4話 伽藍に在りて、少女は微笑む4
奇鳳院の膝元となる1区を守護する守備隊の隊長にして、全守備隊の総隊長を務める万朶鹿之丞が自身の仕事場となる守備隊本部へと顔を出したのは、朝も遅い10時頃の事であった。
万朶の年齢の頃は60後半。白鬚を蓄えたその姿は一見好々爺ながらも、年齢に見合わぬ活力に漲っているのが見て取れた。
しかし、何時もは笑みを絶やさぬはずのその表情は、本部に顔を出した時には苦虫を噛み潰したような苛立ちに染まったものであった。
理由はひどく俗なもので、何かと動きに目がつく阿僧祇厳次が率いる8番隊が山狩りを強行して、主級の穢獣を討滅すると云う功を挙げたことが正式に確認されたからであった。
おかげで、昨晩の洲議との会合で、称賛半分嫌味半分の会話に辟易したのが大きな理由であった。
しかし、本部の扉を開けた時、苛立ちは表情の奥に隠されて、代わりに戸惑いのそれが広がっていった。
常には無い慌ただしいような混乱したような喧騒と、女性職員たちのひそひそと噂するような会話が万朶を迎えたからだった。
「……なんだ、これは?」
「――おはようございます」
万朶の重役出勤は、今に始まった事では無い。
遅い時間の出勤に驚くことは無いはずの万朶の秘書が、待ちわびたように急ぎ足で近寄ってきた。
「巳波くんか。
随分と騒がしいな、一体なんだ?」
「耳を借ります。――……、…………、……」
声を潜めて伝えられた内容に、万朶の目が大きく見開かれた。
「失礼いたします。
――ようこそおいで下さいました、嗣穂さま」
「……えぇ。久しぶりね、万朶」
「央洲より帰着されている事は耳にしていましたが、ご挨拶が遅れて申し訳ありません」
巳波からの耳打ちを半ば打ち切り、どすどすと床を踏み鳴らして、足早に2階にある自身の仕事部屋である隊長室の扉を開けると、中で来客用のソファに腰を下ろして、秘書に頼んだと云う書類に目を通している奇鳳院嗣穂がいた。
嗣穂の向かいのソファに座ろうと脇を通るとき、机に何冊か置かれた書類の題名にちらりと目を走らせる。
現在、守備隊に所属している隊員の名簿だ。
――名簿? 一体、誰を探している?
内心で首を傾げるが、嗣穂に対して公に探りを入れるのは憚られたため、特に何かを云う事も無く嗣穂の沈黙が終わるまで静かに待つことにした。
「――ここにあるのは、最新の名簿かしら?」
「はい。卯月までの、と云う但し書きは付きますが」
2区までの名簿に目を通し終え、ややあって、沈黙を破った嗣穂に、勢い込んで万朶は応えた。
実際のところ、入れ替わりの激しい守備隊の名簿や人数はかなりまちまちである。
入隊を希望する故郷を追われた子供と云うのは存外に多い上に、守備隊に所属する練兵の死亡率はそれなりに高いからだ。
ひどい時では、1年で顔ぶれが半分以上は入れ替わるなんてところもあるくらいだ。
正確な人数や名前の載った名簿は各守備隊にしか存在しないため、ここにある名簿の精度は正直、推して知るべし程度のものでしかなかった。
そう。と、気の無い応えを返して、嗣穂は3区の名簿を手に取る。
「誰かをお探しでしたなら、名前を教えてくださればこちらで対応いたしますが?」
やはり、誰かを探しているらしいと確信して、万朶は前のめり気味にそう提案した。
奇鳳院嗣穂が直々に探す相手、それが何であれ価値が存在するのは間違いが無い。
身柄を嗣穂より先んじて抑えることに成功すれば、立ち回り次第では万朶の洲政における発言力はかなりの高さとなるかもしれない。
もしかすると、万朶が密かに狙っている洲議の長の席が狙えるのかもしれない。
政治への捕らぬ狸の皮算用に胸を躍らせるが、そんな万朶を嗣穂の冴とした鋭い双眸が睨み付けた。
「――万朶。其方が洲の政治に興味を示しているのは知っています。
それを咎めるつもりは無いですが、この件に関して手出しは無用です。良いですね」
胸中にある思惑を正確に言い当てられ、たかだか12年しか生きていない少女の眼差しに、万朶の老いたとはいえ壮健な身体がぐっと怯む。
「……は、差し出口でしたな。
とは云え、この万朶、そのような大事は全く以て思惑にございません。
ただ、嗣穂さまのお手を煩わせること無きよう考えたのみにございますれば」
図星を指された事をぬけぬけと口八丁で誤魔化し、万朶はそれでも情報を得ることに固執した。
