリアドネとなる。
彼の神柱の象は人の容。アリアドネが人の世と常に寄り添うのは、当然でもあった。
「高天原の場合は違うけれど」
玲瑛の説明にも、咲は首を傾げた。
高天原を知ろ示す神柱の象は、五行運行。現世を支えるそれらは、神域としては寧ろ自然の方が近い。
「地勢、防衛の観点からすれば、貴国の方が理想でしょう。
神域と都。二点を防衛するのは至難ですから、通常は龍穴の位置を隠すのです」
逸れた話題に咳払いを一つ。玲瑛は本題へと注意を戻した。
「幽嶄魔教の教えは、遍く知恵そのもの。人の世に溶け込み、隠然と支配する術に長けています」
「――簡単に云えば、隠形と呪術に優れているんだ。
捕捉されれば逃げられないし、直接会えば何をされるか不明だな」
その反面、物量による直接破壊には弱いという欠点も存在する。
青道戦役に於ける敗戦の原因は、防衛の難しい海からの艦砲射撃による破壊であったことからも、玲瑛は確信していた。
「つまり、俺たちは現在、李昊然に捕捉されているのか」
「その通りです。ですが逆を云うならば、李昊然はこれ以上の行動に出られない。
宿を経由した情報収集は行うでしょうが、私たちの情報だけに集中するはずです」
つまり、戴天玲瑛と李鋒俊を除けば、居合わせた晶だけが調査の対象である。
玲瑛の断言に、晶と咲は視線だけを交わし合った。
「一応、信顕天教の武侠だと誤魔化しは入れたが、通じてくれたかな」
「俺と云う前例と共闘していたから、そこに疑いはないだろうな」
「そう云えば、李昊然の弟だと」
「ああ。実家は既に出ている。……正直、子供の時分と結び付けられるほど、俺を覚えている奴なんざいないと思っていた」
懐かしく、寂しそうに。晶の問いかけに鋒俊は応えた。
体裁は取り繕っていたが、明確に晶へと向けた言葉では無かったのだろう。
疑問への回答と云う以上に、懐かしさの伺えるそれは独白に近かった。
「鋒俊は天教の門を叩いていますが、扱いとしては武客の立場です。
――本来は戻れぬ身ですが、青道の幇の協力は不可欠でしたので、彼には無理を聞いてもらいました」
「魔教と云うか、李家の昊然殿にとっちゃ、俺は己の汚点そのものだろうな。
裏切るかどうかって心配しているなら――」
「そっちは心配していない。李昊然は間違いなく、俺たちを殺す心算だったからな。
俺の疑問は、魔教と論国の本当の関係だ」
「……どういう事だ?」
「青道を支配しているのは論国と聞いていたが、先刻の一件で動いていたのは昊然独り。
序でに云うなら、港湾を抜けてからこっち、殆ど西巴大陸の奴らも見ていない」
「……それの何が変だと?」
晶の証言に、玲瑛が首を傾げた。
資本によって駆動する論国は、金子を積めば何とかなる国として有名である。
政治制度を等しくする租界であってもそれは同様に、晶たちが東巴大陸鉄道を当てにできた理由でもあった。
「鴨津の租界じゃ、寧ろ西巴大陸の人間が多かった。
だが、青道を見る限り、港湾でも寧ろ少数派に見えたほどだ」
「確かに。俺が離れた頃は未だ、論国人はそこら中を彷徨いていたな」
「代わりに、真国人が多くなっていると。……偶々の可能性は?」
「先ず無い。租界の領有権を主張するんだ。
俺が論国なら、人員を湯水のように注ぎ込んででも警察権は確保する」
鴨津と違い、青道は敗戦の結果として譲渡された土地である。
支配地の反抗を抑える名目でも、論国の戦力は増やしていなければおかしいのだ。
「情報は欲しいが、魔教と会うのは明日だよな。
……魔教から譲歩は得られる?」
「難しいですが、その為の対価は用意しています。
向こうからすれば喉から手が欲しいもの、余程でなければ断らないでしょう」
晶の問いかけに、玲瑛が薄く肯いを返す。
その手に覗かせた小さい箱に、晶が眉を顰めた。
同盟の証として譲られた丸薬の箱と、同じ造りのそれ。
「神錬丹か」
「はい。持ち出せたものは、夜劔殿に渡したものを除けば最後のものとなります」
「知識がなくて済まないが、そいつに関してどのような効果があるんだ?