永くその地位に甘んじているが、万朶にとって守備隊の総隊長の席は腰掛け程度の価値しかない。
実際のところ、万朶の防人としての才覚はそれほどではなかった。
一応、上位精霊を宿した身ではあるが、実力としては平凡の域を出ず、総隊長の席に座れたのも上位華族としての血筋と、それに忖度を受けた政治力学の結果であることを自覚していた。
故に、万朶は守備隊を統括する身でありながら、総隊長の席を辞して洲の政治に食い込むことを狙っていたのだ。
――しかし、
「――万朶」
嗣穂の睨む視線が強くなる。
「私は、手出しは無用と云ったぞ」
「………………は、承知いたしました」
今回の嗣穂の目的に食指を伸ばすと云う行為は、藪蛇を突く行為に他ならないと思い知るだけの結果に終わる。
嗣穂の視線に気圧され、表面上は何事もなかったように、しかし、背中に冷や汗を掻きながら万朶は首肯して引き下がった。
嗣穂はそれ以上何も云う事は無く、暫しの間、嗣穂が名簿を捲る紙の音のみが部屋に響く。
「……阿僧祇厳次、どこかで聴いた名前ね」
ややあって、名簿の片隅に指を置いて、記憶を探るように嗣穂は眉根を寄せた。
「8番隊の隊長ですな。3年ほど前の天覧試合で準位に残る事で名を上げた男です」
万朶は万朶で、何かと反りの合わない8番隊の隊長が話題に上り、努めて平静を装いながらも内心で苦り切った唸り声を上げた。
厳次は、万朶とは真反対の経歴で、現場からの叩き上げで守備隊の隊長になった男である。
上位精霊を宿し剣の腕に長けた厳次は、その人柄で周囲からの声望を集めていた。
万朶と厳次の不仲の理由はそこにある。
人気のある厳次と政治で総隊長になった万朶は、守備隊の内部でも何かにつけて比較される間柄であったからだ。
万朶は、悟られぬ程度にわずかに緊張した。
厳次の評価が上がるという事は、万朶の評価が下がるという事を意味しているからだ。
「……あぁ、そうか。天覧試合のものね。
思い出したわ」
しかし、万朶の緊張は杞憂に終わった。
気の無い返事を残して、嗣穂の視線は名簿に戻ったからだ。
そうして、更に沈黙が部屋を支配した。
ややあって、3区の名簿まで目を通し終えたのか、嗣穂の視線が万朶に戻る。
「――残りの名簿は少し借りてもいいかしら?
明日に返却するわ」
「問題ありません、畏まりました」
「ありがとう。
――では、今日の本題です」
「――は?」
本題? これが目的じゃないのか?
呆気にとられる万朶に、嗣穂は神託を告げた。
「百鬼夜行が舘波見川を遡上して襲撃する!? 何故それを早く教えて頂けないのですか!!」
ゆっくりと名簿を見るよりも先に、守備隊へと情報を卸して指示を出すのが先だろう。
そう憤慨して苦言を呈する万朶を、嗣穂の冷めた視線が迎え撃った。
「もう教えていますよ。
――巳波と云いましたか、其方の秘書に取るべき指示を一通り。
階下の喧騒はそのせいです。
今の話は、其方に向けた2度目の説明です」
「………………」
苦言の心算が藪蛇を突く羽目になったと悟り、万朶は沈黙を守らざるを得なくなった。
「重役出勤を今更にどうこう云いませんが、政治ごっこに現を抜かして守備隊総隊長の席を冷やしているなら、其方の長たる資質を考え直す必要がありますね」
連日の遅刻の原因についても把握されていると理解して、万朶の顔色が悪くなる。
「は。申し訳ありません……」
触れれば斬れるような絶対的な上位者の宣下に、万朶の頭がなす術なく垂れる。
見た目は年端のいかない少女であったとしても、間違いなく嗣穂は珠門洲の支配者なのだと思い知らされた。
縮こまった万朶を余所目に、手早く名簿を手に抱えて嗣穂が立ち上がる。
「お送りは……」
「不要です。
其方は百鬼夜行に備えて、準備を進めなさい。
舘波見川を遡上する百鬼夜行ならば、核となる穢レは十中八九、沓名ヶ原の怪異。
歴史を喰らって発生する怪異は、当然、歴史に行動を縛られます。
故に、基本的な作戦は、従来のそれを踏襲したもので充分でしょう。
11番隊に沓名ヶ原の監視をさせて、下流に9と10番隊を配備。
練兵たちは洲都に散らばろうとする穢獣の討滅、1番隊は上流で怪異を食い止めなさい。
確か、輪堂の当主が華蓮に来ていたはずです。私の名前で協力の勅旨を出します。」
「畏まりました」
本来指示を出すべき立場の万朶を差し置いて、嗣穂は次々に指示を出した。
しかし、嗣穂の立場は万朶のさらに上位に立っていたため、万朶はそれに異議を出す事は出来なかった。
「1番隊は、舘波見川の上流手前に配備、最終的に到達した群れを範囲殲滅の精霊技で一掃しなさい」
「中流の河川敷は、戦場にされないのですか?」
上流と下流に過剰に戦力を集めすぎているのではないか? そう疑問に思い、口を出す。
舘波見川の中流にある河川敷はそれなりに広く、戦場として適しているからだ。
百鬼夜行の数を削るのに、活用しない手は無いだろう。
万朶としてもせっかく降って湧いた自身の失態を埋め合わせる機会、自身の思惑に沿うように手駒の配置を変えておきたかった。
「……もし、よろしければ1番隊の……」
「そうね」万朶の言葉を遮って今更に気付いた風を装い、嗣穂は僅かに考え込むふりをする。
「――阿僧祇厳次率いる8番隊を最も広い中流の河川敷に。
天覧試合で準位になったのなら阿僧祇の戦力は確かでしょうが、采配の手腕はどの程度か見ておきたいわ。
その上流は、其方の采配で好きに組みなさい」
「……は、畏まりました」
万朶は何かを云いたげに口をもごつかせたが、結局、自身が弱くしてしまった立場から何も発言はできずにその場を終えた。
首を垂れる万朶を振り返ることなく、嗣穂は部屋から出る。
やがて少女の気配は、一度も止まることなく守備隊本部の階下に消えていった。
そうなってから、漸く苦々し気に万朶はぼそりと口の中でのみ呟く。
「ち、立場だけの小娘が……」
圧倒的に上位のものに面と向かって文句も云えず、完全に相手の気配が消えた頃を見計らって呟くだけの反目は、傍目から見ると随分に情けないものであった。
結局、万朶の手元に残ったのは失態で下がった評価の結果だけであり、万朶の望むものは残らなかった。
――しかし、ものは考えようか。
これは、良い機会なのではないだろうか。
その思考に、万朶の口元が嗜虐に歪む。
舘波見川の中流に配置が決定しているのは、厳次率いる8番隊のみである。
そしてそれ以外の配置は、万朶の采配に委ねられている事実。
――この百鬼夜行を機に、合法的に阿僧祇を排除するのもいいかもしれん。
そうして万朶は、自身のその歪んだ発想に独り酔いしれる。
――有頂天になっていた万朶は、情けない事に終ぞ思い出す事は無かった。
厳次が山狩りを申請した際に、八家の若い衛士2人が応援として8番隊に向かったことを。
そして、嗣穂が、万朶に決定したこと以外の采配を振るう事を許したその意味を。
嗣穂はこう思っていたのだ。
――結局、どう采配しようとも結果が変わらないのだから好きにしろ、と。
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「坊主! 気ぃつけろやぁっ!!」
突然、浴びせられた怒鳴り声に、晶の身体がびくりと竦む。
呆けていた意識が浮上して、漸く我に返った晶は慌てて周囲を見渡した。
晶を怒鳴りつけた男は、気風のいい声と共に大八車を曳きながら、晶を追い越して人ごみの中に消えてゆく。
何百という人の流れが作り出す日々の営みと、蒸気自動車と路面電車が行き交う大通りに、何時の間にか立っている事を晶は自覚した。
どうやら、浮ついた気分に呆けたまま、流されるようにして先程までいた1区から、繁華街のある3区へと流されてきたようだった。
あまり縁のない華やかな雰囲気に、何か買うものはあっただろうかと周りを見渡すが、特に差し迫って必要なものは思い浮かばず、懐具合も空っ風が侘しく吹くだけに無駄遣いはできない。
代わりにとこの先にある呪符組合の建物を脳裏に思い浮かべるが、特に用事は無いので寄ろうとは思いもしなかった。
ここにいる意味もあまり無いため、長屋に帰るかと踵を返した時、きゅるりと腹の虫が鳴いて食い物を無心する。
……思えば、昨日の朝に食った胡瓜以降、まともな飯を腹に納めていないことを思い出した。
甘い水を吞んだせいか、体力は漲っているし疲れもあまり感じていないが、一日何も食べていないことを自覚したとたん、猛烈に空腹を感じ始めた。
堪えきれないと云うほどでもなかったが、なんとなしに腹を擦って空腹をなだめながら周囲を見渡す。
うどん屋が、やや離れた通りの向こう側に建っているのが見えた。
少し悩む。
他の練兵たちと違って、比較的、実入りの多い晶ではあるが、その分、出てゆく額も多い晶だ。