今の内に聞いておきたい」
説明が未だでしたね。薄く微笑みだけを返し、玲瑛は慎重に箱を仕舞った。
宗家でも末席の玲瑛にとって、錬丹の詳細は多くを知らない。
「……仙の道に六踏あり。即ちそれ、天地人武薬魔の教え為り。
仙とは云わば、その六踏を己が身に修めた超人を指します」
「仙って、仙人って奴か? あの、霞を食って生きているとかって」
「流石に、それは伝説よりも眉唾でしょう。
六踏総てを修めたら神仙に至ると聞いていますが、問題となってくるのが武仙です」
「武を高めるなら、鍛錬あるのみじゃないのか」
「如何に修練しようと、本来、ただ人は生まれ持った精霊力の上限を超えられません。
その理由は、精霊力の器である魄の限界が厳然と決まっているからです」
晶の返事は想定したもの、玲瑛は穏やかに言葉を紡いだ。
真国六教の歴史とは、神仙へと至る修練そのものでもある。だが幾ら鍛錬しようと、生まれ持った素質でしかない精霊力の増幅は不可能に近い難事であった。
その現実を覆す一手こそ、神錬丹である。
「神錬丹の効能は、魄に罅を入れ、より強靭な器として成型しなおす一点にこそあります。
効果を充全に発揮するためには、五気調和が前提条件ですが」
「五気調和。何回か聞いたな、それ」
「――本当に何も知らないんだな」首を傾げる晶に対して、鋒俊が鼻を鳴らした。
「魂とは精霊であり、魄はその器を意味している。本来、己には余る精霊を宿すために、魄とはそもそも五気を均等に有しているんだ。
五気調和ってのは、五気を高めて器の強度を上げる修練。つまり、」
――宿せる精霊力の上昇。
鋒俊の返答に、晶たちは唖然とした。
高天原にあって精霊力の量は、精霊の位階に絶対依存をしている。
その常識を打ち壊す技術の存在は、晶たちをして脅威とも云うべき技術であった。
そんなものがあれば、間違いなく誰であろうと飛びつく。
天教と断絶している魔教であれば、尚更に垂涎の錬丹であった。
♢
会社とは、日がな一日開いているものではない。
電気も灯油も貴重なこの時代に於いて、残業とは寧ろ金子が飛ぶだけの無駄な時間。
それは海恒公司であっても同じだが、留守がちな同行晴胤にとって溜まりがちな決済を処分するに必要となる無駄でもあった。
ちりり。小さく焦れる灯明の熱に掌を翳し、僅かなそれで凝る指先を揉む。
「……畜生め、終わりが見えねぇ。何処ぞの陳情なんざ、焜炉の燃料にしちまえっての」
はらり。一枚、又一枚と、別けられては積み上がる決済の山。
誰も聞いていないと、云いたい放題に文句だけが口を衝いた。
残りの山が半分まで目減りした頃、遠慮がちに社長室の扉が叩かれた。
相手の気配は、互いに掴んでいる。
漸くの到着に、同行晴胤の口元を莞爾と苦笑が彩った。
「開いてんぜぇ。――遠慮はするな、坊主共」
「……失礼します」
返答と共に小さく扉が開き、隙間から人影が滑り込む。
床の軋む足の音が、微かに2人分。
「何でぇ。歌舞いとると久我殿から聞いていたがね。
初めての青道はどうだい? ――久我の神童どの」
「別に俺は名乗っている訳じゃないんで。
……物見ついでなら面白いかと」
苦笑頻りの同行晴胤へと、憮然と久我諒太が返した。
以前に聞いた情報とは真逆の調子に、拍子抜けたままその隣へと視線を遣る。
「随分としおらしいなぁ、おい。
そっちの嬢ちゃんは愉しめたかい?」
「恥ずかしながら、言葉一つ違うだけで此処まで難儀するとは思っていませんでした。
……道を歩くだけで掏摸に置き引き。犯罪がここでは日常茶飯事らしく」
感情を読ませない微笑みを返し、諒太の隣に立つ帶刀埜乃香が肯ってみせた。
晶たちとは時間差で降り立った2人の到着に、同行家当主は腰を上げる。
「その程度なら、寧ろ青道じゃあ華だぁな。……船の周囲を探る奴はいたかい?」
「特には無いっすね。鴨津じゃ寄港は稀な船舶を、沖で何隻か見た程度です」
「ほう? ま、その程度なら珍しくねぇか。
――こちらの準備は終えている。出立は明日、精々今日は英気を養いな」
肯いを返す2人へと嗤い返し、同行晴胤は鷹揚に扉へ爪先を向けた。
風に残った仕事が揺れる。だが、状況も常に動いているのだと、努めて後回しにした書類を見ないようにした。
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