現在の晶の持ち合わせは10銭程度、食えはするだろうが外食を気安く決断できるほどは無い。
事実、晶は生まれてこの方、食事処に入った事は無かった。
――だが、それでも、
未だにどこか浮ついた心持ちと食い物を要求する腹が、自然と足が目についたうどん屋に向かう。
――今日くらいは、こんな贅沢もいいんじゃないかな。
「――ぃいらっしゃいませぇぇぇっ!!」
意を決して暖簾を潜ると、威勢のいい店主の声に出迎えられた。
初めての経験に、わずかに身が竦む。
周りを見渡すと、昼には少し早い時間なのに、幾人かの気の早い客が席でうどんを啜っているのが見えた。
覚悟はしていたが、晶ほどの年齢の子供はいない。
「うどん一つ、ください」
席に腰を下ろす前に、どきどきしながらも店主の親父に注文を通す。
「素かい? 狐かい?」
「??」
初めて聞く言葉に戸惑うと、察したのか店主が油揚げをつけるかと訊きなおす。
「油揚げ入りで」
「あいよ。3銭だ」
店主に要求された金額を支払う。
思ったよりも安かった事に、安堵の息が漏れる。
……晶にとって、うどんは正月の餅に次いで滅多に口にできない御馳走であった。
それは、國天洲の地理に理由がある。
國天洲には峻厳な山が多く、農耕に適した平地と云うのは他洲と比べて比較的少ない。
貴重な平地は水田を広げるために消費され、それでも米が足りない傾向にあるため棚田を広げて米の収量を増やす必要があったからだ。
平民が気安く口にできる麺類は、痩せた高地でもよく育つ蕎麦が主流であった。
平地でしか育てられない小麦を原料とするうどんは華族であっても貴重であったし、雨月の家でこっそりと祖母が作ってくれたものしか晶は口にしたことは無かったからだ。
「お待ちっ!!」
目の前に置かれた丼ぶりの咽るほどの湯気の向こうに、晶が思っていた以上の量のうどんが見えた。
ごくり。思わず喉が鳴る。
――そういえば、子供の時分には腹いっぱいうどんを食ってみたいと、夢想していた頃があったっけな。
未だ尚、年齢13を数える、紛れもない子供であることを横に置いて、場違いな感慨深さに囚われた。
その夢想の残滓を振り払い、箸を掴んで丼ぶりの底から汁とうどんをかき混ぜる。
そして、雨月の屋敷で祖母と一緒に食事をしていた時のように、行儀などを一切考えずに熱いままのそれを一気に啜る。
鰹節の出汁から香る風味と薄口醤油の塩味が口腔内を満たし、うどんが啜った時の勢いのままに跳ねまわった。
「あ、あふっ――」
たまらず咽かけるが、気合で口にしたうどんを呑み込むと、夏の暑さに負けない熱の塊が食道を通って胃腑の底に蟠るのを感じた。
ほ、ほ。太く短い息を繰り返し、腹の底を灼く熱を外に逃す。
考えてみれば、一日どころか二日ぶりのまともな食べ物に、身体中が喝采を上げた。
うどんの次に、油揚げの端っこに噛り付く。
甘辛く煮られた油揚げが、僅かに香る山椒の香味と共に喉を滑り落ちた。
――あの頃のうどんとは、やっぱ違うな。
正直、祖母が打ってくれたうどんは、固さがまちまちだったし麺の中にだまが入っていることなどざらにあった。
うどんに限らず、麵打ちは体力の要る作業だ。
当然、うどん打ちの職人は男が多くなるし、女性の、それも老いた身で打ったうどんであるならば、不出来なうどんというのも仕方のないことであったろう。
――旨いうどんだ。
――けど、
――あの時食ったうどんの方が、ずっと美味い。
滅多に口にできない御馳走だったし、どんなに不出来であったとしても、祖母が打ってくれたうどんというのが、晶にとっての帰りたい故郷のような味であったのだから。
――晶が氏子になった時も、打ってやろうねぇ。
記憶の底に残っていた、祖母のその時が待ち遠しそうな呟く声。
不意に郷愁に襲われて、目頭がじんと熱くなる。
うどん汁の表面に、一つ二つ波紋が広がる。
涸れ切ったと思っていた涙が、新たに晶の頬を伝っているのを感じた。
「お、おい。大丈夫かい?」
異変に気付いて声を掛けてくる店主に、頭を振って問題無いことを伝えながら、晶は声を出さずにそれでも泣き続けた。
――なれたよ。
――俺、氏子になれたよ。
俺、ここで生きていても良いんだよなあ。
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